ワーカーズ616号(2021/3/1)
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オリパラはコロナ拡大の培養器にしかなり得ない
カネと権力政治にまみれた開催固執勢力を黙らせよう!
森喜朗氏による女性蔑視、女性差別発言は、はからずもオリンピック・パラリンピックの本質を白日の下に浮かび上がらせました。これまでも「神の国」発言をはじめ数々の反動的で愚かしい発言を繰り返してきた森喜朗氏が会長職におさまっていたこと自体が、オリパラにはどんな幻想も持つべきでないことを教えていました。その森喜朗氏の後継に、森氏を「政界の父」と仰ぐ自民党の大臣、橋本聖子氏が横滑りしたことは、オリパラが「世界平和」「差別をなくす」とされる五輪精神とはまったく無縁のイベントでしかないことを最後的に明らかにしました。
オリンピック・パラリンピックが、すでに商業主義と権力政治の道具に堕していることは、ものを考えることを嫌い、奇麗ごとを愛好する者たち以外なら誰でも知っていることです。オリパラはIOCや米国の巨大放送会社やスポンサー企業にとっては金もうけの手段に他ならず、そして開催国となるチャンスをかけた国家間の闘争、国内政治勢力間の政争のリングに過ぎないことは、多くの誠実なスポーツジャーナリストたちが語ってきたとおりです。
それに加えて、今度の東京オリパラは、世界的なコロナパンデミックの真っ最中に行われようとしている点で、愚者の祭典としてのレベルを格段に上昇させています。ある感染症の世界的権威は、東京オリパラがもし強行されるならば、それはコロナ感染症拡大の「培養器」になる以外ないだろうと警告を発しています。ゲームチェンジャーとなることを期待されているワクチンは、欧米諸国でさえまだ十分には行き渡っておらず、途上諸国では早期の入手は絶望視されている高額商品です。
東京オリパラにつぎ込まれる経費は1兆6440億円と言われ、そこには1兆円を超える国や自治体の予算が惜しげもなく注ぎ込まれます。そんなカネがあるのなら、コロナ禍の中で苦しむ人々を救うためにこそ使われるべきだという理屈は、幼児にだって簡単に理解できる真理であるはずです。
アスリートファーストなる美辞が語られることもあります。しかし、スポーツやアスリートが輝く場はオリパラばかりではないという以上に、オリパラはむしろ真のスポーツ精神とは真逆に立つ存在となっていることを知る必要があります。本当のスポーツの復権、スポーツが持つ豊かな可能性を真に開花させるためにも、その巨大な阻害物となっているオリパラは打ち破られなければならないし、真のアスリートはその先頭に立って人々に呼び掛けなければならならないと思います。
カネと権力政治にまみれ、コロナ感染症拡大の「培養器」となる以外にない東京オリパラはいらない!
(阿部治正)
賃上げは自前の闘いで!――コロナ禍の春闘に思う――
今年も春闘の時季がやってきた。例年以上に低迷する春闘だが、3月17日には連合傘下の大手組合の集中回答日を迎える。
中小労組の賃金闘争は別として、大手労組によるマンネリ春闘も極まった感もあるが、この時季に賃金のあり方についても考えを巡らせてみたい。
◆形骸化が進む〝春闘〟
安倍政権時代の春闘は、〝アベノミクス〟のかけ声の下で〝官製春闘〟と言われた期間が続いた。今年の春闘は、コロナ禍で業績が落ち込んだり増えたり、産業ごとの実績でばらつきが大きかった。その結果、賃上げ要求についても回答についても、産業、業界ごとの違いが大きいと見込まれている。なかでも今春闘の特徴は、打撃を受けた産業中心に賃上げよりも雇用優先という事情もあって、要求水準も低迷しているのが実情だ。
とはいえ、今年の3月期での一年間の通期では、製造業の売り上げは10%減で純利益は6%増、非製造業の実績は、売り上げは8%減、純利益では20%減になると見込まれている。もともと低迷している賃金を引き上げる必要性は待ったなしで、内部留保を取り崩してでも賃上げは実現すべきであり、またそれも可能なのだ。
それ以上に目立つのが、これまで曲がりなりにも要求し、回答もあったベースアップ(=賃金底上げ)の要求を控えたり、あるいは賃上げ要求額そのものを公表しない組合も増えたことだ。
代表的なのは、自動車最大手のトヨタ自動車だ。経営側の意向に従ったトヨタ労組が、賃金引き上げ要求の中にベア分を含むかどうかも公表しない、としたことだ。これは産業、企業を超えた労働者の統一行動で賃上げを闘いとるという、賃金闘争の基本姿勢を無視、棚上げしたもので、本来はあってはならないものだ。
その背景として、トヨタ自動車による賃金制度のあり方の変更がある。要は、全従業員に対する一律の賃上げはやめて、賃金は個々人の働き方の違いや貢献度などに応じて会社が決める、という方式に変えるというものだ。定期昇給も一律で上がる部分をなくしてすべて評価型に変更するという。そうした方式に変更していけば、そもそも集団的な賃金闘争自体を否定することに繋がり、労働者の企業への従属がいま以上に深めるものという他はない。
◆上がらない日本の賃金
いまコロナ禍において世界中で資産格差が広がっている現実がある。ビリオネアと称される一握りの富裕層に富が集中し、それ以外の人々との間の資産格差が急激に拡大している。資産上位2100人で、世界人口の6割に当たる下位46億人分の資産合計を上回る、とする報告書も出されている。(20年1月――国際NGO・オックスファム・インターナショナル)
進む格差拡大社会のなかで、日本の実質賃金はこの2~30年ぐらい下がり続け、約1割ほど低下した。世界の主要国の中で日本の賃金だけは傾向的に低下し続けている。今では、先進経済国OECDの35カ国中、20位前後の水準に止まっている。
その主な理由は、賃上げ闘争の弱体化で毎年の賃上げが低迷し続けていること、それに低賃金労働としての非正規労働者の増加で、低賃金労働者の比重が増えていることが主な要因だ。1990年代以降、経団連が主導して不安定・低賃金労働者を増やし続けた結果だ。逆に、企業の利益は株主や企業経営者に多く配分するようになった。
例えば利益を上げている企業は、自社株買いでの株高で株主を潤わせる。また1億円以上の報酬を受け取る経営者が(20年度はコロナ禍で減少したが)19年度では564人で、10年間で2倍に増えた。また、企業の内部留保は8年連続で増え続け、今では475兆円にも膨らんでいる(19年度末)。これらによって企業・経営者と労働者との間で、資産格差、所得格差が大きく開いた。
安倍政権では、アベノミクスを政権の浮游策とし、その一つの柱として政府主導の賃上げ政策があった。それは官製春闘として、経団連を巻き込んで賃上げのトレンドをつくった面もあった。
とはいえ、その官製賃上げの勢いは、大きかったとはとても言えない。実質賃金の上昇には繋がらなかったからである。その実態とは、ベアはほとんどゼロ、かろうじて定期昇給部分の実現に止まったからである。
大手企業の実態として、年齢とともに上がる定期昇給部分は、概ね2%前後とされる。そして、春闘の実績はといえば、ベアと定期昇給を含めて概ね2%前後、良くてプラスアルファ程度、昨年は2%割れしている。
この結果として、個々人としての労働者は、毎年、定期昇給で2%前後上がるが、高給の高齢者が順次退職し、低賃金の新卒者が入社するので、2%程度の定期昇給は、企業の総負担額から言えば負担増はゼロだ。要するに、2%程度の賃上げでは総額人件費は変わらず、増額はゼロ、労働者全体で言っても賃上げはゼロなのだ。
◆低すぎる最低賃金
対して、非正規社員を中心に、多くの時間給社員の賃金を左右する最低賃金制度はどうだったのだろうか。
安倍政権時代には安倍首相主導による官製春闘は、最低賃金の引き上げにも波及した。安倍首相は、非正規労働者の多くに影響を及ぼす最低賃金の平均3%前後の引き上げを主導したからだ。
