ワーカーズ585号  2018/8/1   案内へ戻る
  安倍政治打倒の闘いは日々の暮らしと労働の場での運動の再構築を抜きにはあり得ない

 安倍政治のどうしようもなく腐敗した姿、無能で危険な本性が明らかになっているにもかかわらず、多くの人々は、この政権を取り除きたいとの思いを持つまでには至っていない。何故なのか。

 それは、多くの人々が持つ政治への信頼がもともと高くない、政治に対して多くを期待していない、ということを示しているのではないか。あるいは、安倍政治の酷さは分かっているが、その程度や範囲は想像をめぐらせることが可能。しかしそれ以外の政治家や政党や政権は、その良い面も悪い面も未知数であり、それを選ぶ選択はリスクが高すぎる。そう思っているからではないか。

 多くの人々は、すでに、戦争やそれにともなう経済崩壊を知らず、戦後の再建時の精神的清々しさを知らず、高度成長期の若者達が抱いた社会変革への壮大な夢や大志も知らない。むしろ、不況、バブル崩壊、就職氷河期、格差と貧困、中国や北朝鮮との軋轢の激化等々の否定的な社会現象、夢や希望を抱きにくい環境の中で育ってきた。その中で、どうやってリスクを回避し、上手に生きていくかに心を砕いてきた。今の状況は確かに酷いが、だからこそこれ以上のリスクに晒さないでくれ、少々の不正や悪徳は受け入れるから、どうかこれ以上に事態を悪くしないでくれ。これが、大方の人々の意識なのではないか。

 だとするならば、私たちのアプローチは、どうやってそうした萎縮した意識を解きほぐすか、に向けられなければならない。どうやれば、人々にもっと深く広く世の中を見てもらえるか。どうすれば、今の望ましくない状況は変えることが出来るし、変える方法はあるということを、実感してもらえるか。この事にもっともっと意を注がなければならない。

 そのための重要な場と機会は、誰の暮らしや人生もそれと無関係であることが出来ない、働き方の問題を考え行動する労働運動、日々のくらしの保障と安定を考えるための社会保障や福祉の運動、平和を脅かす脅威や平和の創造を追求する平和運動等々としてある。そうした場での日常の基礎的な活動を、安倍政権打倒の広範な大衆運動の組織化と並行して強化していかなければならない。(阿部治正)


  「防災省設置」が総裁選の争点に!?

 今年九月の自民党総裁選挙で、石破茂議員の提唱する「防災省設置」の是非が争点に浮上しそう、との観測記事。

「西日本豪雨を受け、出馬に意欲を示す石破茂・元幹事長が防災省創設の持論を全面に押し出している。」「富山県の講演会で、「災害大国の日本で専任の大臣がいなくていいのか」と述べた。」「防災や災害対応は、内閣府や国土交通省など複数の府省庁にまたがっている。石破氏は、現状では内閣府の担当職員の経験が蓄積されにくいとして、約3年前から防災省設置を唱えてきた。安倍首相との違いをアピールできるテーマの一つとの事情もあり、総裁選でも主要政策に位置付ける意向だ。(以上『読売新聞』より要約)

毎年のように地震、豪雨、土砂崩れ、火山噴火等の災害が起き「災害列島」の観を呈している日本で、「防災省」設置案は、確かに「インパクトのある政策」ではあります。

●「防災省」に消極的な他陣営

 これに対し「ほかのポスト安倍候補は消極的」と報じられます。

「岸田政調会長は山形市で記者団に、自治体や消防などの具体的な連携が必要だと指摘した上で「組織をつくるかどうかは落ち着いて考えるべきだ」と述べ、野田や総務相は「役所を作ったから災害が減じられるという単純な話ではない」 と冷ややかだ。」「首相周辺は、防災相設置を巡る議論が、今回の政府の災害対応が不十分だとの批判につながることを警戒している。」「政府の危機管理を巡る関係副大臣会合は2015年3月、新たな防災組織は「積極的な必要性は直ちに見いだしがたい」とする報告をまとめた。首相の連続3選へ動く菅官房長官は、報告書の内容を引用し、否定的な見解を示した。」(同上)

 しかし、安倍首相周辺や他のポスト安倍候補が、石破氏への対抗意識から「防衛省設置」を批判すればするほど、かえって「防災に消極的」との印象を強めてしまう「ジレンマ」に陥っていくように見えます。

 「軍事オタクで安倍より右」と評価される石破茂が掲げる「防災省設置」には、正直のところいろいろウサン臭さも感じますが、それでもこの時期タイムリーでインパクトを持って受け止められるのは、それだけ日本列島の各種災害多発が、年々深刻になっているのに、政治も行政も「後追い」になっているからに他なりません。

●地球温暖化と豪雨・豪雪の多発

 災害の多発の要因は、大きく二つあります。

 ひとつには以前から指摘される「地球温暖化」の影響です。太陽と地球の軌道が数万年周期で変化する「ミランコビッチサイクル」によれば、本来地球は寒冷化に向うはずです。ところが産業革命以降の化石燃料の大量消費により、(また産業革命ほどではないにせよ数千年前の大規模は農耕・牧畜開始以来の森林の過剰な伐採により)、地球は急激な温暖化に向かっています。

 つまり、日本を含む先進国の化石燃料の大量燃焼により温室効果ガスである二酸化炭素が増加し、他方で多国籍企業の大規模食糧プラントのため、ブラジルをはじめとした森林の大規模伐採で、光合成による二酸化炭素の吸収が減っているのです。

そして温暖化は海水の蒸発をもたらし、大気中の水分が増え、夏は集中豪雨を、冬は豪雪をもたらし、気候の不安定性を増しています。

アジア大陸と太平洋の挟間にある日本列島は、大陸性高気圧と太平洋高気圧にはさまれ、ヒマラヤに発し偏西風に乗ってくるモンスーンを、列島の山脈が堰き止めるため、気候変動の影響を集中的に受ける位置にあるのです。

●東日本大震災以降のプレート活発化

 もうひとつは、2011年3月の東日本大震災以降、日本列島を支えるプレートの動きが活発化し、地震や火山噴火が多発する傾向にあることです。

 そもそも日本列島は、ユーラシア大陸プレートの下に海洋プレートが潜り込むことで、大陸プレートの端に「付加体」が形成され、その付加体が大陸から切り離されることによって出来ました。大陸プレートの下に海洋プレートが潜り込む動きが、地震と火山噴火を引き起こします。

 そして今回の東日本大震災は、ユーラシアプレートと太平洋プレートの動きによる千年周期の変動の活発期の始まりにあたります。その後、東北から関東にかけて十年近くも「余震」が続き、収まらないのはそのためです。

 これとは別に、西日本ではユーラシアプレートにフィリピン海プレートが潜り込んでいます。それにより陸地の歪みである活断層が活発化し、一昨年の熊本地震や今年の大阪地震などが多発しています。近い将来、南海トラフのズレによる巨大な「西日本大震災」が起きる可能性も指摘されています。

 こうしたプレートの動きは、地震の多発に留まらず、火山活動の活発化も引き起こしています。九州の桜島や霧島、阿蘇の火山噴火が続発しています。

 つまり、大規模な地震や津波や火山噴火は、日本列島の成り立ちに本質的に起因する「常態」であり、決して「想定外」などではないのです。

●過剰な宅地開発と森林破壊が災害に拍車

 以上のように、もともと日本列島の地質学上、気象学上の特徴を考慮すると、地球レベルでの気候温暖化の影響を特に強く受けやすい位置にあり、また海洋プレートとの関連では「環太平洋地震・火山ベルト地帯」にあるため、「災害列島」の状況は避けられないと言えます。

 問題は、戦後の急速な工業化と都市化によって、近郊のベッドタウン化が進み、山に近い丘陵部への過度な宅地化が行われ、森林破壊により山の保水力や樹木の根による斜面の固定力が低下し、また減反による水田の減少により河川周辺の保水力も低下しており、災害に対して脆弱な地方都市が出来てしまっていることです。

 この問題は、河川の治水工事や砂防ダムの治山工事のみでは解決がつかないことです。大河川の水を高い堤防で封じ込めるのは限界があり、むしろ掘割りを縦横に作って、常に水が逃げていく地域作りの発想が必要です。

 砂防ダムで山の形を維持するのも限界があります。山は本質的に少しずつ崩壊して、海岸も堆積により変わっていくのが、自然の摂理なのです。

山も川も海も「変化していくのが常態」であることを踏まえるなら、土地所有権も絶対的なものとはできません。大事なのは「土地所有権」ではなく「居住権」や「生存権」の補償であり、近隣への「移住権」、移住先での「労働権」を保障することでもあります。

●「防災省」を利権の温床にするな!

