ワーカーズ609号 (2020/8/1)
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大阪市を廃止・分割するトコーソー反対!
維新は、大阪市を廃止し4つの特別区に分割しようとする「大阪都構想」をやろうとしています。
11月1日(正式決定ではない)にも、「大阪都構想」の住民投票を強行しようとしています。
「大阪都構想」と言っても、大阪都にはなりませんし、副首都にもなりません。だから私はトコーソーと呼んでいます。
トコーソーは、大阪市を廃止し、4つの特別区に分割する構想です。大阪市も特別区もどちらも基礎自治体ですが、大阪市は政令指定都市で権限と財源が大きいのに対し、特別区は権限も税源も小さい弱小自治体です。トコーソーは大阪市を4つの特別区にバラバラにしたうえに、弱小自治体に「格下げ」するものです。
基礎自治体が貧乏になるということは、住民生活が貧しくなるということです。
住民サービスのほとんどは基礎自治体が実行しています。子どもが生まれれば基礎自治体に出生届けを提出し、その子どもが通う小中学校は基礎自治体が運営、高齢者の介護保険も基礎自治体の仕事です。基礎自治体がしっかりしているかどうかは、住民生活に直結します。
大阪市の人口は現在、約270万人です。4つに分かれると、1つの特別区の住民は約60万人~約75万人になります。
大阪府内にできる4つの特別区は、「人口だけ政令指定都市並み」の弱小自治体です。
大阪府からお金をもらわなくては、基礎自治体の最低限の役割すら果たせません。
特別区民になっても支払う税金は変わりません。同じ税金を支払っているのに、自分が暮らす基礎自治体は弱体化し、貧乏になるという理不尽なことが起きるのです。
2015年5月17日の住民投票の際には「大阪市の中に特別区ができる」という誤解が広がっていました。特別区を作ろうとしたら、大阪市は廃止するしかないのです。橋下徹元大阪市長は、2015年の住民投票の際大阪市は廃止・解体されないと虚偽のことを語っていました。
現在衆議院の解散総選挙がうわさされていますが、維新は衆議院選挙と住民投票を同時にやろうとしています。そうなれば、公職選挙法で衆議院選挙の規制がかかります。住民投票の活動で、ビラを配れない、街宣車を使えない、マイクを使えないということになります。
前回の住民投票での投票用紙は、「大阪市における特別区の設置についての投票」「一特別区の設置について賛成の人は賛成と書き、反対の人は反対と書くこと。ニ他のことは書かないこと」とあり、大阪市廃止の文言はありませんでした。詐欺投票用紙です。
トコーソーは、大阪市の権限と財源を大阪府に移行するものですが、これで大阪市以外の府民のためにお金を使うのではありません。カジノや万博など大型開発にお金を使うだけです。
住民にとって何もいいことがない、トコーソーにストップを! 維新府政・市政の転換を!(河野)
タガが外れた借金財政――もはや財政再建は不可能――
コロナ過で財政による巨額出費が止まらない。
医療や生活・経済の下支えのため、新型コレラ対策として二次にわたる補正予算が組まれた。
これらの財政支出は、未曾有のウィルス禍対策として必要な面もあった。が、それらの財源はすべて国債発行による借金財政だ。
財政支出は一気に縮小できないので、今後も借金財政は続く。その財政の先行きはますます不透明になった。もはや、地道な財政再建は不可能だ。この先はどういう事態が待ち受けているのだろうか。
◆膨らむ借金財政
この記事を書いている7月25日は、政府によるGoToトラベルでのドタバタぶりが繰り返されている真っ最中だ。
GoToキャンペーン事業は、8月中旬以降に順次開始予定だったが、GoToトラベルに限って7月22日からに前倒しして実施するとしたことに絡むドタバタ劇だ。7月末の4連休に間に合わせて実施して欲しいという自民党と関係が深い旅行業界による要請があったからだ。
しかし不運というか、一端終息するかに見えた新型コロナの感染は、7月中旬から再び急速に拡がってきた。混乱した政府は、感染が急増している東京を除外してGoToトラベルを見切り発車したため、キャンセルが相次ぐなど、混乱は収まりそうもない。
そうしたドタバタ劇の裏で深刻度を深めているのが、補正予算などで膨らんだ財政赤字とそれが積み重なる借金財政の行く末だ。
その借金財政、2回の補正予算だけで58兆円、当初予算と合わせて90兆円にもなる。なんと20年度の160兆円の財政支出の56・3%を借金に頼っていることになる。
緊急時に借金をしてでも財政支出が必要となる場面は、確かにある。だからこそ、通常時の財政健全化が欠かせないわけだ。が、現実は正反対。普段から放漫財政を続け、緊急事態が生じても財政の余裕などまったく無い状況だった。それが今年の90兆円の国債増発で、財政支出のタガが完全に外れてしまったのだ。
◆なくなった返済の見通し
いうまでもなく、日本の財政は先進国でワーストワンだ。
19年度の国と地方の長期債務は約1300兆円、対GDP比で237・4%にもなる。国債残高だけでも20年度末の時点で964兆円になる。日本の人口は、現時点(20・7・1)で1億2596万人だから、国民一人あたり約1000万円(国債だけでは約765万円)の借金を抱えている勘定になる。3人家族で3000万円(国債だけでも2295万円)だ。こんな借金を国民から増税で取り立てることなど、できるわけがない。
政府は、プライマリー・バランス(PB)、すなわち基礎的財政収支(毎年の政府支出をその年の税収でまかなうこと)を25年度に黒字にする目標を掲げていた。が、今年の1月17日、25年度でも赤字が解消されないという試算を発表している。
安倍内閣は、これまでも18年度には実現させるはずだった黒字化を5年先送りして23年に設定してきた経緯もあり、その都度先送りしてきたのが実情だ。今回の試算も同じで、PBよりも、毎年の財政支出を優先させてきた結果でもある。そのうえの今回のコロナ禍にともなう巨額の借金だ。
現時点で、20年度の当初予算段階では9・2兆円の赤字だったが、補正予算後には66・1兆円の赤字になり、もはや、PBなど語れないような状況に陥ってしまったのだ。
安倍政権発足後、財政支出はどんどん増え続け、20年度の当初予算だけでも102兆円と、100兆円を超えている。しかも、決算時に余剰金が発生しても、それを借金削減に回さないで毎年のように組まれてきた補正予算で使ってしまっているのだ。
