ワーカーズ588号 2018/11/1
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憲法改悪 辺野古新基地を強行しようとする安倍政権を退陣させましょう!
森友・加計問題は終わっていない! 安倍総理や昭恵夫人の関与は明らか!
10月24日に召集された臨時国会、森友学園、加計学園を巡る問題に対し、昨年の国会以来安倍総理はこの問題での自身の関与を否定し続けていますが、依然として説明は尽くされていません。森友学園問題では、大阪府豊中市の国有地が、地下の廃棄物撤去費として約8億円値引きされ、森友学園に売却されました。今年3月に発覚した財務省による決裁文書の改ざんなどあれだけの不祥事があっても麻生太郎財務相は内閣改造後も留任しています。
安倍総理の友人である加計孝太郎氏が理事長を務める加計学園の獣医学部新設を巡る問題では、当時の首相秘書官が2015年4月に首相官邸内で、愛媛県や同学園の関係者と面会したことが県の内部文書で明らかになりました。また、同県作成の文書には15年2月25日、首相が加計氏と面会し、「新しい獣医大学の考えはいいね」と語ったと記されていました。
これに対し安倍総理は面会自体を否定し、加計氏も10月7日に2度目の記者会見を開き、学園の事務局長が「勇み足」で首相との面会を偽って県などに伝えたと釈明しました。だが、会見で加計氏が愛媛県文書を「見ていない」と語りました。
片山さつき地方創生担当相の口利き疑惑をはじめ新閣僚らの資質を巡る問題が出てきています。
安倍総理は10月24日の所信表明演説で、来年10月からの消費税10%への引き上げを明言しました。低所得者に負担が重い消費税を増税するなどもってのほかです。大企業への法人税の減税を止め、所得税の累進課税を強化し金持ちから税金を取るべきです。
安倍総理は改憲について、「(衆参の)憲法審査会で政党が具体的な改正案を示すことで、国民の理解を深める努力を重ねる」と述べ憲法9条に自衛隊を明記しようとしています。まさに、戦争への道です。
こうした安倍政権に対し、9月30日に行われた沖縄知事選では、辺野古新基地建設反対の玉城デニーさんが勝利しました。また、10月21日に行われた那覇市長選でも、辺野古新基地建設反対の城間幹子さんが勝利しました。
これに対し防衛省は、10月17日辺野古埋め立て承認撤回の効力停止を行政不服審査法に基づき石井国土交通大臣に申し立てました。
しかし行政不服審査法は、国民の権利救済を目的としており国の機関に「固有の資格」がある場合不服申し立てできません。今回のケースは、「固有の資格」があるのではないでしょうか。
10月9日の翁長前沖縄県知事の県民葬に出席した、菅官房長官の安倍総理の追悼の辞を代読し終わると会場から「嘘つき!」「帰れ!」「いつまで沖縄に基地負担を押しつけるんだ」「私たちの願いを聞いてください!」と怒声が響きました。当然です。安倍政権は、沖縄県民の声を聴き辺野古新基地建設を止めるべきです。
民衆の意見を聴かない安倍政権を、退陣に追い込みましょう。(河野)
外国人労働者の受け入れ拡大は何をもたらすか? 「骨太の方針」の背景と問題点
●はじめに
安倍首相は10月24日、臨時国会の所信表明演説で「即戦力となる外国人材を受け入れる。入国管理法を改正し、就労を目的とした新しい在留資格を設ける。出入国管理庁を設置し、受け入れ企業の監督に万全を期す。社会の一員として、生活環境の確保に取り組み、日本人と同等の報酬を確保する。」と述べ「外国人労働者の受け入れ拡大」を表明しました。
これは6月15日、経済財政諮問会議による「経済財政運営と改革の基本方針2018」(骨太の方針)の閣議決定を踏まえたものですが、それは「移民政策ではない」としつつも、実質は「家族帯同」を一部認め、その意味では「なし崩し的に「移民労働者政策」へ大きく歩を踏み出すものです。こうした外国人労働者受け入れ拡大に対して、労働者はいかなる立場で、いかなる闘いを組んでいくべきでしょうか?
●「働き方改革」の積み残し
実はこの「外国人労働者の拡大」は、当初「働き方改革基本法」に盛り込む予定でした。ところが折しもヨーロッパにおけるシリア難民問題が労働者相互の紛争にまで発展するのを見て、もともと外国人労働者受け入れに熱心だった財界が慎重論に転じたため、働き方改革に盛り込むのを見送った経緯があります。
「働き方改革法案」の立案過程を振り返ってみましょう。その骨子は、①過労死・長時間労働をもたらす時間外労働を法的に規制する、②格差・貧困をもたらす非正規労働者の処遇を同一労働・同一賃金で底上げする、③労働力人口の減少に対応し女性・高齢者・外国人の労働参加率向上を促す、というものでした。
ところが、①「時間外労働規制」は抜け穴だらけで、運輸・建設労働者への適用が先延ばしになり、「脱労働時間制」や「裁量労働制の拡大」とセットとされるしまつでした。(裁量労働制は「厚労省のデータ捏造疑惑」外されましたが。)
また、②「同一労働・同一賃金」についても、「基本賃金」の格差は手付かずで、派遣労働者の派遣元との格差について「労使協定」を結べば容認される、抜け道だらけでした。
そして、③「女性・高齢者・外国人」について、女性は「介護・子育てとの両立」を「短時間労働の多様化」にすりかえ、高齢者は低賃金前提の「定年延長」で将来の年金受給年齢の引き上げの呼び水にされるありさまです。
こんな調子ですから、外国人労働者についても、現在の「出稼ぎ留学」を助長する制度や、劣悪な「技能実習生」制度に、手をつけることもなく、議論は「棚上げ」とされてしまったわけです。
こうして「働き方改革」では棚上げされていた「外国人労働者の拡大」ですが、当初ヨーロッパの難民問題を見て慎重だった財界も、足元の「人手不足」の解決をせまる建設・農業・介護など各業界の圧力を背景に、改めて今回「骨太の方針」の中で打ち出したというわけです。
●「骨太方針」の問題点は?
