ワーカーズ599号  2019/10/1     案内へ戻る

 おごる安倍政権を追い詰めよう!――増長する安倍政権を幕引きに――

 安倍改造内閣が発足した。現時点の自民党党則を前提とすれば、任期を2年残すだけ、最後の内閣になるかもしれない組閣だった。特徴は、初入閣者13人という在庫一掃内閣でもあり、また側近重用が際立つ〝お友達内閣〟そのものだった。

 閣僚にとどまらず、首相を補佐する秘書官や補佐官、それに官房幹部など官邸官僚にも安倍取り巻きの面々を就任させた他、軍事・外交の要となる国家安全保障局長に、警察庁出身の内閣情報官だった安倍側近、北村滋を就任させた。

 残り任期があと2年となった今、安倍首相にとって二股をかけた布陣ともいえる。党役員も含め、安倍首相の〝悲願〟ともいうべき憲法改定に最後の望みをつなぐ布陣であり、最後の組閣になるかもしれない中での側近重用だった。

 ひときわ目立つのは、安倍側近の萩生田文科相の任命だ。加計学園問題でキーマンとして動いた萩生田を文科相にしたことは、森友・加計疑惑での正面からの封殺を意図したもので、開き直りと傲慢さを象徴する人事となった。

 安倍首相が執念を燃やす憲法改定については、旗振りを続けてきたにも関わらず、国民世論を改憲に向けて動員することはできずにいる。世論調査でも、改憲の必要性への同意はわずかだ。安倍改憲は風前の灯火、求心力保持、一縷の望みなのだろう。

 安倍政権を有権者に受け入れさせてきた好調だった経済についても、暗雲がただよっている。安倍政権発足食前から続いていた経済の好調は、いま様々な方面から逆風が吹いている。一つはトランプが仕掛けた覇権争いも絡む米中経済戦争であり、もう一つは、あのリーマンショックから10年ほど続いてきた好景気局面の終焉だ。その二つの要因で、10年ぶりの世界的な後退局面を迎えている。

 アベノミクスの本質は、企業利益第一主義という大企業てこ入れ政策でもあった。その結果が、富の偏在と格差拡大、すなわち、大企業には膨大な内部留保がたまり続け、労働者大衆には、低賃金と自己責任を押しつけるものでしかなかったことがあの〝老後資金2000万円問題〟で暴露された。

 政権最後の2年間は、安倍首相を支えた好景気が終わるとともに、政権そのものも終わりを迎えるしかない。側近重用政治も裸の王様同然、安倍一強政治は世論からの遊離を一層深める他はない。

 私たちとしては、安倍政権の自滅を待っている余裕はない。綻びが広がる事態を前にして、安倍包囲網をさらに締める必要がある。そのためには、安倍政権を支えてきた世論、特に若者の支持を安倍政権から引き離すことにある。それには、安倍政治に取って代わる将来展望とそれを実現するビジョンの提示が不可欠だ。

 安倍政権最後の2年間を全うさせることなく、政権包囲網を広げ、草の根から安倍政権を追い詰めていきたい。(廣)


 企業負担増こそ必要――給付削減・負担増の社会保障改革?――

 安倍改造内閣が発足した。

 その改造内閣では、これまで先送りしてきた社会保障改革について〝全世代型社会保障改革〟の推進が掲げられて。が、その社会保障改革、検討課題の中身を見れば、改革とは名ばかりの高齢者の自助努力と負担増を押しつけるものでしかない。

 将来の生活不安を取り除くには、企業負担の強化へと発想の転換が不可欠だ。

◆〝改革〟それとも〝痛み〟

 安倍首相は9月11日の改造内閣で、側近の西村康稔前党総裁特別補佐を経済再生担当大臣に任命し、全世代型社会保障改革担当相を兼務させ検討会の議長代理に据えた。また9月20日には、「検討会議」(議長・安倍首相)の初会合を開催し、社会保障改革に向けた議論をスタートさせている。併せて、年金と介護保険は年末までに中間報告をだして来年の通常国会に法案を提出、医療については、来年夏までに最終報告をだして法案作りを進める予定だという。

 だが、その会議の検討課題になっているのは、年金の受給開始年齢の引き下げ、働いて一定の収入がある高齢者の年金を一部カットする在職老齢年金制度の見直し、介護サービス利用時の1割から2,3割への負担増、75歳以上の医療機関の窓口負担での2割への引き上げなど、多くは当事者の負担増になるものばかりだ。

 例えばいま65歳から受給している厚生年金について、70歳までの就労機会の確保と70歳への引き上げが俎上に載せられている。働けるうちは働き続けたいという高齢者の気持ちは尊重すべきだが、嫌が応うにも70歳まで働き続けなければ年金がもらえない、生活できないと、というのとは、天地の違いがある。

 これも検討課題になっている厚生年金のパートへの適用拡大は、喫緊の課題だ。現時点では従業員500人以上の企業で週20時間以上働くパートが厚生年金に入っているが、それを500人以下の企業に拡大していく、というものだ。当然というべきか、むしろ500人以下の企業でパートを厚生年金の対象にしなくていいということ自体、労働者軽視の企業利益優先の制度なのだ。早急に実現すべきものだろう。

◆労働者・当事者代表不在

 とはいえ、検討会議で「厚生年金のパートへの適用拡大」という労働者の要求を実現する結論を導き出すことは可能なのか。そんなことに疑問を抱かせるのが、検討会議の人選だ。

 今回の検討会議には、閣僚と各界代表が選任されている。が、働き方改革、社会保障改革の一方の当事者である労働者の代表が選任されていない。企業・経営者代表は中西宏明経団連会長、桜田謙悟経済同友会代表幹事、新浪剛史サントリーHD社長の3人も選任されている。それに学者や専門家枠のメンバーも政府のお抱え御用学者などばかり。これで果たして労働者の声が反映されるとでもいうのだろうか。

 それ以上の問題なのは、全世代型社会保障改革を何のためにやるのか、という位置づけだ。それは、団塊の世代が75歳以上になって年金や医療の給付金が2022年から大きく膨らんでいくことへの危機感からだ。そうした動機からは、保険料は引き上げて給付は削減したい、という思惑が見え見えだからだ。