 石破氏の「防災省」構想は、災害が多発する今日、時宜にかなったタイムリーなものであることは間違いないでしょう。その意味では、自民党総裁選の争点になること自体は、おおいに歓迎すべきことです。(「これで安倍首相に分が悪くなるだろう」等と言うケチ臭い政局的思惑で言うわけではありません。)

 問題はその中身です。防衛族の石破氏の背景には、これまで防衛産業の利権が見え隠れしてきました。「防災省」とくれば、河川の堤防工事、津波対策の護岸工事、砂防ダムの増設工事、老朽化した公共建築物や幹線道路の改修工事・・と、大手建設企業の利権の温床になりかねません。

 また軍備拡大に国民の反発がある中、自衛隊の「災害救助隊」としての活用(それ自体は当然としても)を理由に、各部隊の増員や隊員輸送にかかる航空機や水陸両用車などを増設し、「防災」名目で軍事機能を増強してゆこうという防衛産業側の思惑にも絡め取られかねません。

●市民のイニシアチブで災害列島の社会変革を

 「防災省」と名づけるかどうかは別として、この「災害列島」に住む私たちがいかに災害を軽減し、居住権、生存権、移住権、労働権を保障できるか、それは市民のイニシアチブをいかに発揮できるかにかかっています(狭い意味の地元利益ではなく)。

 実際、東日本大震災の経験から、風光明媚な海岸の景観を捨てて大規模な堤防を建設しても、津波はいとも簡単に乗り越えたこと。「防災」ではなく「減災」の視点(沈下橋の発想)から、「居住地は高台に移し低地部は生産活動の場とする」減災地域構想が提唱されました(日本列島の全ての地形に適用できるわけではありませんが)。もちろん、そこでは土地所有権の問題や地域社会の文化継承の権利の問題など、解決すべき課題が多々あり、強権発動でできるようなことではなく、まさに震災復興の中で人々の真剣な論議が続いています。

 その貴重な取り組みを、地方に留めずに、全国化する契機になるなら「防災省」という中央組織を設置することも意義がないとは言えないでしょう(かつての環境庁のように)。

 繰り返しますが、「大手建設企業」等の利権や「狭い意味の地元利益」ではなく、山も川も平野も海岸も変化するという大自然の性格に向き合い、産業優先の工業開発や宅地開発を見直し、居住権、生存権、移住権、労働権の保障を前提に、市民のイニシアチブをつらぬく「減災社会」を構想することでしょう。(松本誠也)
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  明仁天皇の生前譲位と象徴天皇制

 来年の5月1日、明仁天皇は生前譲位し、徳仁皇太子が天皇になることが決まっている。

 この1年間の明仁天皇と安倍政権との「闘い」の子細については、私たちの立場からはあまり意味ないものと考える。したがってここでは大胆に一切省略することにしたい。

 私たちが今ここで問題とすべきは、そもそも象徴天皇制とは戦後日本国家体制の中でどんな意味を持ったのかということである。その意味を再度確認したいと考えるのである。

戦前の日本国家体制と戦後日本国家体制の違いと象徴

 戦前の日本国家は、陸海軍に対する統帥権を持つ大元帥として位置づけられた天皇を頂点とする国家体制、つまりそれが戦前日本の国体であった。それに対してアメリカ等の連合軍との戦争において一敗地にまみれた戦後日本国家は、明治日本以来の一切の統治行為を行う事を天皇に許さず、アメリカにより憲法に定められた国事行為を行うことのみ許された象徴天皇をいただく「民主」国家に変貌した。人は「天皇制民主主義国」と呼ぶ。

 しかしその内実とは、そもそも軍事的な敗戦によって必然化された対米従属構造にある国家体制で国民の象徴天皇の上にアメリカが位置する究極の対米従属国家体制である。本質はサンフランシスコ条約の批准後も変わっていない。誤解を避けるために正確に言い換ると日本はアメリカの意向を忖度する日本人達によって支配され続けているとも言える。

 戦後日本が今でもアメリカの間接的な従属構造にあることは、日米地位協定上の正式な協議機関として日米合同委員会があることが証明している。その協議は月2回の秘密の会合であり、議事録も公開はない。会場は(ニュー山王ホテルで1回、外務省が設定した場所で1回)行われ、驚くことにこの会議に衆参両院の国会議員は参加していないのだ。

 このことについては、かって総理大臣であった鳩山由紀夫氏の証言を紹介する。

「日本とアメリカの間には日米合同委員会など、いろいろなカラクリがあることは、首相になったあとに知ったことも多く、そのことは自分の不勉強でたいへん申し訳なかったと思っております。日本の官僚と米国、特に米軍が常に密接につながっていて、我々日本の政治家と官僚とのつながりよりも、むしろ濃いつながりを持っていることを首相になってから私は知りました」(『誰がこの国を動かしているのか』詩想社新書73頁)

 この「日本の官僚と米国、特に米軍が常に密接につながっていて、我々日本の政治家と官僚とのつながりよりも、むしろ濃いつながりを持っている」との証言は、実に重い。

 この日米合同委員会の参加者は、日本側の代表は外務省北米局長で代表代理として法務省大臣官房長、農林水産省経営局長、防衛省地方協力局長、外務省北米参事官、財務省大臣官房審議官からなり、その下に10省庁の代表からなる25の委員会が作られている。

 アメリカ側の代表は、在日米軍司令部副司令官で代表代理として駐日アメリカ合衆国大使館公使、在日米軍司令部第五部長、在日米陸軍司令部参謀長、在日米空軍司令部副司令官、在日米海兵隊基地司令部参謀長からなる。つまりアメリカは軍人が中心なのである。

 一連の著作で米軍基地と原発を告発し続けている矢部宏治氏によると、この60年で最低でも1600回は行われているという。詳細は、吉田敏浩氏著『「日米合同委員会」の研究 謎の権力構造の正体に迫る』(創元社 2016年)に詳しい。

 この本については私の「ワーカーズの直のブログ」で取り上げている(アメーバブログの中のhttps://ameblo.jp/bubblejumso3/entry-12250446889.html))。また矢部宏治氏の最新の代表作『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』を始めとする数々の著作についても「ワーカーズの直のブログ」で取り上げている。是非皆様の参照を賜りたいと考える。

 彼ら従米派らのモットーはアングロサクソンに従っておけば間違いはないである。彼らは従米であればこそ、将来の日本の対米自立があると妄信している。為に日本の国家戦略とは、対米自立の国家戦略は持たずアメリカに付き従うことが基本なのである。独自の国家戦略を持つと田中角栄氏や鳩山由紀夫氏のようにアメリカに潰されてしまうからだ。

 実際、戦後の対ソ連及び対ロシアの外交交渉が上手く進展しないのはこれが理由である。

 この従米国家体制の中で国策捜査の対象となり長期間拘留され有罪判決を受けた元外務官僚の佐藤優氏は、戦後の国体をズバリ「日米安保体制下の象徴天皇制」とする。つまり白井聡氏が最近『国体論』で詳しく展開したように、これが真の戦後の国体なのである。

 8月に2発の原爆の投下により追い詰められた日本は国体が護持されるとの確信の下にポツダム宣言を受諾した。だがアメリカは国家元首としての天皇の統治を許さない。そのため、明治以来の憲法上の天皇の位置づけは敗戦前後で大きく分断されてしまった。しかしながらこの二つの時代を生き抜いた裕仁天皇は、時の内閣が天皇に対して行う内奏に深く介入して憚らず、日本政府の外交とは別の「天皇外交」(豊下楢彦氏の命名)を展開して日米安保体制を構築していく。裕仁天皇の「沖縄メッセージ」はその象徴である。

 これらのことに関しては、豊下楢彦氏の『昭和天皇の戦後日本』(岩波書店刊)に詳しい。この間の裕仁天皇の行動を理解するためにも、ぜひとも参照することを勧めたい。

 戦後の日本国憲法は、一方では日本近代社会を基礎づける基本的人権と義務の体系と議会等の任務と選び方を規定はしたが、他方では第一章に基本的人権すら認めず身分制に依拠した象徴天皇の地位に関わる諸規定を盛り込んだ極めて纏まりの悪い憲法であった。

 戦後の日米安保体制を構築するあたり、裕仁天皇はアメリカへの服従を明確にした。それがマッカーサー元帥との会見である。それは1945年9月27日から1951年5月まで都合11回も行われた。それが『天皇・マッカーサー会見』として出版されている。

 この本の内容については、ワーカーズの直のブログ「昭和天皇の実像とは? 2015―02―17 読書室 豊下楢彦氏著『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫」を是非参照していただきたい(https://ameblo.jp/bubblejumso3/entry-11990955744.html)。

