ワーカーズ637号(2022/12/1)   案内へ戻る

  みんなで賃上げと社会保障を要求し、暮らしやすい社会を実現しよう

◆物価高騰の背景は

 コロナ禍・ウクライナ情勢なども関係していますが、きっかけにすぎません。むしろ大きな原因は安倍政権発足時にはじまったアベノミクス(新自由主義)と日本銀行がすすめる「異次元の金融緩和」による円安誘導政策です。具体的には、日本銀行に大量の国債を買わせ、代わりにお札をこれまでやったことがないくらいにたくさん刷って、日本円の価値は下がり「円安」になりました。

 低金利政策もあり、円は株式市場に流れ一部の輸出大企業や株主をもうけさせました。

さらに他国では金融引き締めをすすめていた中、日銀の黒田総裁は、金融緩和を続けるという決意を示したため、急激な円安によってこれまで300円で購入できていた輸入品が400円かかる(輸入インフレ)など、不合理なことが起きています。穀物、小麦、ガソリンなどの輸入品が値上がりし、全体の物価が押し上げられているのが、現状です。

◆アベノミクスを引き継いだ岸田政権

 大企業のもうけを重視するために、歴代政府は低賃金かつ不安定な雇用である非正規職員を増やしました。企業側が不必要になれば、いつでも退職させられます。労働組合がない企業が増えてきています。不当なことがあっても問題解決のために話し合う機会もなく、我慢しながら働いている人が大半です。公務員である教員ですら、評価で昇給していく仕組みになり、時間外労働が当たり前のようになっています。評価されないと給料は上がりません。実は私たち働く者の基本賃金は30年間上がっていません。その中での物価上昇で富裕層との格差が広がるばかりです。

社会保障も改悪されています。今年になり高齢者には0.4パーセントの年金減額になりました。また消費税の税率も上がりました。物価高と消費税率の上昇は私たちの生活を苦しめるばかりです。

◆働く人みんなでつながって、声を上げていきましょう

 大企業のもうけがみんなに平等に分けられれば、安心して生きていける社会につながると想います。日本は大半を輸入品にっているのも問題です。自然エネルギーや食糧の「地産地消」も重要です。今の社会体制そのものが、多くの矛盾を生み、私たちの生活を苦しめ、生きづらい世の中にしています。少なくとも当面の目標として、雇用の保護、最低賃金の増額、大幅賃上げ、社会保障の強化をみんなで連帯して声を上げて勝ち取っていきましょう。(宮城 弥生)


  防衛費の突出は許さない!――岸田政権の危険な軍事優先政治――

 岸田政権は、23年度予算案で防衛費の大幅な増額を目論んでいる。ウクライナ戦争や台湾海峡危機などを材料に、この時とばかりに安保戦略の大転換と軍事費の倍増を実現してしまおうというわけだ。

 防衛予算の大盤振る舞いは、これまで日本が表向き掲げてきた専守防衛=平和国家の仮面を投げ捨て、身の程を超える軍事優先国家への大転換でもある。

 地に足を付ける生活者の立場から、岸田政権の軍事優先政治に《ノー》を突きつけたい。

   …………

◆軍事費倍増に踏み込む岸田政権

 『ワーカーズ』先月号では、敵基地攻撃など先制攻撃も可能とする岸田政権による安保三文書の改訂について見てきた。ここでは12月の新年度予算案で三文書の改訂作業と並行して目論まれている防衛費の大幅増額に目を向けたい。

 防衛費増については、ロシアのウクライナ侵攻や台湾海峡をめぐる中国の強硬姿勢をふまえ、今年5月の日米首脳会談では岸田首相自らバイデン米大統領に「日本の防衛力を抜本的に強化し、その裏付けとなる防衛費の相当な増額を確保する決意」を約束してしまっている。

 さらに米国がNATO諸国に求めたGDP比2%超への軍事費増を口実に、自民党国防族などを中心にして、日本でも5年以内にNATOと同程度の軍事費増を目指す動きが加速されている。

 このまま進めば、5年程度で軍事費のGDP比2%、10兆円規模への軍事費倍増を許すことになる。軍事優先国家へと踏み込んだ岸田政権への包囲網をなんとしても縮めていく必要がある。

◆政権内の〝茶番劇〟

 軍事予算については、安倍政権のもとで毎年連続して引き上げられ、補正予算も入れれば6兆円規模に引き上げられてきていた。近年の北朝鮮のミサイル発射や中国による南シナ海への海洋進出などを口実にしたものだった。

 現在はそれに加え、「ウクライナ戦争は明日の台湾有事だ」とか、あるいは「台湾有事は日本有事、すなわち日米同盟の有事だ」(安倍元首相)とばかり危機感を煽り、一挙に軍事費大国への合唱が始まっている。

 この防衛費増額について、自民党の外交・国防部会のメンバーなどいわゆる国防族は、財源として国債発行を求めている。5年程度で5兆円から10兆円規模への倍増計画には巨額な財源が必要であり、予算の組み替えや増税より国債発行の方がハードルは低いからだ。