◆企業負担増へ、発想の転換

 労働者の処遇改善の課題が議論されるとき、必ず持ち出されるのが、中小・零細企業は経営が続けられなくなる……という封じ込めの議論だ。最低賃金の改定時にも常に持ち出される。

 この種の話で問題なのは、親企業・大企業の企業責任が棚上げにされていることだ。親会社と子会社、あるいは発注企業と納入業者という二重・三重構造に切り込んでこなかったのだ。労働者の最低賃金引き上げや厚生年金の企業負担増は、当然、納入価格に反映されなくてはならない。親会社や発注会社は、納入単価が上がるのを受け入れなければならないのだ。

 中小零細の下請け会社が倒産すれば、その分の製品は他の中小・零細会社か、親企業が直接生産するかは問わず、その製品に対する需要は変わらないはずだ。倒産するのは個々の中小零細企業で、その代わりは必ず必要になる。だったら、はじめから製品価格への転嫁を認めるべきなのだ。それが労働者の尊厳の確保につながるのだ。日本では、あまりに労働者や労働の尊厳がないがしろにされている。

 もう一つ重要な問題がある。年金などの保険料負担の話だ。

 日本では、医療保険と年金保険での負担金は、労働者と企業の折半でまかなわれている。このことはいまの日本では自明のこととして当然視されている。しかし外国の例を見ると、そうではないのだ。

 例えば20年ほど前の数値だが、フランスでは、社会保険料が賃金の42%ほどだが、内訳は労働者が約10%、事業主が約32%負担だ。スウェーデンでも36%のうち、労働者が約7%、事業主が約29%だ。

◆闘って実現を!

 社会保険負担について、いまの日本では労使折半という土俵から一歩も出ない議論が繰り返されている。むしろタブーにされているのが実情だ。確かにドイツやアメリカはほぼ労使折半だから単純な話ではないにしても、その土俵自体、負担割合の見直しや改善は大きな課題なのだ。

 仮に、労働者が負担する額の倍の企業負担が実現すれば、将来の老後の生活が格段に改善されるわけだ。欧州の高齢者などが日本の高齢者に比べて将来不安が少ないというのは、そうした社会保障制度に裏付けられているわけだ。

 安倍政権のアベノミクスの元で、企業利益は継続的に膨らんでいる。内部留保は18年度で前年より16兆円も増えて463兆円になっており、7年連続で過去最大になりこの間158兆円も積み上がったという。私たち労働者の要求は、当然ともいうべき正当性を持っている。堂々と要求すべきなのだ。今後の社会保障改革では、こうした企業負担の見直しが欠かせない。

 とはいえ、企業負担を増やすそうした社会保障改革は当然のとこながら、企業・経営者の大きな抵抗に遭遇する。ただ待っていたのでは、労働者の将来不安は解消されない。

 先行き不安の解消に向けて、労働者の要求の実現に向けて、大きな闘いを巻き起こす必要がある。(廣)


 読書室  佐々木隆治氏著『カール・マルクス―「資本主義」と闘った社会思想家』ちくま新書

○本書は最新のマルクス文献(『資本論』草稿集や抜粋ノート)の研究によって社会思想家・マルクスの実像に迫るもので、その思想の核心を明らかした。それはこれまでほとんど意識されず、また全くといって良いほどに注目されてもこなかった、晩期マルクスの物質代謝の思想の復元と紹介である○

 世にマルクス入門や資本論入門は氾濫している。その中でこの本を推奨するのは何故か。

 それは新MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)がドイツで出版(ネット上で公開)されてはいるが、日本では翻訳そのものや安い翻訳本がないこともあり、こうした最新文献を踏まえた上でマルクス思想の全体像を明らかにしているものが他にないことによる。

 本来なら最新文献が出版されたことで必要になる、これまで解説されてきたマルクス思想の全面的な見直しや論争・個々の重要な論点の点検・検討が全く成されていないのである。

 その意味において佐々木氏のマルクス思想の全体像を明らかにしたいとの情熱に満ちた本書は、実に貴重な本のである。

 本書は、経済学者でも革命家でもなく、社会思想家としてマルクスを取り上げている。

 著者の佐々木隆治氏は、1974年生まれで一橋大学社会学研究科博士課程修了後、立教大学経済学部准教授になり、現在は日本MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)の編集委員会の編集委員として『資本論』草稿や抜粋ノート研究に精力的に取り組んでいる。

 主な著書には『マルクスの構想力―疎外論の射程』(共編著、社会評論社、2010年)を嚆矢として、『マルクスの物象化論』(社会評論社、2011年、増補改訂版2018年)、新機軸のマルクス経済学入門書である『私たちは なぜ働くのか―マルクスと考える資本と労働の経済学』(旬報社、2012年)、本書(筑摩書房、2016年)、さらに『マルクスとエコロジー―資本主義批判としての物質代謝論』(共編著、堀之内出版、2016年)、そしてシリーズ◆世界の思想の中の1冊『マルクス 資本論』(角川選書、2018年)等の著作がある。

 その他、雑誌に掲載された研究論文は多数にのぼる。

 これらを見れば、佐々木氏はまさに新進気鋭の研究者と形容するのが相応しいといえよう。そしてこれらの出版物を見れば、佐々木氏がマルクスの思想の全貌を明らかにしようとの熱意が感じられる。それゆえ、読書室においては今後も佐々木氏の著書を取り上げたいと考えている。

 さてそれでは本書の目次を紹介しておこう。

 第1章資本主義を問うに至るまで[1818~1848年]―初期マルクスの新しい唯物論
 第2章 資本主義の見方を変える[1848~1867年]―マルクスの経済学批判
 第3章 資本主義とどう闘うか[1867~1883年]―晩期マルクスの物質代謝の思想

 本書の核心の紹介に紙面を使いたいため、第1章と第2章には簡単にしか触れられないのが、本当に残念である。

 まず第1章は人間マルクスの実像をその誕生から自由の条件としてのアソシエーション(『共産主義者たちの宣言』https://ameblo.jp/bubblejumso3/entry-12389350438.html)を見出し、経済学批判に取り組むまでの時期を、またその間の主要著作をマルクスの理論体系の中に位置づけながら展開している。その手法は既に評価が定まったD・マクレラン等に依拠して、新書版約70頁の中に的確に記述されている。特に青年ヘーゲル派に関わったマルクスとその指導者バウアーとの関係を、ヘーゲルの自己意識論とバウアーのそれを踏まえて詳説したことを私は高く評価したい。