今回の「骨太方針」の端的な問題点は、大幅な外国人労働者の受け入れが事実上の「移民労働力」政策への転換の性格をもつにもかかわらず、「移民政策ではない」と否定しているため、移住労働者が必然的に伴う「家族」の問題に対して、「国」として責任ある対応を回避したまま、「自治体」の多文化共生施策に丸投げ(責任転嫁)していることです。
外国人労働者が「家族を帯同」して移住してくれば、労働者本人の労働者としての諸権利(賃金・労災・寄宿舎・社会保険等)だけでなく、配偶者の生活・言語・仕事、子供の保育・教育・進路、老親の医療や介護などの課題が、次々と生じてくるのは当然です。これらに必要な行政・学校における通訳や医療通訳者の養成も全くニーズに追いついていない現状です。
これらの諸施策を軽視すれば、住民生活における様々なトラブルが続発し、ひいてはヨーロッパのような排外主義的を伴った紛争につながる可能性も否定できません。
これについて、外国人労働者支援団体関係者から、いくつか重要な指摘が上がっています。それは、①当面の労働力不足の対応にとどまり、包括的な中長期的視野での外国人労働者政策が提示されていない。②国内労働市場との軋轢を避けるための量的なコントロール手段(「労働市場テスト」、「職種・地域別のクオータ制」等)が講じられていない。③業種別の受入れ方針では関係省庁と業界団体にまかされ、日本語能力や技術水準が確保されない。④「悪質な紹介業者の介在を防止する」具体的な規制方法が不明(韓国の「雇用許可制度」は募集・採用ルートを政府間に限定)。⑤出入国管理や在留管理に当る「法務省」受入れ環境整備に当るのは心理的抵抗を生じさせる。⑥今以上の「在留管理体制の強化」では息苦しい社会になってしまう。⑦「移民政策ではない」とするため社会統合政策が希薄、日本語能力の習得について国の責任が不明。等、多岐にわたります(自由人権協会・旗手明氏「日本社会は分水嶺を迎えている・骨太の方針がもたらすものは?」Migrants Network 200号 2018・10より)
●在住労働者と移住労働者との共生へ
こうした「骨太の方針」に対して、「なし崩し的移民政策ではないか?」と追及するだけでは、今や決定的に不十分と思われます。
資本主義社会は、一方では「国民経済」「国民国家」の枠組みを維持しようするため、資本は「国境」や「在留資格」の厳密な管理を要求しますが、他方では「資本」の海外への移転や「労働力」の海外からの移入なども要求するもので、必然的に両者は相矛盾することになります。
このため、労働者の闘いは単純化することは難しいことを自覚しつつ、現実的には「労働市場」の現状を踏まえて、移住労働者に対しては「日本語能力の習得」を保証しつつ、在住労働者の側も「移住者の言語への対応習慣」を身につけるなどしながら、労働者として生活者としての連帯を作り上げていくことが不可欠でしょう。もちろん「言うは易し、行うは難し」です。しかし現実に既に様々な諸地域や諸現場では、困難を乗り越え奮闘する人々がいるのですから、こうした人々の切実な声を政策に反映させる方向で、政府の無責任を具体的に追及していくことが課題と考えます。
そのためには、そもそも外国人労働者の状況がいったいどうなっているのか?技能実習生の状況、留学生の状況、日系人労働者等の状況、在留資格を巡って起きている紛争の状況について、認識を共有する作業も必要でしょう。今現に何が起きているかをしっかり把握し、今後もたらされる諸課題を見すえてこそ、労働者の共生・連帯の未来が見えてくるはずです。(松本誠也)
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〈安倍憲法改定〉改憲の正面突破は許さない!――安倍政権の遺産づくり強攻策を跳ね返そう!――
自民党総裁選で安倍首相の三選が決まり、安倍政権最後の3年がスタートした。
自民党総裁三選後の安倍政権のスタートにあたって、安倍首相は再度憲法改定への意欲を示した。が、三選後の安倍内閣の政権基盤も盤石だとは言い難い。改憲への執着も、政権への求心力を維持するためのものだ、と見透かされた評価もある。
とはいえ、政権を握っているのは、あくまで安倍首相だ。その執着心からすれば、改憲に向けて正面突破の強攻策に打って出る可能性が無くなったわけではない。
最後には国民投票というハードルが待ち構えているとは言え、現時点から安倍改憲を阻止する闘いを拡げていきたい。
◆改憲へのハードル
安倍首相にとって、自民党総裁選での三選は、思惑どうりには終わらなかった。
石破候補を完膚なきまでにたたきのめして対抗馬としての目を潰しておくこと、そのうえで〝安倍一強体制〟を継続したまま、政権運営でのフリーハンドを手にしておきたい、という思惑は、あえなく潰えた。国会議員票では圧倒的な支持を集めたものの、党員票では想定以上の石破支持票が出たからだ。それは自民党国会議員と有権者の乖離を反映したものであり、安倍首相への不信任票ともいうべき意味合いも含むものだった。
それでなくとも、三選後の安倍政権の前には、いくつものハードルが立ち塞がっている。もはや安倍一強だとふんぞり返っている情況ではなくなっているのだ。
第一はモリ・カケ疑惑での安倍首相への不信感だ。世論調査によると、安倍首相の説明に「納得できない」が7~8割もある。
第二は、安倍政権の浮揚手段としてのアベノミクスの賞味期限の消失、つまりアベノミクスが成果を上げないばかりか、ボロが出始めていることだ。
具体的には、物価上昇2%の実現と景気と賃金の好循環がいつになっても実現しないこと、銀行経営の悪化や年金資金の運用難などで異次元金融緩和の副作用が顕在化していること、それに、金融緩和からの出口戦略が見えないこと,要は先行き不安が解消できないことなど、だ。
安倍首相が執着する憲法改定にしても、首相主導による憲法9条に自衛隊の保持を明記する「改憲4項目」の国会発議や、その先の国民投票での成算もはっきりしないままだ。
例えば政権与党でもある公明党の態度だ。山口代表は、憲法改定は野党を巻き込んだ合意形成が必要だとして、与党が多数の議席で強行採決させるという手法を、これまでは一貫して拒んでいる。
次は、総裁三選後の地方選挙で与党系候補が相次いで敗れ、選挙の顔としての安倍首相への信任が揺らいでいることだ。
9月30日投開票の沖縄県知事選、10月21投開票の沖縄県那覇市長選で与党系候補が相次いで敗北。また保守分裂選挙となった10月14日の沖縄県豊見城市と千葉県君津市の市長選挙でも、自民推薦候補や与党推薦候補が相次いで敗れている。10月28日に予定されている新潟市長選でこれまた与党候補が敗れることになれば、安倍政権の今後に暗雲が立ちこめることになる。
そんな安倍政権。政権支持率が底堅いといっても、支持率と不支持率が拮抗している現状に変わりはない。総裁三選後におこなわれた10月の内閣改造でも、支持率は上向かない。果たして莫大なエネルギーが必要な憲法改定に突っ走るだけの支持率を維持していけるかどうかは、まったく見通せないのが実情なのだ。
◆改憲への執着と布陣
それでも安倍首相、総裁三選後の党役員人事では改憲策動への地ならしともいえる布陣を整えた。
まず、衆院憲法審査会の与党筆頭幹事として新藤義孝氏を起用したこと、また自民党の憲法調査会会長に下村博文氏を起用したことだ。いずれも首相側近だ。これまで野党との協調で改憲へつなげようとしてきた中谷元氏や船田元氏を筆頭幹事や幹事から排除したことわけだ。それに、最終的に憲法審査会に自民党の改憲案提出を決定する総務会の会長として、これも首相側近の加藤勝信を起用し、さらに官邸と党の連絡役を担う総裁特別補佐として稲田朋美氏を起用している。