 そしてこの間、1946年3月5日と6日に分かれ訪日した日本の教育の実態把握を目的とした日本教育使節団一行が皇居を表敬訪問した時、裕仁天皇はこの使節団に対して何と当時学習院初等科に在籍していた皇太子(明仁天皇)にアメリカ人の家庭教師を付けたいのでお世話願いたいと要請したのであった。まさに自らの政治的延命のためだった。

 古来から敗戦国の皇太子に戦勝国の家庭教師を付けるなど、まさに前代未聞で本来なら外交問題にまで発展する問題ではあったが、ここは天皇自身の要請であるが故に事は上手く運んだ。そして紹介されたのがクエーカー教徒のヴァイニング夫人である。彼女は皇太子に自分をジミーと呼ぶように強制した他、同じクラスの誰とも差別することなく平等に取り扱った。こうして明仁天皇は、少年時代にキリスト教育の洗礼を受けたのである。

 アメリカは天皇を「日本国家」そして「日本国民統合の象徴」として憲法に位置づけた。日米戦争前からアメリカは日本敗戦後の統治に天皇の利用を考えていた。そのため、戦争中皇居は戦略爆撃の対象外であった。そして考え抜き出された結論とは、日本の戦争遂行勢力と闘う平和天皇像の創出である。つまりアメリカは天皇を平和のシンボルとして徹底的に利用する戦略を確定した。そのため、東京裁判では裕仁天皇は免責されたのである。

 そもそも天皇をシンボルとする文献の登場は、1931年の新渡戸稲造国連事務局次長退任後の『日本――その問題と発展の諸問題』を嚆矢とし、1942年に出版されたニューヨーク・タイムズ東京特派員だったヒュー・バイアス氏の『敵国日本』にも天皇はシンボルと書かれていた。注目すべきはその後同氏が書いた『昭和帝国の暗殺政治』である。

 その核心部分を、以下に引用してみよう。

「日本の政治体制の弱点は、この体制がそもそも人間には両立し得ない複数の機能を天皇に兼任させようとする所にある。天皇は同時に国民の威厳ある統合の象徴であり、国の神であり、その大祭司であり、その最高司令官である」

 こうした指摘を受けて日米戦争中に天皇の取扱いを検討していた米国の陸軍省は、敗戦後の天皇を平和のシンボルとして徹底的に利用する戦後の日本統治戦略を画策した。その流れでその実行の当否はマッカーサー元帥に一任されていた。裕仁天皇と面接した彼は天皇利用に傾き大きく動き出す。そして彼の決断がアメリカの国家戦略となったのである。

 この戦略は大成功を収め、今では戦時中ですら天皇は軍部とは対立し一貫して平和指向だったといまだに人々に信じられている。実際の所、軍事力の統帥権を唯一持っていた裕仁天皇の戦争責任が免責されることなど、本来的には絶対にあり得ないことなのである。

 アメリカは日米戦争の主体的な総括から、裕仁天皇にキリストのように死刑の厳罰を与えることはせず、裕仁天皇の戦後の政治的な統治行為を禁止して単なるお飾り・象徴として利用することに決定したのである。勿論、裕仁天皇はそんなことには一切顧慮せず、時には政府補無視して自らの考えで天皇外交を展開していったのである。

明仁天皇の「お気持ち」メッセージ

 さて2016年8月8日、明仁天皇はまるで裕仁天皇の「玉音放送」のような段取りで「お気持ち」メッセージのテレビ放映を行った。「生前譲位」の言葉こそなかったものの、その意図は明確であった。そしてそこで強調されたことは、象徴としての天皇の役割とは一体何かであった。明仁天皇が語った核心は、まさにこの点にこそある。

 宮内庁のように高齢になったのだから公務は減らせばよいとの判断に明仁天皇は立たない。それだからこそ、象徴天皇の役割を果たすことが出来ないのだから譲位したいとの意向を示したのであった。それは実に明仁天皇の象徴天皇のサバイバル戦略である。

 右翼の一部には、この時とばかりに今回の明仁天皇のメッセージに関連して「公務」の恣意性を問題にしている向きもある。つまり災害被災地の慰問や戦没者の慰霊等がどれだけ立派な「公務」なのかという批判である。最近慰霊を行ったペリリュー島やパラオ来訪時に海上保安庁の護衛艦を改造してまで使用したのは、無駄遣いだということなのである。

 また被災地等を訪問して、避難者や戦没者の遺族と同じ目線に立ちたいとする明仁天皇の努力は「憲法順守」「無私」だとの2点が従来から指摘されていた。今回の放送を通じて「国民と一体化する」という天皇個人の強い思いが、日本の人々の間に浸透していった。かくして明仁天皇の「美談」が大きく喧伝されて天皇サバイバル戦略は成功したのである。

 宮内庁は仮に加齢や病によって寝た切りになった場合でも、摂政を立てたりメッセージを発したりすることで「象徴としての務めを果たす」ことが可能だと指摘し続けてきたが、明仁天皇は「そうではない、違う」と非常に強く反論、否定したことが好意的に伝えられたのである。このように多くの人は明仁天皇のサバイバル戦略の本質を見抜けないでいる。

 では二つの時代を生きた裕仁天皇に比べて、生まれながらの象徴天皇である明仁天皇が皇太子時代から真摯に考え続け、即位以来まさに「全身全霊」をもって考えた「象徴」としての天皇のあり方とは、どういうものなのか。またそれは昔とどのように違うのか。

明仁天皇を支える思想は新トマス主義である

 それには明仁天皇が少年期、ヴァイニング夫人の教育の影響、そして現在も深く関わっている相談役の影響が大きい。その人物からイギリスの立憲君主制での王室のあり方とキリスト教の倫理に学び、また加えて幼時からカトリックのミッションスクール(聖心女子学院)で学んだ美智子皇后の強い影響の下に、一段と磨きが掛けられたものなのである。

 この重要人物とは、東宮参与として天皇・皇太子に対する憲法及び象徴天皇制に関する相談役、後にカトリックに入信して何と「トマス・アクィナス」の洗礼名を持つ團藤重光東京大学教授で彼の新トマス主義による天皇家への教育があることを忘れてはならない。

 ここで大きな影響力を行使したものこそ、裕仁天皇の時代から深い関係で続く「隠れたカトリック教徒の人脈」であった。今や宮内庁の職員には実に多くのカトリック教徒がいると噂されている状況である。そもそも日本カトリック教会の思想には岩下壮一氏が基礎を据えたのであるが、この事実すら一般的にはあまりにも知られていない事実である。

 これについては園田義明氏の『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』(講談社+α新書)をぜひ参照のこと。旧安保条約に臣吉田茂と署名した吉田茂氏も明仁皇太子と正田美智子氏とを娶せた慶応大学の小泉晋三氏もカトリックである。更に付け加えて置けば、日頃は天皇崇拝者の如く振る舞っていた、あの渡部昇一氏も最近イエズス会員として死んでいった。彼がドイツに留学出来たのもそのことが理由である。

 ここで余談を一つ紹介したい。カトリックといえばイエズス会である。戦国時代に訪日したフランシスコ・ザビエルについて、現代日本人にはどの程度の知識があるのだろうか。

 16世紀初頭スペインの地方貴族の子として出生したザビエルは、その後神学校に進学しロヨラらとともにイエズス会を結成した。当初より世界宣教をめざしたイエズス会は、その会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはリスボンを出発、アフリカのモザンビークを経由してインドのゴアに到着。その後、マラッカ、さらにモルッカ諸島に赴き、宣教活動を続けてからマラッカに戻った。

 1548年にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌年、明の上川島(広東省江門市台山)を経由し薩摩半島の坊津に上陸、許しを得て8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げたのである。

 この最後部分に注目せよ! ザビエルによって聖母マリアに捧げられた日本は、結局スペインに捧げられたということなのである。2年後の1551年、ザビエルは豊後国に到着し、守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った。戦国時代の流れの必然として軍事力の増強競争の中で、イエズス会は日本で入手困難なチリ硝石の輸入に積極的に手を染めて、硝石一樽当たり50人の女と交換したと伝えられる。この結果、16世紀後半には、日本人女奴隷がヨーロッパに広汎にいたのである。

 この事実は今も伏せられたままだが、1582(天正10)年の天正遣欧少年使節の手記には書かれていた。この文書を引用し事実を広汎に知らせた徳富蘇峰氏の『近世日本国民史』の当該巻は発禁となり、私たちが現在読めるのはその改訂版である。そして先の渡部昇一氏は、徳富蘇峰氏の『近世日本国民史』を名著として絶賛していたにもかかわらず、この日本女奴隷の話には触れていない。なぜなら彼もイエズス会員だったからである。