 第2章は『資本論』の見方として、①商品の秘密②貨幣の源泉③資本の力と賃労働という特殊な働き方④資本蓄積と所有⑤恐慌はなぜ起こるのか⑥資本主義の起源とその運命が約96頁を費やして展開され、しかも圧縮された形で実に的確に記述されている。

 著者の佐々木氏は、久留間鮫造氏を学統とする大谷禎之介氏の理論的な影響下にあり、その点に関して私たちに大いなる好感を感じさせ、それ故にこれらの記述を信頼させるに足るものにしている。

 第2章については、読者に是非とも真剣な精読を期待したいものである。

 既に述べたが第3章が本書の核心部分である。1867年4月、『資本論』第1巻を脱稿したマルクスの社会変革の展望は、それ以前と比較してはるかに具体的で現実的なものになっていた。それは第1章に記述した「恐慌革命論」から、労働時間規制のための闘争等の改良闘争を重視し、それ以前は否定的であった協同組合運動を高く評価するようになったことに象徴されている。

 この点は既に多くの人からマルクスの転換の画期として注目されている。

 こうしたアソシエーションの形成に注目してマルクスは、社会変革は単に政治権力を掌握する政治革命だけでなくアソーシエイトした労働者が自分自身で社会を運営しなければならないとした。アソシエーション社会とは通説でいわれているような、生産手段を国有化して計画経済を実施する社会ではない。

 すなわち生産様式を変革するには、商品や貨幣等に物象化される私的労働をアソーシエイトした自由な労働者たちの共同労働に変革し、生産手段から分離された賃労働を生産手段と生産者との本源的な統一の下に、つまり賃労働を再度本来の人間労働に復権させなければならないのである。

 マルクスの思想の核心とはまさにこれなのだ。ここで唐突ながら、我々ワーカーズの綱領的な立場を紹介するのをお許しいただきたい。このマルクスの思想は、まさに我々の政治的な立場であるからである。

 2010年3月に、我々は社会評論社から『アソシエーション革命宣言―協同社会の理論と展望―』http://workers-net.net/asosibook.pdfを出版している。このマルクスの社会変革思想に関心がある方たちには、この機会に本書と合わせて是非我々の本もご検討をお願いしたいと考える。

 晩期のマルクスはこのアソシエーション社会の二段階論を『ゴータ綱領批判』で展開したが、何らかの報酬がなくとも人々が自由に労働し生産物を各自の必要に応じて入手する社会がマルクスの未来社会論であった。そしてその核心こそ「物質代謝」の概念である。

 この「物質代謝」の概念は、実に『資本論』の全編を貫く基本視角といっても過言でない。マルクスが労働を考える際の大前提は、人間が自然の一部であるとの事実から出発する。『資本論』では「労働はさしあたり人間と自然の間の一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、制御する一過程」と定義した。

 つまり人間の生活とは、自然との物質代謝を通じて成り立っているものなのである。

 この人間にとっての根本的な物質代謝が資本によって攪乱されているとの認識が、マルクスの判断であった。この物質代謝を基本とするマルクスの視点は、『資本論』第1巻において社会変革の究極の根拠としてきわめて明解に、以下のように記述されている。

「資本主義的生産様式は[人間と自然との物質代謝の破壊、都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神正確の破壊と]同時にこの物質代謝の単に自然発生的な状態を破壊することを通じて、その物質代謝を社会的生産の規制法則として、また十分な人間的発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する」

 まさに資本主義的生産力の発展に伴い物質代謝の復権が強制されるのである!

 つまりマルクスが資本主義的生産関係が生産力の発展にとっての桎梏となるといったのは、価値増殖を最優先する生産関係の下では人間と自然との持続可能な物質代謝を可能にする生産力を実現することが出来ないということだった。だからこそこの社会は変革されなければならないし、そうでないなら人間も自然も破壊されてしまい生きていくことは出来ない。これがマルクスの言説の真意だったのである。何とマルクスの認識は現代的な認識であることか!

 マルクスにこの着眼を示唆したのは、農芸科学者のリービッヒである。『資本論』第1巻で、マルクスは「自然科学的見地からする近代的農業の消極的側面の展開は、リービッヒの不滅の功績の一つである」と顕彰した。

 だがこれまで、この意味を正しく読み取れた人は少ないのである!

 大量の化学肥料の投入による農地の疲弊化、大気汚染による酸性雨の発生とその降雨被害の増大等、さらに遺伝子組み換えトウモロコシの出現や牛・豚の餌に抗生物質を混ぜて与えるなど、これらは人間的で合理的な物質代謝とはいえない。

 まさに合理的かつ人間的な物質代謝の再建が必要である!

 では「物質代謝を社会的生産の規制法則として、また十分な人間的発展に適合した形態において、体系的に再建すること」は、いかにして可能なのだろうか。これが問題である。

 その解決こそアソシエーション社会の課題である!

 ここで『資本論』第3部草稿第1稿を引用する。翻訳書が高価かつ絶版のため、ほとんどの人は読んだ事がないものだろう。
「この領域[物質的生産―注・直木]における自由はただ社会化した人間、アソーシエイトした人間たちが盲目的な力としての、自分たちと自然との物質的代謝によって制御されるのをやめて、この物質的代謝を合理的に規制し、自分たちの協同的な制御の下におくということ、つまり力の最少の消費によって自分たちの人間性に最も相応しく、最も適合した諸条件の下でこの物質代謝を行うということである」

 要は物質代謝が合理的で人間性に相応しいか否かを協同的な制御の下に置くことが核心だ!

