ワーカーズ541-2合併号 2015/8/1  案内へ戻る

 戦争への道である安保関連法案を廃案に!
 安倍政権を総退陣に追い込もう!


 集団的自衛権行使を可能にする安保関連法案が、7月16日午後の衆院本会議で自民、公明、次世代各党の賛成多数で可決され、衆院を通過しました。審議継続を求める民主、維新、共産など野党5党は採決を退席しました。

安保関連法案は、自衛隊法や武力攻撃事態法など改正10法案を束ねた「平和安全法制整備法案」と、国際紛争に対処する他国軍を後方支援するため、自衛隊の海外派遣を随時可能にする新法「国際平和支援法案」の2本立てです。民主党の岡田克也代表は反対討論で「強行採決は戦後民主主義の大きな汚点になる。集団的自衛権の行使を認めるという憲法改正に匹敵するような憲法解釈の変更だ」と指摘しました。野党は採決を前に退席しました。

 5月26日に始まった審議では、集団的自衛権の行使の是非や憲法との整合性、他国軍の後方支援をどこまで認めるかなどを巡り、与野党が激しい論争を続けました。与党は一時、維新との間で法案修正も探ったが実現しませんでした。 与党は法案が参院に送付された後、60日たっても法案を議決しない場合、否決したとみなして衆院の3分の2以上の賛成で再可決できる「60日ルール」の活用も視野に入れています。安保関連法案が16日に衆院を通過したことで、9月14日から同ルールを適用できます。舞台は、参院に移りますが、野党はこの法案の問題点を徹底的に突くべきです。

そもそも、集団的自衛権の行使は憲法に違反しているのは明らかです。安倍政権は、集団的自衛権を行使したければ憲法を改正しなければできません。違憲の法案は、いくら審議しても皆の理解は深まりません。

7月17、18日に行なった毎日新聞の世論調査によると、安倍内閣を支持35%、不支持51%です。安保関連法案に賛成27%、反対62%、でした。安保関連法案を廃案に追い込むためには、安倍内閣の支持率を大幅に下げることです。

安保関連法案に反対する市民集会が7月24日夜、東京・日比谷野外大音楽堂で開かれ、3000人を超える参加者(主催した「安倍政権NO!☆実行委員会」発表)が、一斉に「安倍政権NO!!」と書かれたプラカードを掲げました。午後6時半から始まった集会には、安保法案のほか、原発再稼働や沖縄・辺野古新基地建設などに反対する団体が参加、安保関連法案を「違憲」と批判している小林節・慶応義塾大学名誉教授(憲法)が登壇し、「安倍政権は憲法を破ってアメリカの2軍になろうとしている。数年後の衆院選まで、細く長く、怒りを保って、政権交代しないと終わらない」と主張しました。精神科医の香山リカさんも「平和のために戦争しても良いという(安倍政権の)考えは間違っている」「安倍政権は権力に酩酊しているのではないか」と述べた。安保法案に反対する10代・20代の学生団体「SEALDS(シールズ)」の元山仁士郎さんは「変えたいと思うなら、安倍政権NOを言い続けなければいけない」と訴えました。こうした集会をあちこちでやって行くことが必要です。

戦争への道を突き進む安保関連法案を廃案に追い込みましょう。   (河野)


〝アベ70年談話〟を封じ込めよう!

 アベ戦争法案の参議院での審議が始まる。その法案がとても危険な意味合いを持つのは、単にその法案によって日本が武力行使=戦争ができるようになるだけではないからだ。安倍首相自身の歴史認識とあわせ、日本を再び戦争国家へと大きく転換するターニングポイントになりかねないところに、今回の法改正の危険性が潜んでいるのだ。その一端が示されると見られているのが「アベ70年談話」だ。

 8月中旬にも出されるというその「アベ談話」。これまでも内外からの批判に晒され、若干後退する感も垣間見える。これまでにも増して、談話への包囲網を拡げ、安倍首相の思惑を封じ込めなければならない。

◆野望

 安倍首相が戦後70年目の区切りの今年夏に出すとしてきた「アベ談話」の時期が近づいてきた。その談話がアジアだけでなく西欧まで含めて大きな関心を呼び集めてきたのには理由がある。それは第一次安倍政権の発足時から掲げてきた「戦後レジームからの脱却」という旗印が、これまで積み上げてきた戦後日本が辿ってきた歩みそのものの転換を意図しているのではないか、という疑念からだった。

 周知のように、95年に出された村山談話は、あの大戦での「植民地支配」と「侵略」に対して「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明していた。冷戦構造の崩壊によって、アジアや極東諸国間の関係が複雑さを増していたからだ。それは05年の小泉談話でもおおむね継承された。それが「自虐史観」ではないのかという、右翼・保守派からの批判に呼応するかのように、安倍首相自身も、戦後日本の〝平和国家〟としての歩みに疑義を挟むかのようにな発言を繰り返してきた。それを象徴するのが「戦後レジームからの脱却」という旗印なのだが、そうした意図に沿った国際的なメッセージを発する事で、既存の歴史認識を上書きしたい、というのが首相の想いなのだろう。