要するに、、政府は財政再建のための借金返済よりも、財政支出でばらまくことを優先してきたのだ。私たち国民の側もそれを期待・容認してきたのが実情だ。こんな財政のあり方を続けていては、財政再建などできるわけがない。
◆インフレによる〝解消〟
では増え続ける赤字財政を、どう改善していくのか。
解決策は三通り考えられる。
一つは、毎年の歳出削減と増税で少しづつ国債を償還して国の借金を減らしていくこと。二つ目は、債権放棄などで国の借金を棒引きすること、要するに現代版「徳政令」だ。三つ目は、インフレを引き起こすか、あるいは発生したインフレをなるがままに任せるのか、だ。
結論から言えば、一つ目の歳出削減と増税を続けることは、国民に対して長期にわたる禁欲生活を強いるので、政治的にやれないし、二つ目の「徳政令」は、あまりに強権的で打撃や反発も大きいので、まずやれない。
考えられる解決策は、三つ目のインフレによる借金の実質的解消だ。
そのインフレによる解決については、通常のインフレとハイパー・インフレ(高率のインフレ)の二通りが考えられる。この場合、毎年10%のインフレを放置すれば、ほぼ6~7年後には物価は倍になる。逆に、貯金や借金は半分に目減りする。政府の借金1000兆円は、実質500兆円に縮小する。
あるいは一年間に物価が10倍になるハイパー・インフレが起これば、全ての人の貯蓄や借金は10分の1に目減りする。国の借金は10分の1、実質100兆円に縮小する。次の年も10倍のインフレが続けば、国の借金は実質10兆円に縮小する。たった2年で、ほぼゼロになる。
こんな魔法のような借金解消だが、裏側から見れば、老後のためなどで蓄えてきた預貯金を含む国民の金融資産が10分の1、100分の1になることだ。国民からの収奪で国の借金を解消することになる。
戦後の日本では、こんなハイパーインフレは戦争直後だけだった(1945年10月から1949年4月までの3年6か月の間に消費者物価指数は約100倍となった)が、小規模なものは、73~4年の第一次石油ショックでも起きた。狂乱物価とも言われたそのときは、物価が73年は11・7%、74年は23・2%上昇し、74年の卸売物価は31・4%上昇した。結局、72年を100として、3年後の75年までに、158%も上昇してしまった。
春闘での賃上げでも73年で20%、74年で33%引き上げられたが、インフレの打撃は労働者に集中した。とりわけ、このときは、3年間で、預貯金などの個人資産は財産はほぼ6割も縮小・収奪されていたのだ。100万円の貯蓄が6割目減り、実質40万円程度に目減りしたからだ。利息を考慮に入れなければ、実質60万円の収奪である。
こんな事態になるとは考えたくもないが、日本の財政が、そうしたことも考えざるを得いほどの借金地獄にあることも、また現実なのだ。
◆無責任な安易な楽観論
こんな借金財政を前にして、そんなに心配ない、という声もある。
理由は、国債の引き受けが外国ではなく、国内の個人金融資産が支えているから、国債の信認が崩れることもないし、借金はいずれ返していける、というものだ。
20年3月末の個人金融資産残高は、前年比10兆円減(0.5%減)の 1845兆円だったという。現時点の国の借金が1000兆円だったとしても、個人金融資産が1800兆円もあるので、外国から借金するわけでもないので、心配ない、という見方もある。現実は、金利引き下げのため日銀が485兆円も引き受けており、こちらも禁じ手だと警戒視されている。
他にも、財政再建は、緊縮財政と増税によってではなく、経済を成長させること(GDPを拡大すること)で、借金の比重を引き下げていける、という説もある。いわゆるリフレ派の主張だ。だが、「失われた20・30年」と言われるように、ほぼゼロ成長が続く日本では、急成長など見込るはずもない。
しかも、日本では今後も少子高齢化がこれまで以上に進む。高齢者の老後生活に際して個人金融資産を取り崩して生活費に充てるケースも増えている。現にこの1年間でも、個人金融資産は10兆円減少しているのだ。
それ以前の問題として、国の借金1000兆円は、すでに財政支出で使い切ってしまったものだ。だから、個人金融資産が1800兆円あると言っても、実際はそのうち国が借金して1000兆円は使い切ってしまっていることになる。帳簿上の数字はあるにしても、現実には半分以上は存在しないも同然なのだ。
この個人金融資産の1800兆円と国の借金1000兆円と日銀保有の485兆円という数字の行く末は、そのつじつま合わせを迫られる場面が必ずやってくる。それがどんな形となって現れるかは、未だ不透明だという以外にない。
◆インフレの足音
日本の財政赤字は、すでに世界からも注視されている。
日本の国債について、米国の格付け会社は、この6月に、日本の財政安定化の後退だとして、格付け見通しを引き下げた。日本国債の信認が揺らげば、国債価格は下がって金利は上昇する。そうなると政府の借金の利払いが増え、借金が雪だるま式に膨らむ恐れも出てくる。そうした事態になれば、もはや地道な財政再建は不可能になる。
あるいは低金利政策のため、日銀は大量の国債を購入しているが、その代金が当座預金として日銀に積み上がっている。今は投資先もないのでそれが日銀口座に塩漬けにされているが、それが市場に出回るようになれば、それもインフレ圧力として作用する。通貨価値が暴落しないとも限らないわけだ。
現に、今年のコロナ禍もあって、日本の財政や円の価値に疑問符がついている。例えば金=金地金の値上がりだ。
今回の補正予算での国債増発による借金財政は、モノやサービスの生産がない中で、人工的に需要を58兆円も作り出した。需要が供給を上回っているので、こちらもインフレ圧力となる。そんなインフレの足音が聞こえてくる中、非常時に資金の逃避先にもなる安全資産としての金相場が急上昇している。
金価格は、19年12月の金1グラム=5218円だったものが、20年6月の金相場は6043円、たった半年で約15%も値上がりしている。ドル建てでも1オンス=1476ドルから1732ドルへの値上がりで、同じような上昇率だ。これだけではなんともいえないが、一部では、インフレを見込んで資金逃避が始まっているともいえるのだ。
日本の財政は滝壺の手前の川の流れに似ている。いつ奈落の底に突き落とされるのか、誰にもわからない。しかしその危機へ向かって漂流しているのが、日本の財政の現実なのだ。
アベノミクスも安倍政権も、コロナ禍と一緒に追放する以外にない。(廣)
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働く者にとって「安倍政治」とは何だったのか?