 このように人間的で合理的な生産力が実現されれば、一日の労働時間は著しく短縮され、物質代謝の必要から独立した「真の自由」が実現される。マルクスの未来社会とは、物質代謝を合理的かつ人間的に制御し、そのことにより「真の自由」が実現する社会である。

 そしてアソシエーション社会こそは、資本主義生産様式下での正しくは労働環境病とでも呼ぶべき「生活習慣病」やストレス等で発病する「精神病」が大幅に減る社会であろう。

 晩期のマルクスはこのような物質的代謝の基本視角から、農芸科学や地質学、そして共同体研究などの広範な領域において、この物質的代謝の論理を一層詳細に研究し、そこにどのような抵抗の可能性があるのかを精力的に探求し続けた。そして最新文献には、これまで知られざるマルクスの実像が示されているのである。

 まさに現代でもマルクスは立派に生きている!

 自らの勉強のために「抜粋ノート」を作る習慣があったマルクスは、その死後膨大なノートを残した。これについては、旧MEGAを編集したソビエトのあの碩学のリャザーノフですら「どうしてマルクスはこのような体系的で、徹底した要約のために、これほど多くの時間を無駄にし、一八八一年という晩年に地質学についての基本書の章ごとの要約にエネルギーを費やしたのであろうか。彼はもう六三歳だったのであり、こうした行いは弁明の余地のない学者ぶったふるまいにすぎないのではないか」との率直な感想を漏らしたほどである。

「マルクスは生産力中心主義であり、エコロジー問題にほとんど注意を払わなかった」とのマルクス理解がある。

 確かに若きマルクス(参照☆映画『マルクス・エンゲルス』https://ameblo.jp/bubblejumso3/entry-12374841142.html)はそうだった。しかし『資本論』脱稿に至る研鑽の過程でマルクスは、資本による物質代謝の攪乱を自覚し、それを合理的かつ人間的に再建する事を考え始めのである。それがまさに物質的代謝の抵抗の可能性を明らかにすることであった!

 この探求に中でマルクスは、リービッヒを相対化して農地疲弊の原因や無機肥料の効果などについて論じていたK・フラースに注目する。彼によれば、人間の耕作活動により地域の天候が代わり、植生が変化して植物そのものの姿すら変わるのである。つまり人間による気候変動の現実性の問題指摘である。

 その後マルクスの関心は共同体へ移り、G・マウラーに注目する。若きマルクスは一方の前近代的な共同体には否定的な評価しか与えず、他方のグローバリズムには肯定的な評価をしていた。故にイギリスによるインド社会の破壊もその非人道的性格を厳しく指弾しながらも、基本的には社会を前進させるものだとの肯定的な捉え方をしていたのである。

 これらに関してはK・アンダーソン『周縁のマルクス』(社会評論社、2015年)に詳しい。関心のある人には是非お薦めしたい!

 G・マウラーを研究することでマルクスは、非西洋社会の共同体の生命力、植民地主義に対するそれらの抵抗力に注目することになり、三種類のザスーリチへの手紙を書くことが出来た。

 実際にマルクスが出した手紙から確認できることは、①単線主義的で、近代主義的な歴史観を明確に否定した②共同体の必然的な解体を否定する根拠として前近代的共同体の生命力を挙げた③ロシア農業共同体を「ロシアにおける社会再生の拠点」として位置づけたことである。

 実際の所、いつでもどこでも世界各国の生産様式が単線的に発達するなどとは、断じてマルクス説ではない!

 すなわちマルクスは、各国における現実の資本主義的生産様式の生産力とは異なる、その国独自の持続可能な物質的代謝とその制御による合理的な生産力の発展の道を追求・模索していたのである。

 「唯物史観」はドグマではなく研究のための手引きにすぎない! このマルクスの言葉の重みを理解すべきだ!

 周知のようにマルクスは、主要著作では体系的なジェンダーに対する記述はしていない。晩期マルクスもまとまった著作こそ残さなかったものの、「抜粋ノート」には男女差別を私的所有の有無に解消したエンゲルスとは異なり、私的所有とは独立した問題だと明確に把握していたのである。勿論、その本格的で全面的な解明はなされてはいないのだが…。

 だからこそ抜粋ノートの研究が現代でも重要なのである!

 紙面が尽きてきたのでここで結論を書く。死ぬまで時間を惜しみながら社会変革を追求したマルクスが残した抜粋メートを今後生かすも殺すも、まさに現代に生きている私たち自身の問題なのである。

 読者もまた本書を一読し、この問題を他人事でなく自分自身に深く関わる現実的で現代的な問題として真剣に考えるよう、私は強く望むものである。(直木)
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 何でも紹介  『日韓でいっしょに読みたい韓国史』徐穀植・他(明石書店刊)

●今までになかった本

 この本の意義について、翻訳者の君島和彦氏は次のように述べています。

 「この本を多くの人に読んで欲しいと思います。」「韓国人研究者が、日本人に読んでもらうことを目的に書いた韓国の本だからです。韓国史の本は、入門書を含めてたくさんあります。ですが、多くは日本人が書いたものであり、韓国人のために書いたものを翻訳したものです。ところがこの本は、最初から日本の高校生や一般の市民の方々に読んでもらうことを目的に書かれたのです。今までになかった本です。」(翻訳者あとがき)

●特徴的な構成

 この本は日本の教科書にはない特徴的な構成が見られます。その一つは「韓国の歴史」と「両国の交流」の二部構成となっていることです。

「歴史」では古朝鮮から百済・新羅・高句麗・高麗を経て朝鮮までの前近代、開国から大韓帝国・朝鮮総督府を経て南北分断と民主化までの近現代。「交流」では櫛目文土器から渡来人・倭寇・秀吉侵略・朝鮮通信使・開国後の文化流入を経て最近の韓流ブームまで、それぞれ叙述されます。

 もう一つの特徴として特に「近代前半」について、「朝鮮政府側の改革」と「民衆側からの改革」および「内政干渉による改革」という三つの角度から複合的に改革を叙述しています。

 今回は、この「近代前半」つまり開国から植民地支配の手前までの「改革」の各側面について、明治維新史とも対比しながら紹介します。

●上からの改革(甲申政変)