なぜかといえば、低い最低賃金の深刻度が次第に大きくなってきたからだ。かつての最低賃金は、ママさんパートや高校生・学生アルバイトという、あくまで家計補助的な副収入や小遣い稼ぎ的な賃金に関係したものだったからだ。すなわち、正社員男性労働者という家計にとっての稼ぎ頭の存在を前提とした、家計の副収入に止まっていたからである。そうした状況下では、主にパートやアルバイトの賃金を左右する最低賃金がいくら低くても、大きな社会問題にはならなかった。
それが90年代から一変した。青壮年男性や一人親世帯を始め、一家の稼ぎ頭自身が非正規労働者になる割合が激増したからだ。今では、全労働者の4割が非正規労働者だ。そうした事情もあって、この4年間は毎年平均3%程度の引き上げが実現し、非正規労働者の賃金が引き上げられてきた。
それでも、日本の最低賃金は低位水準に止まっている。日本では、昨年の改定で全国加重平均で時給902円だ。1日8時間、週5日労働で月16万円程度、年収では200万円に届かない。これではふうつうの家庭が築けないレベルだ。もともとの家計補助的労賃としての最賃レベルが低すぎたからだ。
そうした最低賃金。昨年はコロナ禍で引き上げ幅が0・1%と最賃引き上げの勢いが途切れてしまった。むしろこんな時だからこそ、最低賃金だけは引き上げるべきだったのに、だ。
◆最賃は引き上げ可能だ
日本の最低賃金はOECD加盟国中で11位とされているが、先進国の中では米国についで下から2番目の低さだ。その米国でも、全国レベルでの法廷最低賃金は7・25ドルに止まってはいるが、米国の各州や各都市レベルでは、時給1500円台への段階的引き上げを決めているところも多い。日本でも最低賃金の引き上げは、待ったなしなのだ。
最低賃金引き上げの議論では、常に反対論が巻き起こる。要は、最賃を引き上げるとギリギリで維持していた雇用が維持できなくなり、解雇・失業者が増える、というものだ。主に中小・零細企業主からの意見だという。しかしそれは最賃引き上げ拒否の言い訳でしかない。
実際、中小・零細企業の多くは、直接的に大手企業の子会社・孫会社であったり、あるいは大手企業の下請け・取引企業として連なっている。そうした企業のコストは、多くが大企業・親企業の規制を受ける。例えば日本最大の民間企業であるトヨタ自動車。毎年のように、協力企業(子会社や下請け企業)に対して、納品部品の単価切り下げを要求される。その結果、多くの子会社や下請け企業の工賃や利益率が切り下げられ、親会社のトヨタ自動車本体だけが営業利益や最終利益は毎年のように過去最高額を更新する事態となっている。親会社や大企業に利益が吸い上げられてきたわけだ。
だから、最低賃金の引き上げには、親会社や元請会社に対する納入単価の引き上げを連動させるべきなのだ。むしろ子会社やその労働者に利益を還元しすることで、かえって経済の好循環を呼び込むことも可能になる。
そう主張する起業家もいる。例えば米国シアトルで全米初の最低賃金15ドルへの引き上げ運動を主導して実現させたアマゾン創設前のジェフ・べゾフ氏と友人だったという企業家ニック・ハノーアー氏だ。最賃引き上げ後も「シアトルは発展を遂げ、雇用も増え続けた」「誰もが購買力を備えた経済の方が,ごく少数が全てを握る経済よりも成長する。」と言っている(朝日20・6・5)。また日本商工会議所会頭の三村会長と中小企業庁が進める大企業と中小企業の「共存共栄」を目ざす「パートナーシップ構築宣言」というのもある。大企業による中小企業へのコストカットの強要を止めて「下請け事業者の適正な利益」のために協議する、というものだ。そう言わざるを得ないほど下請けいじめが横行していることの証左でもある。ただし、昨年の最賃が0・1%に抑えられたことを見ると、いまだに大企業のきれい事に終わっているのが実態だ。
それを打破するのは、大企業の労働者と中小零細企業の労働者が、中小零細企業の経営者を巻き込んで、親企業や発注企業に対して交渉力を獲得することだ。そのためにも、個々の企業の壁を越えて名実とも連帯して闘うことが欠かせない。
◆同一労働=同一賃金
昨年は労働者の賃金に関して、大きな進展があった。同一労働=同一賃金の実現が課題になっているが、昨年秋の一連の最高裁判決で一定の基準が示された。いくつかの手当に関して、正社員と非正規社員の格差を不合理と判断した最高裁判決だ。
その判決によると、扶養手当、年末年始勤務手当、祝日給、夏期・冬期休暇(有給)、病気休暇(有給)に関しては、正規・非正規労働者の待遇差を認めなかった。他方で、ボーナスと退職金については、待遇差を認める判断を下した。
こうした最高裁の判断は、現時点で経営側の言い分を受け入れた判断になっている。すなわち、正社員と非正社員の収入差の最大の要因になっている月例賃金、期末手当(ボーナス)、それに退職金の三大格差については容認し、扶養手当、通勤手当など賃金本体に付随する格差については認めないものだからだ。
言うまでもないことだが、この最高裁判決では、非正規社員の平均年収(175万円)が正規社員(503万円)の35%でしかない賃金格差(19年、国税庁)の抜本的・根本的な格差是正に繋がらない。
そもそも、欧米の「同一労働=同一賃金」と日本のそれは根本的に違っている。欧米では、産業別・職業別の雇用関係が歴史的に形成されてきた。だから組合も産業別・職業別の組織になっている。だから、賃金などの労働条件も、企業別ではなく、産業別・地域別に決まる。
他方、日本では雇用は企業ごと、労働条件も企業ごと、組合も企業内組合だ。戦前から戦後にかけて形成されたものだ。それらをそのままにして「同一労働=同一賃金」にしようとしても、自ずと無理がある。だから最高裁判決も、日本の雇用慣行を前提として判断することになり、根本的な打開策を判示することは難しくなる。
とりあえず最高裁判決は確定した。が、その判断は「事例判断」に過ぎないものだ。今後、職場・地域からの闘いを拡げていくことで、「同一労働=同一賃金」も実現可能なのだ。
◆賃金は自らの闘いで勝ち取る
日本での現行の企業内組合を中心とした賃金闘争は、大きな壁に阻まれているという以外にない。企業内組合の寄せ集めでは、資本・企業から自立した闘いは、所詮、無理な話だからだ。労働者が対企業での規制力を発揮するためには、企業の壁を越えた産業別・職業別労組づくり、それに労働者の属人的な賃金システムから仕事給・ジョブ型賃金への切り替えが不可欠なのだ。こうした戦略的構えを多くの労働者で共有し、一歩一歩、企業に対抗する力を蓄えていくことが全ての前提となる。今回の「同一労働=同一賃金」を求める闘いもその一つになるのは間違いない。
明るい兆しもある。フランスの最高裁は昨年、ウーバー社の運転手がウーバー社と雇用関係にあるとの判決を出した。日本でも欧米でもギグ・ワーカーといわれるフリーランス・自営業扱いの働き方が拡がっているなかで、労働者として労働法の保護対象者としての地位を認めさせる闘いの道筋も見えてきたといえる。
こうした地道な闘いも含め、雇用システムや処遇システムへの転換をめざした闘いと、賃金引き上げを統一した闘いを拡げていきたい。(廣)
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川柳 作 ジョージ石井
「貧しさに泣くワクチンの遠い国」
「マー君の手に夢託す十年忌」
「コロナ後を見据え生き方摸索する」
「足形の睨みに並ぶレジの列」
「引き算が運んだ心豊かな日」(課題「引く」)
「美らの海土砂に泣き伏す青い底」(「青」)
「客の来ぬ下ごしらえに泣く老舗」(「さっぱり」)
「難民の子供が睨む食べ残し」(「残」)
「三枚に捌けば見える人のアラ」(「人」)
「国民の苦労知らない苦労人」(「人」)
「内緒だと言えば噂に尾ひれ付き」(「尾」)
「失言の謝罪も顔に出る本音」(「本音」)
「コロナ禍の時こそ歌う花は咲く」(「花」)
WHOの調査で問われる問題とは?