安倍首相は、安倍改憲への手駒として盟友や側近、いわゆる〝お友達〟を多用することで憲法改定への人的布陣を整えた。最後の任期での改憲に向けた安倍首相の執念を、党役員人事として反映させたわけだ。
安倍首相は、10月24日から始まった臨時国会でも、憲法改定への意欲を明言している。ただし、「国民の皆様の理解を深める努力」(10月24日の所信表明演説)に言及はしたものの、臨時国会で改憲発議をするとか、最短での来年参院選との国民投票の同日実施などを含む、改憲スケジュールへの言及はなかった。言葉だけみれば、慎重姿勢を振りまいているだけだった。
とはいえ、その慎重姿勢を真に受けてはならない。仮に来年の参院選で与党が3分の2の勢力を失えば、現在の与党だけでは改憲発議は出来なくなる。なので、確実に与党で3分の2を手にしている来年参院選までの国会発議と国民投票の実施という中央突破方式に舵を切り替える可能性もないわけではない。
自民党総裁選後の状況を見れば、改憲など不可能だとのメディアの分析もある。しかし、そんな分析に頼るのも危険だ。一つの前例がある。小泉政権の郵政解散――郵政民営化だ。
◆〝小泉劇場〟の前例
安倍首相による憲法改定に向けた正面突破の可能性は,まだ消えたわけではない。それには前例もあるのだ。小泉元首相による郵政解散と郵政民営化だ。
小泉政権によるあの郵政民営化は、最終盤で自民党内からも大きな抵抗に遭い、実現が困難視されていた。それを打開したのが、いわゆる郵政解散、その後の刺客選挙、いわゆる〝小泉劇場〟だ。
2005年8月、衆院可決後の参院で郵政民営化法案が自民党議員約30人の造反もあって否決。9月の解散総選挙で自民党は480議席中296議席を獲得。公明党31議席と合わせ327議席、衆院の3分の2以上の議席を獲得し、衆院で再可決可能な議席を獲得することで郵政民営化法案を成立させた政治劇だ。
その〝小泉劇場〟、参院での否決後の衆院解散と衆院での再可決は、国家の意思決定としては筋違いだと批判された。ところが、解散・総選挙で自民党が圧勝した結果、一旦は造反した自民党議員の多数も賛成に回り、郵政民営化は承認されたのだった。これが現実政治の力学であり、ダイナミクスというものだった。
この時の安倍晋三は、前年まで小泉政権で幹事長職を務めた後で就任していた自民党幹事長代理だった。郵政選挙後には官房長官にも就任した。その安倍首相、〝小泉劇場〟の一部始終を目の当たりにしていたはずだ。時と場合によれば、首相による中央突破の威力は絶大なものだとの感慨を持ったとしても、不思議ではない。
安倍首相による改憲策動は、今は追い風を受けている情況にはない。が、首相のトップダウンによる中央突破方式での改憲攻勢で、それが実現してしまうこともないとはいえないのだ。
◆攻防戦は始まっている
来年は天皇の代替わりも予定されている。来年の参院選と改憲を問う国民投票が同時実施されれば、来年5月1日の天皇の代替わり行事が進む時期と改憲の是非を問う論戦が繰り広げられる時期とが重なる。安倍首相としては、改憲を巡っていくら天皇と緊張状態にあるとは言え、有権者の反撥も買うかもしれない参院選と国民投票の同日実施にこだわるのだろうか。
あるいは、任期3年での改憲の実現をめざすとしても、まず来年夏の参院選で与党系候補で3分の2議席を獲得する必要がある。が、その公算があるわけでもない。しかも参院選後の2年間は、安倍首相の任期の末期でもある。改憲という大事業を政権末期で実現するエネルギーが残っているのか、という政権への懐疑心も拡がっている。
とはいえ、安倍首相は、法律や公約を破ることになんの呵責も感じない。政治的な逆境を自身が持つ権力でひっくり返すという、政治的な胆力には自信を持っているとでも考えているのだろう。侮ることは出来ない。
たとえば消費税引き上げの延期表明での「新しい判断」や、憲法で規定された臨時国会の開催拒絶もそうだ。行政機構トップとしての憲法遵守義務も何のその、という改憲への執着でもそうだ。それだけ法律や約束よりも、自身の意向優先、自身の政権延命への執着が際立っている。
現時点では国民世論も憲法改定には慎重姿勢を見せている。9条改訂に絞れば、改訂賛成は少数派だ。改憲の国民投票で敗北すれば、内閣総辞職は必至、10年から20年ぐらいは憲法改定など、誰も言い出せなくなる。
私たちとしては、そんな最後の手段としての改憲国民投票以前に、安倍改憲に反対する世論を盛り上げ、安倍首相の改憲への野望を頓挫させる闘いを拡げていきたい。(廣)
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近年大活躍の櫻井よしこ氏の原点とは―『何があっても大丈夫』を読む
近年大活躍の櫻井よしこ氏のことは皆様ご存じであろう。日本会議等の様々な集会で憲法改正の必要性を叫び続け、安倍総理の応援団・広告塔として講演をしている。それだけではない。LGBTに「生産性がない」の差別発言で一躍時の人になる杉田水脈氏が次世代の党の落選候補で無聊を託っていた所をリクルートで拾い安倍総理に紹介し、自民党の衆議院候補者に仕立て直して当選させたのも、誰あろうこの櫻井よしこ氏なのである。
これら一連の余りにも激しい極右翼的政治活動については、かつて櫻井よしこ氏をリベラルな人だと認識していた人々は、当時と比較してその余りにも甚だしいギャップや落差に呆然として思考停止に陥り、訳が分からずに当惑している人々が多いようだ。
周知のように櫻井氏はベトナムはハノイの野戦病院で出生し、その後日本に帰ってからは大分県中津市に一時住んだ後、母親の実家のある長岡市で中高校時代を過ごし慶応大学に入ったものの、ハワイ州立大学に留学した。そして同大学歴史学部を卒業後は「クリスチャン・サイエンス」東京支局員となった。その後、1980年5月から1996年3月まで日本テレビ『NNNきょうの出来事』のメインキャスターを務めたのである。
ここで余談をつけ加えれば、今は都知事の小池百合子氏も1979年から1985年まで日本テレビ『竹村健一の世相講談』のアシスタントキャスターを務めた。NHK『海外ウィークリー』の幸田シャーミンや野中ともよ、テレ朝『BIG NEWS SHOW いま世界は』の安藤優子より1年早いデビューで、元々フリーから出発した女性キャスターとしては草分け的存在だった。その後、1988年よりテレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代メインキャスターを務めた。そして1990年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞する。つまり小池氏も櫻井氏も大抜擢されてテレビ業界に参入したのである。
この3年後、櫻井氏も1993年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞し、1995年に薬害エイズ事件を論じた『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』(新潮社)で第26回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。こうした経緯の中で薬害エイズ事件を追及された安部英氏が櫻井氏から逃げる無様な映像はテレビで度々大報道された。この時、真実を追求するジャーナリストと逃げ回る事件の中心人物との対比が、恰も「正義」を追求の櫻井氏と「悪の権化」の安部氏との図式ではっきりと明確に視聴者には印象づけられたのである。