 その70年談話の発出にあたって、安倍政権は、「21世紀構想懇談会」という有識者会議をつくっている。その最終報告が8月初旬に出される見込みだ。ただし、安倍首相は、その報告書の意を汲んで談話を発出するとはしていない、あくまで参考意見だという。消費増税や戦争法案でも同じような検討機関をつくったが、結局、それは参考程度、単なるアリバイづくりに終わっている。今回も広く意見を聞いたという通過儀礼でしかなく、その議論も含めて、世論の動向や諸外国の反応を推し量ってきたのだろう。

◆包囲網

 安倍70年談話は、当初国内よりも海外から、しかも日本から遠いヨーロッパや米国からの疑念や警戒感を呼び起こした。それは日本が敗戦国から立ち上がって経済大国となった〝平和国家〟としての戦後の歩みを根本的に転換するのではないか、というものだった。すでに世界有数の軍事大国になっていたにも関わらず、表向きは、海外では武力行使せず、戦争に突き進んだ過去を反省する姿勢を示してきたからだ。

 しかし安倍首相は、政権の座について以降、相次いでそれらを覆すかのような言動を繰り返してきた。そして今回の「談話」だ。仮にそれがあの大戦への反省や謝罪の姿勢を投げ捨てるような内容になれば、誰が見ても戦後日本の歩みを根本から転換させるものに写るのは当たり前のことだろう。

 アベ談話は、日本が戦争もする軍事大国になることを阻んできた包囲網への挑戦でもある。

 戦後日本の平和主義を支えていたもの、それはアジア諸国民の警戒感、米国の監視、それに日本の人々の戦争忌避の決意、この三つが大きい。

 南シナ海の周辺国では、昨今の中国の伸張などで対中警戒感が高まり、軍事的なバランスも踏まえて日本の軍事的な役割に期待する面もある。しかし、当たり前の話だが、戦争によって多くの犠牲者を出した地域をはじめとして、日本軍による占領に対する反感や忌避感は、広くアジア諸国に残っている。

 併合や傀儡国家などで蹂躙された過去を持つ中国や朝鮮は、それ以上に日本の軍事的復活に対する警戒感が強い。それが戦後日本の歩みに大きな規制力として働いてきたのは当然の成り行きだ。

 韓国や中国ではそれらに加えて複雑な紛争も抱えている。靖国神社、従軍慰安婦、歴史教育、竹島や尖閣諸島を巡る軋轢などだ。両国は、政権の正統性を保持する意図も含めてナショナリズムへの傾斜が強まり、日本との間で対抗策の応酬を繰り返しているのが実情だ。そうしたなかで出される「アベ談話」、お互いの火に油を注ぎ込む類で、緊張を呼び込むのは当然だろう。

◆飼い犬

 今回のアベ談話の特徴は、アジアや極東のみ成らず、西欧や米国の警戒感を呼んでいることである。

EU諸国ではアベ談話への関心が強まり、警戒感や批判が拡がっている。ドイツのメルケル首相が、訪日時にわざわざ談話に言及したのも、その一端に他ならない。西欧の警戒感は、日本や独など枢軸国が、曲がりなりにも戦後の戦勝国主導の国際秩序を受け入れることによって現在の国際社会の相対的な安定があり、それが崩されるのではないか、という警戒感である。たとえばドイツは、保守政権も含めてナチスの戦争犯罪を追求してきたし、それが前提となって独仏和解が進み、欧州共同体や現在のEUが存在する歴史がある。

 米国では安倍首相の歴史認識に対し、いおわゆる歴史修正主義ではないかと疑われ、ポツダム宣言や東京裁判を受け入れることで日本が国際社会への復帰を成し遂げたこと、要は米国主導の戦後秩序を否定しているのではないか、という疑惑が拡がっていた。

 それが4月の安倍訪米時の議会演説などで、幾分かはその疑惑は晴れたという受け止め方が拡がった。とはいえ、安倍演説は、米国が喜びそうなフレーズを連ねただけで、そうした米国へのお追従ともいえるような発言は、安倍首相の本意とはとても言えない代物だ。安倍首相が靖国神社に参拝したことを受けて、「失望した」というメッセージを寄せた米国の警戒感は、依然として消えていないのだ。

 安倍談話が米国の警戒感を呼び起こしているとはいえ、なにも米国の期待通りの態度をとるべきだと言いたいわけではない。米国は最近でもイラン・イラク戦争ではフセイン政権にテコ入れし、またあのビン・ラディンを援助・利用した後で対テロ戦争やイラク戦争を戦いもした。つい最近では、シリアのアサド政権打倒から「イスラム国」との闘いのためにフセイン政権とそれを後押しするイランとの協調路線に切り替えた。米国の世界戦略とは、かくも場当たりでいい加減なものだからだ。