 まず、西洋船(フランス・アメリカ)の侵入を撃退した大院君政権を支えたのが「衛生斥邪論」派であったことは、幕末の「尊皇攘夷」派とも共通します。

 やがて高宗政権のもとで、朴珪寿などの「開化思想」が台頭しますが、この機会を利用して、明治政府は「江華島事件」を起こし、釜山など三港を開港させます。これは、黒船の圧力で日本がアメリカ等との間で結んだ不平等条約を、そのまま朝鮮に押し付けたような形です。

 開港後、海外に「朝士視察団」を派遣し、近代文化を吸収するところも、日本の「遣欧使節団」派遣と共通しています。

 急進改革派官僚の金玉均が起こした「甲申政変」は、「身分制度の廃止」や「地税制度の改革」など、維新政府の「四民平等」や「地租改正」に似た政策を打ち出します。しかし改革派政権は、まもなく清国の軍事介入で挫折してしまいます。

 同書では「甲申政変は、準備不足、清軍の介入、日本の消極的な態度などが重なって、失敗に終わった。」とごく簡潔に総括していますが、その目指した内容はその後の改革に引き継がれていきます。

●下からの改革(東学農民運動)

 一方、李朝末期の両班支配の腐敗に抵抗して、「東学」という平等主義的を唱える宗教が民衆の心をつかみ、やがて農民蜂起と合流していきます。この動きは、幕末の農民一揆や「おかげ参り」また維新後の「秩父困民党」とも似ていますし、教祖の崔済愚が没落両班であった点などは、「西南戦争」など下級士族と農民の反乱にも通ずるようです。

 東学農民軍は、各地方の官公署を占拠していきます。李朝政府はこれを弾圧するため、清朝に鎮圧軍の派遣を依頼します。すると、これを口実に日本も軍隊を派遣してきます。

 清朝と日本の双方からの軍事侵攻を避けるため、李朝政府と東学農民軍は「和約」をむすび、各地方に「執綱所」という自治政府が樹立され、「身分差別の廃止」や「土地の均等な耕作」など農民主体の改革をめざします。

 しかし、この動乱に乗じて日本は東学農民軍を軍事的に弾圧し続け、清朝に対して「日本と中国が共同して朝鮮の改革を進めよう」と一方的な提案をし、拒否されると日本軍は清軍を攻撃し、日清戦争に発展します。

 こうして「東学農民蜂起」による「下からの改革」は、最初は李朝軍の弾圧、次いで清朝軍の派遣、そして日本軍の介入によって、潰されてしまいますが、その精神はその後の「義兵闘争」などに引き継がれます。

●外圧と大韓帝国の改革

 日清戦争が日本有利に進む中で、金弘集の「親日政府」ができて「甲午改革」を進め、中央と地方の行政・司法・教育などの改革を進めます。さらに「太陽暦」「種痘」「小学校設置」「軍制改革」を進めますが、「断髪令」の強制は民衆の大きな反発を招きます。

 日清戦争の結果、清朝の宗属支配は後退しますが、「遼東半島の割譲」に危機を募らせた帝政ロシアがフランス・ドイツと共に「三国干渉」で遼東半島を返還させ、日本が劣勢になると「親露派」が台頭します。

 これに焦った日本の三浦吾楼公使等は、親露派の中心であった「明成(ミョンソン)皇后」を殺害するという蛮行におよびます。このことが国際的非難を浴び、日本の介入は一時後退し、代わってロシアが森林伐採権など権益拡張に乗り出します。

 こうした外圧の均衡局面で高宗は「大韓帝国」を樹立し、「甲申改革」や「甲午改革」など未完の改革を「光武改革」として引き継ぎます。このように高宗政権は、清朝、日本、帝政ロシアなどの外圧のはざまで「独立と改革」を目指して苦闘します。

 しかし、ロシアと日本は、経済的利権を巡って暗闘を繰り広げ、やがて日露戦争に突入し、その勢いで大日本帝国は「韓国の保護国化」、さらに「日韓併合」(朝鮮植民地化)へと突き進んでいくのです。

●植民地に抗した主体的闘い

 同書を読んで感じることは、近代の韓国・朝鮮史というのは、ただ日本や中国・ロシアに介入されるままの「他律的」な歴史ではなく、外圧にさらされながらも、絶えずその矛盾を突き、独立と改革の可能性を限りなく追求し、血の滲むような「主体的」な努力を重ねた歴史であるということです。

 それは近代史後半の「植民地支配」においても、様々な形態で貫徹されてゆきます。「三一独立運動」「新韓会」「光州学生運動」「元山ゼネスト」・・・。大戦末期には、「皇軍」「徴用工」「従軍慰安婦」として、多大な犠牲を被りながらも、大日本帝国の崩壊を見越して解放後に向け「建国同盟」等の主体的準備を進めていきます。

●一緒に生きた日本人

 同書では「韓国と一緒に生きようとした日本人」を紹介しています。

 文芸運動家で朝鮮総督府を批判した柳宗悦。韓国の山林緑化に従事した淺川巧。革命家朴烈夫人の金子文子。光州学生運動を弁護した布施辰治。孤児院を運営した田内千鶴子。

 そして「偏見から抜け出して韓国史を研究した日本人」として、特に「梶村秀樹」を次のように紹介しています。

 「彼は、日本の韓国支配に対する反省と批判の上で、韓国の歴史を新しい視角で研究した。それ以前の韓国史研究は、韓国の後進性と他律性を強調してきた。彼はこのような視角から脱し、韓国の歴史も韓国人により自立的に発展してきたことを論証し、多くの論著を発表した。」「韓国の民主化運動を支援する一方、在日韓国人の地位を向上させるために一生懸命努力した。」「彼が残した韓国史研究と日韓連帯の種は、今も良識的な日本人の心の中に育っている。」

 日本の教科書からは十分に伝わらない、韓国・朝鮮の「主体的」「自立的」な歴史を学ぶための良書として、ぜひ読んでいただきたいと思います。(松本誠也)


 「韓国釜山の博物館めぐり」

●高速船で釜山をめさす

 秋の連休の良く晴れた朝、僕は博多国際ターミナルから、高速船「ビートル」に乗って、一路韓国・釜山をめざした。
 玄界灘を約三時間。途中、壱岐・対馬の島影が見えた。太古の倭人達も、この島影を頼りに、九州北部(筑紫)と半島南部(伽耶)の間を、豪快に行き来したのだろうな、などと思いをめぐらしているうち、船は釜山港に着いた。
 主な目的は博物館めぐり。そのひとつが「釜山近代歴史館」だ。数年前、訪れたことがあるが、その時は短時間の見学だった。今回は時間をかけてきちんと見学したい。