「何だったのか?」と過去形で語るのは早すぎると言われるかもしれませんが、もはや多くの働く者にとって安倍政治は「早く終わってほしい」というのが正直のところではないでしょうか?にもかかわらず、未だに「延命」しているのは、どういうわけなのでしょうか?いろいろな声が聞こえてきます。
「ウソツキの安倍首相は今すぐ辞めろ」。「逮捕を逃れるために解散総選挙に撃って出るのでは?」。「岸田に禅譲し院政か?それとも石破か河野か?つなぎで麻生か?」。もちろん、それぞれ一理あるのですが、問題が多すぎて今や安倍政治の「何が問題なのか」すら、よくわからない状態ではないでしょうか?
そもそも、どうしてこんなことになっているのか?今の時点で、改めて安倍政治の「構造的な矛盾」について整理してみました。
Ⅰ 政治の「三つの顔」とその関係
「安部政治」にはいくつかの顔があります。第一の顔は「憲法改正をめざす」という顔。第二の顔は「アベノミクスを推進する」という顔。第三の顔は「森友・加計等の疑惑と隠蔽」という顔。実はこれらの三つの顔はつながっていると思われますが、ではどのような関係になっているのでしょう?
(1)「改憲」と歴史修正主義
第二次安倍政権の最大の目標は「憲法九条の改正」であり、そこへ向けてすべての政治的画策が向かっているといっても過言ではないでしょう。
しかも、どういう「改憲」かというと、復古主義的イデオロギーと深く結びついているところに、大きな特徴があります。
その復古主義とは「大日本帝国の栄光」を復活したい、「歴史修正主義」(侵略戦争や満州・朝鮮の植民地支配を正当化したい)、河野・村山談話の否定(特に慰安婦問題を「捏造」と強弁)、そういう復古主義イデオロギーの復権の証しとしての「憲法九条」の改正なのです。それを首相の任期中に、何が何でも達成しなければならない至上命題と位置づけているのです。
これを全面的にバックアップするのが「日本会議」に結集する民族派や国家神道系の右派、さらにリビジョニスト(歴史修正主義者)、ディナイスト(慰安婦捏造論者)たちです。第二次安倍政権が成立した日に「私達は小躍りして万歳を叫んだ」と言います。彼らは、同じ考えの仲間と「ティーパーティー」的な集まりを組織し、「ロビースト」として地方議員や国会議員に「議会請願」や「決議」を働きかける活動に重きを置いているものの、自分自身ではあまり政治家として登場せず、マキャベリスト的政治勘にはやや欠けるところがありますが、信条的には強固な人々です。
しかし、こうしたコアな日本会議や右派の支持を集めるだけでは、国会でいくつかの反動的な法律は通せても、憲法改正の国会発議に必要な三分の二の議席獲得までは、ハードルが高いのが実情でした。そこで・・・政権の支持基盤の裾野を広げるため、次の策がセットで出てきたのです。
(2)「アベノミクス」とバラマキ政策
安倍政権の経済政策は「異次元の金融緩和」と「大規模な財政出動」と「成長政策」でデフレ脱却を目指すというものですが、それだけなら他の首相でも同じようなことを考えるかもしれません。
安倍政権にとっては、支持層拡大のため右から左まで幅広く「ウィングを広げる」ことに意味があるといえます。しかも「痛みを伴わない」改革であることが重要です。政権支持層の裾野をひろげるためなら「ばらまき政策」でも「人気取り」でもかまわないわけです。
国債を乱発し日銀が買い入れる財政ファイナンスや、日銀が市中にマネーを供給することにより、円安へ為替誘導し輸出額を水増し、株高で資産バブルを起こし、富裕層に恩恵を与えました。そして、それらのトリクルダウン(おこぼれ)として、「賃上げ」「雇用回復」「働き方改革」「地方創生」「女性が輝く社会」「子どもの貧困対策」「保育・教育無償化」「全世帯型社会保障」「外国人材導入」「消費増税の延期」といった、本来なら社会民主主義者が打ち出すようなメニューで、人気取り政策を次々と打ち出し「やってる感」も演出し、特に若者層の支持を広げることに腐心してきました。
確かに、非正規雇用中心とはいえ雇用は増え、若者のゆるやかな支持を広げることはできました。しかし、いくら若者に人気取りのばらまきを積み重ねても、それがそのまま「憲法改正」とりわけ「国民投票」での過半数の賛成につながるわけではありません。若者の支持が「改憲への賛同」につながらなければ、安倍政権にとって意味がありません。そこで・・・さらに次の策が必要になってきたのです。
(3)「お友達」優遇策と不祥事の多発
憲法改正に賛成する国民的気運を高めるためには、「日本会議」のようなネクラな勢力とは別に、いろいろな世俗的シンパの育成が必要です。特に安保法制強行に対する世論の激しい反発に直面した安倍政権は、焦ってそういう画策に走ったきらいがあります。
森友学園への土地売却優遇は「教育勅語」を取り入れた私学を育成するためでした。加計学園への許認可優遇は「防疫研究」(細菌兵器からの防衛)に力を入れる獣医学部を設置するためでした。これらは、お友達による「タカリ」の性格もあり、独特の怪しい経過をたどり、さまざまな不祥事が暴露され、その隠蔽工作に帰着し、改ざんを強要された財務局職員の痛ましい自死まで引き起こしました(遺族が裁判に立ち上がっています!)。
桜の会前夜祭も、安倍首相にとっては改憲応援団の培養であり、集まってくる参加者にとっては「ツーショット」写真を利用して商売に利用するメリット目当てもあったでしょう。
河井夫妻による参院選買収事件も、「溝手追い落とし」を通じて平和の地・広島における宏池会(自民党内ではハト派)を切り崩す思惑が透けて見えるし、立身出世をめざす河井議員側がもちかけた面もあるかもしれません。
持続化給付金をめぐる電通優遇策も、CMを通じた世論工作で「改憲」キャンペーンの片棒を担がせる目論見があってのことでしょうし、経産省出身の官邸側近の利権誘導という性格も見え隠れします。