●WHO 調査チーム
新型コロナウィルスの感染源について、WHOの調査チームが一月二十九日から中国の武漢市を訪れていましたが、二月九日に調査を終え記者会見を行なって、帰国しました。
この問題では、感染源としてコウモリやセンゼンコウが疑われ、それが何らかのルートで武漢市の海鮮市場から広がったのではないかと言われていますが、確定には至っていません。
当初からアメリカ合衆国のトランプ前政権は「武漢市のウィルス研究所からの漏洩」説を唱えていましたが、調査チームは会見で「その可能性は極めて低い」と述べました。一方、中華人民共和国の政府側は「輸入冷凍食品からの流入」説を唱えていましたが、会見では「その可能性は否定できない」としつつ「感染ルートの解明には数年かかる」とも述べています。
「研究所漏洩説」も「輸入冷凍食品説」も、有力な根拠が示されているわけではなく「可能性」のひとつを強調しているにすぎず、アメリカ、中国ともに、自政権への批判をそらそうとする政治的思惑が透けて見えます。武漢市での調査も、中国当局によって場所や時間に制限が加えられ、十分なデータが得られたかは疑問と言わざるをえません。こうした政治的圧力で感染ルートの解明が遅れるとすれば、ゆゆしき問題です。
●インフルエンザの経路
これにより対して、インフルエンザの場合は、その感染ルートはほぼ解明されていると言って良いと思われます。
まずウィルスの源は、シベリアやアラスカの流氷の中だと言われています。春になって氷が溶けると、氷に閉じ込められていたウィルスが海中に溶け出し、海水を飲んだカモなどの渡り鳥の腸内で繁殖し、糞に混じって排泄されます。鳥たちはシベリアから中国へ、アラスカからアメリカ合衆国南部やメキシコの湖沼地帯へと渡ってきて、そこで在来の水鳥にウィルスが移ります。これは何万年も繰り返されてきた自然の生態系であり、この段階では病原性を発現することはありません。
問題は、この水鳥生息地の近くで、人類が大規模な養鶏場を営なむことで、水鳥から家禽に感染したウィルスが変異を始めることです。他方、人間にも昔から普通の風邪程度のウィルスは常在しています。この人間のウィルスと家禽のウィルスが、大規模な養豚場のブタに感染すると、ブタの宿主細胞には、両方のウィルスに対する受容体があるので、ブタの体内で両者が混交して変異し、人間に対する感染性と病原性を獲得します。
こうして毎年のように局地的流行(季節性インフルエンザ)や十数年毎のパンデミック(スパニッシュ・インフルエンザ、新型インフルエンザ等)が繰り返されるのです。今回の鳥インフルエンザ多発の背景に、地球温暖化による極北の氷の急速な融解と、工業的な養鶏場の過剰拡大があることに危機感を抱かざるを得ません。
●コロナ中間宿主の解明を
日本の著名な感染症研究者は、香港カゼの感染ルートを解明したフィールドワークの経験から「コウモリのウィルスが、そのまま海鮮市場から広がることは考えにくい。インフルエンザにおけるブタのような中間宿主を想定しないと説明しにくい。」と示唆的な意見を述べています。
インフルエンザの例から類推するなら、中央アジア奥地の森林や洞窟内の水系に存在していたウィルスが、コウモリの移動により周辺に出てくることは、何万年も前から繰り返されていた自然の生態系かもしれません。そこに近年の中国やロシアの開発の影響で、森林や洞窟の生態系が撹乱され、また漢方薬の原料としてコウモリが乱獲され、ウィルスが拡散されたことは考えられます。
さらに大規模な養鶏場や養豚場等の工業的畜産の拡大で、昔から常在していた風邪程度のウィルスと新たに伝播したウィルスが混交し変異を繰り返すうちに、人間に対する感染性と病原性を獲得した可能性は考えるべきことでしょう。
MERSもラクダが中間宿主とされますが、近年中東では食肉用ラクダの大量飼育が行われるようになったこととの関係も考える必要があると思います。
●各国政府の責任
本来WHOは、そのような広い疫学的見地から感染経路を調査し解明することが求められているはずです。香港ではできたことが、武漢市ではなぜできなかったのか?調査に制限を加えた中国政府の責任は大きいと言わざるをえません。また「研究所漏洩説」に固執して本来の疫学的課題を不明瞭にした点で、アメリカ政府にも責任があります。研究の実績を持つ日本の感染症研究者や獣医学者に、もっと積極的に関与できるような環境を整えていない点で、日本政府にも大きな責任があることは言うまでもありません。
感染経路の疫学的解明によって、乱開発による森林や湖沼の生態系の破壊に歯止めをかけ、大規模で工業的な畜産のあり方を見直すといった国際的課題を明らかにすることこそが求められています。(冬彦)
ミャンマーの階級闘争「スー・チー氏」乗り越える 新しい市民と労働者の反軍政行動に注目を
二月初旬、ミャンマーでクーデターが発生した。ミャンマーの軍事クーデターにどのような正当性も合理性も存在しない。じり貧の国民的支持のさなか、自己保身に走った軍部勢力が、去年十一月の国政選挙結果を暴力で否定したのだ。しいて言えばNLDスーチー政権は、少数民族イスラム教徒のロヒンギャ弾圧を容認することで、国際的世論と国際資本投資からの「民主政権としての正当性」を減じており、軍部からすればクーデターのチャンス到来とみられてしまったかもしれない。
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まず、国際的動きだが、中国外務省報道官もこれまでの記者会見でクーデターを静観する構えを見せている。中国はミャンマーと地理的にも歴史的にもつながりが強く、アメリカの経済制裁が続いていた時期にも経済支援を続けて、ミャンマー軍との親密な関係を構築してきたという。中国の国際問題のシンクタンク「チャハル学会」の王沖高級研究員は「中国はミャンマーを通じてインド洋に出ることができ、陸上交通はもちろん貨物輸送としても重要で、今後のエネルギールートも計画されている」と説明したとされる。中国の巨大経済圏構想「一帯一路」でもミャンマーは重要な位置にある。
中国にとってはスー・チーだろうが軍政だろうが「ネズミを捕るネコは良い猫」ということだろう。ミャンマー軍はかつての軍政時代ASEANに加盟していたが大国(米中露など)と軍事同盟を結ばず、「中立」であったが、中国とのパイプは細くはない。今年一月にミャンマーを訪問した王毅国務委員兼外相はスー・チー氏のほか今回のクーデターで実権を握ったミン・アウン・フライン総司令官とも会談。そこで暗黙の支持を与えた可能性も指摘されている。
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米国や「国際世論」も歯切れは悪い。欧州連合(EU)は先月22日の外相理事会で、ミャンマーのクーデターを批判する決議をやっと採択した。一つには触れたようにスー・チーの権威が地に落ち、ロヒンギャへの残酷な扱いを正当化すらしたのだから当然だろう。もう一つにはやはり欧米日諸国の多国籍企業も「白猫黒猫論」であることに変わりはないはず。彼らにとって軍政でも治安の安定に至れば投資先としたいはず。さらに言えば、欧米諸国は軍政の権力簒奪を非難すればするほど「中国側に追いやる」ということを恐れているのだろう。
いずれにしても欧米の「民主主義国家」は押しなべて腰砕けの様相だ。国連安全保障理事会は二月四日発表した報道機関向けの声明で「ミャンマーの民主的な政権移行を支持する必要性を強調し、国民の意志に沿った対話と和解を促す」として軍に対し民政復帰を進めるよう呼びかけたが、クーデターへの非難はなかった。ここまでは軍事政権の「思惑通り」なのかもしれない。
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こうした中で、若い市民と労働者そして学生は独自の闘いを広めている。公務員労働者をはじめ労働者の参加が目立つ。民間企業でも企業の中には、抗議活動による影響が経営に早くも出ているという。JETROヤンゴン事務所の担当者は「工場で勤務する人たちが休暇をとってデモに参加する動きもみられます。ミャンマー最大のヤンゴンの港でもデモが行われていて、長期化を心配している」(NHK)と。さらには医療関係労働者などが組織的に動くなど、エッセンシャルワーカーも反軍政運動に弾みをつけている。このように今回反軍政の前面に出てきた勢力は二〇一一年の民政移管後に自由を謳歌していた比較的若い世代が、運動の中心にいる。