薬害エイズ事件は裁判となった。この裁判の経緯については『安部先生、患者の命を蔑ろにしましたね』(中央公論新社1999年10月)を出版する。まるでエイズ事件の追及がライフワークのようだ。しかし1996年、薬害エイズ事件についての著書の記述を巡って安部氏より櫻井氏は、毎日新聞などと共に名誉棄損で訴えられた。その訴訟は一審が棄却、二審で逆転で損害賠償を命ずる判決が出た後、安部氏の無罪判決後の平成17年(2005年)6月に最高裁で再逆転・棄却となり原告、つまり安部氏の敗訴が確定した。このように薬害エイズ事件の裁判で安部氏は無罪になるも、名誉毀損裁判では安部氏は敗訴し、その結果櫻井氏も無罪となった。但し櫻井氏については以下の指摘がなされた 。
最高裁の判決は、櫻井氏の記述が真実であると認めたものではなく、彼女が「真実と信じたことに相当の理由がある」というものであった。安部氏の弁護団は櫻井氏の取材方法は捏造に近いと主張し、櫻井氏は口でこそ反論したものの、判断は受け入れたのである。
この直前から本名(櫻井良子・直木注)ではなく「櫻井よしこ」のペンネームを使用するようになった。つまり薬害エイズ裁判ではそれまで社会から激しく糾弾されていた安部氏が結局無罪判決を受けたことに対応して、櫻井氏は自らの言動を改めたのである。
そして2008年9月20日、エイズ裁判の弁護士だった弘中惇一郎・武藤春光編著の『安部英医師「薬害エイズ」事件の真実――誤った責任追及の構図』(現代人文社)が出版された。こうして櫻井氏を先頭とする「エイズ事件報道は嘘だらけだった」ことが明らかになってしまった。こうした事実は、櫻井氏には実に冷酷かつ打撃だったのである。
薬害エイズ裁判の判決と名誉毀損の裁判の判決の事実によって櫻井氏は、第26回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『エイズ犯罪・血友病患者の悲劇』(中央公論社1994年)という実質的なデビュー作であり、代表作でもある作品を絶版に、1998年出版の中公文庫も絶版にした。この文庫本の解説は、今でもジャーナリストとして優れた活動している広河隆一氏が担当している。その解説で彼は櫻井氏の取材の仕方や日本テレビでのキャスターの仕事ぶりを絶賛している。彼も又彼女の本質を捉え切れず、騙されてしまった人々の一人である。現在、古書価格は両著ともアマゾンではたったの1円だ。
勿論、その後現在までどの出版社も本書を「復刊」や「復刻」していない。櫻井氏は『エイズ犯罪・血友病患者の悲劇』がまるで存在しなかったのように自著では全く触れなくなり、注意深く隠蔽している。何故か。そこに書かれた多くが間違いだったからだ。櫻井氏がこの本を絶版にしたことで一切は終わり、櫻井氏の弁明など全く必要ないのである。
この本について今でも確認の出来るアマゾン読者評の一部を紹介して置く。「真犯人は厚生省の役人だったわけだが、一人の医師を血祭りに上げることで厚生省への批判を避けることができたのは厚生省の役人にとってこの上ない好事であった。櫻井は前代未聞の役人の犯罪隠しに荷担したわけである。姑息にも本書を自ら絶版にし、人々の記憶から消し去ろうとしたこの似非ジャーナリストは、今では嫌韓、嫌中の旗振り役である。www」とある。この評は、彼女のこれらの行動を客観的に的確に評したものといえるであろう。
又このことは櫻井氏等のマスコミによるセンセーショナルなエイズ報道を鵜呑みにして、帝京大学副学長・安部英医師等を犯罪者に仕立てた上で、厚生大臣として患者たちに勝手に「謝罪」しエイズ問題の「解決」の道を開いたのは自分だと、事あるごとに自慢話を繰り返す菅直人氏は、今でもこの「エイズ事件の真実」は知らないままのようだ。
櫻井氏批判に集中するため、この薬害エイズ裁判の判決には深入りしないが、薬害が科学的に解明されてそれを証明する論文が書かれていない内は、最低限の治療さえしていれば医師の責任は問われないと事実上断言した「基本的視点」と安部医師に求められる注意義務は「通常の血友病専門医の注意能力」との結論が導き出されたもので、私としてはまったく容認出来ない。この他にも患者に不利で安部氏に有利に働く視点が目立っている。
さてやっと『何があっても大丈夫』(新潮文庫)を取り上げることが出来る。この本の親本は2005年2月に出版された。内容は2001年に母と二人でベトナムを訪ねた時、ポツリポツリと父のことを語り始めた母の話を書き留めるつもりで書き始めた本である、と櫻井氏は説明している。書名の何があっても大丈夫とは楽天的な母の口癖であった。
本書によれば父・清は、現在の横浜中華街で生まれた。祖父の信吉は腕の良い洋服の仕立職人で祖母のトキは働き者だった。その為、成功して何人もの職人を使っていたという。しかし大正12(1923)年の関東大震災で焼け出され、その後神戸に移っていったのであった。この典型的な三把刀職人の祖父は、当然のことながら華僑であろう。
更に本書では余り知られていない櫻井氏の家庭状況が詳しく書かれ、父母と兄等、父の愛人と父の前妻の子で櫻井氏の姉に当たる人たちとの思い出が綴られている。ここから分かるように、彼女は台湾人の華僑で品行不方正であった父の後妻の子だったのである。
日頃母から父は素晴らしい人だとの説明と現実の父との間にあるギャップにより、青春時代の兄は大きく動揺しグレかかり立ち直るのに大変な時間がかかったのだが、櫻井氏はそれを知った時の本心は隠したままである。一部の読者はそこに彼女の強さを見ているが本当は違った。そもそも何故、何があっても大丈夫との精神で自己を切開できないのか。
父を母を紹介したの台湾でサロンを経営していた松尾夫人であった。母は今で言う美容師であった。母は松尾夫人に気に入られその息子との結婚を嘱望されいたのだが、母は断った。それでも一切拘りなしに変わりなく優しく母に接した松尾夫人であったのである。
これらを読めば櫻井氏の父が華僑で台湾人だとの疑念がわくが、彼女は何故かはっきりと父の国籍は特定しない書き方をその後も続けてゆく。この点に読者は櫻井氏の深いコンプレックスを読み取ることが出来る。しかし自分の出自に何の恥じることがあるというのだろうか。人は親を選べない。まさに生きている限り、何があっても大丈夫なのである。
私が思うに、櫻井氏はこのコンプレックスから逃れるため人知れず人一倍の努力をしていたに違いない。そしてその結果が英語へののめり込みであり、ハワイへの留学であろう。だからこそ、日本人以上の日本人になろうとの必死の努力があったと私は考える。
そしてこの必死の努力が先の名誉毀損裁判の過程で否定され、櫻井氏は深く深く傷ついたことだろう。母と二人で台湾旅行をしたのも、『何があっても大丈夫』を書いたのもその深い鬱屈を癒すための行動であったに違いない。彼女は本当に癒されたかったのである。
勿論、次のステップを目指すためである。しかし次のステップがダークサイドへの転落となった。その努力の方向が生長の家や統一協会を背景とする日本会議への参加になったしまったのは、櫻井氏にとってはきわめて自然な流れであったのだろう。
櫻井氏は現実の日本人の姿から学ぶことなく、理念としての日本人像に迫ったのだが、それまで日本史・日本文化の研鑽に決定的に欠けていた。日本文化論が書けない櫻井氏は既成の右翼思想を受け売りする他、道はなかった。無知は如何ともしがたいものである。
政治に関心がある日本人なら、国家神道は神道一般とは違うことを知っている。だが浅薄な櫻井氏は国家神道の負の側面に無自覚である。青春期に日本を離れ日本歴史の研鑽の機会を怠ってきた深刻な付けが、その時の彼女に国家神道の本質を見誤らせたのだ。