 同じ事は戦後の日本占領政策にも当てはまる。

 占領統治初期は軍国主義の解体と民主化を主要な目的として、戦争犯罪人を裁いたりそれに荷担した者を公職追放などにした。が、米ソ冷戦構造がしだいに緊迫化するなかで、日本を対ソ包囲網に組み込むために日本の再軍備化を進め、また、戦争指導者の公職復帰なども進めた。

 米国は、集団的自衛権の行使容認など、米国の世界戦略に沿った道を進んでいるかぎり、日本の政権を支持してきた。が、日本の戦前への復古傾向や対米自立化と自主防衛への思惑に対しては、警戒感が強い。だから米国でさえ、安倍首相の歴史修正主義は許せない裏切りと写っている。それはそうだろう。押しつけ憲法論や靖国参拝などは、米国による占領政策と戦後の対日政策と真っ向から衝突するからだ。それを許せば、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下に対する正統性などが、次々と矢面に立たされることになる。ひいては米国による占領統治、戦後の対日政策すべて否定される事態になりかねない。戦後レジームからの脱却は、傲慢な米国からすれば「飼い犬に手をかまれる」ような意味合いも含まれているのだ。

 そんな米国は、安倍談話がどんな内容になるか、様々な圧力を加えながら警戒感を持ってみている、ということだろう。

◆本音

 アベ談話がどのような内容で出されるのか、いまから想像してもあまり意味はないが、それでもある程度は予想が付く。

 安倍首相は、政権発足以降も、歴史認識に関わる様々な発言をしてきた。たとえば憲法だ。安倍首相が執念を燃やしてきた改憲に関して、占領軍による押しつけ憲法だとの趣旨で批判を繰り返してきた。また東京裁判についても、占領下での事後法による一方的な政治裁判だったとの保守派、右翼などの受け止め方についても、それを否定しない態度を続けてきた。むしろそれらと同感だとの態度がにじみ出るものだった。

 ただし、それらをあからさまに否定する事までは出来ない。仮にそうすれば、ポツダム宣言の受け入れに始まって、憲法改定、東京裁判、講和条約すべて否定することになり、米国の意に沿うかたちでの国際社会への復活そのものを否定することになるからだ。そんなことになれば、対米関係をはじめとする国際社会との関係は大混乱する。だから、最近は、東京裁判も講和条約も受け入れることで、日本は国際社会に復帰できた、と、安倍内閣としてもそれらを受け入れてきたことを認める発言をしている。

 村山談話で明確に出された「侵略と植民地支配」についても、同様のことがいえる。「侵略という定義は……定まっていない、国と国との関係でどちら側から見るかで違う。」という趣旨の発言だ。たとえば先の大戦を朝鮮や中国が侵略だと受け止めていても、日本側からすればそうではなかった、と言いたいのだろう。実際、安倍首相のお友達でもある北岡伸一氏(5月30日、朝日)も、満州事変やその後の満州国の創設だけみれば、明らかに侵略戦争だったとし、それ以降の日中戦争や対米戦争については言及を避けている。その言葉を裏返せば、日中戦争や対米戦争は侵略戦争ではなかった、それは米国による石油禁輸などによる日本の「存立危機」から日本を守る「自存自衛」の「強いられた戦争」だった、ということにでもなるのだろう。

 また有識者懇ででた意見として、「国策を誤った」ことに対し、「戦争に負けたんだから戦略的に大失敗であり、国策を誤ったという言葉でよい」(7月22日、朝日)という意見もあったという。戦争に負けたから、だというと、戦争に勝てば国策の誤りではない、ということになりかねない。安倍首相が集めた有識者懇では、実にこういういい加減な意見が交わされるているのだ。

◆反省

 戦後日本の軍事的復活を阻止してきた三つ目は、日本の民衆自身による、「二度と戦争はしてはならない」というあの戦争への痛切な反省と後悔の念だ。いはば非戦・平和への願いだ。それが「占領憲法」と保守や右翼から批判されながらも、自分たちの気持ちや願いにフィットした憲法を保持してきたのは、そうした反省に支えられたものだった。

 ただし戦後日本の再出発にあたっては、不充分な点も多い。なかでも戦争責任を免れない天皇及び天皇制を政治の世界から排除できなかったこと、それに戦争指導者たちを自分たちによって告発、追求、裁けなかったことだ。

 日本では、戦争指導者として巣鴨刑務所に収攬された岸元首相が公職復活したのは、その最たる現れだった。その他に公職追放から政界や官界、経済界に復帰した戦争加担者も多い。こうした日本の現実は、ドイツがあのヒットラーのナチスを戦後長きにわたって追求し続けたのとは正反対だった。日本では、戦前の支配層が、ほぼそのまま戦後の支配層を形成したのが実情だったのだ。日本人全体として、あの戦争を根源的に反省、克服したとは言い難いのだ。

 これらの出来事は、米国の対日政策が国際情勢の変化のなかで180度変わったことの影響が大きいとはいえ、日本の民衆自身が、戦争や戦争の責任者の追求を成し遂げられなかったことの結果であり、この意味は重い。戦争責任者の政界復帰により、戦前と地続きの歴史観や政治観を持った政治家が、戦後も日本の政界で少なからず影響力を保持してきたからである。