 この余談はマッカーサーがカトリックであり、天皇に会ったことで彼が日本をカトリック国に生まれ変わらせたいとの野望を持ったことに関わっている。彼が野望を持つに至る経緯とその顛末については、鬼塚英明氏の出世作『天皇のロザリオ』上・下に詳しい。

 閑暇休題。先に問題とした新トマス主義とは、EUの統合にあたって新旧両キリスト教圏にまたがる欧州を「成文法を超えて一体化させる」ものとして注目すべき重要な世界的思想で、それは旧約新約の両聖書を第一の規範とし、そのためにカトリックの規範を体系化し哲学化したトマス・アクィナスが主著の『神学大全』で完成させた考え方である。

 中世においても哲学の基礎にはプラトンとアリストテレスであった。プラトンを信仰の哲学とまとめれば、アリストテレスは知識の哲学とまとめることが出来る。トマスは信仰と理性の融合をめざした。カトリックの原理とは神である。この原理に対してトマス・アクィナスは、アリストテレスの発展観を応用してカトリックの規範を体系化したのである。

 それは自然界を最も下級な段階として段々と発展してゆき、その頂点は人間の生活だとした。トマスは万物と神との間の段階的な秩序を追求した。そして地上では人間が頂点であり、その人間の生活の頂点がカトリックによって与えられる恵みの下での生活、サクラメント(秘跡)であると考えたのである。まさに保守反動のカトリックの極致である。

 つまりトマスは自然界の一切の事物を秩序ある世界と考えそれを上下の2つの世界に分けて、神が上の世界は下の世界の目的であり、下の世界を完成させるものだとしたとする。この考え方を言い換えれば、秩序ある世界の現実の中に神の痕跡を見出したのである。

 こうした考え方の下にトマスは、法律を神の法・自然の法・人間の法とに3分割した。ここが味噌である。つまりパウロは世界を聖と俗とに2分割し聖なるものは、俗とは聖別されるべきで俗とは一切関わるなと分断したのだが、トマスは全てに神の痕跡を発見すべきだとする。そして神の法の内に人間が理性で認識できる部分を、自然の法を名付けて導入した。自然の法とは、民族・文化に関係なくどんな社会にも共通するものなのである。

 そして人間の法はある社会の支配者が制定した法である。法の内容は社会ごとに区々でも良いが、自然の法を踏まえなければならないとした。さもないとそれは暴君の法であり、内容から言って法と呼べないとした。この手順を踏むことで、トマス・アクィナスは神の法の原理から人間の法が作られるとつなげたのだ。つまり神の法とは人間に対して超然としているものではなく、人間が現実の中にサクラメントで作り出すものなのである。

新トマス主義は世界を動かしている

 こうして新トマス主義は、現代に復活し世界を秩序立て人間の生活を頂点とし、その恵みの生活は、教会から与えられるサクラメントにより与えられるものであるとする。

 現代に目を移してみよう。EUの心臓部は独仏両大国に挟まれたべネルクス、即ちべルギー・ルクセンブルクとオランダに集中するが、べルギーはカトリック、オランダとルクセンブルクはプロテスタントである。この両者はヨーロッパ、特にドイツを戦争の中心として30年間も闘っていた。そのため、ドイツは人口の3分の1を失っていた。

 ウエストファリア条約(1648年)は、このカトリックとプロテスタントによる宗教戦争に終止符を打った。条約締結国は「全ての人類がどこかの国民であり」、「国民はそれぞれの国家の枠内で権利と義務を持ち」、「全ての国家は対等の存在である」等、相互の領土を尊重し、かつ内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序を形成するに至った。これが近代国際法の枠組み、「ウェストファーレン体制」の秩序である。

 そして2回の世界大戦の深刻な反省に立って20世紀後半という半世紀を懸けて「欧州統合」を推し進めてきたEU中枢が共通の価値観を堅持している背骨は、新トマス主義にある。したがって私たちはこの現代世界を動かしているこの思想を認識する必要がある。
 これまでは天皇は皇祖皇宗に祈ることはあっても、憲法を順守して「国民のために天皇が祈る」という行動をどのように取ったらよいのか、どこにもそんなお手本はなかった。だから全身これ象徴の天皇が美智子皇后と相談或いは團藤教授らブレインのアドバイスを受け先進各国の立憲君主たちの行動や道徳律を知り、そこで常に参照される新旧約聖書を始めとする聖典にも十分な配慮をもって個々に検討し決意し現実に実行に移してきたのが「スリッパを履かない」であり、「膝を折って同じ目線で言葉に耳を傾ける」行動だった。
 こうした行動の一つひとつが「象徴天皇として国民のために祈る」こと、つまりこれがサクラメントそのものなのではないかと明仁天皇は考えた。国民の中に病む人があれば、行って共に痛みを感じ分かち合い、国民の中に喜びがあるならそれもまた共に喜びを分かち合う。このように「その心に全身全霊を開く」ということが、皇太子時代から半世紀余、身をもって探究して、創造し実践してきた「象徴天皇の祈り」そのものであったのだ。
 避難所でスリッパを進められても断り、靴下のまま被災者の下を訪れ膝を折って被災者と同じ目線で会話し「共に困難を共有したい」と明言される明仁天皇の発言と行動は、歴代天皇では初めてのことだ。それは皇太子時代に自ら創始され象徴天皇の執行するサクラメントとして、現在の皇太子等にも共有されている。この天皇のあざとさには注目である。

 メッセージの中で「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました」「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈る」と語っている。元よりこの台詞は天皇のサバイバル戦略である。

 その結果、明仁天皇が訪問した被災地で彼らを悪く言う風評は殆ど聞こえてこない。インターネットを見れば、世界の多くの人がこの行動に驚嘆し賞賛していることが確認出来る。既に平成13年12月の天皇誕生日、明仁天皇はブレインの意向を受け入れ日韓共催のワールドカップで祖先である桓武天皇の生母が百済武寧王由来の血筋との故事を引き合い出して「韓国との縁」に触れた。この勇気ある発言は韓国も大絶賛したのである。

 様々な負の歴史と今に続く永続的な朝鮮への差別を明仁天皇が知らないわけがない。歴史修正主義者の安倍総理のように国際社会に背を向け、独善的な「日本の伝統」を振り回すのではなく、内外の歴史と伝統に尊重と敬意を表しつつ、尚かつ「国家」「国民統合の象徴」として振る舞う明仁天皇の姿はまさに安倍総理とは好対照と表現するの他はない。

象徴天皇の存在を支えるもの

 憲法「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。この規定を踏まえつつ、明仁天皇は「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、生き生きとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」とその秘めたる自信を披瀝して見せたのだ。

 この明仁天皇のサバイバル戦略に籠絡される人々は今でも大変多くて驚くほどである。今回の「お気持ち」発言も高率の支持だ。私たちはこの部分に激しく反応して敢えて辛辣な批判を展開した辺見庸氏に同意する。まさに天皇という象徴などいらないのである。
 象徴とは何か。象徴天皇制を人的に維持するための組織は大きく分ければ、3つある。

 まず宮内庁は合計で109人、内訳は特別職52人(1)国家公務員法で規定するもの。宮内庁長官,侍従長,東宮大夫,式部官長,侍従次長。(2)人事院規則で規定するもの。宮内庁長官秘書官,宮務主管,皇室医務主管,侍従,女官長,女官,侍医長,侍医,東宮侍従長,東宮侍従,東宮女官長,東宮女官,東宮侍医長,東宮侍医,宮務官,侍女長。一般職957人、内訳は宮内庁次長以下の内閣府事務官,内閣府技官などである。

 これに関連した宮内庁病院は医師・看護師は総勢約50名となっている。中には大学での勤務の傍ら、非常勤で診察に当たる医師もいる。病院長は宮内庁の皇室医務主管や侍従職の侍医長が兼務することが多いが、最近では専任者を置く例もある。

 玄関は皇室用と一般用に分かれている。一般用といっても宮内庁や皇宮警察の職員たち用である。1階中央には大きな吹き抜けがあり、階段手前から歯科、内科、耳鼻咽喉科、眼科などがある。2階には階段突き当たりに産婦人科、隣に外科、東側に一般患者用の病室、残り半分は皇室専用の病室「御料病室」が2つ配置されている。御料病室は、広さが約26平方メートル、トイレや浴室、洗面所を備えている。また廊下を挟んで侍従や女官の控え室もある。

 最後に皇宮警察は、皇居の内、宮殿及び皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所・宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署、赤坂御用地(東宮御所・各宮邸等)及び常盤松御用邸(常陸宮邸)の区域を担当する赤坂護衛署が設置されている。

 東京以外では、京都府には京都御所・仙洞御所・京都大宮御所・桂離宮・修学院離宮及び正倉院の区域を担当する京都護衛署を置き、神奈川県の葉山御用邸、栃木県の那須御用邸、御料牧場、静岡県の須崎御用邸、そして奈良県の正倉院には皇宮護衛官派出所が置かれている。