ミャンマーの反軍政デモは香港やタイの抗議と連携をはかり国境越えた反権威主義「同盟」形成を進めている。また国際社会が「誤解」していることがあるとの強い声がある。「各国の政府やメディアは常にスー・チー氏を主語にしてミャンマーを語りたがる。でも、我々は彼女のために闘ってはいない。自分たちの未来のために闘っている。もっと国民を主語にして、ミャンマーを考えてほしい」(朝日デジタル)それ故にネット上にあふれる海外メディアの報道ぶりに落胆する人も多いと伝えられている。
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二月末に伝えられるところでは、軍当局は「民政移管」を進めるとの報道があった。国際社会の「民政移管要請」圧力や国内でのデモの拡大に対する譲歩だろう。しかし、それほど単純でない可能性がある。ミャンマー取材二十七年、宇田有三さんの「GLOBE」記事によればミャンマー軍とは「武力を持った官僚組織」であるというのだ。武力だけではなく「統治能力」と経験があると。したがって今回の政変とは「二〇一一年に始まった民主化の時期は今や、十年の時を経て〈軍事政権下のスー・チー内閣〉として幕を閉じかけているといってもいいのではないか。」と。つまり軍事政権好みの「首班指名」のやり直しということだという。ミャンマーは国民の7割がビルマ人、残りの三割は百三十を超える少数民族が暮らす多民族国家だ。武力組織も多数ある。また、ロヒンギャ問題も抱えている。それ故にこそ国内政情不安があり、〈軍はビルマ族主体の国の擁護者〉として伝統的にみられてきた。「(ミャンマー軍は)国内に民族紛争を抱える事から、対ゲリラ戦及び山岳戦を主任務とした軽歩兵部隊を主力としている」(Wikipedia)と。
多民族社会としての連邦主義や民族会議などの融和政策推進と反軍闘争は切り離せない事情にあることも付け加えたい。(アベフミアキ)
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ここにきて 何故「ピットコイン」なのか 地上に降り立つブラックホール
株や投資話には関心はゼロ。私はむしろ嫌悪感しか感じない。しかし、ビットコインの「異常な高騰」に関しては資本主義の内的矛盾が反映している、という点において関心がある。
そもそもの話。日銀券は原価で見れば一万円札が約二十二円とされている。これでは一万円札でもレストランで何も食べられないのは明らかだ。しかし、一万円札で実際は家族で十分な食事ができる「価値」を持っている。これは管理通貨制度や日銀法等により法定通貨として強制的に通用するものであるからだ。
他方、ビットコインはそれ自身がかなりの「価値」を体現している。ビットコイン一枚の「採掘料」つまりコストは闇の中とはいえ、莫大な設備投資と電力を浪費して掘り出されることは間違いない。最初のころはパソコンでも可能であったらしいが、マイニングが困難になり大量の投資をして労働力を長時間投下しなければならないのが今の状況だ。こんなに労働力と資材を投下してもビットコインの使用価値とは、交換手段あるいは
流通手段 としては機能不十分であり、事実上 価値蓄蔵手段(暗号資産)としての機能中心だ。価格変動が激しいしビットコインはコンビニでの買い物には不向きだ。
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しかしながら、一ビットコインが、最近の相場のようにザックリ五百万円も「採掘コスト」がかかるのかと言えば、そうではなく、当然ながら投機的なバブルである。この価格基準は誰にもわかるはずもないが、コイン一枚を目指してゴールドラッシュさながらの採掘が進行しているのを見れば、マイナー(採掘者)達にはよほどのぼろもうけの予感があるのだ。採掘コストを遥かに超える価格相場になり「超過利潤」となる。ビットコインの埋蔵数は確定している上に、マイニングはますます困難を極める。そして、過去の相対的に廉価で採掘されたコインもそれに応じて上昇する仕掛けを持っている。これは貴金属はいうに及ばず、架空資本の上昇さえも足元にも及ばない「理想の投資対象」となる仕組みだと言える。「価値の保持性」と価格の青天井を併せ持つのだから鬼に金棒というやつだ。「ナカモトサトシ」(ビットコイン製作者)は初めからこのようなことを目指したのだろうか?新しい国際通貨秩序を創るのではなかったのか?
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仮想通貨への資産移動は今や華々しいものがある。とはいえ、この背景には追い込まれつつある資本主義の姿がある。投資の専門家によれば、ブラックロックのような資産運用会社は、顧客の資金を「リスクの高い」株式だけではなく、国債や「現金に至るまでの」より安全な資産にも投資している。だが「今は利益率がとても低くてインフレに食われてしまうため、代わりの投資先を見つける必要がある」という。「その場合、従来は金が注目された。しかし今では、ビットコインが金に代わる資産、長期にわたって価値を維持できる投資先として受け入れられ始めている」(ニューズウィーク日本版)さらにはテスラが十五億ドル相当のビットコインを購入したと発表した。ほかにも、複数の金融機関が最近になって仮想通貨に参入している。アメリカ最古の銀行であるバンク・オブ・ニューヨーク・メロンは先月、ビットコインの保管や取引を行う資産管理サービスの提供を始めると発表した。
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「ビットコインは暴落する、投資家は〈全てを失う覚悟を〉(英規制当局)」と厳しい警告が一月に発せられたが、これは経済学的でも科学的でもなく、暗号通貨に恐怖する中央銀行や公的金融機関のなせる「ポジショントーク」でしかない。だから上で見たように投資家たちからもおおよそ無視された。にもかかわらず、ビットコインの脆弱性と負の側面を指摘しよう。
かくして暗号資産ビットコインは、その総額において巨大になりつつある。社会の「総資産」の中で小さくない比重を占めつつある。しかしこの現実を冷徹にみる必要がある。ビットコインの「使用価値」の脆弱性である。考えてほしい、「金」でさえ「貨幣」や「蓄蔵手段」以外に多様な使用価値を持っている。いや、他の普遍的な使用価値を体現できるからこそ一般的等価物であり、貨幣となりまた蓄蔵しておくことができる。宝飾や工業的利用とか、歯や便器に加工する手もある。では、ビットコインのように「通貨」として生まれながら、その肝心の機能は不全に陥りつつ「蓄蔵できる価値=資産」としてのみ生き残るなどということはいかにして可能なのであろうか?
または、この無用で巨大な価値物の持つ社会への重しの問題だ。限りない社会的労働がブラックホールならぬビットコインシステムに吸い込まれる。そして、重力崩壊が起きたとすれば「使用〈無〉価値」である限りそこから出てくるモノはない?
さらに、ビットコインのシステムとセキュリティーは、以前にも触れたが、万全ではないことも付け加えたい。
(アベフミアキ)
読書室 斎藤幸平氏著『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版2019年4月刊
○ マルクスの思想に対しては「エコロジーは、マルクス主義の盲点」であり、「マルクスの思想は、ジェンダーやエコロジーや政治権力を資本主義社会における不平等の構成原理や中心軸として体系的に考慮していない」との批判がある。
その批判によるとマルクスの思想とは、極端な生産力至上主義であらゆる自然的限界を突破し世界全体を恣意的に操ることをめざす近代主義である。要はマルクスは古いのだ!