 そうした戦後構造を抱え込んできたからこそ、あるいは戦争責任者に対する「一億総懺悔」などと、中途半端な対応で済ませてきたからこそ、いまになって安倍首相という、戦前回帰のトンデモ首相を生み出してしまうのだ。私たちが反省すべきなのは、そんな私たち日本の民衆自身が背負う負の歴史そのものでもある。

◆主役

 その安倍首相による「戦後70年談話」。当初の閣議決定を経た〝首相談話〟から、閣議決定抜きの〝首相の談話〟に格下げされたという。とはいっても国際的にみれば同じ〝首相ステートメント〟だ。これも外野の〝騒音〟にかまわず自身の思いを盛り込みたいと考えているのか、それとも、実績づくり優先のパフォーマンスか、あるいは外堀を埋められつつあるなかで談話発出の断念を避けるあがきなのだろうか、そのいずれかだろう。

 内容的にも、多方面からの批判に押されて当初の思惑よりだいぶ後退したトーンへと、修正を余儀なくされているようだ。「70年談話」の予行演習とみなされていた4月の米国での議会演説も、戦後の国際社会への復帰を西側の一員として日米同盟という米国の後ろ盾を得て出発したとリップサービスするだけだった。「押しつけ憲法論」を通すのであれば、米国議会で堂々と「東京裁判は不当なものだった」「押しつけ憲法は変える」というべきなのだが、さすがにそこまでの勇気は持っていなかったわけだ。

 外国からの警戒感や批判に頼っていたのでは、敗戦直後と同じになる。7月17日には、74人の国際政治学者らが、31年~45年の戦争を「国際法上、違法な侵略戦争だった」として、村山談話の継承を求める共同声明を発表している。国会周辺では、戦争法案をはじめ、安倍談話への抗議のデモが取り巻いている。新たな戦前を呼び込む戦争法案への闘いも合わせ、アベ〝戦前談話〟包囲網を形成し、安倍首相の思惑や野望を封じ込めていく以外にない。主役は私たち自身なのだ。(廣)案内へ戻る


 戦後七十年  戦時の記憶 母の物語り

 今九十歳の母。この十年は重度の認知症にかかっています。現在では老人ホームで生活をしています。戦争体験者が少なくなるなか、少しでも当時の体験者の気持ちと言葉を伝えたいと思い、過去数十年の間に断片的に母に聞かされた戦時の話を記してみます。

■仙台空襲

現在の三陸町生まれ育ちの母が仙台に来たのは、女学校の入学の時でした。家族全員で、移り住んだそうです。三陸町は、今回の東日本大震災で壊滅的打撃を受けています。今でも、「かさ上げ工事」という果てしのない土木工事が続いています。実家は、志津川湾から五十メートル程度内陸の場所で、ほとんど海の近くですから、当時も三陸沖津波などの恐怖の体験をしてきたよう出す。

 本題ですが、終戦の年となる昭和二十年に仙台も激しい空襲にあいました。「ヒューヒューと音がして、焼夷弾が雨のように降ってきたと」。仙台の家は駅から徒歩でも五分程度の都心部。そうでなくとも帝国軍隊の第二師団がおかれていた仙台は、連合国の主要な標的であったと思います。弟二人を連れて北の東照宮の森に駆け込んだそうです。「きらきら光るB29(米国爆撃機)」これは母から聞いた恐怖の言葉でした。都心部が真っ赤に燃えているのが見えたと。生々しい話は戦後生まれの私にも強い印象を残しています。

 ところで、都心部が焼け野が原になったのにこの木造の実家は偶然にも焼け残り、戦後私はここで生まれることになります。

■戦時動員

 母は戦後も、家事手伝いや主婦業オンリーで、社会で働いたことがありませんでした。ただ例外が、戦時動員で、工場で数か月働いていたのでした。県立女学校在学中だった母は、そのために勤労動員の期間はかなり少なかったらしいのです。

 また、母はこの工場での話は、不思議に懐かしそうに話しており、子供の私としてはあまり記憶に残るものではありませんでした。工場の担当者たちの勤労指導は意外に親切で過酷なものではなかったようです。

■「朝鮮人強制労働」

 世界遺産登録問題で、「軍艦島」などの日本産業革命遺産の強制労働が注目を集めました。しかし、そのとき思い出したのも母の言葉でした。「仙山線(仙台から奥羽山脈を越えて山形市に至る国鉄線路)の工事はことのほか難工事だった、あそこは枕木の数ほど人が死んでいるらしい。その多くは朝鮮から連れてこられた朝鮮人だった」と。私自身まだ小学校当時のことでその意味を十分理解できなかったと思います。でも、とんでもない不条理なことが戦時中に行われてきたことは感じていました。

 もっとも、この話は母だけではなく、仙台の地元では当時の人たちはだいたい口コミで知っていたようです。もちろんこのような問題に政府や行政が解明に取り組んだということは一切ないようです。そればかりか、韓国政府ですら、近年「慰安婦」「強制労働」が表ざたになった時に騒いでいる割には、どうして日本政府にもっと一貫して調査を要求しないのでしょうか。戦後70年になるのに李承晩、朴正煕、など韓国独立初期の政権が日本に責任追求しなかったことはかなり問題ではないかと思います。