 また各署には消防車(「警防車」と呼称)が配備されており、皇居や御所の消防の業務を担っている。この他、皇宮護衛官の育成のための皇宮警察学校や皇宮警察音楽隊、皇宮警察特別警備隊などもある。

 2009年(平成21年)度に皇宮警察は、警務部長ポストを廃し「副本部長」を設置した。皇宮警察本部の定員は警察庁の定員に関する訓令により規定されており、皇宮護衛官920人、事務官等44人、計964人を擁している。なお比較のために人口57万人の治安を守る鳥取県警の職員数を紹介しておけば、何とたったの1170人である。

 つまり象徴天皇制の維持には、臨時職員を除けば定員数で何と2023人による支えが不可欠であることを、私たちは決して忘れてはならない。この認識が人々にあるだろうか。更にまたこの人数と人件費及び建物・施設等に費やされる巨額の税金に思いを致さなければならない。このことを私たちが冷静に考えれば、生きた人間を天皇として、しかも象徴と祭り上げる、この日本社会の愚かしさが分かるというものである。

象徴天皇制の語られざる祭祀的側面

 戦前の天皇制と戦後の象徴天皇制との違いで、あまり語られていないことがある。それは天皇制の祭祀的側面である。戦前の天皇制と天皇が執り行う祭祀は不可分の関係にあった。それが戦後の天皇制では、象徴天皇の私事に関わるものとみなされているのである。

 そもそも天皇は皇室では当然、明治以降の国家神道においては「最高の司祭」である。裕仁天皇自身が「非公式」と断わりつつも、戦後も「皇居の中で神道の祭典をやっている」と明確に認めている。つまり皇室内では日本国・国民統合の象徴である象徴天皇を頭とする宮内庁職員が〈祭政一致〉の政=祭りごとを、年中無休で励行しているのである。

 要は戦後には天皇家の私事としての祭祀であっても、日本国及びその民の統合のための象徴天皇の立場から、この私事である神道行事を国民全員に対して独自(恣意・勝手)に宗教的に意味づけて執り行い、自分だけでなく宮内庁職員にも強制してきたのである。

 さらに「お気持ち」メッセージでは、昭和天皇の代替わりの時に起きた「自粛騒ぎ」との政治・社会問題、当時において一定の期間日本社会全般に対して「日常生活を停頓させていた〈困惑の事態〉」が、再発するようなことにならないようにと強く伝えようとした。そして更に明仁天皇は、できればそのための措置・対策を事前に講じてほしいと、率直に語っていた。しかし今後の祭祀については、どうなるかは明らかにされなかった。

 その改善を要する具体例として「殯り」があった。殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されることになっている。戦後においては裕仁天皇や貞明皇后、香淳皇后の崩御の際に設置されている(但し太皇太后は現在の皇室典範にも定められているものの、実際には平安時代末期以降、現れていない)。

 つまり死後13日目に遺体を収めた棺は御所から宮殿内の殯宮に移御され、45日目を目処に行われる大喪の礼や斂葬の儀までの間、殯宮拝礼の儀を始めとする諸儀式が行われる。明仁天皇はこの祭祀が家族にとって大変厳しいと発言した。別の機会に明仁天皇は、火葬を希望するとも述べている。そうだとするとこの祭祀は、今後することができない。

 またよく知られている大嘗祭や新嘗祭を始め天皇家には執り行う数々の祭祀がある。これまたマイホーム主義者のように見られている徳仁皇太子には、相当な重荷となるだろうことは想像に難くない。このことは、まさに祭司長としての象徴天皇の危機である。

 ここでまた余談を一つ。天皇家の紋は菊の紋である。海外旅行に行く人々は、日本国のパスポートの表紙に日の丸ではなく、菊の紋があることを承知しているだろう。なぜ菊の紋なのか? 在外日本公館や靖国神社の門にもすべてに菊の紋がある。菊の紋と日の丸の関係はいかなるものか? 菊の紋と日の丸との関係、天皇家と国体とは一体どのような関係にあるのか? 法務省の見解は、天皇は日本国の象徴であるから菊の紋は国の紋でもあるという屁理屈である。確かにそのような類推はできるが、一体誰が決めたのだろうか。

 この論法でこの事態(現状)を論ずれば憲法が規定した「政教分離」どころではなく、まさに〈現実〉では、祭政一致を国民側に対して実質「強要している」ことなのである。

 これに関わって靖国神社参拝がある。A級戦犯が合祀されてからの裕仁天皇と明仁天皇が靖国参拝を現在拒否している理由を、私たちは明確に認識する必要がある。では国家的な神道神社の「最高の司祭(親裁者)」として、裕仁天皇はそこで何を祈ってきたのか?

 それは自分=天皇のために戦争に動員され、死んで靖国に合祀される運命に追い込んだ、アジア・太平洋〔大東亜〕戦争にだけ限ってもその数三百十万にもなる民草=〈英霊〉に対して、つまりかつての帝国の臣民たちにもたらした「多量死」を「悲しいけれど現実として受容させる」ためである。この裕仁天皇の認識は民草の物とは全くかけ離れている。

 元々この靖国神社の役割は天皇が戦没者(の死という事実)に陳謝・謝罪するために存在したではなく、どこまでも戦争勝利のために「死者を活かそうとする」国家側が戦争犠牲者を取り上げて「慰霊する」神社であった。つまりあの戦争で「朕だけが生き残って申しわけなかった」という陳謝でも謝罪でもない。靖国神社の参拝において裕仁天皇がこの種の陳謝や謝罪をしたら、靖国の靖国たる所以、その存在価値は一気に瓦解するのである。

 したがってA級戦犯の処刑は連合軍が勝手に裁いて出した判決に拠るものではあっても、昭和天皇もその結果を受け入れていた故にこのA級戦犯が1978年10月、靖国神社に合祀された事実は、昭和天皇にとっては大きな衝撃となった。敗戦後にまで生き延びてきた彼の存在理由がその合祀によって全面的に否定される〈靖国神社的な歴史の事情〉が突如、目前に登場したからである。

 だからA級戦犯の合祀は、裕仁天皇にとって「本来的に発揮すべき靖国の宗教的機能」が破壊されることを意味したのである。この因果のめぐり合わせは裕仁天皇自身が一番よく理解している。私たちもA級戦犯の合祀に激怒した意味とその論理が実によく分かる。

 このように天皇は現在でも祭祀を行っている。それも天皇家の私事として行っているが故に、日本国民には決して充分にはその祭祀の全貌が認識されてはいないのである。

すべての矛盾は人間天皇を象徴として日本国憲法に書き込んだことが原因だ

 すべては人間天皇を象徴として日本国憲法に書き込んだことが原因である。シンボルが単なる旗ならば、古くなれば捨てて新しいものを準備すれば済むことである。シンボルは天皇だというのなら、まずその天皇を支える組織を作っていなければならない。また本来であればそもそも基本的人権を人間天皇にも保証しなければならず、保証しないのであれば門地云々の廃止・全ての人間は平等であるとの規定は、天皇を除外した時点で全く意味をなさないものに転化する。既に多くの人々は天皇にも人権があると考えているようだ。

 かくして私たちは、今後の象徴天皇制に対する基本的態度をしっかりと確定することができる。

 それは象徴天皇制を廃止することである。そして象徴天皇等にも基本的人権を認め、姓を認めて職業選択の自由と移転 ・居住の自由を保障して、彼らの幸福追求権を認めることである。したがってまた神道の祭司長としては、勿論私事としてその就任を認めるが、国庫補助は廃止して、運営のすべては本人のまさに自由意思に委ねられるべきである。

 その際、この事に関わって明治以来、手厚く天皇と皇族を守ってきた皇室経済法の廃止と皇室費・宮内庁費と皇宮警察費の予算廃止に向けて徹底的に論議すべきである。(直木)案内へ戻る


  読書室 白井聡氏著『戦後政治を終わらせる 永続敗戦の、その先へ』 NHK出版新書

 NHK出版のセールス・トークには「現代日本政治、その劣化の起源を辿る。いまだ敗戦を否認し続けているために『対米従属』を続けざるを得ない日本。『永続敗戦論』で一躍注目を浴びた著書が、占領下から55年体制の成立、冷戦後の混沌から現在まで、日本政治の70年を鋭利に考察、近代資本制社会の行き詰まり、排外主義、反知性主義の横行などの世界的な潮流をふまえながら、真の『戦後レジームからの脱却』の道筋を描く。戦後政治を乗り越えるための羅針盤!」とある。さすがに見事な本書の要約である。