それが『武士道のこころ』を推薦する行動や神社本庁等への急速な接近として現れた。その根拠となる事実がある。その証拠に、2013年12月20日に出版された『迷わない。』(文春新書)では「私は神社のすぐ脇に住んでいます」(同200頁)とある。これを読んだ人は櫻井氏が神社の近くに住んでいると読み取る。勿論、これ以外の読み取りは出来ない。しかしこの表現が現実に意味する誰もが驚愕の事実とは、東京都港区の一等地にある素盞嗚尊を祀る有名な神社、赤坂氷川神社の境内に住んでいることなのである。
確かに神社のすぐ脇に住んでいる事に間違いはない。一私人が宗教法人である神社の 境内に自宅を建てているなどと一体誰が想像できるだろうか。実に想像を絶することである。しかもその家は赤坂氷川神社の木々茂る東側入り口から境内に入ると、社殿の方へと向かう道脇に衝立で囲われた一軒家である。建物は白を基調とした外観の巨大な鉄筋コンクリート造りで表札こそ掛かっていないが、そこが本名・櫻井良子の自宅なのである。
リテラの調査では、登記簿に地上2階地下1階、総床面積約520平方メートルの、単なる一私人の邸宅とは思えない豪邸である。因みにこの建物には建築した2004年の翌年、05年に1億7千万円の根抵当権がついていたが、僅か6年で抹消されている。
勿論、問題はその豪邸が建っている土地だ。登記簿を見ると赤坂氷川神社の所有である。つまり櫻井氏は衆議院議員会館近くの徒歩圏である一等地である赤坂氷川神社の境内の一角を借りて、老母と二人で巨大な鉄筋コンクリートの建物に住んでいる。しかも境内内の建築物は神社本庁の許可、つまり神社本庁の田中総長の裁可が必要なことなのである。
だから次に考えなければならないことは、櫻井氏の評論活動と神社本庁との癒着関係だ。櫻井氏が大分前から全国で約7万9千の神社を統括する宗教法人・神社本庁と一緒になって改憲や歴史修正主義的活動に取り組んできた事は周知の事実である。まさに何かある。
そして2015年2月4日、櫻井氏は『日本人に生まれて良かった』という無残な単行本を出版し、その恥多き人生を総決算する。人は頂点に立ったと思う時、堕落が始まる。まさにこれまでの願望が現実となった白日夢ではないか。今からでも決して遅くない。自分が何故ダークサイドへ落ちてしまったのかを、真剣に反省すべきではないだろうか。
さらに2016年1月からは、全国の神社の境内で行われた憲法改正実現のための「1000万人」署名運動がある。これは神社本庁が改憲団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の運動の一環として行っていたものだが、同団体は神社本庁も参加する日本会議の団体であり、櫻井氏がその共同代表を勤めている事もこれまた公然たる事実である。
したがって人は櫻井氏の神社界(神社本庁)と一体化した言論活動と神社の土地を借りて巨大な建物を建てたこととは、何か深い関係があるのではないかと考えざるを得ない。
当然である。だからこそ櫻井氏は自分が神社の境内に住んでいる事実を隠すのである。
2016年5月2日のリテラでは、「改憲派のリーダー・櫻井よしこは『言論人の仮面をかぶった嘘つき』だ! 憲法学者・小林節が対談を捏造されたと告発」したとの記事を掲載している(https://lite-ra.com/2016/05/post-2206.html)。読者には必読の記事である。
憲法学者の小林節・慶應義塾大学名誉教授は、元々自民党の改憲論議に付き合って来たタカ派の改憲論者である。近年は安倍政権の立憲主義を無視した暴挙に危機感を表明したことで知られ、安倍総理を批判している小林教授だが、櫻井氏の人物像についてこう語る。
「元々民主主義の基本は、正しい情報に基づいて国民が国家の方向性を判断するということです。しかし私に言わせると、安倍政権は嘘キャンペーンを張って、国民を騙しています。そのことで櫻井さんが大きな役割を果たしている。美人で、経歴が良くて、表現力もあるから、一般国民はコロッと行ってしまう。このままでは安倍政権や櫻井さんの嘘に騙されて、国民が判断を誤りかねない状況です」「私の経験から言うと、櫻井さんは覚悟したように嘘を発信する人です」
私も小林教授の意見に賛成だ。だが櫻井氏は変節したのでなく、ただ原点に戻っただけである。この一事を知ることこそ、櫻井氏の現在の言動を認識する核心である。(直木)
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ころさない ころされない ころさせない
このところ、この国の敗戦の日には南京を訪問しています。その目的は、「神戸・南京をむすぶ会」の一員として中国の戦跡、皇軍による虐殺の地をめぐる、いわゆるダークツーリズムです。日程は8月13~20日、南京には毎年8月15日の追悼集会前後に訪れ、16日に湖南省へと移動しました。最終日の20日、調査から上海を経由して関空に戻ってきました。そういえば、13日の中国入国時に10指の指紋を取られてしまいました。
そうしないと、上海・浦東空港から引返さなければならなかったので仕方なかったのですが、昨年は必要なかったのに何と言うことだと悔しい思いをしたものです。社会が進歩すれば国境の壁は低くなるはずなのに、21世紀は退行の時代なのかもしれません。国境なんて、軽やかに飛び超えられる日がいずれ訪れるでしょう。 (折口晴夫)
1.南京
13日、関空から上海へ、上海から南京へは高速道路で向かいましたが、この経路は日本軍が侵攻した経路に近いものです。1937年12月1日、「中支那方面群ハ海軍ト共同シテ敵国首都南京ヲ攻撃スベシ」という大陸令(大本営陸軍部が発する天皇の命令)が発せられ、12月13日の南京占領へと至ります。5月13日、NNNドキュメントで放映された「南京事件ⅱ」は12月16・17日の魚雷営(海軍倉庫)での捕虜虐殺等を検証しています。さらに、「自衛発砲説」のあやまりも明らかにしています。解説には次のように書かれています。
「かつて日本が行った日中戦争や太平洋戦争。残された兵士のインタビューや一次資料を分析、さらに再現CGで知られる事のなかった戦場の全貌に迫る。政府の公式記録は、焼却されるなどして多くが失われた。消し去られた事実の重みの検証を試みるとともに現代に警鐘を鳴らす」
南京には多くの「遇難同胞記念碑」がありますが、これらは1984年8月15日に中曽根康弘首相の靖国参拝を契機として、翌85年に建立されています。南京利済巷慰安所旧跡陳列館の施設も当初は荒れ果てていましたが、行くたびに整備されています。南京大虐殺についても、2014年に12月13日(1937年、皇軍が南京を占領した日)を国家哀悼日とし、習近平主席が出席しました。
8月15日の追悼集会は前はこじんまりしたものでしたが、今年は国旗の掲揚まであり、大掛かりな催しとなっています。私たちは追悼集会に参加し、館長さんと懇談し、幸存者の証言を聞き、そして館内を見学しています。
帰国後、石川達三「生きている兵隊」(中公新書)を読みました。第1回芥川賞を受けた石川氏は1937年12月25日、「小便くさい貨物に便乗して上海から南京へゴトゴトゆられて行きました。南京市民は難民区に隔離され、街中にはゴロゴロと死体が転がっていて、死の町という言葉がピッタリでした。初めて目撃した戦場は、ショックでした」(解説・205ページ)という経験をし、翌1月5日に帰国しました。中央公論の特派員としてこの〝戦場報告〟を3月号に発表したのですが、直ちに発売禁止となった問題の書です。