 秋田県花岡鉱山での強制労働は中国人暴動によりはしなくも露見しましたが、隠された事件や強制労働の全貌はいまだに闇の中と言わねばなりません。

■河原で米軍機の機銃掃射受ける

 敗戦直後、占領軍は第二師団のある仙台をやはり拠点として、かなりの兵力を駐屯させていました。戦後私が、三ないし五歳の時点での米兵は、まだたくさんいましたが、私自身は米兵の暴行などの不法行為を聞いたことはありませんでした。しかし、母の話では、進駐軍の来たばかりの当時は、怖いこともあったと。

母が、終戦直後広瀬川の河原で友達と遊んでいた時、接近してきた航空機にいきなり機銃掃射を受けたと。とっさに河原の茂みに逃げ込んで助かったこと聞いたことがありました。

 本土での戦闘がなかったということにはなっていますが、米軍もそうとう神経質になって進駐してきたと思われ、一触即発の事態があったことをうかがわせる一件でした。

■「かわいそうな女子挺身隊」 大人(たいじん)の国中国

 何度も聞かされたのが、この「女子挺身隊」の話でした。現在では、「従軍慰安婦」と「女子挺身隊」は区別されています。当時の母には、そんなことはもちろんわからずの話でした。
母の話では「女子挺身隊には多くの中国人や朝鮮人がいた、大陸などで兵隊さんの相手をさせられた、かわいそうな人たち」だと。こんな話を聞いたのが私が小学生から中学生の頃だと思います。

 少なくとも、小学当時は普通に愛国少年で「太平洋戦争は負けたが、日本はアジア人としてよく頑張った」「さすが日本は誇れる国」程度の精神構造でした。ので、母の「女子挺身隊」の話は、かなりショックでした。

 現在から考えれば、平凡な主婦である母が「従軍慰安婦」の存在をだいたい知っていたということは、多くの日本人も、おそらく中国・韓国人もそしてそれらの政府もこの事実を少なくとも知っていたでしょう。戦後の対応が遅すぎます。これらの政府は、マスコミなどで取り上げられて初めて、言い訳したり自国民をたきつけるために政治利用しているだけです。

 また私が中高生ぐらいの時だと思います。中国残留孤児の「里帰り」のさいも、母はその苦労に同情していましたね。それとともに印象に残った言葉は「日本は中国にあんなにひどいことをしたのに、中国人は日本人の子供を殺さずに育ててきた・・」と涙ぐんでいました。そして「中国は大人の国だね、心が広い」とも。

■スターリンとトロッキー

 これは、付録の話となります。学生時代に、夏などに帰省して政治の話などしたとき記憶に残ったことは、母がトロッキーのことについて意外に知っていたことでした。もちろんレーニンやスターリンのことも。

とはいえ、母は彼らの著作など読むわけもなく、ただ同時代人として情報に接していたのでしょう。現在の子供たちが、米国のオバマやロシアのプーチンを知っているように。

「トロッキーは、才能あふれる人だが、意志の弱い人でもあり、そのためスターリンに負けてしまった」というのが母の結論でした。  

■祖父「満州、朝鮮樺太、台湾もったいなかった」

 母の話からそれますが、その父(私の祖父)のはなしもとても印象的なものがありました。彼の戦前的な大日本帝国的思考を今でも記憶しています。

 それが、「満州、朝鮮樺太、台湾を(戦争で負けてしまって喪失し)もったいなかった」と。それはやはり私が小学生の上級生か中学くらいのことでした。なにか政治の話をしていた時、祖父が地球儀を手に取り満州、台湾、朝鮮、樺太を指でさしながら、そんなことを言うのです。

 祖父は旧制中学では優等生で生徒会長だったとか。ところが体格が貧弱で、兵隊検査では丙種不合格だったそうです。だから、戦争が激化しても、最後まで兵隊にとられることはありませんでした。戦地での戦争体験はありません。それゆえ言えるのでしょうか、「もったいなかった」なんて。さすがに私も、戦後の平和と民主主義教育を受けてきましたので、その時とても呆れたものです。

 戦前の人でも、戦争体験の受け取りは多様でしょう。その立場や、経験の内容にもよるわけです。しかし、両面からのあらためてこの当時の時代を考察してみる意味もはあるだろうと思います。(文)


  「エイジの沖縄通信」(NO・15)
  沖縄県と安倍政権、埋め立て工事実施をめぐり全面衝突か!