こうして各界各層に安倍シンパ(改憲応援団)を育成し、うまくいけば若者に人気のタレントやアイドル歌手、お笑い芸人やアニメ声優などを総動員し、「新しいケンポウ!新しいニッポン!」といったキャンペーンを繰り広げる構想もあるでしょう。
ですからこうした「お友達優遇」は、単に安倍晋三個人の「私利私欲」からだけ生じているわけではなく、みんな「改憲」へ向けた国民的世論喚起のコマとして動いてくれることを期待していたと見るべきです。
ところが、その彼らの「タカリ」の本性が災いして、次々とボロを出して、必ずしも成功してはいないのですが。とはいえ、こうした画策に際して、後で「発覚」した時に安倍自身に「足が付かない」よう、予め「口封じの仕掛」まで講じていたフシがあるところは、祖父の岸信介が満洲でやってきた謀略の手法を彷彿とさせ、薄気味悪いものを感じさせます。
Ⅱ 安倍政治の「延命・復活」を許さないために
このように安倍政治の三つの顔は、究極的には「憲法改正」(第一の顔)それも復古主義イデオロギーの復権としての改憲という大目標に向け、「アベノミクス」(第二の顔)という痛みの無いバラマキ政策で左右にウィングをのばし支持層を拡げ、さらに「お友達優遇」(第三の顔)で改憲応援団を育成し、不祥事が露呈してもトカゲの尻尾切りで乗り切ってきたのが「構造的特徴」といってもよいでしょう。
今はその「第三の顔」(不祥事)の汚らしさが際立って、真面目な有権者の嫌悪感を呼び起こしているので、「安倍政治は終わった」感が国民の間にただよっているのは、必然的ななりゆきと言えます。「退陣」を表明したわけでもないのに、来年の総裁選挙や衆議院選挙を待たずに「安倍政治は終わった」と多くの国民が感じているのは、単に不祥事が相次ぎ愛想が尽きたというレベルに留まらないと思います。
特にコロナ禍への対応では、初動段階で「黒川人事問題」で頭が一杯だったため後手に回り、復古主義的性格が災いし韓国や台湾の迅速な対応に頑なに学ぼうとしないなど、あらゆる面で弊害が露呈したことを国民は見ています。
とはいえ、なおも安倍政権はなおも「延命」しつつ「復活」の機会をうかがっています。普通なら「国民の信を失った」と潔く退陣表明してもおかしくない状況です。しかし安倍首相は辞めるわけにはいかないのです。なぜなら復古主義的な「憲法改正」という悲願の成就こそが、祖父の岸信介から受けついだ「ミッション」であると自己暗示しており、ほとんど強迫観念とさえいえる政治的情念を抱いているからです。
それゆえ「解散総選挙で起死回生を狙っているのでは?」とか「性懲りもなく総裁四選をもくろんでいるのでは?」とか「緊急事態条項を理由に憲法改正に撃ってでるのでは?」とかの疑心暗疑の声も現実味を帯びてくるのです。
私達の側も、「ウソツキの安倍」とか「私利私欲の安倍」とかいった感情的な「反安倍」意識に流されることなく、そもそもなぜ安倍政治を終わらせなければならないのか?その原点を、「改憲」「アベノミクス」「お友達不祥事」の各側面から考察しつつ、「労働者の視点」からしっかり組み立てる必要があるでしょう。(松本誠也)
パンデミックで問われる生態系の破壊
二〇〇三年のSARS、二〇〇九年の新型インフルエンザ、二〇一四年のMARS、そして今回の新型コロナ肺炎と、今世紀になって呼吸器感染をもたらすウィルス感染症が、相次いでパンデミックを引き起こした。その背景に、大規模な開発による野生動物の生態系破壊や、大規模な食用野生動物市場、工業的な畜産・養鶏のあり方が問題とされる。自然の野生動物との共存では無害であったウィルスが、生態系の攪乱とストレスによる変異によって、ヒトに対する病原性を発揮するようになっているからだ。そこで何人かの専門家の警告を見てみたい。
●工場式の畜産・養鶏が温床
『ニューズウィーク日本版(6月24日)』の特集「COVID-19のすべて」の中でローリー・ギャレット(米外交評議会シニアフェロー[当時])は「09年豚インフルという教訓」で、二〇〇九年の新型インフルエンザをもたらした、アメリカ南部とメキシコの養豚を介した感染を報告し、次のように述べている。
「より根本的な対策として、今の畜産の在り方を見直すことも必要だろう。大規模で密集した農業生産が地球の生態系を脅かしている。狭い区画に何万羽、何万頭もの家畜がひしめく養鶏・養豚場の光景は異様だ。繁殖用の家畜が世界各地に空輸されれば、ウィルスも一緒に空を飛んでいく。そして真っ先に犠牲になるのは、感染した家畜と接触する機会の多い低賃金の出稼ぎ労働者だ。」
「今の工場式畜産は、豚と鳥のインフルエンザが発生し、ウィルスが変異を遂げるのに好都合の状況を生み出している。この状況にメスを入れなければ、スペイン風邪の流行をはるかに上回る史上最悪のパンデミックがいつ起きてもおかしくない。」
●野生動物の乱獲と野生動物市場
『銃・病原菌・鉄』の著者でもあるジャレド・ダイアモンド(カリフォルニア大学ロサンゼルス校・地理学教授)は『週刊文春WOMAN(2020夏号)』のインタビューで、次のように述べている。
「新型コロナの起源は野生動物市場です。市場で取引されている食用の野生動物が持つウィルスが人に感染したのです。03年にパンデミックとなったSARSの場合、コウモリ由来のウィルスに感染したハクビシンが市場で売られていたため、後にそれが人にも感染しました。新型コロナもまたコウモリと、ハクビシンが持つウィルスに似ていると言われています。おそらく、SARSと同様に武漢の市場で売られていたコウモリのウィルスが、ハクビシンを介して人に感染したのでしょう。」
「中国は感染拡大後、野生動物市場の閉鎖に踏み切りました。しかし今もまだ、伝統的な医療用目的で取引されるルートは残っています。またアジアには、他にも野生動物市場があり、私はそれらも閉鎖すべきだと思っています。市場がある限り、新たな感染症のウィルスが出現するのは時間の問題です。現代では、天然痘やスペイン風邪が流行した時代にはなかったジェット機がウィルスを世界中に拡散するので、あっという間にパンデミックが起こるのです。」