 この本の目次と全277頁の中での各章のそれぞれの開始頁を以下に紹介する。なお章内の小見出しは、紙面の関係から特に重要なものに限って記述したのでご了承下さい。

はじめに 3頁
序章 敗戦の否認は何をもたらしたか 11頁
  敗戦の否認と、その起源および帰結
  「永続敗戦レジーム」を《保守》する安倍政権
第一章 五五年体制とは何だったのか―「疑似二大政党制」の構造的実相 45頁
  五五年体制の地政学的条件
  現実に対応できなかった社会党
  社会党の凋落とネオ自民党の誕生
第二章 対米従属の諸相(1)自己目的化の時代へ 79頁
  経済的にも政治的にも「失われた」二〇年
  対米従属の原型としての占領期
  対米従属の時代的三区分
第三章 対米従属の諸相(2)経済的従属と軍事的従属 109頁
 1 経済領域における対米従属
  年次改革要望書からTPPへ
 2 日米安保体制の本質
  安保体制の起源としての昭和天皇
  新安保法制をめぐる対立点
  手続き論・本質論をどうとらえるのか
  なぜ対中脅威論に頼るのか
  ブレるアメリカ
  安保体制が守っているもの
 3 ポスト安保体制
  マハティールと廣松渉
第四章 新自由主義の日本的文脈 177頁
  新自由主義の席巻
 1 新自由主義の思想史的考察
  ケインズ主義とその落日
 2 日本的劣化―反知性主義・排外主義
  旧右派から新右派へ
  不良少年たちの逆説的状況
  庶民1と庶民2
  ポピュリズムから排外主義的ナショナリズム
  大衆の変質
  トランプ現象
 3 「希望は戦争」再び
   国家に寄生する資本
   「成長戦略」としての戦争
終章 ポスト五五年体制へ 241頁
   民主党政権への失望
   延命を図る永続敗戦レジーム政治的最先端地域としての沖縄
   政治革命―永続敗戦レジームを失効させる
   社会革命―近代的原理の徹底化
   精神革命―大初(はじめ)に怒りあり
関連年表 270頁

 この本は先月号のワーカーズの読書室で取り上げた『「戦後」の墓碑銘』の出版後、2016年4月に出版された白井氏の新書である。その表題からも分かるようにこの本は、私たちが日本の戦後政治を終わらせるための白井氏からの具体的な提言がなされている。

 この本の読者には左記の各目次の確認をする中で本書の構成を理解するとともに、各章への頁配分をぜひ確認していただきたいと私は考える。大雑把に捉えればはじめには8頁、序章は第一章は34頁、第二章は30頁、第三章は68頁、第四章は64頁、そして終章は29頁である。この各章への頁配分にこそ、白井氏の書きたいことが集約される。

 つまりこの本の中で白井氏が力を入れて暴露したかったのは、対米従属の経済的従属と軍事的従属的側面とその構造下での急激に導入された新自由主義の席巻による日本社会の劣化の悲惨さの提示である。紙面の関係から、これらの指摘の具体的な論評は控える。

 そもそも日本の戦後政治は、敗戦により解体した帝国陸海軍に代わって昭和天皇による安保体制の導入と米軍基地を沖縄に置くことで大きな枠組みを与えられたことに始まる。

 こうして戦前の国体は戦前の「天皇制」から「星条旗+小さな日の丸」へと変化して、更に安倍政権により「米日軍事同盟」は当否検討無用の絶対的「永続敗戦レジーム」として延命した。この局面下、右翼政治家・官僚・メディア等のすべてが安倍政権に対し絶対的忠誠を励んで競争するまでになり、これが日々に劣化し続ける現在の日本の姿である。

 この日本を憂える白井氏は、安倍総理が「戦後レジームからの脱却」を訴えるのに対して終章で真の「戦後レジームからの脱却」の道筋を描き出す。今必要なのは民主党挫折の原因把握である。白井氏はその原因が単なる経験不足ではなく希望と覚悟の不足だとする。この政治的覚悟の不足から民主党が「永続敗戦レジーム」のメカニズムに巻き込まれて第二自民党化していったと結論づけ、新たな政治的対抗軸を作るべきと白井氏は提起する。

 この対抗軸は新自由主義を打倒する勢力であるとし、今現在沖縄で闘われている「永続敗戦レジーム」を拒否する勢力そのものと捉えつつ、また政府から提起されている選択肢そのものを拒否するとの意味では、全国的な闘いの縮図だと白井氏は捉えるのである。

 かくして白井氏により提起された3つの革命とは「永続敗戦レジーム」を終わらせるために必要な政治革命、社会革命そして精神革命である。政治革命とは「永続敗戦レジーム」を失効させることであり、社会革命とは戦後憲法に書き込まれている基本的人権等の近代的原理を社会全体に貫徹させることである。自民党が提起する新憲法改正草案にはこれら近代的原理を制限する姿勢が明確なので、まさに対決軸なのだ。そして最後の精神革命とは本書に「大初に怒りあり」とあるように、自らが自らを隷属させている状態から解き放たれるには「永続敗戦レジーム」下の巨大な不条理に対する怒りの爆発を不可欠とする。

 そしてこの怒りの爆発で起こる、「来るべき嵐だけが、革命を革命たらしめる根源的な力として、私たちが信じることのできるものなのです」と白井氏は結論するのである。

 まさにマルクスが指摘したように我らの人間性を取り戻すのは怒りなのである。(直木)案内へ戻る


  更科功著『絶滅の人類史』NHk出版新書・・人類の平和的・共同的本姓の一解明

人類史にかかわる大発見が続いている。ホモサピエンスがネアンデルタール人と交雑したというトピックも、もはや新しいものとは言えない。この発見や研究の急進展は、遺伝子学、脳科学、考古学の諸発見、すべてに係るコンピューター技術の向上がもたらした。

 こんな時代に人類史の概念を革新するのにはよい機会だと思うが、反面、似非科学的な『サピエンス全史』(ハラリ著河出書房)などといったものがもてはやされることにもなる。(まとめて批判する値打ちもない)

 そんな、いわば人類史ブームの中で、『ホモサピエンスが生き残った理由は「頭が良かったから」ではない!?『絶滅の人類史』著者に聞く【本の引き出し編集部】』という書評をネットで読んだ。

★「人間は平和的な生き物」(更科氏)

 実は、私も『絶滅の人類史』を読んでおり、最近ものではかなりまともな書物だと評価していた。のでこんな「書評」には違和感があったので取り上げてみます。(書評の)表題もそうだが、書評のリード部分に以下のようにある。そしてインタビュアー兼書評氏は短い書評の中で最後まで「ホモサピエンスとネアンデルタール人問題」に関心を集中させている。このアプローチは適当とは言えない。浅薄だ。

「『サピエンス全史』のヒットにより、多くの人の関心を集めるところとなった〈人類の歴史〉と〈私たちのこれから〉。今回は、著書『絶滅の人類史』で「ホモ・サピエンスはネアンデルタール人よりも頭が良かったから生き残った」という従来の常識を覆した分子古生物学者の更科功さんに、その真意をお聞きしました。」(「本の引き出し」より引用)。

もちろん種の命運は「頭の優劣」かでは決まらないだろう(そもそも頭の優劣とは何だろう?)。「絶滅の人類史」(更科功)の本質的に重要な点は「人類は平和な生物」という視点を強調して本書を展開したことにあると思う。世界的ベストセラー『サピエンス全史』が、サピエンスだけが到達した「認知革命(言語や共同幻想=虚構)」とやらでネアンタール人を駆逐し勝利を収めた・・うわべだけの説明をしている。この点を意識した(対置した)のはその通りだが、更科氏の主張の中心がサピエンスVSネアンデルタール人と歪曲されてはならない。サピエンスが進化的に獲得した「平和的・共同的」本性はパン属(チンパンジーなど)の共通祖先から決別した、ホミニンの元祖たちもまたその流れの中にあった。数百万年以前から牙(きば、犬歯)の縮小などの根拠で、内部対立の除去?共同性の拡大?社会の内包的・外延的拡大への成功につなげてきた。こうした流れ(「進化戦略」などと言うのだが)のなかでは、アルデピテクス属、アウストラロピテクス属、ホモ属が分岐的進化を進めてきた。ホモ・ネアンデルタール人やホモ・サピエンスはより高い社会性を得たということは確実である。個体として「頭が良い」と言う問題にそもそも還元すべきことではない(脳は社会から切り離されれば、単に浪費的臓器に過ぎない。)。それは多様な人類(ホミニン)の高い社会性と共同性を担保するために発達してきた機関(臓器)であり、脳は(中核としての前頭連合野)社会的行動の調整や安定、協同力の高まりの縮図なのである。だからこそ脳は少しずつ、ホモ属になってからは加速度的に大きくならざるを得なかったのである。ちなみに『サピエンス全史』の著者ハラリ氏は「なぜ脳が増大したのかは分からない・・」としている。これではサピエンスもネアンデルターレンシスもそもそもホミニン全体の流れを理解できず、サピエンスの本質も理解できないことになる。