●日韓交流の玄関口

 釜山は朝鮮半島最南端の港町で、古来より日本(倭国)との交流の玄関口として発展してきた。白村江の戦で、倭国の百済救援軍は、釜山から韓半島に上陸した。元寇では、モンゴル帝国に動員された高麗水軍が、釜山から博多へ向かった。秀吉の朝鮮侵略軍は呼子・松浦から釜山に上陸し半島を蹂躙した。
 その一方、平和的な交流拠点としての顔もある。中世には倭館が設置され、高麗青磁等が博多商人を通じて日本にもたらされた。朝鮮通信使も、釜山から対馬・壱岐を経て、江戸幕府まで往還し、沿道の住民から大歓迎された。
 明治政府が江華島条約により三港を開港させると、釜山に日本人町を設け、日本商人が活動するようになった。ここから「日帝の朝鮮侵出」が始まる。やがて釜山から満洲まで、朝鮮を縦断する軍事目的の鉄道が敷設された。

●東洋拓殖会社の建物

 港からホテルに荷物を預け、南浦洞(ナンポドン)のお店で「ミルミョン」という釜山名物の麺類の昼食を済ませると、いよいよ歴史館をめざして、ガイドブックと街路の掲示板を見比べながら歩き始めた。「国際市場(クッチェシジャン)」「富平市場(プピョンシジャン)」、何となく大阪の「黒門市場」を思わせる広大な市場街を、迷いながら歩き続け、やっとめざす歴史館に辿り着いた。
 この建物は、もともと日本の国策会社「東洋拓殖会社(東拓)」の釜山支店だった。独立後、アメリカ文化院として使われていたが、市民の要望で一九九九年、釜山市に返還され「外国勢力の駐屯の象徴だった建物を、激動の近代史を知らせて教育できる空間として活用するため、2003年に釜山近代歴史館として会館した」(同館パンフレットより)。

●経済侵出の起点

 館内には、釜山における日本の経済浸出に関する経過が、様々な写真、パネル、ビデオで展示されていた。以下、パンフレットから引用する。

「1876年開港後、日本人は朝鮮の米を日本に持っていき、日本の工業製品を朝鮮市場に売るために釜山に渡ってきた。朝鮮末期に造成された草梁倭館が治外法権領域である専管居留地として解放され、日本人は朝鮮政府の干渉を受けずに自由に貿易ができた。」

「日帝は釜山を行政的に支配するために釜山府庁を設置し、その下の最小行政単位まで支配力を拡大した。特に朝鮮侵略の重要な目的である米収奪のために洛東江に堤防を築いて金海平野を造成し、朝鮮の小作農を収奪した。」

「日帝は釜山を大陸侵略のための踏み台とするために、海岸を埋め立てて市街地を拡大して港湾を造成した。埋立地には道路、港湾、倉庫など近代施設を設けた。」

「東洋拓殖会社は1908年日本が朝鮮を経済的に支配するために設立した国策会社である。この会社は朝鮮の米を安定的に供給して日本国内の没落した農民を救済することを目標としており、そのために農場経営と日本人移民政策を積極的に推進した。」
韓国の親子連れや若者達が訪れる中、日本の若者も結構多く、ビデオの「日本語」ボタンを押して聞き入っていたのが印象的だった。実はここは『地球の歩き方』レベルの詳しいガイドブックにしか載っていないので、ある程度問題意識がある人々と言える。そんなこともあってか、日本語ビデオを聞いている日本人を見ると、邪魔しないよう子ども達に静かにするよう諌めるなど、配慮してくれている気配を感じた。

●フレンドリーな市民

夕方、地下鉄で西面(ソミョン)の中心街へ。歩き回った末、屋台で「トッポギ」を注文した。これが予想をはるかに上回る「激辛」!汗を拭きふき頑張って食べていたら、屋台のおばさんが心配して「ベール?」(ビール飲みますか?)と勧めてくれた。おかげで冷たいビールで舌を冷やしながら、何とか完食!

帰りの地下鉄駅で乗り換えに迷っていると、サラリーマンのおじさんが「オディ・・?」(何処に行きたいのか?)と聞いてきた。とっさにカタコトで「ブサンニョック(釜山駅)」と答えると、「ああ」と言って、そちらに行く階段を指差して教えてくれた。

 昼食の店を探している時も、チラシ配りの若いお姉さんにカタコトで「オディ、ハルメカヤ、イムニカ?」(ハルメカヤ店はどこですか?)と地図を指して訪ねると、「ファースト・ターン、アンド、ターン・トゥ・ライト」(一つ目の角を右に曲がって)と、これまたカタコト英語で教えてくれた。

概して「釜山の市民は親切だ」と、リピーター達が口をそろえて言うのもわかる。ソウルへ行くと「都会なので」(?)やや違うのだそうだが。

●慶州と釜山の博物館で

二日目は、ガイドさんの案内で慶州(キョンジュ)日帰りツアー。
「石窟庵(ソックラム)」「仏国寺(プルグクサ)」「慶州博物館」など新羅の文化遺産を見学した。黄金の王冠や流線型の石仏の印象は一言で表せば「優雅さ」であり、百済の「素朴さ」、高句麗の「勇壮さ」と対照的である。倭国が新羅の「強さ」に反発しつつも、その「清新さ」に憧れた心境が何となくわかる。

三日目は、地下鉄を乗り継いで「釜山博物館」へ。
旧石器時代から高麗時代までの出土遺物を中心に紹介する「東菜(トンネ)館」。朝鮮時代(李朝)から近現代を中心に紹介する「釜山館」。植民地支配に抗する「三一独立運動」や「光州学生運動」、解放後の「一九六〇年の四月革命」をはじめとした民主革命の経過が展示されている。

特に最近『1987、ある闘いの真実』でも映画化された「六月革命」の記録映像は、催涙弾の中をデモ隊が突進するすさまじい闘いで、何人かの学生が命を落としたものだ。胸を突く映像を前に、僕は涙をこらえつつ、立ち尽くした。