だが実際のマルクスは人間と自然の物質代謝を重視しており、資本主義的生産が人間と自然の関係性をどのように歪め、そのことが両者の持続可能性の条件をいかに破壊していくのかの詳細を分析していたのであり、その具体的な記述・論拠の集大成が本書である。
その鍵となる概念が「物質代謝の亀裂」である。本書は、マルクスのエコロジー論が経済学批判においても体系的・包括的に論じた重要なテーマであると論証し、このエコロジー論こそ現代の資本主義批判、環境問題のアクチュアルな理論だと提起したものである ○
本書は、2014年12月、フンボルト大学に提出された斎藤幸平氏の博士論文とその英語版を下敷きにしながらも、その後に刊行された諸論文を加えて、日本の読者に合わせ加筆・修正を行った日本語オリジナル版で、実に日本語でしか読めない決定版である。そしてこの英語版(表題を翻訳すると『マルクスとエコ社会主義』だが、この題名は出版社がつけたもので斎藤氏のつけたものではないようだ)は、マルクス生誕200年の2018年度ドイッチャー記念賞を日本人では初の、さらにまたドイッチャー記念賞の受賞史上最年少で受賞した、大変に優れた、真剣に学ぶに値する著作である。
それでは早速本書の構成を、以下に紹介しておこう。
目次
はじめに
第一部 経済学批判とエコロジー
第一章 労働の疎外から自然の疎外へ
第二章 物質代謝論の系譜学
第二部 『資本論』と物質代謝の亀裂
第三章 物質代謝論としての『資本論』
第四章 近代農業批判と抜粋ノート
第三部 晩期マルクスの物質代謝論へ
第五章 エコロジーノートと物質代謝論の新地平
第六章 利潤、弾力性、自然
第七章 マルクスとエンゲルスの知的関係とエコロジー
おわりに マルクスへ帰れ
先に述べたように本書は、第一章から第三章までが博士論文を基に、第四章から第七章がその後出版した諸論文を基にし、さらに加筆・修正で全体の流れを整えたものである。
では、以下に読者の読解を助けるために本書の各章に要となる短評を加えていこう。
第一章では、まず斎藤氏はマルクスの「エコ社会主義」を1844年の『パリ・ノート』を使って、人間と自然の関係の歪みと矯正を疎外論の観点から人間主義=自然主義の理念を対置したと総括する。
その上でマルクスは『ドイツ・イデオロギー』でこの対置の不充分性を自覚し「哲学」に別れを告げ、その後「物質代謝」を使用して資本主義の矛盾をその「攪乱」・「亀裂」と捉え始めたとして、斎藤氏は読者をエコロジー思想の世界へ誘っていくのである。
第二章は、マルクスのこの物質代謝論の深化を実際に後追いしたものである。まずは『ロンドン・ノート』でのマルクスの概念規定を紹介し、さらにその後の『経済学批判要綱』においてはその用法を一層精緻化していったのだ、と斎藤氏は詳しく展開している。
すなわち斎藤氏によると、マルクスの資本主義における分析対象は資本蓄積を一義的な目的とする社会システムが構成する人間と自然の特殊な関係性であり、その結果素材的世界における不和や軋轢がいかにして生ずるかについての具体的な追求であったのである。
このような人間と自然の関係における資本主義的な特殊性の把握にこそ、マルクスの物質代謝概念の独自性がある。本書においてこの章の占める位置はたいへん重要である。
第三章は、マルクスのエコロジー論を物象化との関連で考察し、体系的に再構築する。この章の焦点は、従来のマルクス研究ではあまり着目されてこなかった素材的次元を経済学批判の中心テーマとして解明することにある。これがつまりは本書の白眉の部分である。
従来の理解では、『資本論』は資本主義的生産の諸カテゴリーを体系的に叙述しており、マルクスの経済学批判の核心とは「純社会的な形態」を明らかにする物神性批判にあると考えられていたのであるが、斎藤氏はこうした理解に断固として異議を唱えたのである。
すなわちこの章で斎藤氏は、マルクスの『資本論』における問題意識は資本主義社会の総体性の概念的再構成等ではなく、その実践的・批判的な唯物論的方法で問題にしたのは、経済的形態規定と具体的素材的世界の関連とその矛盾についての分析だと指摘したのだ。
だから晩期のマルクスが驚くほどの熱意をもって自然科学にのめり込んだのかは、リャザーノフらには全く理解不能だったのであり、彼らは残された抜粋メートに冷淡だった。
こうして斎藤氏は問題の所在を提起する。マルクスの『資本論』の内容が十分体系的に展開されるためには、経済的形態規定がその担い手である自然の素材的次元との緊密な関係の下で考察されなければならないとのきわめて具体的かつ積極的な問題提起である。
それは「素材」は「形態」と並んで経済学批判において重要な役割を果たすことだ。この点が従来の理解の陥穽であり、マルクスのエコロジカルな資本主義批判の核心である。
このように斎藤氏がドイッチャー記念賞を受賞した理由が、実によく分かる展開となっている。
第四章は、自然科学についてのマルクスの抜粋ノートを精査するものである。この作業をへることにより、読者は若きマルクスの「資本主義の文明化作用」に対する楽観的な見解を訂正する過程を正確に追想できるようになるのである。
マルクスは、リービッヒ『農芸化学』からの抜粋メートの中の「略奪農業」論を受容することにより、人間と自然の物質代謝の意識的で持続可能な管理の重要性をマルクスは明確に意識し社会主義実現のための実践的課題とみなすようになったのである。
第五章は、『資本論』第一部出版以降の1868年以降もマルクスは自然科学研究に取り組んでいたのだが、従来はそのことを「『資本論』からの逃避」と考えられてきた。
斎藤氏は残された抜粋メートそのものを検討する事で、晩年のマルクスの物質代謝論を核心としてその環境思想をさらに具体的に追想することを可能にしたのである。
第六章は、周知のように『資本論』第一部はマルクスの刊行だが、その第二部・第三部はエンゲルスの編集による刊行である。こうして『資本論』は「体系化」されたのだ。
勿論、エンゲルスが自らの日々の生活を支える中での持続的な努力と理論的な困難と苦闘した編集により『資本論』は「体系化」されたのだから、その功績は不滅といえる。
だがその半面、マルクス自身追究過程であった『資本論』の「未完の体系」は、エンゲルスがマルクスを理解できた範囲での「閉じられた体系」となったことも事実であろう。
そこで斎藤氏は抜粋ノートを基に「利潤率の傾向的低下の法則」等の再構築を追求する。
ここでも斎藤氏は、この法則への理解は従来の様に「鉄則」としてではなく、例えば小西氏が特定の条件下では低下しない可能性を排除せず「生きた矛盾」だとした捉え方を高く評価するとともに、この法則の一見矛盾した外見は資本の「弾力性」に依拠するものであり、この法則が究極的には素材的世界の弾力性に基づくものからだ、と鋭く指摘する。
すなわち斎藤氏は資本は現実的な、素材的担い手を必要とするのであり、その際限のない価値増殖への欲動は担い手の素材的性質によって不可避的に制約を受け、それゆえ「利潤率の傾向的低下の法則」を単なる数式問題に解消することなく、資本の素材的側面も考察しなければならないとした。この視点も師匠筋の佐々木隆治氏の影響の下で「素材」は「形態」と並んで重要な概念である、と指摘してきた斎藤氏のまさに独壇場なのである。
第七章は、マルクスのエコロジー思想は若い頃から晩年まで一貫していたが、今でも「エコロジーはマルクス主義の盲点」であり、「マルクスの思想はジェンダーやエコロジーや政治権力を資本主義社会における不平等の構成原理や中心軸として体系的に考慮していない」との誤解が根強い。また公刊されてきた諸著作ではそう読めることも否定できない。
確かにマルクスは長い間誤解されてきた。ではそれは一体なぜなのであろうか。
この背景には、ルカーチに端を発する「西欧マルクス主義」の長い伝統がある。それは自然科学をエンゲルスの専門領域と見なすことで、マルクスの資本主義社会分析を補完し救済してきたのだが、その代償として当然にもマルクスの自然科学研究を長らく無視してきた。そのため、マルクスのエコロジー思想そのものを展開できなかったと指摘できる。そして近年マルクスのエコ思想が明らかになると「西欧マルクス主義」者は逆にエコロジー等の問題は社会主義革命にとって本質的な問題ではない、との詭弁を弄したのである。
こうして彼らに対する反論としてアメリカのフォスターらの『マルクスのエコロジー』等が登場したのだが、残念なことながら彼らもまた膨大に残されているマルクスの抜粋メートを全面的に検討はしていない。そのためフォスターらには恣意的だとの批判がある。
斎藤氏は、抜粋ノートにより「西欧マルクス主義」者たちによって無視されてきたマルクスの自然科学への取組を『資本論』との関連で実際に検討する事によって、エコロジー論におけるマルクスとエンゲルスの知的関係と差異を詳細に検討するができたのである。