小規模で局所的な狩猟の状況では、こうした問題は起こりにくかっただろう。しかし大規模な食肉商業目的で、野生動物の乱獲が行なわれており、それがウィルスの生態系を攪乱しているのである。
●現代の食生活の見直しも
実は大規模な工場式畜産は、その飼料用に大量の大豆を必要とし、そのために森林を伐採し、広大な面積の飼料用大豆プランテーションが営まれている。豆の生産を飼料用でなく、人間の食材に活用すれば、何分の一ですむのである。
私達もまた、過度な肉食依存から、「豆たんぱく」の食事の効用を見直すことも必要ではないだろうか?インド地元の家庭で食されるカレーは「薬膳料理」でもあり、具も肉中心ではなく「豆」(レンズマメ等)が中心であるという。和食でも「豆腐」や「がんもどき」「枝豆」をはじめ、伝統的でヘルシーな「豆」料理が見直されている。
現代人の「食のあり方」も生態系を通じてパンデミックとつながっていることを、改めて考えたい。
(松本誠也)
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読書室 佐々木隆治氏著『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想 』角川選書 2018年7月刊
○佐々木氏はマルクスの経済学批判を他のあらゆる経済学から根本的に区別するものは経済的形態規定の批判的分析だと指摘する。本書において佐々木氏が追求するのは、既存の「マルクス主義経済学」が軽視してきた経済的形態規定を主軸に据え直した上での『資本論』の正確な理解である○
角川ソフィア文庫に「ビギナーズ・クラシックス」のシリーズがある。これは、日本や東洋の古典の抜粋とその現代語訳と解説で構成され、原文を味わいながらその古典を理解できるように仕上げられている。この成功に裏付けられ、同様の体裁で西洋思想シリーズを刊行することとなった。その企画の第一弾の出版物が、マルクスの『資本論』である。
この読書室でも佐々木氏の本は既に2回取り上げたことがある。具体的には『カール・マルクス』(https://ameblo.jp/bubblejumso3/entry-12529001018.html)と『[増補改訂版]マルクスの物象化論』(https://ameblo.jp/bubblejumso3/entry-12550519542.html)の2冊である。今回の本も、それらと同じく高い評価をあたえたいと私は考えている。
さて佐々木氏の『資本論』解説は、先月の読書室で取り上げた白井聡氏の現代的な解説の仕方とは大きく異なり、『資本論』の構成に即した、きわめてオーソドックスである。
まず本書の目次から紹介してみよう。
はじめに
人と作品
◆第一篇 商品と貨幣
コラム1 哲学と『資本論』
◆第二篇 貨幣の資本への転化
コラム2 エンゲルスと『資本論』
◆第三篇 絶対的剰余価値の生産
コラム3『資本論』第二巻と第三巻
◆第四篇 相対的剰余価値の生産
コラム4 文学と『資本論』
◆第五篇 絶対的および相対的剰余価値の生産
◆第六篇 労賃
コラム5『資本論』第一巻以降のマルクス
◆第七篇 資本の蓄積過程
『資本論』関連年表
あとがき『資本論』を読むための文献案内
索引
佐々木氏は、『資本論』第1巻の第1篇「商品と貨幣」から第7篇「資本の蓄積過程」までの全25章にわたり、マルクス読解のその核心となる本文を抜粋し要所に的確なコメントを加え、徹底的かつ丁寧に読者の読解を助ける。このことについて佐々木氏は「可能なかぎり、テキストに内在し、解説するように努めたい」と実に謙虚である。実際、既刊の『資本論』入門には、以下の様な「マルクス主義」的臆見に充ち満ちているからだ。
佐々木氏は、マルクスの思想と「マルクス主義」とを区別する。すなわちこの「マルクス主義」とは、エンゲルスがマルクスの死後に通俗化したものを、さらにその後の労働運動や共産主義運動の都合によって単純化、図式化したものであり、マルクスその人の思想や理論とはほど遠いもので、佐々木氏は「本書では、このように図式化され、単純化された、俗流的なマルクス解釈の体系のことを『マルクス主義』と呼ぶこと」にしたのである。
この指摘は実に重要だ。そしてこの観点からマルクスの「人と作品」が解説されている。20頁にも満たない中に『資本論』までのマルクスの軌跡、『資本論』の最終目標、マルクスの歴史観、新しい唯物論、産みの苦しみをやわらげる、経済学批判、どの『資本論』を読むか、と実に手際よく解説されている。そして本書では岡崎次郎訳を使用している。
いよいよ『資本論』の解説に入るが、佐々木氏は『資本論草稿集』等を適宜引用し読者の『資本論』本文の理解を助ける工夫をする。これは本書の特記すべき一大特徴である。
この工夫をした上で、佐々木氏はマルクスの経済学批判を他のあらゆる経済学から根本的に区別するものは経済的形態規定の批判的分析だと指摘する。佐々木氏が追求するのは、既存「マルクス主義」が軽視してきた経済的形態規定を主軸に据え直した上での『資本論』の正確な理解である。
その例としてまずは第一篇商品と貨幣を取り上げてみよう。周知のようにマルクスは商品に備わる共通物を価値とした。ここで重要な事は、この価値は抽象的人間的労働そのものではなく、その凝固物として労働生産物の属性になったものだとの理解である。第3節では、価値を表現する際の「形態」を解明した。価値形態の謎は等価形態にある。等価形態にある具体的有用的労働は私的労働でありながら、相対的価値形態にある商品を生産する具体的有用的労働の私的労働と等置されることにより社会的形態にある労働と評価される。資本主義社会の歴史的な特性を明らかにするため、マルクスはロビンソン・クルーソーの一人の暮らしの生活、「自由な人々の連合体」下の分業社会でも、労働生産物は商品「形態」を取ることはない、すなわち各々勝手に行われる私的労働でありながら社会的分業の一部を構成することで、初めて商品「形態」を取ることを明らかにする。つまり生産者たちは自分たちの労働生産物の交換を通じて初めて社会的に結びつく。これが核心だ。