陸軍を激怒させ、「聖戦に従う軍を故意に誹謗したもの」「反軍的内容をもった時局がら不穏当な作品」(同207ページ)として内務省から発禁の通告を受けた理由は、生身の人間として戦場に投げ込まれた兵士の内面を戦闘を経てどのように変わっていったかを克明に書き込んでいたからです。例えば、医師であったものが命を奪うことに無自覚になっていくさまを次のように書いています。
「彼は兵の悪いところばかりに興味をもちすぐに自堕落さを真似てゆき、まるで真面目な学生が不良青年になって行く過程を自ら楽しむように、俺は姑娘(クーニャ)漁りもできるぞ、支那兵の死体をわざと踏んで通ることも出来るぞ、街の家に火をつけることも出来るぞと誇っているような風であった」(150ページ)
聯隊が無錫で3日の休養となり、「生き残った兵が最も女を欲しがるのはこういう場合であった。彼らは大きな歩幅で街の中を歩きまわり、兎を追う犬のようになって女をさがし廻った。この無軌道な行為は北支の戦線にあっては厳重にとりしまられたが、ここまで来ては彼らの行動を束縛することは困難であった」
「そうして、兵は左の小指に銀の指輪をはめて帰って来るのであった。
『どこから貰って来たんだい?』と戦友に訊ねられると、彼等は笑って答えるのであった。
『死んだ女房の形見だよ』」(93~94ページ)
その意味するところは、言うまでもなく女性を強姦して殺し、金品を奪ってきたということです。最も、中央公論に掲載された時はこのあたりは伏字となっていたものです。石川氏は新聞紙法違反で起訴されましたが、公判で次のように述べたというのですから、凄いです。
「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して断固たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました。殊に南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていたので、憤慨に堪えませんでした」(解説・207~208ページ)
2.廠窖(しょうこう)
8月16日、南京から湖南省への移動は高速鉄道で、武漢を経て岳陽東駅で下車。高速鉄道に乗ったのは初めてではありませんが、駅の大きさにはいつも圧倒されます。車中で高速鉄道網を見たのですが、その総延長は25000km。9月23日にはそれが香港まで延長され、〝一国二制度〟がいよいよ危うくなるのではという危惧が、香港では広がっているようです。
それにしても広大な中国での移動、日本とはその規模が違いますね。私のような旅行者の大変さと、生活者の大変差は質が違いそうです。狭い日本そんなに急いでどうするのかと、壮大な無駄と環境破壊に終わるだろうリニア新幹線建設を問いたいですね。
16日は洞庭湖・岳陽楼を見学し、廠窖惨案遇難同胞祈念館を訪れたのは翌17日。湖南省の水郷地帯の3面を水に囲まれた廠窖で1943年5月9日~11日の3日間に3万人余の国民党軍兵士と難民が虐殺されました。ジャーナリストのたどころあきはる氏が「週刊金曜日」(2015年4月10日)に詳細を報じています。私は同誌を持参していたので、祈念館に寄贈しました。
郭館長は、いつもは60代の方ばかりだが、今日は若い方も見えたので大いに期待しています、と発言。また、日本側の資料が欲しいので探してくださいとの要望もありました。幸存者の方の証言では、艦船からの攻撃、空爆で村中が火の海になった。狭い半島のようなところに難民が集中し、川を封鎖して攻撃、数日後川は黒くなった。①銃殺、②突き刺す、③爆弾、④家とともに焼き殺す、⑤縛って水死させる、⑥強姦して殺す。
祈念碑前での追悼。戴さんが碑文を読み始めたときに降り始めた雨はどんどん強くなり、傘を持たなかった私はすっかり濡れてしまいましたが、強い雨を避けずにたたずむことが何故か心地よいものでした。
館長さんの車の先導で広い道に出る途中、有名な幸存者任徳保さん(91歳)に出会い、少し話を聞きました。ガイドの戴国?さんの通訳では何しに来たといった内容でしたが、後日、本当は「日本人め!」といったもっときつい発言だったことを知りました。
これはチョットした〝事件〟のように感じたのですが、皇軍による虐殺を生き延びた方がこんな風に普通に生活をしているのは考えてみれば当然なのでしょう。それをもう終わったこととして忘れ、あるいはなかったことにすることの危うさを思います。それだのに、南西諸島の軍事基地化や南シナ海での対潜水艦訓練を行うなど、中国挑発を繰り返すこの国は何なんでしょう。
3.常徳
17日夕、バスで高速道路を移動して常徳に到着。翌18日、常徳弁護士会の計らいで細菌戦被害者裁判の原告の皆さん(常徳日軍細菌戦受害者協会)や研究者との座談会が実現しました。宮内陽子団長が「私たちはこの常徳を細菌戦攻撃などを行った父祖の末裔です」と挨拶したとき、何だか泣きたくなりました。高峰弁護士からは、裁判を行なったが最高裁で敗訴、事実は認めたが国家無答責だったと告げられました。
常徳へのペストノミ攻撃は1941年11月4日早朝、市街地上空で飛行機に装着した缶から散布して行われたものですが、2つのひとつは缶が開かなかったので洞庭湖に捨てられました。最初の被害者は11歳の少女で、11日に病院に運び込まれ12日死亡。解剖の結果ペストだと判明し、予防・防疫が開始されました。
ペストは常徳中心地から農村へと広がりました。幸存者の徐万智さん(原告・78歳・当時3歳)は次のように話されました。
「常徳にウリを売るに行った父は、帰ってきたときは体調不良で、漢方で治療したが4日ほどで亡くなった。家族も発病して死亡。自分は親
戚に預けられていて無事。私の様な家族は多く、振り返りたくないことをふり返ると気分が落ち込む。1996年から被害調査をして国賠訴訟をしたが、日本政府は認めておらず憤りを感じる。被害者は謝罪と補償を受けずに多く亡くなっており、安倍首相は逆に向かっている。(怒りを込めて)8月になると靖国参拝、日本にみなさんが安倍を倒してください」
丁徳旺さん(原告85歳)「結婚式に出席した父は感染して死亡。体に黒い斑点ができたが病名分からず、まさかペストとは思わなかったが、酒席に同席した人が先に亡くなり、政府の告知でペストと知る。1996年に日本の調査団がやってきて、報道され、初めて常徳で細菌戦が行われたことを知った。土屋(公献)、野瀬弁護士には感謝している」
湖精鋼(原告・農業)さん「1942年秋、数日で出かけて帰ってきた祖父が急死。16歳だった父が家庭を 支える。父は学校に行っていたので、これは細菌によるものと考えた」
細菌戦裁判を担った高峰弁護士は次のように解説。
「1996年、日本の弁護士会からの調査申し入れがあった。当時の記録は不十分だったが、7834人が亡くなっている。被害はもっと大きい。受害者協会は民間団体で頑張っている。誰も同じ人間なのに、なぜ被害に遭わなければならなかったのか、日本はなぜ認めようとしないのか。自衛隊は資料を持っているはず、公開を求める裁判をしている。昨年、私は入国を拒否された。安倍の態度を示すもの。この件も提訴している」
731部隊による細菌戦は否定しがたい事実となっていますが、それがどのように行われたのかはあまり知られていません。例えばペスト菌ですが、暗室に「石油缶と同じ大きさの缶が並べられていて、その缶の中に殻つきの小麦を入れ、さらに籠に入れた黒いネズミを入れました。ネズミはノミのえさ」で、ネズミが死ぬと生きたネズミと取り替える。少年隊の一員として細菌の大量生産や生体解剖に関与した篠塚良雄氏は、731部隊細菌戦裁判で証言しています。
731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟についても紹介します。
1997年8月11日、東京地裁に民事訴訟として提訴。98年2月16日、第1回裁判、弁護団、原告3名意見陳述。99年12月9日、東京地裁に「731細菌戦被害賠償請求第二次訴訟」を提訴。2002年8月27日、東京地裁が原告団側の請求を棄却。03年5月20日、東京高裁で細菌戦裁判控訴審第1回。05年7月19日、東京高裁が原告団側の控訴を棄却。07年5月9日、最高裁判所が原告団側の上告棄却・上告不受理決定。
ついでに、「731部隊・細菌戦資料センター」資料からの引用をもしておきます。
東京地方裁判所(民事18部岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
引用ついでにもうひとつ、「アジアネットワーク通信 ころさない ころされない ころさせない」(安倍首相靖國参拝違憲訴訟の会・関西)の最終号から、伊丹万作「戦争責任者の問題」を一部また引きします。
だまされるということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞典にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
つまりだますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかないのである。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
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コラムの窓・・・「反省なき一貫性」
この国のありようをかえりみた時、その一貫性に私は絶望しています。何より、戦争の時代から平和の時代への移行は、この国の政治を何ひとつ変えませんでした。それは誰の責任かと問われ、大方は政治家や財界、そしてこの国の優秀な官僚の働きによるものと言うでしょう。しかし、本当にそうなのか大いに疑問です。
変わらないこの国で、大日本帝国の下で犯罪者とされ自由を奪われ命を落とした人々の名誉は回復されることなく、大日本帝国の下で権力をほしいままにした犯罪者は敗戦後もその罪を問われることなく生き延びました。あるものは権力に着き、あるものは社会的地位を得ています。
731部隊で生体実験・生体解剖を行った医師らが、その成果をもって敗戦後の医療界で〝名誉〟ある地位に就いたのはその典型でしょう。裁判官たちも戦前の法とそれに基づく判決を覆すことなく、その〝合法性〟にお墨付きを与えました。韓国では軍事独裁時代の犠牲者の名誉回復を行い、過去に無反省な日本に植民地支配を直視することを求めています。
こうした帝国日本と平和日本の一貫性は、この国の〝平和〟を疑うに十分でしょう。ここにあるのは平和な顔をした惨状ではないでしょうか。その間、日本人はこの国の為政者に騙され、騙され、騙さ続け、今も騙されようとしているのです。
近い過去でこれをみると、2011・3・11の前と後で何か変わったでしょうか。原発は再稼働し、九州電力は4基の原発を動かし続けるために、何と太陽光発電事業者に対して発電の一時停止を指示したのです。あらゆる角度からみてすでに過去のものとなった原発を、この国では止めることができないのです。
こうした無惨な現状を人々の意識が支えているのではないかと疑うものです。過半の人々が脱原発を支持しているといわれていても、原子力マフィアと闘ってまでという考えには至らないのです。電力自由化だから、誰もが原発の電力は買わないようにすればいいのだけど、それすら実現していません。
そして、究極の変わらないものは世界に冠たる天皇制でしょう。昼行燈状態から現人神となり、今は象徴だとか。しかし、天皇を天皇たらしめているのはいったい何か、〝万世一系〟でしょうか、〝国民の総意〟によるものでしょうか。いずれにしても、王を王たらしめているのは臣下が彼を王として崇めるからに他なりません。
だから、天皇家などとるにたりないものとし、元号も使わないことで天皇の暦を否定し、この歴史的遺物を葬り去りましょう。そうすることで、悪夢のようなこの国の一貫性を変えるきっかけにしたいものです。 (晴)
「エイジの沖縄通信」(NO55)・・・沖縄県知事選勝利と本土の課題
前号の「エイジの沖縄通信」で、「翁長元知事と翁長樹子夫人の言葉の重さ」を紹介した。
その沖縄県知事選の勝利報告と私たち本土の闘いが問われている事を指摘したい。
ご存知の様に翁長県知事の急逝に伴い、本来11月に実施予定の沖縄県知事選が去る9月30日に行われた。一部のメンバー離脱も伝えられた「オール沖縄」は、自由党の玉城デニー氏を擁立し「翁長氏の遺志を継ぐ」の旗を立てて選挙に突入。
取り組みの早かった自公政権は宜野湾市長の佐喜真淳氏を擁立。この佐喜真氏は保守と言うより「国民会議」に所属する右翼思想の人物。安倍政権との連携や「金のばらまき」政策で経済的有利さを強調し、辺野古新基地を語らず普天間基地移転のみを主張し、経済界や学会員等を総動員し、期日前投票を強要する等の強引な選挙戦を展開した。
辺野古新基地建設を語らない選挙手段は屈辱の名護市長選と同様の図式で、沖縄県民には危機感もあったが、9月22日の「うまんちゅう大集会」に翁長元知事の樹子夫人が初めて登場し『翁長の思いと行動を無駄にしてほしくない。翁長が命をかけた遺志を継ぐ玉城デニーさんに期待する』と挨拶。会場の県民はこの挨拶でまとまったと言える。その後はアイデンティティーを前面に出しながら、「オール沖縄」の底力で圧勝した。
安倍首相は翁長知事の時とは違って、選挙後にすぐに玉城デニー新知事と面談を行った。ところが、その面談が終わった途端に「撤回の無効化手続き」に入ったのである。なにが「沖縄に寄り添う」だ、まったくふざけた対応である。
埋立承認を「撤回」した沖縄県に対して、また「行政不服審査法」(この法律は本来「国民の権利救済目的」なのに)に基づく「撤回の効力停止」を国土交通省に申し立てた。さらに、また法廷闘争に持ち込み工事の再開を狙っている。
この「行政不服審査法」に基づく手続きについて、多くの学者が『本来、行政庁の違法・不当な公権力の行使があった場合に「国民」に「簡易迅速かつ公正な手続き」を保障し、「国民の権利利益の救済を図る」ための制度だ。国が行政不服審査を利用するのは、「国民の権利保障のためという趣旨に反する』と。『さらに、防衛省も国交省も、同じ内閣の下に束ねられる行政組織だ。防衛大臣の申し立てを国交大臣が審査しても、ただのお手盛り審査にすぎず、「公正」な手続きとは言えない」と批判している。
こうした状況で今問われているのは、本土の私たちの闘いだ。
全国で「沖縄の民意を踏みにじる」安倍政権に抗議の声を上げると共に、新たな闘いとして東京の「小金井市議会」や「文京区議会」で取り組まれた「辺野古新基地中止」を求める陳情・請願活動が注目を集めている。
10月18日(木)東京新聞「こちら特報部」の記事で、この「小金井市議会」の陳情と「文京区議会」の請願問題が詳しく取り上げられいる。
『東京都の小金井市議会が、沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設の中止を訴える陳情を24人中13人の賛成多数で可決しながら、共産党市議団(4人)が「党の安保破棄、米軍基地撤退の立場から、普天間代替施設を全国の自治体を候補地にする事に反対する」立場から賛成を撤退したため、陳情に基づく意見書の提案が見送られた。東京都文京区議会では、5月に新基地建設中止を求める請願が出されたが、共産党会派も賛成して可決された。』
では、一体この違いは何か?