  ・県の有識者委員会、辺野古承認「瑕疵あり」と報告
  ・防衛省、地質調査終えぬまま埋め立て実施設計文書を県に提出

 7月16日、翁長雄志知事が設置した第三者有識者委員会が約5カ月の審査を経て、仲井真前知事による名護市辺野古の埋め立て承認に「法律的な瑕疵が認められる」との検証結果を答申した。

 第三者委員会が翁長知事に提出した報告書はA4用紙で131ページ、添付資料は555ページになるが、報告後に公表された概要版はA4用紙の2枚だけだった。

 県民の関心が高いなどとして全文公開を求める報道陣に対し、翁長知事は「まだ私たちも精査していない。数字や事実関係に間違いがないか顧問弁護士にも見てもらう。精査後の公開で、県民、国民に理解してもらえると思う」と、精査が終わるまで公開しない方針を示した。

 この「第三者委員会の報告書」骨子は次のような内容である。

 『本件埋立申請は次の通り法の要件を満たしておらず、承認手続きに法的瑕疵が認められる。★「普天間飛行場移設の必要性」からただちに辺野古埋め立ての「必要性」があるとした点に審査の欠落があることなどから「埋め立ての必要性」の要件を充足していると判断することはできない。★埋め立てによる利益と不利益を比較した場合、「国土利用上適切かつ合理的」とは言えない。★知事意見に十分に対応していないなど環境保全措置が十分に講じられているとは認めがたい。★「生物多様性おきなわ戦略」など法律に基づく計画に違反している可能性が高い』などと指摘し、公有水面埋立法に照らして承認には法的な欠陥があったと結論付けている。

 報告書を受け取った翁長知事は「埋め立て承認の取り消しも含めどのように対応することが効果的なのか慎重に検討したい」と述べ、取り消しの判断時期については「工事が次の段階に入ろうとすることなどを横目でにらみながらだ。相手があることなので言えない」との慎重な言い回しをした。

 関係者によると、沖縄防衛局は現在の本体工事前のボーリング調査が海上の抗議船やカヌー隊の抗議活動、台風の影響などで大幅に遅れていること。防衛省も本体工事を夏ごろに始めたいとしているが、ボーリング調査の完了期限を9月末に延長したこと。また、着工前に行う県との実施設計協議も控えているとのこと。

 こうした状況を判断すると、翁長知事は「8月下旬にも取り消しの方向性を固め、手続き上必要な沖縄防衛局への聴聞を経て、9月中に取り消しに踏み切る公算が大きい」と言われてきた。
 ところが、防衛省は24日、辺野古では海底などの地質を確認するボーリング調査が終了していないのに、埋め立て工事に向けた実施設計文書(護岸を建設する位置を示した図面)をもう県側に提出したのである。

 今進んでいる辺野古でのボーリング調査は9月末までに24か所で実施する予定だが、現段階で終了したのは19か所で、まだ5か所も調査が終了していない。残りの5か所は調査が終了したところで図面を追加提出すると言っている。

 ボーリング調査が終わりその調査結果も出ていない。これでは一体何のためのボーリング調査なのか。これでは、ただやればよいだけの形式的なボーリング調査だと言える。
 実際に埋め立て工事に着手するには、仲井真前知事が承認に当たって県が付した留意事項「工事の実施設計につき事前に県と協議を行うこと」が必要なのだ。だが、中谷元防衛相らは、設計文書を提出したこと自体が協議の一環であると開き直り。防衛省は「8月14日を期限に県からの質問を受け付ける」というような横柄さで、協議が不調に終われば埋め立て工事に入る構えを示している。

 マスコミも「県との事前協議が整えば、すでにボーリング調査が終わった浅瀬部分から工事に着手する構えだ」と指摘している(琉球新報、7月25日付)。

 これまでも相手の沖縄県の立場をまったく無視し、ただ一方的に工事を強行してきた安倍政権。この埋め立て工事に関しても、また沖縄の立場・言い分をまったく無視して一方的に工事を進めようとしている。許せない!

 いずれにしても、翁長知事はこのような新たな事態となったのだから、「埋め立て承認取消」という重要決断を早めて、政府・防衛省のこうした策動を封じなければならないだろう。「埋め立て承認取消」という大きな闘いのヤマ場を迎えている。(富田 英司)案内へ戻る


 コラムの窓・・・戦争体験の継承に思う

 今や日本の人口の5人に4人が戦後生まれになり、戦争体験の風化(戦争の「語り部」世代がいなくなる)が語られて久しい。

 沖縄戦の「ひめゆり学徒隊」の生き残りの「語り部」は、多い時は30人近くもいたが、今では4人だけに。沖縄戦体験の風化に危機感を持つ「ひめゆり平和祈念資料館」では、10年余りかけて後継者(次世代の「語り部」)を育てている。

 あの広島の被爆体験の証言者も、恐らく100人前後しかいないと言う。しかし、危うい空気を感じるから、語りたがらなかった人々がまだ今なら間に合うと、あえて凄惨な過去を語り始めていると言う。

 「戦争」を知らない若い世代にどう語り継いでいくのか。今私たちは大きな課題を突きつけられている。と同時に、自由な発表・発言を封殺する右翼風潮とも闘わなければならない課題も突きつけられている。
 知人から次のような元特攻隊員の人(加藤敦美さん)の投書を紹介された。