勿論、エンゲルスは物質代謝の言葉は知っていた。『資本論』の中で使用している。だが彼はマルクスの表現を部分的に書き換えた。つまりマルクスと同じ意味での物質代謝論の理解はエンゲルスにはなかったのである。
最後に本書の「はじめに」にある斎藤氏の記述を、本書のまとめとして引用しておこう。
二一世紀に入ってからマルクスのエコロジーは深刻な環境危機を前にラディカルな左派環境運動によって再び注目されるようになっている。
新自由主義的グローバル資本主義が「歴史の終焉」を掲げて世界を包み込んだ結果、「文明の終焉」という不測の形で惑星規模の環境危機をもたらしたことで、マルクスの有名な警告がいま再び現実味を帯びるようになっているのだ。
――自分をとり巻く労働者世代の苦悩を否認するためのあんなに「十分な理由」をもっている資本は、その実際の運動において、人類の将来の退廃や結局は食い止めることができない人口減少という予想によっては少しも左右されないのであって、それは地球が太陽に落下するかもしれないということによって少しも左右されないのと同じことである。
どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは誰でも知っているのであるが、しかし、誰もが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な場所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。
大洪水よ、我が亡き後に来たれ! これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである。(メガⅡ/6:273)――
ここで直接論じられているのは、労働者の酷使によって彼らの健康や寿命が犠牲になることについて資本がまったく顧慮を払わないという問題である。だが、引用中に出てくる「人口減少」を「気温上昇」や「海面上昇」に置き換えたとしてもなんら違和感がないだろう。
実際以下で詳しく見るように、マルクス自身も自然の「掠奪・濫用」を労働力の掠奪と同じように問題視し、物質代謝の亀裂として批判していたのである。
残念なことに、「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」という態度は、グローバルな環境危機の時代において、ますます支配的になりつつある。
将来のことなど気にかけずに浪費を続ける資本主義社会に生きるわれわれは大洪水がやってくることを知りながらも、一向にみずからの態度を改める気配がない。とりわけ、一%の富裕層は自分たちだけは生き残るための対策に向けて資金を蓄えているし、技術開発にも余念がない。
だがこれは単なる個人のモラルに還元できる問題ではなく、むしろ社会構造的問題である。それゆえ、世界規模の物質代謝の亀裂を修復しようとするなら、その試みは資本の価値増殖の論理と抵触せずにはいない。
いまや、「大洪水」という破局がすべてを変えてしまうのを防ごうとするあらゆる取り組みが資本主義との対峙なしに実現されないことは明らかである。つまり大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならない」。
だからこそ、資本主義批判と環境批判を融合し、持続可能なポストキャピタリズムを構想したマルクスは不可欠な理論的参照軸として二一世紀に復権しようとしているのだ。
実に熱い斎藤幸平氏のメッセージではないだろうか。まさに大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならない」のである。少々値段は張るが、『人新生の「資本論」』を強い共感を持って読んだ貴方には、斎藤氏のマルクス原論である『大洪水の前に』を是非お薦めしたい! (直木)
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コラムの窓・・・深刻な卒業生名簿の自衛隊への提供
自衛隊が高校・大学を卒業する予定の若者の名簿を自治体に提供を求め、これに応じて提供する自治体が増えています。阪神間7市の状況を調査したところ、提供していないのは宝塚市と川西市。神戸市、西宮市、尼崎市、伊丹市、芦屋市はすでにCDRで提供していました。
ことの発端は、安倍前首相が2019年2月13日、国会で自治体の6割が名簿提供を拒否していたと発言したことによります。神戸市が2020年1月、7月から電子データによる情報提供することを明らかにした(2月10日に覚書を締結)ことでこの問題が表面化しましたが、西宮市はこれ(住基4情報の提供)をひそかに実施していたのです。
西宮市は過去にも2013・14年度の2年間、15歳、18歳、22歳の名簿を提供していましたが、これには法令違反(生徒募集が含まれていました)があり、その後は自衛隊側が提供申し入れをやめていました。今回は19年4月3日に防衛相から市長あてに文書での「自衛官募集等の推進について(依頼)」があり、これには井戸知事の適切に対応をという〝助言〟もあったようです。
そして19年12月16日、石井登志郎西宮市長は自衛隊兵庫地方協力本部長との間で、「自衛官募集事務に係る募集対象者情報の提供及び使用に関する協定書」を交わしました。この事実は市民に公表することなく行われていたのですが、20年9月市議会の一般質問で取り上げられて明らかになりました。だから、すでに今年の高校・大学生の名簿は秘密裏に提供されてしまっているのです。
以上の動きをまとめると、①安倍前首相の国会での発言、自治体が自衛隊に協力していないと恫喝。②防衛相が全自治体に協力依頼文発出。③都道府県の自衛隊が具体的な名簿提供を依頼。④自治体が住基4情報(住所・名前・生年月日・性別)をCDRで(地域事務所に)提供、という経過をたどっています。
ちなみに、市民の個人情報が記録されている住民基本台帳は、公的機関なら閲覧できることになっており、自衛隊の地域事務所から閲覧に来て名簿を作成することができます。この作業を省くために、自治体に必要な名簿を抽出、提供させるのです。
具体例で示すと、芦屋市は自衛隊兵庫地方協力本部長から情報の提出について「依頼」を受け、「覚書」を締結。2002年4月2日~03年4月1日生まれの男女(日本人住民に限る)約800件、及び1998年4月2日~99年4月1日生まれ約800件を2020年に西宮地域事務所に提供。
園田寿甲南大学法科大学院教授はブログ「罪と罰のはなし」のなかで「住基法第11条は、国による住基データの『閲覧』を認めています」が、これを根拠に自衛隊が情報の〈提供〉と拡大解釈していると批判しています。すなわち、「〈閲覧〉と〈提供〉の間には深い溝がある」と。
さらに、「住基法では、市町村長に対して、個人情報保護管理についての厳格な責務が規定されており、住基4情報は『閲覧』が可能な公開情報であるから『提供』も可能であるといった安易な解釈運用は、昨今の個人情報保護の流れ、また住基法及び条例の趣旨から判断しても不適格な解釈運用であるといわざるをえません」と、安易な情報提供を批判しています。
結局のところ、これは首長の政治姿勢の問題です。新軍部とでもいうべき自衛隊への入隊を高校・大学の卒業期にある若者たちに勧めるがごとき行為を〝単なる事務〟として行う、そんな政治家はお払い箱にと思うのです。 (折口)
林紘義氏の理論と実践
林紘義さんが亡くなられました、謹んで哀悼の意を表したいと思います。彼との関りと言えば私が若い時代に「レーニン主義」というものを教えてくれた方です。彼は長らく幾つかの政治グループを主催し国政選挙にも出馬したのでご存じの方もおられるかもしれません。
しかし、彼は私利私欲のために政治を目指したものではないというものの、社会主義運動や真剣な労働者の闘いに水を差し、混乱させてきたことは指摘せざるを得ません。セクト主義やスターリン類似の権威主義的組織運営など、看過できるものではありませんでした。このような過程で多くの活動家たちが袂を分かち別な道に進んでいったことが思い出されます。
きわめて恣意的に国政選挙に参加したり突然「研究会」に引きこもったり・・控えめに言っても、そこには何ら現実の政治闘争にかかわろうという姿勢が見られませんでした。観念的な活動の域を超えることはなく、さしたる足跡も残すことなく「活動」の幕を閉じました。
彼の最後に作った組織(労働者党)のホームページにおいて「理論的貢献」が謳われていますので少しばかり私的にコメントします。
① スターリン体制は「巨大な歴史的進歩的な意義」を持ったか?