文京区議会の共産党区議は、その理由を『「平等負担」に関しては「見解が違う」と委員会で表明した上で、請願自体には賛成した」と話す。請願が国に求めた内容は、辺野古新基地の「建設中止を求める」のみだ。もし請願理由ではなく請願内容自体に本土移設を求める記述があれば「そのままでは賛成できないだろう」と語る。』
本土の私たちが沖縄を支援するために、私は安倍政権の「沖縄の民意を踏みにじる撤回の無効化や法廷闘争」に対抗する闘いとして、全国各地の地方議会でこうした陳情・請願運動を全国運動として取り組む意義があると考える。(富田英司)
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色鉛筆・・・「待機児童2万人下回った」というが保育労働者が犠牲を払っている
自治体が認可した保育施設には入れない「待機児童」が、今年4月時点で1万9895人で昨年より6186人少なく厚生労働省は「10年ぶりに2万人を下回った」と施設整備の成功に胸をはったという。それはおかしい!希望したのに認可施設には入れなくやむ得ず認可外施設に通う利用者「隠れ待機児童」が7万1300人もいるのだから喜んでいる場合ではない。認可施設でも認可外施設でもそこで働く保育労働者が犠牲を払っていることを知ってほしい。
昨年11月から今年2月、愛知県内の認可保育園などで働く保育士らの1万646人を対象に調べたところ、労働条件の改善点について賃金(82%、複数回答)が最も多かったが、「残業や持ち帰り」(68%)、「職員1人が受け持つ子どもの数や業務の量」(65%)も目立ったという。(7/2 朝日新聞)まさに今保育現場で起こっている問題点がうきぼりにされている。
まず賃金は全産業平均より約10万円も低い。そして親の長時間労働によって子ども達の保育時間は長くなり、それによって保育労働者は遅番早番の超過勤務が増え、勤務時間は子どもと一緒に過ごす保育の時間になっているので、事務仕事や教材の準備などは夜遅くまでサービス残業をしたり家に持ち帰ってやっている。さらに認可保育園には保育士1人が担当する子どもの数に国の配置基準が定められていて、例えば0歳児クラスなら子ども3人、1~2歳児は6人だが、実際は多くの自治体がこれを上回る保育士を置いてきた。ところが、保育園が増えて必要人員の確保が困難になると基準を上回る保育士を置く自治体に対し基準並みに下げ、1人でも多くの子どもを預かるように指導している。
ハイハイから歩行する時期の1歳児を保育士1人で6人というのは四六時中目が離せなく気が抜けない。年々増加するアレルーギー児への対応や保護者への対応など様々な仕事がある。子どもが好きだから保育士になったはずなのに現実は時間に追われて、精神的にも肉体的にも限界を感じて辞めていってしまう若者が多い。
調査を行った名城大学の簔輪明子准教授が「賃金の上乗せだけでは、当面の人が確保できてもつぎつぎに辞めていく。十分な人数配置による残業削減や休暇が取れる環境が必要だ」と指摘している。まったくその通りだ。
また、首都圏、近畿園、政令都市などの都市部の待機児童を解消する為に政府は保育の規制緩和を行い、認可保育園が自治体だけではなく株式会社やNPO法人なども設置できるようにしてしまった。これは保育園の量を重んじる政策でその為に「保育の質」の低下が起こっている。その実態が9月13日の東京新聞に記載されていた。『四十代の保育士女性は、昨年2月人材派遣会社の子会社が約1ヶ月後にオープンする首都圏の認可保育所で働き始め、不安に襲われた。保育室におもちゃはなく、年間行事の計画もない。園庭がないのに、散歩に行く時に子どもを乗せるカート置き場や、プールあそびをするスペースも考えられていなかった。雇われた保育士は半数が新人や経験1、2年の若手。
女性は子育てと両立するためパート勤務を希望したが「人が足りない」と頼まれ、正社員になった。直後に園長候補の保育士が辞め、急きょ園長に就くことに。戸惑ったが「子ども達が入園してくる。やるしかないと思った」。だが、開園後は連日午前7時前から午後8時過ぎまでの長時間勤務で、体調を崩して半年で退職した。「ベテラン保育士を増やすことや必要な備品の購入を提案しても、通らなかった。経営者が保育を分かっていなかった」』なんてひどい話しだ!女性保育士の苦労が身につまされる。これらすべて政府が必要な財源を投入しないで、安上がりにその場しのぎの規制緩和政策をしてきたからだ。
さらに10月3日、東京の認可外施設で乳児が死亡した。昼寝中に異変が起きたようだが、都はこの施設に巡回指導を行い睡眠中の0歳児には5分ごとに目を配ることなどを助言したという。0歳児に睡眠チェックをするのは当たり前のことなのにそれすらできていなかったことに驚く。『園庭はなく、0歳児から2歳児は部屋にこもりっきり。先生に対して子どもが多く目が届くのかなと思っていた』と、時々子どもを預ける母親のコメントがあった。(10/5東京新聞)国から補助金をもらってずさんな運営を行っている認可外施設ではこれからも事故が起こるかもしれない。事故を起こしてしまった保育士が心配になる。このように日々保育労働者は悪戦苦闘している。
今年の2月、あるユーザーがTwitterで千葉県の松戸市が市内で働く保育士に、勤務施設からの給与とは別に月額5~7万円を支給する「松戸手当」を紹介した。すると評判になり2万人以上が拡散し「松戸市に引っ越したい」「他の自治体も見習ってほしい」「税金の払いがいがある」と評価する声が相次いだという。松戸市の保育課は「東京都に隣接しているため、給与の高い都内に保育士が流失するので対策が必要だった」と言い、保育士は徐々に増加しているという。保育士不足で定員を減らしたり、そもそも開園できなかったりする施設もあるほどだ。深刻化する保育士不足を解決しなければ安倍政権が掲げる『20年度末までに待機児童ゼロ』は、また目標倒れに終わるだろう。(美)
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