 この加藤さんは、戦争当時特攻隊をめざす元予科練におられたという自らの体験の痛苦の反省から、「君が代」強制を絶対に許さないと語り、たったお一人で京都の洛西ニュータウンの各戸に自らの思いを綴ったチラシを配布する活動をしている。

 この朝日新聞への投稿は、安保法案に反対する若者たちへの加藤さんの心からのメッセージだ。
 (投稿)学生デモ、特攻の無念重ね涙 
     無職 加藤敦美(京都府・86歳)7月18日 朝日新聞・大阪本社版
 「安保法案が衆院を通過し、耐えられない思いでいる。だが、学生さんたちが反対のデモを始めたと知った時、特攻隊を目指す元予科練(海軍飛行予科練習生)だった私は、うれしくて涙を流した。体の芯から燃える熱で、涙が湯になるようだった。オーイ、特攻で死んでいった先輩、同輩たち。『今こそ俺たちは生き返ったぞ』とむせび泣きしながら叫んだ。
 山口県・防府の通信学校で、特攻機が敵艦に突っ込んでいく時の『突入信号音』を傍受し何度も聞いた。先輩予科練の最後の叫び。人間魚雷の『回天』特攻隊員となった予科練もいた。私もいずれ死ぬ覚悟だった。
 天皇を神とする軍国で、貧しい思考力しかないままに、死ねと命じられて爆弾もろとも敵艦に突っ込んでいった特攻隊員たち。人生には心からの笑いがあり、友情と恋があふれ咲いていることすら知らず、五体爆裂し肉片となって恨み死にした。16歳、18歳、20歳・・・。
 若かった我々が、生まれ変わってデモ隊となって立ち並んでいるように感じた。学生さんたちに心から感謝する。今のあなた方のようにこそ、我々は生きていたかったのだ。」

 7月15日、「安保法案」が衆議院を通過してしまった。

 だが、憲法違反の安保法制との闘いは着実に広がっており、新しい動きも出始めている。安倍独裁政権との闘いは、まさにこれからだ。(英)


 永遠の無関心

 無知蒙昧の放言で名を馳せた作家が物した「永遠の○○」、ベストセラーだそうだが、作家への共感が持てないので読む気もしない。敗戦この方の多数派市民の意識を表す言葉は何か。私が思いついたのは、「永遠の無関心」という言葉だ。

 百田某らにとっては、天皇の名の下に尊い命を捧げた皇軍兵士、〝英霊〟なるものへの顕彰こそが戦後を覆う意識なのだろう。しかし、皇軍兵士は兵站なき戦線において病み、飢えて多くが死亡した。特攻は無駄な死を強いられただけであり、その美化は罪悪ですらある。

 7月24日の「中日新聞」が1面トップで「飢え、衰弱7割病死」を報じている。同紙が厚生労働省の資料を分析した結果、陸軍のフィリピン戦没者の病死率が1945年初めは14%前後だったが、その後徐々に増加して敗戦直後の9月には77%に上ったというもの。

「死因はマラリアや栄養失調、脚気などが大半。補給が途切れ、極端な食糧不足の中、広い意味での餓死者が多数いたとみられる。同省などによれば、兵士がなぜ死んだのか戦争全体の統計はない。資料からは、兵士の命が軽んじられた70年前の現実の一端が浮かび上がる」(同紙)

 この国の歴史には、歴史にあらぬなにものかが書き連ねられてきた。あったことはなかったことにされ、ありもしないことがあったことにされている。それは、8・15を前後していかなる断絶もなく、支配層は支配者としてそのまま生き残り、人々の力でそれまでの権力が覆され、秩序が破壊されることはなかった。

 こうした成り行きを許したのは人々の無関心ではなかったか。長きにわたって赤紙と特高によって維持されたきたかの戦争遂行体制も、実は人々によって支えられ、維持されてきたのではないか。敗戦を経ても、人々はあの戦争がなんであったかを突き詰めることもなく、無関心にやり過ごしてしまったのではないか。

 そして70年後の今、ぐるりと一回りして、戦争準備が進んでいる。侵略戦争、加害の事実は一つずつ消されていき、この国の〝正史〟には南京大虐殺もなければ、軍事性奴隷もいなかったことになっている。人々の無関心が、こうした歴史の書き換えを許してきた。多数派市民は戦端が開かれるまで、戦争など起こらないと無関心を決め込むのだろうか。そして、交戦が始まってしまったら、今度は〝鬼畜中朝〟とでも唱和するのであろうか。

 なお、同じ日付けの「神戸新聞」1面トップには、「企業初、三菱マテリアル 3765人に謝罪と補償」が報じられている。中国人強制連行の和解を報じるものだが、遅きに失した感は免れない。安倍政権は相変わらず一つ覚えに「1972年の日中共同宣言は個人の賠償請求権を否定しており、『解決済み』という基本的立場」を繰り返している。

「関係者によると、和解合意案で三菱側は第2次大戦中、日本政府の閣議決定に基づき、日本に強制連行された中国人労働者約3万9千人のうち3765人を三菱マテリアルの前身企業とその下請け会社の事業所に受け入れ、労働を強いたことで『人権が侵害された歴史的事実』を認めた」「その上で、被害者と遺族に『痛切な反省』と『深甚なる謝罪』を表明」(同紙)