 この軍事費増に関して岸田首相は、自公の「高レベル」「実務者」の二つの与党協議とは別に「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」を設置し、会議は11月22日、報告書をまとめ首相に提出した。提言では、敵基地攻撃能力の保有・増強は「不可欠」、防衛産業の育成・強化のために兵器輸出などでの「制約解除」を求めている。

 こんな〝専守防衛〟から〝先制攻撃〟への大転換を、たった4回の形式的な議論で提言すること自体、結論ありきの〝出来レース〟であって、許されないことだ。が、この専門家会議の眼目は、財源について「幅広い税目での負担(増税)」を打ち出したことにある。

 自民党国防族など強硬派は、早急な2%達成のため、国債発行を主張している。対して財務省などは安易な国債乱発を避け、財源を歳出の費目替えや歳出削減、恒久財源としての増税でまかなうべきだ、という立場だ。現に官邸内の財務省派遣組などが、海上保安庁予算や港湾などインフラ予算、恩給費など、NATO基準では軍事費に含まれる費目の防衛費への算定なども画策しているという。

 今回の専門家会議の報告書は、一見、国防族などによる赤字国債に頼った軍事費肥大化に抵抗したものだと見える。とはいえ、双方が岸田政権の与党内の話だ。岸田首相も軍事費増の対米公約もあり、安保三文書の改訂と並行して23年度予算での防衛費の抜本的増額を示唆している。つばぜり合いがあるとは言え、つまるところ、国民・有権者に、いかに軍事費増を受け入れさせるかという、見え透いた茶番劇に過ぎない。

◆軍産複合体膨張への野心

 国防族や軍事大国志向の論者などは、ロシアによるウクライナ侵攻を〝僥倖〟として、「今日のウクライナは明日の日本だ」とばかりに危機感を煽り、攻撃的な軍事戦略への転換を叫んでいる。軍事費の倍増要求はそれとセットのものだ。

 軍事力増強については、敵基地攻撃に使用するスタンド・オフ・ミサイルなど、最新兵器の導入などに熱心だが、彼らはそれを既存の軍事費や装備の縮小とセットで実現しようとはしない。

 例えば、自衛隊の本音を代弁する自民党国防族などは、既存の兵器や部隊の縮小などに強硬に反対している。一例としては、陸上自衛隊の縮小、中でも戦車部隊の縮小などだ。

 渦中のウクライナ戦争では、ロシア軍の戦車などが、携行型対戦車ミサイル・ジャベリンで、また戦闘機や攻撃ヘリなどが、スティンガー・ミサイルで次々と破壊されたという。それらの携行型の小型兵器の〝活躍〟で、ロシア軍によるウクライナの制空権の確保も阻止し、侵略軍の攻撃を跳ね返しているといわれる。

 こうした状況を受けて、軍事技術的な土俵上での話として、戦闘用航空機や戦車など高額の兵器の効率の悪さが専門家などから繰り返して指摘されている。一方で一機100億円単位の戦闘機、10億円単位の戦車。他方のジャベリンは一発2000万円程、スティンガー・ミサイルは、一発500万円程だ。明らかに釣り合わない。

 普通であれば最先端兵器の導入を主張するのであれば、高額で効率の悪い戦車や戦車部隊などは減らして当然だろう。ところが防衛省や国防族は、もとはといえば、旧ソ連軍による北海道上陸作戦に対応した戦車を中心とした陸上部隊優先の戦術に固執したままで、陸上自衛隊や戦車部隊の削減には頑として応じないという。要するに陸自や戦車部隊、それを支える軍事費の削減に抵抗しているからだ。自衛隊や国防族の力の源泉は、軍隊や兵士の規模や軍事予算の大きさと直結しているのだ。

 付け加えれば、陸自部隊の縮小・再編は、自衛官出身の国防族議員を当選させられなくなったり、将官などのポスト減にもつながる。自衛隊や国防族も、語るのは〝主権〟や〝国益〟だが、実際は〝省益〟や〝族益〟でしかないのだ。

 防衛費の規模は、軍産複合体の維持・拡大にも直結している。

 防衛族や軍需会社は、米国では軍産複合体として大きな力を持っているが、日本ではまだ力が弱い。22年度で防衛費5兆円強の当初予算の内、修理やメンテナンスを除けば(巨額だが)、新規の「装備品購入費」は8165億円。防衛費の15・8%でしかない。研究開発費も3・2%の1644億円だ。それが倍以上の10兆円超になれば、それだけ軍産複合体の力や影響力は大きくなる。

 政府や自民党国防族は、この軍産複合体づくりへの野望を隠さない。専門家会議も防衛装備品の輸出の道を拡大することを提言している。実現すれば、国産の兵器などの輸出に道が開かれ、軍需産業の肥大化も可能になる。軍産複合体は、一旦肥大化すれば縮小させるのは極めて困難だ。