★集団内での軋轢の軽減・除去は協力・共同行動を解き放った

更科氏は、二十一世紀に次々と更新された科学的データを独自に評価し(おおむね適切に)、ホモサピエンスにいたるホミニン全体の進化の流れの中で、人間の共同的でおおむね平和的な自然的本姓を描き出そうと努力している。これが『絶滅の人類史』の核心部分だと私は理解した。冒頭の「ネアンデルタール人とのかかわり」は上で述べたように、その一例でしかない。

 それゆえに氏は人系統(ホミニン)の進化における「牙」の喪失や家族の生成などについては系統的に解釈を加えている(学術書ではないのであっさりとしているが)。その理由は、集団内部でのメスをめぐるオスの闘争の軽減と止揚である。同時に私見を付加すれば、集団内の位階制(αメール=ボス)の緩和と止揚でもある。「止揚」などと言う哲学概念を用いるのには理由がある。

 これは「家族の形成によるオス同士の闘いの縮小」にとどまらないからだ。それは別なものに転化する。内部の融和がもたらすものは、集団内部成員の相互対等性の実現であり、協力・協同関係の拡大であり、さらにいえば婚姻制度の形成による他集団との平和的関係構築でもある。ホミニンの歴史の中で、協力共同関係の確立と外延的ネットワーク形成は、もっとも顕著なものとしてホモ・サピエンスの進化的特色といえるのだ。ひいきの引き倒しにならないように、ここでは更科氏の物足りなさ、に論及せざるを得ない。更科氏は集団内平和を強調する。
しかしこの平和は「争いがない」と言う消極的な点にとどまってはならない。争いの原因を除去(封殺・削減)することでホモ属らが持つ本来的協同関係を解放した、と言うことでもある。対立と暴力の原因を除去することで協力・共同行動はしっかりと社会に根付き集団は質量ともに拡充されたのである。

★「平和的な生き物」はなぜ戦争の殺戮に赴くのか

もちろん、更科氏が「人間は平和的な生き物だ」と言えば、卑俗な反論は必ずある。「人間くらい殺戮の多い動物はいないのではないか」「太平洋戦争でも二千数百万人が死んでいる」・・。確かにとりわけ近代国家が組織する戦争は残忍だ。大量殺戮に満ちている。しかし、これは人間の進化的に準備された自然的本姓として平和的であることを覆すものではない。更科氏に代わって反論しておきたい。

 イラクとアフガニスタンの戦争の帰還米兵は200万人以上いるが、6500人が自死し、さらに米国国防総省に近いシンクタンク・ランド研究所によると、60万人が、戦地で経験した戦闘や破壊の恐怖から心的外傷後ストレス障害(PTSD)などを患っている。日本でも同じことが確認される。イラク特措法によりPkО出征した自衛隊員の自死率は、一般の14倍だという! この意味するところは、人間が戦争と言う野蛮な行為に適合しにくいもだということを示している。

 このような「殺戮に不向きな」人間を戦場に送り込む強制システムこそ、国家機関である。その機能を挙げよう。
①愛国イデオロギーによる殺戮の正当化。
②上意下達・ヒエラルキー的な軍隊組織に人を閉じ込めること。
③それらの経済的基礎としての租税(ないしは赤字国債)。

われわれが根本において国家(とそれを支える支配階級)に反対し、廃絶を展望するゆえんである。

★科学的でない『サピエンス全史』

さて、ついでなので世界的ベストセラー『サピエンス全史』(河出書房)についても一言。この書は、まさにフィクション=虚構であり、何ら科学的な根拠づけを持たない。「認知革命」しかり、「農業革命」しかり。「科学革命」しかり。国家の形成やその諸権能、経済組織への理解に欠けおり、個々に科学的解明を果たすべきところで「虚構」という無内容な単語に逃げ込むだけで何も意味しない。宗教、神話、国家・帝国、経済・貨幣制度・・すべては虚構だと。真ならば、その実在的土台の系統的で発生的な分析が求められるのに、それらへの貢献は見られない。

 更科氏が専門家としての立場から、俗見を退けて人間の自然的本姓を平和的であると示していることは大いに意義のあることです。人間社会、市民社会の連帯の基礎を少しでも明らかにしようとしているからです。(阿部文明)


  何でも紹介・・・沖縄の新聞から

「琉球新報」「沖縄タイムス」の二紙は、詳しい基地関連等の記事と同時に、様々な興味深い記事もたいへん多い。その中の2つを紹介する。

1、なんくるないさー

「ちゅにんじんや、ちゃー、まくとぅそーけーから、なんくるないさ」人間は、いつも誠実であれば、道は開けるよという意味。
1954年那覇生まれの、具志堅隆松さん(ボランティア遺骨収集団体「ガマフヤー」代表)の祖母がよく言っていた言葉だという。子どものころから、山の中に遊びに行くと鉄兜をかぶった頭蓋骨や人間の骨をよく目にしていた。28歳の時、初めて遺骨収集活動の応援を頼まれ参加したが、あまりにもショックで「次はもうやらないだろうな」と思った。ところが二度目の応援を頼まれた時に目にした、戦没者の母親と思われる人の姿が、その後もずっと続けるきっかけとなったという。

「さらさらとした冷たい雨の中を、熊手を手にカッパを着て、肩をヨタヨタと左右に揺らしながら山を登ってゆく」母親のその後ろ姿を見て、若くて体力のある自分のほうが、たくさん遺骨を見つけられるはずと。

今日も続ける、遺骨を見つけて、DNA鑑定をして遺族のもとに返すという作業だが、遺骨を探す作業よりも、国(厚生労働省)との交渉の方がむつかしいと感じていると言う。そんなとき、祖母のこの言葉を必ず思い出すと。

私も含め安易に「なんくるないさ」と口にするが、その言葉の前には「まくとぅそーけーから」が必要なのだ。(琉球新報 1月17日より)

2、悔恨とは

沖縄戦で80数名の「集団自決」(集団強制死)者を出した、読谷村のチビチリガマを昨年9月、4人の少年が損壊し、逮捕され保護観察処分受けた。取り調べに「チビチリガマの歴史を知らなかった」と答えたと言う。

今年1月下旬、保護観察所のプログラムの一環として、少年達は保護司らと共にガマを訪れ、周辺に制作した仏像12体を設置したという。遺族会や、彫刻家の金成実氏(79歳)たちの協力のもと、今後も壊された像の修復作業に取り組んでいくと言う。

断罪、切って捨てることは簡単かもしれないが、この例のように大人達も少年と共に罪と向き合い、受け止め、共に修復してゆく行為に心が打たれた。(琉球新報 1月26日)
 
たとえひと月だけでも、沖縄の新聞を読んでみませんか?台風が来ると3~4日配達が止まり、あとでまとめてどっさり届くという欠点はありますが・・・。(澄)案内へ戻る


  コラムの窓・・・マイナンバーはイケン!

 マイナンバーは違憲だという訴訟が全国で行われていて、私は大阪訴訟に原告として参加しています。大雨が続いたあとの猛暑が続く7月19日、この裁判もいよいよ焦点が絞られてきた感がありました。①費用対効果、②捜査における番号利用についてですが、どちらも被告・国側はごまかしに終始しています。

 ①について、被告は「本件の争点は、あくまで、番号制度によって原告らの権利または利益に具体的な危険や侵害が生じるか否かであり、制度の運用等にかかるコストは、本件の争点と全く関係がない」と言って逃げています。ところが、「行政機関が行う政策の評価に関する法律」で費用対効果を示すことが重要だとあり、これは「地方公共団体は、その事務を処理するに当つては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最少の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない」(地方自治法第2条)という規定と同様のもののようです。

 これまで、番号制度の効果として示されてきた税収増2400億円の試算が、効率化によって浮いた1980人を滞納の徴税に当たらせたら一人1・23億円徴収できるという噴飯もの。検討するのもあほらしい試算です。さらに、最近まとめられた〝効果〟をみると、住民票の提出が必要なくなるとして、役所までの往復の交通費、かかった時間分の時給、住民票の交付代金を集計(機会費用)しています。まるで漫画です。

 さらに、マイナポータルを利用した子育てワンストップサービスによって機会費用・国民118億円、事業者53億円の効果があるとしています。子育てに関するサービスは出生届の折りについでにするとか、対面が必要とかで、マイナポータルが役立つ可能性は低く、多くの自治体が日本郵政に委託しているそうです。そこでは、申請書をプリントアウトして書留で送っているとか、もう何をやっているのかわからない状態です。