価値形態論の肝とは、各々別々な私的労働が社会的に通用する形態を獲得するにある。そして第4節の「商品の物神的性格」では、商品が価値を持つのは抽象的人間的労働が対象化又は物質化されているからだとし、では一体なぜ抽象的人間的労働が価値の「形態」を取るのかとの重要かつ根源的な問題提起する。ここがまさに最大の難所なのである。
読者に強く印象づけるためにマルクスの文章も引用しておく。「ところで確かに経済学は不完全ではあるけれども、価値と価値の大きさを分析し、この形態のうちに隠された内容を発見した。しかし経済学はなぜこの内容があの形態をとるのか、つまりなぜ労働が価値に、その時間の長さによる労働の計量が労働生産物の価値の大きさに表されるのか、という問題を提起したことさえなかった」。実際、多くの読者はこの辺りで躓くのである。
多くの読者が挫折する価値形態論等への丁寧な解説こそ、本書の最大の特徴だ。そして資本主義社会では、人々が取り結ぶ社会関係は、人格と人格とが彼らが行う私的労働そのものにおいて直接に社会的関係として結びつくのではなく、人格と人格との物象的な諸関係及び物象と物象との社会的な諸関係として現れる。これが物象化である。このため、人間に代わって物象が社会的力を持ち、物象の運動により人間たちが制御される転倒が現実に出来する。さらにこの物象化の克服は、それを絶えず再生産し続けている私的労働の在り方そのものを克服するしかない。その克服はこの私的労働を直接の共同労働に転化すること、つまり「自由な諸個人の連合体」=アソシエーションにおいて、初めて現実となる。
既存「マルクス主義経済学」では、資本の力の源泉が特定の労働形態が絶えず産出する経済的形態規定にあることが軽視され、それ故実践的には資本主義的生産様式の変革が単なる私的所有の収奪、さらにはその私的所有を背後で支える国家権力の奪取に還元され、マルクス革命論の重要な契機となるアソシエーション論がきれいに忘却されるのである。
この視点から佐々木氏は、第3編第8章においてマルクスが労働日の制限等を巡る賃労働者の闘いに注目していたことに紙面を費やしている。実際、「マルクス主義」者の中には、現場での賃労働者の労働条件等の改善を求める闘いを「改良主義」と切り捨て軽視した人々もいた。こうした闘いは、彼ら「マルクス主義」者には労働力の売り手としての賃労働者を革命から遠ざける役割を果たすもので有害だとしたのだ。マルクスはこれらの俗流「マルクス主義」者とは反対に労働条件等の改善を求める彼らの闘いを、アソシエーションを形成するための力を蓄えるものとして高く評価していた。この観点から、マルクスは工場法制定やこの闘いの中で労働者が作るアソシエーションに注目していたのである。
また労働とは人間と自然の物質代謝を媒介する行為であるから、本来生産力とはこの物質代謝を規制し制御する能力なのだが、価値増殖を最優先する資本主義的生産関係の下では人間と自然との持続可能な物質代謝を現実化する合理的生産力を獲得することは出来ない。したがって資本主義は変革されなければならない。自然や人間が破壊されないためにも、人間たちにはその変革が強制されているのである。これがマルクスの勘所である。
紙面の関係で多くのことは省略せざるをえないが、マルクスは第24章のいわゆる本源的蓄積において「資本主義時代の成果―すなわち協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有―を基礎とする個人的所有を再建する」と明記して、その変革の道を指し示した。実際、アソシエーションは資本主義が準備するのである。
こうしたマルクスの問題意識を、佐々木氏はマルクス研究家の視点から多くの人々があまり読む機会がない『資本論』第3巻の草稿を紹介して補足する。すなわち「マルクスが未来社会の展望を、単にアソシエートした諸個人が労働配分や生産物分配のあり方を社会的に規制することにではなく、『アソシエートした人間たちが……物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的な制御の下におくこと、つまり力の最小の消費によって自分たちの人間性にもっともふさわしくもっとも適合した諸条件の下でこの物質代謝を行うということ』に求めている」、まさにこれが変革する理由であり、マルクスの真意なのである。
このように佐々木氏は、『資本論』の核心をしっかりと書く。その他の重要概念、資本の下への労働の形態的包摂・実質的包摂等々については、本書の巻末の索引を是非とも大いに活用していただきたいものである。この本にはコラムと言い、『資本論』関連年表と言い、さらに『資本論』を読むための文献案内が付いていることも、読者には実に有難い。
佐々木氏は、皆さんが『資本論』をマルクスその人のテキストとして読むことが出来るようにお手伝いすることが本書の目的だと書いている。まさに『資本論』の生命力は、今ここに力強く蘇る。本書は『資本論』読解のための良き手引き書である。お薦めしたい。(直木)
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何でも紹介・・ 『まもろう愛しのまちを LNG火力発電所計画撤回の歩み』 (清水まちづくり市民の会編 発売元静岡新聞社 2020年5月)
2015年1月付けで、東燃ゼネラル石油KKが「清水天然ガス発電所計画計画段階環境配慮書」を経産大臣と静岡県知事に提出したことから始まる。