ここでの問題の中心は、スターリン体制は歴史的進歩的意義を持っていたのか?ということです。林氏の「歴史観」によれば、ロシアは遅れた農業社会で労働者革命が発生し、したがってソ連(ロシア)は社会主義を目指すにあたって資本主義から開始する他なく本源的蓄積を強権的実施せざるを得ず、その体制こそスターリン体制であり「国家資本主義の体制」だと考えました。それゆえにスターリン体制=国家資本主義はいかに野蛮な形をとろうとも「巨大な進歩的な歴史的意義」を持った、と。これはとんでもない歴史評価ではないでしょうか。ところがこれこそ林氏の慧眼であるかに内部では称賛されたものです。当時学生の私も感心した記憶があります。
欧米中心の歴史観と社会主義のモデルしか頭にない独裁者レーニンは「ロシアでは国家資本主義から始めると」主張、当時の金融資本主義やトラスト・コンツェルンを進歩的な制度とみなしました。「労働者国家」による資本や農民の管理・統制による資本蓄積に活路を見出し、他方ではミールなどに結集した農民的共同体を古い反社会主義の反動勢力として抑圧したのでした。レーニン・スターリンらの「社会主義建設の道」はかくして血にまみれました。
* * * * * * * *
このようなレーニン・スターリンを美化する歴史観や研究はすでに否定されてきましたが、おりしも斎藤幸平らのMEGA研究も公然化しました。従来のマルクス自身の歴史観が「マルクス主義者」の内部からも遅ればせながら再検討されたのです。つまり『資本論』の背景にある生産力的歴史観は、西欧に限定されるべきもので、晩年まで研究を継続したマルクスはミール共同体から直接に共産主義の道も開かれうると、展望を根本から大きく変えていたのでした。アソシエーション=共産主義への道は「西欧型の道オンリー」の単線的なものではなく、多様な可能性を持つことをマルクス自身が認めていたということです。ミール共同体から共産主義への道も可能だと考えていたのです。つまりレーニン・スターリンらによるミール共同体農民への血の弾圧をマルクスは歴史的に「巨大な進歩的意義」とは認めないだろうと。その逆です。それは誰が見ても許しえない歴史反動なのです。
詳しくは述べませんが、歴史の真実は次のようなものでした。ロシア帝政時代の産業革命を経て世界屈指の製鉄産業基盤を持つ革命当時のロシアは、当時の日本資本主義以上の工業基盤を獲得していました。ゆえにレーニンら「革命新政権」を待ち受けたのはそもそも「本源的蓄積の必然性」では決してありません。当時のロシア資本主義の経済的課題は第一次世界大戦などで消耗した資本設備の一層の近代化・資本の更新であったのは常識です。レーニンもそしてスターリンはより暴力的にその原資を農民共同体の解体そして組織的収奪=農民集団化に求めたのでした。(ナチスドイツの戦争の脅威に対抗するための軍需工業=重工業の一層の強化でもありました。) この点からも彼らの歴史的行為は野蛮な資本蓄積でありどんな意味においても歴史的進歩性とは無縁でした。
まとめましょう。遅れた農民国ロシアでの革命→本源的蓄積の必然性→国家資本主義体制へ→社会主義革命へ。ゆえにスターリン体制=国家資本主義は「巨大な歴史的意義を持った」という、前期マルクスの歴史観の一部を切り取ってはめ込んだだけのインテリ風の観念的生産力史観ということになります。それと合わせてレーニン主義の教条に彩られた革命路線は、林さんの潮流の致命的な欠陥であり、終わりにしてほしいものです。
② アソシエーションに対する無理解と個々人的所有の否定
ロシア革命後のスターリン体制の「巨大な進歩的歴史的意義」がでたらめであると同じく、彼の「社会主義観」もかなり怪しい。結局のところ共産党(ソ連、中国、日本)などの「社会主義観」とどれだけ違うのだろうか。それをよく反映しているのが、アソシエーション的理解の欠如と「個々人的所有」の欠落でしよう。林さんにとっておそらくは、このような自由な個々人の連帯などはプチブルの所業なのでしょう。彼は「私」と「個」を歴史的に区別することはできませんでした。
しかし、労働に基づく個々人的所有は歴史的にも人間的個性の基盤であり、個々人が自立しうる土台である。だからこそ未来に「再建」されなければならないのです。これは誰にも否定できない事実です。大切な社会的原理です。同時にアソシエートした労働は必然的に協同的所有でもあります。
林さんに無視され切り捨てられたこれらの概念こそが、未来社会の骨格なのです。林さんの社会主義概念は常にあやふやで「社会主義社会」については沈黙してきた、少なくとも積極的に展開することはありませんでした。それに代わってレーニンのたとえ話「一つの社会が一つの工場のように連結する」ということだけが繰り返し語られたと記憶します。彼の「社会主義」は拡大された規模での、つまりはトラストやコンツェルンあるいは共産党によって連結した「資本主義」と区別がつかないのです。したがってソ連社会主義論や日本共産党の社会主義観とはどこが違うのか区別するのは実際には困難です。
③ その他
林さんたちのホームページでは「社会主義(共同体社会)における「消費財の分配法則」を世界で初めて発見した」と称賛されていますが、この画期的な理論について私は残念ながら知りません。上にも書きましたが、彼の「社会主義社会」においての所有関係や生産関係が資本主義とどこが違うのか不明なので「消費財の分配法則」だけを「世界で初めて解明した」と言われても笑うしかありません。「古代的生産様式」というほほえましい無概念とともに忘れ去ってもよいでしょう。
むしろ原発積極推進派の林さんは、福島事故とその後の現状をどう考えていたのだろうか?福島事故以降に特に広がった脱原発世論だが、原発反対運動を真っ向否定していたと記憶する。原発で「無限のエネルギーの解放!」を唱え生産力向上を今でも主張してきたのですか? 東電や電気事業連合会とこれまた区別がつきません。根っからの生産力主義(資本主義の力強い経済発展は、社会主義の未来を約束する、と。)の林さんは現実の深刻化する環境問題をどう見てきたのだろう?と疑問ばかりが浮かぶ。
【この記事は、三月一日号として「ワーカーズ616号」に掲載されたものですが、今回ホームページの掲載にあたって、表現をいくつか整理し改訂しています。】(B)
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「エイジの沖縄通信」(NO78) 西之表市長選で八板氏再選、民意再び「馬毛島基地ノー」
西之表市馬毛島への米軍空母艦載機陸上離着陸訓練(FCLP)を含む自衛隊基地整備計画の受け入れ是非が最大の争点となった1月31日の市長選は、計画に反対の現職八板俊輔さん(67)が、容認の新人福井清信さん(71)との一騎打ちを144票差で制した。4年前に続き、「馬毛島基地ノー」の民意が再び示された。
市長選の投票率は80.17%。八板氏の得票は5103票で、計画容認を掲げた新顔で市商工会長の福井清信氏(自民推薦)は4959票と、わずか144票差だった。
八板氏は人口減にあえぐ市民が、基地の経済効果に期待する声も理解しつつ「基地建設は西之表、種子島にとって失うものの方が大きい」と訴えた。1次産業に磨きをかけ、移住者らを呼び込むなどして「基地経済に頼らない街づくり」の必要性も唱えた。
組織力をフル回転して追い上げを図る相手陣営とは対照的に、同級生らが中心となった草の根で支持を広げた。政策協定を結んだ市民団体「馬毛島への米軍施設に反対する市民・団体連絡会」も全面支援した。
八板俊輔市長は2日、市長選での再選を受けて、防衛省が同市馬毛島で計画する米軍空母艦載機陸上離着陸訓練(FCLP)移転と自衛隊施設整備に伴う、島周辺海域の海上ボーリング調査の中止などを求める要請書を岸信夫防衛大臣宛てに送った。
要請書で八板市長は、基地計画の是非が最大の争点となった市長選で再選となり、「改めて民意が示されたものと認識している」とし「地元の理解は得られていない」と強調。「調査中止」に加え、「基地施設の設計と外周道路工事の入札の撤回」と「環境影響評価」を実施しない3点を求めた。
八板市長は1月8日にも外周道路などの工事入札の撤回を求める抗議文も送っている。地元の声に耳を傾け、地元と真摯(しんし)に向き合い、誠心誠意対応してくださるよう重ねて要請する」と、政府や防衛省関係者が約束する「丁寧な対応」の履行を強く求めている。
しかし、政府・防衛省はこうした八板市長の要請を無視するかのように、「基地建設の事前調査を実施していく」と述べている。
このように「地元の民意」を無視し、基地建設工事を強行する政府の姿勢は、沖縄と同じである。沖縄の民意「辺野古の海を埋め立て新基地を建設することに反対する」を無視し、工事に抗議する県民を機動隊や海上保安庁や民間警備等を大動員して排除して基地建設を強行している姿と同じである。
最後に、なぜ政府・防衛省はこのような小さな島・馬毛島に自衛隊の大きな基地建設を始めたのか?軍事評論家の前田哲男さんは次の様に指摘している。
『冷戦後、対中国をにらんで南西諸島を国防の第一線にするという自衛隊の「戦略重心の南方移動」があり、それが安保協力において米国からも求められるようになったことが背景にある。その大きな流れの中で馬毛島の地政学的な利点が、南西諸島に構築しつつある防衛網とのつながりで評価されてきたのだろう。
馬毛島の基地は「南西諸島防衛」という自衛隊の新たな役割のシンボルのようなもの。そのためには160億円での買収も、防衛省にとって高い買い物ではなかったということかもしれない。FCLP(米軍の空母艦載機離着陸訓練)という「仮面」の内側で、自分たちのほしい物を獲得しようとしていると映る。
ほぼ丸ごと自衛隊の島ということで使い勝手がいい。大きな部隊が配置できるほどの広さはないので、本土と奄美・沖縄の間の中継地点という役割だろう。米軍普天間飛行場のオスプレイが「エンジントラブル」ということで時々、奄美空港などに降りている。米軍機が馬毛島を緊急着陸地に使うことは起こりうるだろう。
訓練基地としても大きな役割を担う。予定されている訓練は、水陸両用訓練や離着水訓練など、離島奪還の上陸をにらんだものが多い。防衛省は離島奪還のための「水陸機動団」を編成したが、訓練の場所が少ない。昨年の日米共同演習で臥蛇島(十島村)で行ったような、上陸、展開、占拠、戦闘に至る一連の訓練のシナリオが、馬毛島ではスムーズに展開できる。』
本土の私たちも辺野古新基地建設と共に、南西諸島への自衛隊基地建設にも関心を持ち、地元の皆さんと連帯し基地建設反対の声を上げていこう。(富田英司)
東日本大震災から十年 復興とともに震災遺構として整備されはじめた南三陸町・大川小学校
十年前の三月十一日は、修理に出していた車を取りに行く途中で、子供と一緒にコンビニで甘い物を食べながら代車の中でまったりとして過ごしていました。いきなり緊急地震速報がなり、車が横転するかと思うくらい揺れ、目の前のコンビニがパリンと音がした後、停電しました。揺れがおさまると駐車場にいた人たちで声を掛け合い、すぐに義母がいる老人ホームに行きました。義母が落ち着かない様子だったので、自宅にあった食料と懐中電灯を持っていき子供と一緒にその日は老人ホームに宿泊しました。ライフラインが閉ざされる中、みんなで協力しながら毎日必死で生きていました。
義母の生まれ故郷である南三陸町は、津波で町が流され亡くなった方もいました。震災以降、年に一度は南三陸町と大川小学校を訪れています。
南三陸町は、かさ上げのための土砂が何年も小さな山脈のようにありました。今年は防潮堤や道路が整備され土砂はすっかりなくなっていました。
津波が来るから高台に避難するように町内放送で命をかけて呼びかけた場所、合同庁舎は、震災遺構として残されています。その周りは公園として整備され始めています。さんさん市場も高台に移転され営業しています。
大川小学校も震災遺構として残ることになり、整備が始まりました。校庭に会館のような建物が建設されていました。
地元では、悲しみを思い出すから解体してほしいという想いの人も多くいます。しかし私たちの祖先にこの震災のことを伝えていかなければいけないとも想います。被災地はまだまだダンプが行き交い、整備中ですが、震災遺構を一度見学に来て欲しいです。さんさん市場で美味しいキラキラ丼を食べて復興の手助けをお願いします。 (宮城 弥生)
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広域一元化条例は大阪府による大阪市の乗っ取りだ!