●民主革命世代の人権意識

 こうして短い旅は終わった。

今回行けなかった「朝鮮通信使歴史館」や、「国立金海(キメ)博物館」(伽耶の歴史)等は、心残りだが、次回のお楽しみとしよう。
帰国して職場の人たちから「日本人に風当たりが強くなかった?」とよく聞かれるが、どう説明したらいいのか、一九八七年の民主化革命の流れが続く中で、韓国の若い人々は、人権意識が日本以上に進んでいるように感じる。日本の安倍政権に対する批判はしっかり主張する一方で、行き過ぎたナショナリズムに対しても、きちんと諌めるセンスが定着しているとも感じる。

この実感は現地に行ってみないと、なかなかわからない。とにかく韓国を訪れてみよう。博物館で歴史を学び、現地の人々と触れあうことで、日本の報道では伝わってこない、今の韓国市民に流れる「新しい政治文化」が見えてくるのではないだろうか。(松本誠也)案内へ戻る


 コラムの窓・・・逆風か?

 9月19日午後、私は「原発賠償ひょうご訴訟」31回口頭弁論を傍聴すべく神戸地裁に向かいました。原告側の準備書面では、東北電力や日本原電は津波対策を行っていたのに東電が故意に対策を怠ったことを指摘しました。また、損害論ではあれこれの出費を積み上げた数字でははかれない、家族や生活やコミュニティの喪失の重大さも指摘されました。

 例えば、多様な葛藤・苦しみとして、子育てにおける苦労、家族分離に伴う孤立感、避難元での人間関係、命綱である民間借上げ住宅の不安定さや打ち切り、があります。福島に住み続けている人たちからはやっかみや批判、裏切者扱いされるというようなことがあります。また
、借上げ仮設などの提供が打ち切られ、追い出しや2倍の家賃支払いを求められるような事態にもなっています。

 この日、東京地裁では東電刑事裁判の判決があり、すでに被告たちに〝無罪〟が出たことは明らかになっていたところですが、報告会で原告の女性が〝過呼吸を起こしそうになった〟と発言されました。全国で30カ所以上、1万人を超える原告が原発賠償を求めるなかで、原告側は6勝3敗と頑張っています。

 しかし、8月の名古屋では敗北、群馬裁判では国側が避難者が福島にいる人々の心情を害している、原告は国土に対する不当な評価をする人たちと主張したということです。これは、自主避難者にしばしば投げつけられている〝歩く風評被害〟という非難を国が公認したも同然です。

 帰宅して東電刑事裁判の判決の報道を見ました。クロ-ズアップ現代+でも取り上げていたので、関心をもって見ました。昼の裁判で指摘された東電が津波対策への出費をケチったこと、そのことを隠すために東北電力と日本原電に口止めしたこと、これを「原子力業界〝横並び〟が生んだもの」としっかり報道していました。

 東京地裁の判決は企業犯罪における経営者の罪を問うことの困難(水俣病事件では業務上過失致死傷害罪で社長と工場長の執行猶予付き有罪判決が確定していますが)を示したものであり、やっぱりそうかという思いです。しかし、この〝無罪〟判決は東電が免罪されたことを示すものではありません。

 また、強制起訴によるこの裁判が無駄だったことを示すものでもありません。裁判の過程で、多くの隠されていた事実が明らかになっています。検察が持っているけど明らかにしないことがら、それらはしばしば再審請求で無罪を明らかにするものだったりするのですが、不起訴になれば検察のロッカーに仕舞い込まれるものでした。

 ここにきて、維新の松井大阪市長が汚染水を大阪湾に流そうなどと言いだしました。これは、2022年夏には処理水タンクが限界という赤信号に手を差し伸べるものであり、邪魔物は捨てて原発延命へと向かおうというのでしょう。これは逆風か、いや反撃の合図としよう。 (晴)

*次回口頭弁論は12月5日(火)午後2時、神戸地裁大法廷


 「エイジの沖縄通信」(NO.66)・・・「横浜米軍機墜落事故から42年」

 東京新聞のコラム「編集局/南端日誌」(9月5日付)を読み、横浜での米軍機墜落事故の事を思い出しました。

 このコラムを書いた記者は「小学3年の運動会の日。弁当を食べ終えて教室の窓から何げなく外を見ていた時だった。飛行機が黒煙を噴きながら急降下し、直後に大きな煙が上がった」と書き始めている。

 私もこの墜落事故の記憶はあるが、もうかなり昔のことなのでほとんど忘れかけていた。

今から42年前の1977年9月27日午後1時すぎ、厚木基地を飛び立った米軍のファントム偵察機が横浜市緑区荏田町(現在の青葉区荏田北)に墜落した。

その日、戦術偵察機ファントム機は、厚木から千葉県館山の東南沖に待機する空母ミッドウェーを目指し離陸した。離陸後すぐエンジンから出火し、2名の乗員はパラシュートで即時脱出。ジェット燃料を満載した無人の機体は緑区の上空に取り残され、火を吹き轟音を立てて墜落した。離陸からわずか3分後のことだった。

 墜落現場は閑静な住宅街。まだ土だったここに墜落の衝撃で4メートルの穴が開いたという。炎は一瞬で6軒の家を焼き尽くし9名が負傷。

 中でも、墜落の衝撃で分解したエンジンの直撃を受けた土志田和枝さん(当時27歳)と、ご主人の妹さん(26歳)は、衣服が焼け落ちた姿で2人の子どもを抱え、黒煙の中から飛び出したという。しかし、3歳と1歳の幼い兄弟は大やけどで死亡し、母親の土志田さんも4年4カ月の治療もむなしく亡くなられた。