これほど巨大で危険な施設を、JR清水駅や住宅からわずか数百メートルの場所に作ろうという計画に、直感的に懸念を感じた地域住民らは、おのおの6団体を作り、学び活動。やがて2016年10月には「清水LNG発電所問題・連絡会」としてひとつに結集し、さらに力を強めていく。
本来ならともに活動するはずのなかった、保守系団体から革新系団体までのさまざまなひとびとが、自由な発想と行動力で取り組んだ活動は、やがて2018年3月、事業者の「地域の理解が得られなかった」として計画を取り下げるという結果を迎えた。それまでの3年3ヶ月の運動と、そこから見える問題点を(例えば環境影響評価法の欺瞞、市議会、県議会、自治体、メディアのありかたなど)、丁寧に振り返った手作りの一冊だ。
運動に取り組んだ面々の一部を紹介すると、喘息の子を持つ母親、ミカン農家、商店主、会社経営者、孫の将来を心配する祖父母、大学の先生、弁護士、市議、県議など。中には2011年震災当時の気仙沼でのタンカー重油火災で自宅を失い、避難してきたひともいる。これらの人人による自由闊達で多彩な活動の中では、時に意見が対立することもあったが、本文中の参加した市民の言葉を引用すれば、“「オール沖縄」の翁長前沖縄県知事の「いいたいことは腹六分に」に学び取り組んだ” “皆が呆れるほど暴走した人に対して「私は排除しない」と宣言した人の存在”“やりたいことをやればいいんだよ”と仲間を励ます言葉等々、こうした中にこの戦いの底力を感じさせる。上下関係の無い対等平等を貫いたことも見事だ。
かつて旧清水市では2回、企業による大きな事業計画があった。ひとつは、1972年からの東燃石油ゼネラル(株)石油精製工場増設計画。もうひとつは、1990年からの中部電力(株)石炭火力発電所計画。これらは、地元の町医者・乾達氏を中心に市民らが立ち上がりいずれも撤回させた。
忘れもしない2018年2月28日、東京のJXTG本社に建設中止を直接訴えるため(これが最初で最後となった)の貸し切りバスの中で、ある人が「清水市民の戦いはずっと勝ってきた。今度も必ず勝つ。」と発言、信じられないと思ったがその翌月にはそのとうりとなった。長い戦いの積み重ねが財産となり、今日もなお続いている。(澄)
コラムの窓・・・コロナ禍が画する時代!
コロナ禍はどのように時代を画するのか、だれもが考えているだろうけど、感染の行方が見極められないなか、よくわからないということでしょうか。個人史のなかで、社会を画するような出来事に出くわすこともありますが、そのさなかにおいてその意味は明らかではないようです。
現代日本ということを考えるなら、明治維新と敗戦ということになるでしょう。近代国家の形成期の路線、アジアを配下に収めて欧米帝国主義国家に対抗するというこの路線は、無条件降伏によって否定されました。ところがこの否定の意味を確認することなく、あるいはできないまま再出発した日本は、1945年8月15日を〝終戦〟と言い慣わしています。
敗戦後に生まれた私は、このような状態を与えられたものとして生きてきました。こうして、戦後世代は建前と実態がなんだかちぐはぐな感じのなかで生活してきたのです。その違和感に従うかそれとも抗うか、はたまた違和感を感じることなく過ごせる人もいるのでしょう。
私の生活において、自らの選択ではなく与えられた最大の出来事と言えば、文句なしに阪神・淡路大震災でした。多くの方が家をなくし、家族を亡くすなかで、6人家族が誰もケガすることなく、生活の場も失わなかったことは幸運というほかありませんでした。しかし、都市があんなに無残に壊れてしまって、1・17後は違った社会になるように思われました。
ところが、火山活動の活発化とか温暖化の影響による集中豪雨の頻発によって、大災害はありふれたものになりつつあります。さらに、東日本大震災・東電福島第1原発震災の発生は、この国を根底から覆しました。ここでもまた、敗戦を終戦と言い慣わしたこの国は何もなかったようにやり過ごそうとしています。
あの巨大な津波は誰も見たことがないようなものでしたが、歴史をさかのぼればあったことでした。原発過酷事故についていえば、そんなものは起こらないとした時点で起こってしまったら破局となることが約束されていました。だから、無かったことにするほかなく、汚染水も海に流してお仕舞にしようとしています。
個人史における認識は限られており、社会的な積み重ねのなかに位置付けないなら、何度でも同じ過ちを犯します。未知のウイルスの出現も繰り返されてきたものであり、何か初めての体験であるかのような対処しかできないこの国を何と言えばいいのでしょう。
そんななかで、安倍首相の成果は10万円とマスク2枚だけ、諸外国からそんな風に見られているとかいないとか。ならば、GOTOトラベルも〝強盗トラブル〟かと言いたくもなるのですが、アベ政治に振り回されるのはもう終わりにしたいものです。 (晴)
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シリーズ「小さな旅」(第4回) 瀬戸内海・長島邑久光明園を訪ねる
小さな旅」第3回)で、岡山県瀬戸内市の瀬戸内海に浮かぶ長島にある国立ハンセン病療養所の長島愛生園を紹介しました。
今回は、同じ長島にある「邑久光明園(おくこうみょうえん)」を紹介する。
1つの島になぜ二つの療養所があるのか?行く前から気になっていた。
邑久光明園の「社会交流会館資料展示室」を訪ね、学芸員の方から説明を受けながら展示屋を回った。「室戸台風により崩壊」と言う説明版には次のように書かれていた。
「1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風により外島保養院周辺の堤防が決壊し、多くの犠牲者を出した。もともと海抜ゼロメートル地帯であったこと。移転が住民の反対でかなわなかった。天災と言うよりは人災であったと言わざる得ない」と。