 ②については、押収したもの等に個人番号があっても抹消する必要はないとされていたのが、「その入手した目的である刑事事件の捜査に必要な限度を超えて個人番号を利用した名寄せ等を行うことは認められない」となり、これでは〝捜査に必要な限度〟で利用できるとなります。

 さらに今回、原告側から第189国会での福島みずほ議員の質問趣意書と政府の回答が甲号証として提出されました。質問は「刑訴法197条の捜査関係事項紹介において個人番号により紹介することが認められるか」で、結論的にはその目的達成に必要な限度で利用できる。他の刑事事件捜査のために利用できるかは、できないとは明言できないといういい加減なもです。

 警察による個人情報の取り扱いは、指掌紋自動判別システムの存在やDNAなども含め、集めたものは捨てることはないでしょう。12桁の番号は個人情報を名寄せするカギであり、これを利用しない手はないと警察は手ぐすねを引いているのです。その先にあるのはプロファイリング、その蜘蛛の糸に引っかからないよう注意したいものです。 (晴)

次回、第11回口頭弁論は10月18日(木)午後2時、大阪地裁202大法廷です。案内へ戻る


  「エイジの沖縄通信」(NO52)

1.砂川闘争から沖縄・横田へ

 7月15日、東京で「伊達判決59周年記念集会/砂川闘争から沖縄・横田へ」が開かれた。

 この砂川闘争とは米軍立川基地拡張反対闘争の事で、1955年に日本政府は予備測量をしようとしたが、地元農民・住民が反対闘争に立ち上がり、それを支援する労働者や大学生が多数支援した反基地闘争となる。その時に「土地に杭を打たれても、心に杭は打たれない」の言葉が大変有名になる。

 1956年に本測量が始まり、大量の機動隊が動員され労働者・学生部隊と大衝突し1000人以上の怪我人が出て「流血の砂川」となる。結局、政府が測量中止を決定。

 1957年には、立川基地内の土地返還を求めた地主の訴訟に対する政府の強制収用に反対する運動が始まり、支援の労働者・学生が基地内に阻止行動で侵入。測量は中止となる。

 しかし7月8日、基地内に測量阻止で侵入した労働者・学生23名が安保条約に基づく行政協定に伴う「刑事特別法違反」で逮捕される。うち7名(労働者4人と学生3人)が起訴される。

 総評を中心とする大弁護団が結成され、「米軍基地は違憲」と主張する憲法裁判に発展する。

 1959年3月30日、東京地裁で「駐留米軍は日本の戦力にあたり、指揮権管理権が日本側にある・なしにかかわらず憲法9条に違反する」として被告7人全員無罪という画期的な判決が出る。これが裁判官の名前をつけた有名な「伊達判決」である。

 1960年の安保改定を進めていた日米両政府は驚き、4月3日東京高裁を飛び越え、直接最高裁で判決を出す「跳躍上告」を行う。

 1959年12月16日、異常な早さで最高裁判決「駐留米軍と憲法に触れず統治行為論により憲法判断をせず。駐留米軍には日本の指揮権管理権はなく戦力にあたらない」を出し、一審判決を破棄し差し戻して、やり直し裁判が始まる。

 結局、1963年最高裁判決「被告7人有罪・罰金2000円」で刑が確定する。

 それから約45年後、ジャーナリストの新原昭治氏が米国国立公文書館で、砂川事件が最高裁に係属中の時に田中耕太郎最高裁長官が米国駐日大使マッカーサーとの間の密約などの記録文書14通を発見。

 元被告の土屋源太郎さん達は、昔の学生運動の仲間や市民団体の人々に呼びかけ、2009年3月3日に「伊達判決を生かす会」を結成し、この密約を追求する闘いに立ち上がる。

 3月5日内閣府・外務省・法務省・最高裁に情報開示請求を行う。しかし、いずれも「文書は存在せず」として不開示。
 弁護団との相談後、2014年6月17日東京地裁に元被告の土屋さんら4名が再審請求人として再審請求を提出する。安倍内閣は集団的自衛権行使への解釈変更を閣議決定し、その法的根拠に砂川事件裁判を悪用する。

 2016年3月東京地裁で再審請求棄却。2017年11月東京高裁でも棄却。そして、現在最高裁に特別抗告中である。

 1960年代は米軍基地は本土80%・沖縄20%であり。1950~60年にかけ、本土各地で米軍基地の撤去を求める闘いが広がり、砂川闘争はその中心だった。

 この砂川闘争を闘った土屋源太郎さんは「本土の米軍基地は一部撤去・縮小されたが、その多くが沖縄に移設。その阻止闘争はきちっと闘われず、悔いと反省が今も残る。沖縄県民に危険・苦しみを負わせた。辺野古新基地反対、沖縄基地反対闘争は全国の課題だ。本土の闘いをもっと広げるべきだ」と述べている。(富田 英司)

2.辺野古工事いよいよ重大な局面に

 翁長雄志知事は沖縄防衛局が予定する8月17日の埋め立て土砂投入前の埋め立て承認撤回について「私の責任で判断する」と述べてきた。注目された23日(月)に撤回の時期について明言しなかった。

 なお、地元の市民団体は沖縄県謝花副知事と辺野古の埋立承認「撤回」の問題について面談している。

 その面談内容について「チョイさんの沖縄日記」は次のように報告している。

 『副知事は次のように述べた。17日に県が防衛局に出した文書は、工事の即時停止を求めたもので、「撤回」に向けての最後通告だ。8月17日の土砂投入は、間違いなく「環境への看過できない事態」だ。その前には「撤回」をする。8月17日には間に合うようにする。「撤回」の表明と聴聞に向けた手続の開始の日については、知事の権限なので私が言うことはできないが、7月中には行なう。7月を超えることはない。

 辺野古崎近くの②-1工区の外周護岸が繋がり、海が仕切られてしまったという連絡が入った。知事は承認「撤回」に踏み切る。辺野古はいよいよ重大な局面に入っていく。』

3.また突然にゲート前フェンスを設置!

 沖縄防衛局はゲート前の座り込みをする県民を排除するために、また突然と工事用ゲート前に新たなフェンスと歩車道の境界(ゲート前の歩道は幅1mもない)に水タンクの「交通規制材」設置した。

 機動隊の排除は従来のように正面から排除出来ず、両側からしか排除出来ず、機動隊もまどろっこしい排除行動になっているようだ。

 それでも機動隊員らは暴力的な規制を続け、歩道に設けた仮設の「檻」に座り込み県民を閉じ込めていく。この炎天下、機動隊は県民を「檻」に閉じ込めている。(富田 英司)案内へ戻る


  色鉛筆・・・140万人のボランティアが支えるイタリアの市民安全省

 西日本での大水害は200人を超える死者を出してしまいました。私の住む西宮市でも、市内の中心部を流れる川の水位が、7月6日(金)の昼頃に氾濫警戒水位に達したことをラジオで知りました。毎週金曜日に参加している関電本店前の抗議行動は、自主的判断で止めることにしました。それにしても考えさせられたのは、、自然界が容赦なく降り続ける雨に、ただ何の手立てもなく受身的にしか対処できない人間のちっぽけな存在でした。

 タイトルで紹介したイタリアの市民安全省ですが、常設されている国の省で職員は750人。大災害発生時には、大会議室で1時間以内にトップの会議が招集されると、法律で規定されています。国・州・県・市が一体となって災害に向き合い、実働部隊が140万人の登録ボランティア団体です。何らかの専門性を持っていて、2週間のボランティア活動を法律で保障し、交通費などの実費は国費で支給されます。登録者は年齢も幅広く、学生から高齢の90代で山小屋を営む男性など、共助の精神は社会のあり方が反映されているのでしょう。

 日本と同様、地震が多発するイタリアの震災復興の例は、現在、神戸市・西宮市で「借上復興住宅」追い出し裁判で、被災者を弁護された塩崎賢明氏(神戸大学名誉教授)が集会で報告されたものです。東日本大震災復興基本法は、東日本大震災からの復興の円滑かつ迅速な推進と活力ある日本の再生を図ることを目的とする、とあります。そこには、被災者への生活支援施策は二の次とされ、経済的な復興こそが重視されているのです。

 塩崎氏の提言する、今後の被災者支援のあり方は、住宅の被害程度で支援内容が決まる仕組みでなく、生活被害の実態にあった制度をつくること。これは、80歳を超える被災者の住宅からの追い出しは、生活被害の実態を無視した人権侵害であることを明確にしています。おにぎりとペットボトルのお茶ではなく、ワイン付の温かい食事を、体育館ではなく、個室の簡易テントを。被災者の生活を大切にした支援を私たちの手で作り出して行きたいと思います。市民の意識改革が制度を変えていくのです。(恵)案内へ戻る