 米軍機の墜落事故と言えば、私はすぐに沖縄の宮森小学校への墜落事故を思い出してしまう。

 墜落事故は沖縄戦が終わって14年、戦場の辛酸をなめ尽くした人々が、ようやく生活の落ち着きを取り戻した頃の事故だったと言う。

 1959年6月30日午前10時40分ごろ、嘉手納基地を離陸した米軍のジエット戦闘機が、石川市(現うるま市)の住宅地域に墜落炎上し、宮森小学校の校舎に激突した。

 死亡17人(児童11人、一般6人)、重軽傷210人(のち後遺症で1人死亡)。米軍統治下の沖縄で起きた最大の墜落事故から今年で60年になる。

 生き残った子どもたちには長くトラウマ(心的外傷)が残った。「思い出したくない」「そっとしてほしい」と、事故について語るのを避けていたと言う。口を閉ざしていた遺族が「忘れたくない」「忘れてほしくない」という気持ちを抱くようになったのは、被害関係者がNPO法人「石川・宮森630会」を結成し、資料館の設置や証言集の発行など、積極的に記憶の継承に取り組んできたからだと言う。

 横浜でも悲劇を繰り返さないためにと、事故の実態を伝え続けている人がいる。

 斉藤真弘さんは「自分の子どもと犠牲になった2人の年齢が近く、人ごととは思えなかった」「こんなことがあっていいのか。二度と起こしていけない」との思いから活動を始めたと言う。

 1986年に「横浜米軍機墜落事故平和資料センター」を設立。志を同じくする人が持ち寄った新聞記事や現場の写真などを自宅で整理して希望者は閲覧できるようにしていると言う。私も一度、訪問したいと思っている。

 今の日本の現実は、この頃と同じように米軍機は日本中の空を好き勝手に飛び回って訓練をしている。特に欠陥機「オスプレイ」は、沖縄・本土各地で事故や落下物を起こし大問題になっている。

オスプレイの忘れられない事故が、沖縄県名護市の浅瀬で大破したオスプレイ事故である。大破した機体の写真を掲載しながら、多くの日本の新聞は第一報に「オスプレイ不時着」や「着水」の見出しであった。「墜落」と報じたのは地元の「琉球新報」だけだったと思う。

 国民の命と財産を守る日本政府の責任は思い。多くの関係者がすぐ取り組むべき課題は「日米地位協定の改訂」(ドイツ・イタリア並みに)であると指摘しているが、政府の対応はまったく鈍い。

最後に、横浜の米軍機墜落事故について詳しく知りたい方に、『米軍機墜落事故』(河口栄二著/朝日新聞社)と、亡くなった土志田和枝さんが生前書いた日記をまとめた著書『あふれる愛に』(新声社)を紹介します。(富田英司)案内へ戻る


 色鉛筆・・・関東大震災時の虐殺を悼み記憶する

9日7日(土)、東京荒川の河川敷で行われた『関東大震災96周年/韓国・朝鮮人犠牲者追悼式』に初めて参加した。

 残暑の厳しい午後でも、木根川橋鉄道高架下の日陰には心地よい風が吹き抜ける。ここは虐殺事件のあった場所だ。この日の参加者約380人が、用意された椅子に座り、始めに李政美さんの追悼の歌に耳を傾ける。その後あいさつに立った80代の在日二世の男性もまた、胸を打つ『よいとまけの歌』を披露、そして最後に「過去に向き合わなければ、また同じ過ちを繰り返す。」との言葉で締めくくった。

式の終わりは、太鼓や鉦をならしての踊り「追悼のムンプル」。テンポ良いリズムに、誰もが踊り出す。多勢の輪の中で、真っ白なチマ・チョゴリの女性のあでやかな舞がひときわ目を引いた。

一般社団法人「ほうせんか」の主催するこの催しは、虐殺された人々の遺骨を捜す目的で、1983年9月に河川敷の「試掘」を行ったことから始まり、『関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会』を発足。以後、調査、聞き取り、追悼などに取り組む。2009年には荒川の土手下に土地を取得し、追悼碑も建立した。当初は虐殺現場だった河川敷への建立をめざしたものの国土交通省の許可が下りず、碑は土手下の民家の間に建ち、隣に「ほうせんかの家」を設け、展示を行ったり語り合う場となり、近隣とも良い関係を保っている。

 この日「悼」と刻まれた碑の前にひざまずき、長く祈り続ける男性の姿があった。96年後の今もまだこの事件は終わっていないのだということが伝わってくる。

この会場で手に入れた、ちくま文庫『証言集・関東大震災の直後・朝鮮人と日本人』(西﨑雅夫編/筑摩書房)では、子どもの作文・庶民・文化人・公的資料等、約180編が生々しい虐殺の実態や当時の様子を伝えている。

1923年9月1日、突然の大地震と共に、昼食時の火が折からの強風にあおられ、瞬く間に広がり大火災となった。余震も続く恐怖と不安の中、「朝鮮人があちこちに火をつけている」「井戸に毒を入れている」「強盗・殺人・強姦をしながら大挙してこっちに攻めてくる」といった流言飛語が、前述の火のごとく瞬く間に広まり、町ごと村ごとに組織された自警団、在郷軍人らが竹槍や長刀、鉄棒などで武装し、やがて「殺人狂集団」と化していった。軍や警察も、銃剣や機関銃などで多数の人を虐殺した。本書の中に「あまりに残酷な殺害方法で筆に記すのも嫌だ」との一文や、さらにその死体を、子ども連れの老婆が「この悪い朝鮮人めが!」と痛めつける場面もある。読み進むうちにあまりの酷さに、私は何度も本を伏せてしまった。

最も忘れてはならないのは、当時の日本政府は実態調査を行わず、それどころか事件の隠蔽を図ったことだ。さらには朝鮮人自らによる調査をも妨害した事だ。わずかに内閣府の中央防災会議の報告書から「震災による死者数、10万5385人の1~数%」の記述から、犠牲者は千~数千人と推測されるのみ。今もなお遺骨の行方すら分からない。

毎年の追悼式に、2000年以降の歴代東京都知事が送ってきた追悼文を、小池知事は3年前から送っていない。ヘイトスピーチが蔓延し、嫌韓報道があふれる今の日本は「また同じ過ちを繰り返す」かもしれない危機的状況にある。こうした現状から『「危機感から追悼行事を守ろう、忘れまい」という機運が広がる。皮肉なことです。』とほうせんかの愼民子氏は語る。政府として一刻も早く、事実の調査、検証そして謝罪に取り組むべきだと思う。(澄)


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