このように大阪から、こちら長島に移転して「邑久光明園」となったとの事。やはり、当時差別が強く療養所の建設場所に苦慮したと思われる。
この展示室の見学の時にも、この療養所の作家とその人の作品を初めて知った。
一人は、藤本としさん。完全失明の頃より随筆詩作を書き、1974年の随筆集「地面の底がぬけたんです」は多大の反響を呼んだと言う。
もう一人は、在日の雀龍一(チェミヨンイル)さん。ほぼ一生を療養所で過ごし「猫を食った話」等の多くの作品を残している。
その後、学芸員の方と園内の見学に行った。
最初が外海から湾内に入った所にある「二つの桟橋」の見学。「最初の時代は、手前の桟橋が患者桟橋と呼ばれ、向こう側の桟橋が職員桟橋と別々に分けられていた」との説明を受ける。
次の見学場所は、1934年に開校された旧光明学園。「裳掛小学校と中学校第三分校で、多い時は71名の生徒が在籍していた」と言う。
次の見学場所は島の一番奥の場所に案内された。そこにポツンと一軒家、ここが昔の「監禁室」(2002年に歴史的建造物として修復し保存される)との事。1916年療養所長に懲戒検束権が附与認され監禁室の使用が認められたと言う。中に入れてもらい部屋の中を見学したが「悲鳴のような落書き」がいくつも書いてあり、胸が痛みました。
これ以外にも、今いる入居者の皆さんがいる自治会館で話しを聞いたりして交流をしました。皆さんの明るい顔が印象に残った見学であった。
2人だけの見学であったが、学芸員の方がとても明るく熱心な方で、もう一度訪ねたい気持ちを残し帰途につきました。(富田英司)
色鉛筆・・・30年間、神戸の管理教育を問い続けた、これからも
前号の本紙でふれましたが、あるグループの30年に亘る活動の冊子が私の手元に届きました。その冊子の表紙には頭に花束を飾った女性が描かれています。それは、「マリーゴールド」をイメージした花の精、花言葉は「悲しみ、変わらぬ愛、輝く命」です。管理教育により犠牲となった石田僚子さんを追悼し、校門圧死事件を忘れまい! との想いが込められています。
「ぐるーぷ命の管理はもうやめて!」は、兵庫県立神戸高塚高校の門前で7月6日に、追悼集会を行って来ました。当時15歳の石田僚子さんが門扉に頭を挟まれ亡くなった、8時30分に合わせて30年間続けられたのです。事件当日は通学利用の電車が3分遅れたため、不幸にも門扉事故に巻き込まれたのでした。
この活動を支えたメンバーは、職業も多岐にわたり、裁判を担った弁護士たち、フリースクールを営む人、当時の高塚高校の教師、古着屋を営む女性、市会議員を経験した男性、そして水泳のインストラクターを勤めた女性など、執筆記事にも反映され興味深いものでした。
表紙のイラストを担当したのは、3人の娘さんを育てる看護師の女性です。彼女は石田僚子さんと同年齢で、以前は和歌山に住み結婚して神戸に移り、この事件を知ったそうです。紙芝居や漫画でこの活動を支え、命の大切さを社会に問い続ける頼もしい存在と言えます。
通信の最終号は、メンバーそれぞれが原点に返って、そもそも活動に関わったのは何だったのか? と、振り返っています。ある母親の要望で簡素な(日の丸・君が代は持ち込まず)卒業式を行ったフリースクールの教師の例。
式の終わりに、息子の家庭内暴力で一家心中も考えたが、焼き芋に包まれた新聞紙のフリースクールの記事で救われたと、その母親からの挨拶があった。その挨拶は、その後のフリースクールの経営危機にも自身の励みになり、乗り越えることができた、と教育に携わる立場からの想いが伝わってきます。
他にも1990年4月に弁護士になり、その年の7月に事件が起こり、先輩弁護士に連れられ高塚高校に調査に入ったこと。その調査で当時の学校教育の特殊な生徒指導文化に大きな疑問を持ったこと。そのことが、その後の子どもの人権、特に学校教育と子どもの福祉の問題に関わり続けることになったと記し、虐待防止の問題にも取り組みたいと抱負を述べられています。
次に時代はさかのぼって1970年代、食品の共同購入をしていた仲間から、神戸市消費者協会が、市からの多額の委託費を受けながら何もしていないことの指摘を受け、自ら通信を発行し各地の共同購入会へ配布した。費用は店の古着を売って工面。その後、神戸市に「婦人会」への事業委託費名目で出されている1憶数千万の金の使途を明らかにする陳情を出したが、棄却。その棄却を巡っては、名誉棄損の裁判を起こす。
この一連の出来事を見て、オンブズ活動の前進ではないか? しかも女性仲間かあるいは単独での行動に感心した。彼女は後に始めた、「くらしの着物資料館」が今年1月に文化庁の指定資料となって後世に残されることになったのです。また、当時の話を聞いてみたいと思いました。
そして私が最後に紹介したいのは、「ぐるーぷ 命の管理はもうやめて!」の中心で活動されている過去に水泳のインストラクターだった、私と同世代の女性です。今は、フリースペースを設け、居場所作りを提供されています。彼女は、息子さんが新設中学に進学した際に、校則で丸刈りが義務付けられていることに異議を申し立て、学校側と3人の母親と共に闘った実績があります。
入学式の当日は、各新聞社の取材のヘリコプターが新設体育館の上を飛び回ったそうです。それほど当時は注目されていたのですね。その後、石田僚子さんが亡くなった年の3学期から長髪は認められたそうです。
30年前私は何をしていただろう、ふと思い出してみると、3人の娘たちの保育所や学校行事に振り回されていたように思う。運動の原点に返る、私たちにも必要な作業かもしれない。追悼の行事は続きますが、30年間ご苦労様と伝えたいと思います。(恵)
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