維新は住民投票で否決された広域一元化をやめろ!
維新は、昨年11月1日の住民投票で大阪市廃止・分割=トコーソーが否決されたにも関わらず、「大阪府及び大阪市における一体的な行政運営の推進に関する条例案」いわゆる広域一元化条例案なるものを大阪府議会・大阪市議会で通そうとしています。
この条例案、公表されたのは2月17日で、住民の意見募集であるパブリックコメントの締め切りが2月20日でわずか3日間しか意見募集期間がありませんでした。それまでは、条例案の「骨子」しか公表されていませんでした。
これに対し日本共産党の大阪市会議員山中智子さんは、17日大阪市の本屋和宏副首都推進局長に対し、「大阪府・市のあり方や大阪市の主権にかかわる重大な条例案を、これほど拙速(せっそく)に進めることは府民、市民の信頼を損なうもの。大幅に期間延長を求める」と訴えました。また自民党大阪市会議員北野妙子さんも、18日松井一郎大阪市長に期間延長を求めました。
しかしパブリックコメントは、20日で打ち切られてしまいました。維新は、最初から住民の言うことなど聞く耳は持たないのです。
公表された条例案は「大阪の成長及び発展を支えるため、将来にわたって府と大阪市の一体的な行政運営を推進する」として、副首都推進本部会議を設置、本部長は知事、副本部長は大阪市長。本部長が会議を代表し会議を招集し主宰します。大阪府は成長やまちづくり・広域的な交通基盤の整備などについて大阪市と協議し、広域的な成長、都市計画に係る事務を大阪府は大阪市から受託するとしています。条例の施行日は4月1日です。
この広域一元化条例案は、大阪市の権限・財源を大阪府に移行するもので大阪市の自治権を侵害するものです。そして、事務委託とは委託した範囲で委託した大阪市は権限を失いますが、委託した事務の経費は大阪市が負担しなければなりません。まさに、大阪市は権限・財源を失います。また条例案に明記される副首都推進本部会議は、指定都市道府県調整会議として位置づけるとしていますが、それならすでにあるこの調整会議を活用すればいいだけです。そもそも副首都て、こんなものは今現在ありません。
維新は、二重行政の解消をすると言っていますが地方自治法では、基礎自治体つまり市町村優先の原則があり、基本は市町村が行政事務を行ないます。市町村ではできない広域的な行政事務を都道府県が行なう、というのが本来の地方行政です。維新は、権限・財源を大阪市から大阪府に移行してそれをカジノや万博、阪神高速の延伸など大型開発にお金を使おうとしています。
そして維新は、2度にわたる大阪市廃止・分割=トコーソーで大阪市はなくならないとウソをつき続けていました。
「大阪市は廃止・解体されない」(橋下徹2015年5月12日)
「大阪都構想は大阪市が無くなるという話ではありません」。「(反対派は)大阪市が無くなると不安をあおっているだけです。大阪都構想は役所の役割分担の話。この駅前が消えてなくなるのか、皆さんの住んでいるコミュニティが無くなるのか、そんな話じゃない。大阪都構想で無くなるのは大阪市役所」(松井一郎2019年3月21日)
住民のみなさん、こんなウソつき維新を支持することはもうやめようではありませんか。
このような流れを断ち切るためには、次期大阪府知事選・大阪市長選、大阪府議会選、大阪市議会選で維新候補を落選させることです。まずは、広域一元化条例案に反対していきます。 (河野)
色鉛筆・・・今度は病院を津波浸水想定区域にあえて移転 またまた正気の沙汰ではない!
私が住んでいる街で、津波浸水想定区域に清水庁舎と桜ヶ丘病院を移転する計画が起こり、本誌611号(2020年10月1日)で「庁舎移転予算は白紙」と報告したように清水庁舎移転計画がストップして私たちは安堵していた。すると今度は桜ヶ丘病院を庁舎の移転予定地であったJR清水駅東口公園に移転する計画が出てきた。移転予定地は津波浸水想定区域にあって南海トラフ巨大地震による津波や液状化現象が起こる恐れがあり、そんな危険な場所にあえて病院を移転するとは正気の沙汰ではない。東日本大震災の教訓は、津波は恐ろしい破壊力があり、病院などは高台移転することなのに何も活かされていない。
JCHO(独立行政法人・地域医療機能推進機構)が運営する桜ヶ丘病院の移転問題は、築30年を超えた1994年から始まっており(表参照)協議が進まず2017年3月清水庁舎移転後の跡地に移転する協定を結んだ。この時、桜ヶ丘病院の地元の住民達は現在の病院の近くにある桜が丘公園(標高約8m強)に移転を求めて要望書や署名活動をして訴えたが、市長は住民の声を無視して清水庁舎はJR清水駅東口公園へ桜ヶ丘病院は清水庁舎跡地と玉突きのように強引に決めてしまった。
ところが、昨年新型コロナウイルス感染が拡大したため庁舎移転計画が凍結されると、老朽化と耐震不足の桜ヶ丘病院は早期移転が必要でJCHOは別の移転先を求め、移転先が二転三転したが、昨年の12月JCHOの尾身茂理事長(コロナ専門分科会長)と市長が移転先をJR清水駅東口公園とすることを正式に合意した。病院の使命はひとの命を守り・救うことで、まず優先されるのは患者の安全であるにもかかわらず津波浸水想定区域に移転するとは尾身理事長にはがっかりしてしまった。
この問題であきれてしまうのは田辺市長だ。昨年8月、私たちが求めた庁舎の移転の賛否を問う住民投票条例案が市議会で議論された際、田辺市長は「市民意見の集約を十二分に図った」と庁舎移転の正当性を強調して住民投票に反対した。その市民意見が反映されているとした移転計画をころっと変えてしまったのだ。さらにJR清水駅東口公園は現清水庁舎の移転先として市議会で条例改定し住所変更を決定・承認を受けた場所で、この場所を市議会にすら語ることなく市長独断で決定し、市民に対しての説明もなく方針転換する市長のやり方に怒りを感じる。
私たちは「静岡住民投票の会」の解散後、「清水まちづくり市民の会」を立ち上げ学習会を行ってきたが、病院を津波想定浸水区域に移転するのは危険であることや市長が独断で進めていくのはおかしいと抗議の声を上げ、田辺市長に対して桜ヶ丘病院の移転に関する公開質問状を提出した。しかし、納得できない回答内容なので第2回・第3回の公開質問状も提出して回答を待っている。また回答の中に『JCHOは津波想定浸水区域内であっても建築手法の工夫などにより、発災後の業務継続は可能であり病院機能は維持できるものとしています』と書かれているので驚いた。人間の技術で自然災害を抑えることはできないことはあらゆる災害で証明されているのだから危険な場所に建設しないことが何よりも安全なのだ。JCHOの尾身理事長に私たちの気持ちを伝えようと要望書を郵送することを検討している。移転反対の声をひろげていきたい。
(美)
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