 辺見庸は「週刊金曜日」に連載中の「1★9★3★7」において、「『時間』はなぜ消されたのか」問い続けている。駅であれこれのビラをまき続けていて私は、無関心を装って通り過ぎる人々に時に溺れそうになることがあるが、盛夏に向かうなかでも挫けずにビラをまき続けようと思う。無関心の罠にはまるのは悔しいから。 (折口晴夫)案内へ戻る
    
 色鉛筆・・・微力ながらがんばります。減少する組合員

 私が支援学校の組合員になって二十三年になります。最初は、私の周りは、ほとんどの人が組合員でした。その仲間たちと勉強会をしたりしながら、特別支援教育について学んできました。また、子どもたちにとって自立を目指すために必要なそして過ごしやすい設備について、また働く権利についても、県交渉などをつうじみんなでがんばってきました。しかし、号俸の改正と職員評価が入ってきた頃から、組合を辞めていく人が増えました。昔、自閉症のことを教えてくれたある先生は組合の集まりで姿を見かけなくなったなと思っていると、教頭先生になっていました。

 毎年のベースアップが職員評価で決まります。昔の一号俸が十段階に分けられました。普通だと今は四号俸しか上がりません。ものすごくいい評価を受けても、昔の一号俸分の給料はあがりません。でも、みんな歯をくいしばってがんばって働いています。

 職場では、組合員は私一人です。署名をお願いすると、以外と多くの方が書いてくれます。校長で退職して新人の指導員としてきていたある先生は、署名が一杯で書ききれなくなったのに、欄外に書いてくれました。ものすごく、嬉しかったです。

 最近アンケート調査を実施しました。するとものすごく多くの悩みや意見が寄せられました。アンケートを締め切っても、次から次へと私のところに届きます。また、相手は自分の名前を私に明かしている人もいます。多かった内容は長時間労働、過密労働、パワハラ、施設設備の老朽化や不足、職員間の人間関係等でした。びっくりするとともに、この心の叫びを無にしてはいけないと強く思いました。そうです、誰だって評価が下がったり、給料が下がるのはいやです。でも組合に期待している人が多くいるのです。

 私も不安でこわいですが、組合員の使命を果たしたい、私を信頼して書いてくれた人の気持ちを無駄にしないように、しなやかな心をもって広い視野を養いながら、微力ながら頑張りたいと思います。 (弥生)


 戦後70年に思う

 この機会に、自分のこれまでの人生を振り返って、みたいと思う。東京オリンピックが開かれた年は、10歳で小学校4年生だった。聖火ランナーが近くの国道2号線を走るので、近所の子どもらで見に行ったことを覚えている。大阪万国博覧会では太陽の塔を見上げ、学校行事で行った中学3年生のクラス仲間と各国のイベント会場を見学した。高校は商業高校に入学し、入ってまもなく5月だったと思うが、部落問題解放研究会の招集で生徒総会が開かれた。全校生徒と教師が講堂に集まり、糾弾会が始まった。部落差別発言をした年配の男性教師は、発言した内容で厳しく糾弾され、私たち新入生は初めての体験に驚き、率直に部落研の人が怖かった。社会問題として部落差別を受け止めるには、まだまだ理解不足で時間が必要な環境の中に置かれていた、と思う。

 そして、20代半ばに安保闘争を経験された方に出会う機会があった。それは、共同保育の仲間で、芦屋にある産婦人科の就職面接で差別を受けたFさんの差別撤回闘争だった。Fさんは、結婚して被差別部落に住み生後1歳に満たない男の子の母親だった。闘争の支援者は、共同保育の子連れの仲間が中心となり、地域の合同労組が主体となって闘った。

 その闘争に支援者として駆けつけて来られたKさんが、安保闘争で被害にあった樺美智子さんと高校時代の親友だった。Kさんは常にもの静かで相手に対し感情的にならず、説得を試みる冷静な女性だった。親友の死はKさんにとっては、権力者と向き合う時の自らの姿勢を省みる原点となっているのだと思う。

 その年の6月15日は、樺美智子さんを偲ぶ集いを企画し、Kさんからお話を聞いた。Kさんから天国の樺さんに向けての手紙が読まれ、安保闘争が闘われた意義を教わった。当時、安保闘争は割烹着を着た主婦の列、産業別組合の列など、ほとんどの市民が何らかの形で参加できる環境があったことを写真が語っていた。

 戦後70年の今、更に深刻な安保法案が出てきているのに、労働者らの怒りはどうなっているのか? 怒りを表現する場所なら、組合が無くても街角で、各種集会で自分の意思表示をできる場があることを知ってほしい。その兆しは、私たちの駅頭のアピールに、メールを見ての個人参加者があったことが証明している。みんなで行動すれば、元気も出ることは間違いなし。合言葉は「安倍政治を許さない!」 (折口恵子)

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