 自民党国防族や軍需産業などが結託して危機感を煽り、軍需産業へのてこ入れや軍事研究への学会の参加も含めた、軍産学複合体の形成を目論んでいるのが現実なのだ。

◆庶民生活は置き去りに

 現在、円安による輸入インフレ、ウクライナ戦争などによる燃料・食料の値上がりなど、庶民生活を取り巻く環境は厳しさを増している。物価高の中で勤労所得は若干増えているというが、足元で3%を超える物価高で、実質賃金の目減りも続いている。しかも生活を支える各種社会保障でも、掛け金の引き上げや給付の削減が目論まれている。

 例えば国民年金の納付期間の60才から65才への延長、国民健康保険の年間保険料上限額の引き上げ、マクロ経済スライドによる年金給付の削減、介護保険料の引き上げ等々、負担の引き上げと給付削減が目白押しだ。普通の労働者や庶民にとって、なんとも生活しづらい時代になったという他はない。

 しかもこの30年、GDPはほぼ同水準で低迷したまま。少子高齢化が進み、2050年には人口は1億350万人まで減るという。道路や橋など公共インフラの間引きの必要性も語られる時代になってしまった。

 そんな中での軍事費突出のもくろみである。

◆《地に足がついた》対抗勢力づくりを!

 政府や自民党の、こうした軍事戦略の大転換とそれを支える軍事費の増大や軍産複合体づくりに対抗するには、庶民生活の観点に依拠した戦争反対の勢力を拡大していく必要がある。それには足元での反対勢力の拡大が不可欠だ。

 現代生活の特徴の一つに、SNSなどを通じたネット社会の拡がりがある。が、個人とネットのつながりだけだと、ともすれば周囲の情勢に関して《日本》《我が国》はどう対応するのか、という政府目線、国家目線の議論に引きづられてしまう。それこそ〝軍事整合性のジレンマ〟に落ち込んでしまうことになる。

 私たちは、生活者の目線から、《私は》《自分たちは》どうすべきなのかを考えていく必要がある。それには個人と国家の間の様々な中間組織での議論が重要になる。労組や市民団体などだ。

 労組や市民団体などの中間組織が活発に活動すれば、《我が国》や《日本」は、といった主語に対し、《私は》、あるいは《私たちは》どうしたいのか、そのためにどう行動すれば良いのか、議論できる。その中から目ざすべき対抗軸も見つけられる。

 政府や国防族が推進しようとする軍事大国化と、そのための軍事費増額と対抗するためにも、政府目線や国家目線の悪循環から脱出し、中間組織などを通じた、庶民目線の行動や闘いを拡げていきたい。(廣)


  論考 帝国主義と国家の本質

 ロシアのウクライナ侵略は「左翼」陣営をおおいに混乱させた。その原因の一つとしてレーニンによる「帝国主義論」がある。少なくない左翼は驚くべきことにロシアを帝国主義と弾劾するどころか免罪符を与えようとした。曰く、「ロシアは金融独占体制ではない」「最高段階の資本主義では到底ありえない」「ロシアは資本輸出どころか遅れた資源輸出国でしかない」ゆえに帝国主義ではない。さらにある欧州左翼は返す刀で「日本の満州支配も帝国主義による植民地支配とは言えない」とまで論じた。もちろん反論もあったが建設的な議論とはならなかった。

 左翼の体たらくのおかげで思慮の足りない人たちは、米国・NATOの東欧進出圧力がロシアによるウクライナ侵攻の主たる「原因」とみなし、ウクライナの対応にも非があった(から侵略が発生した)などと議論は迷走した。

 また、レーニン自身が自著「帝国主義論」を出版の事情で「奴隷の言葉で書き、経済問題に限定せざるを得なかった」と不十分性を自覚していたことも忘れてはいけない。結局これらの「左翼」の人たちはレーニンの帝国主義論の意図や主旨(帝国主義的世界分割戦争は不可避であり、労働者は自国の帝国主義と闘い社会変革を展望した)までも投げ捨てたが、それは正しいことではない。

 もちろんレーニンの帝国主義論は不十分である。根本からその点を補充したい。

■そもそも侵略や他地域併呑は古代の国家以来の問題だ

 国家形成とは何か?それを改めて思い起こしてみよう。

 インカ「帝国」のような初期国家による多地域包摂は、今から見ればそれほど強圧的でもなく、牧歌的だが「インカ一族」による貢納(および下賜)という再分配経済は民衆支配(収奪)の一形態であったことは否定すべきではない。

 三~五世紀のヤマト権力はインカと同じような祭祀文化の統一(三角縁神獣鏡や前方後円墳)や朝鮮半島から入手する鉄材の分配制度などで権威と求心力を強めつつ、機内の豪族連合政権としてスタート。五世紀には吉備や出雲、そして九州を従え関東にも進出、その後律令制度(中途半端に終始したが)租税を徴収しうる日本列島の明確な中央権力として台頭した。

 ギリシャ世界ではスパルタの例がわかりやすい。他民族併呑により国家が確立した例だ。ドーリア人の南下で先住民イオニア人を隷属化した。少数部族が多数部族を武力で屈従させ隷属民化し収奪した。少数であったスパルタ支配人は全員武装かつ強壮精鋭によりこのような不安定な社会基盤を克服しようとして独特の軍事文化を生み出し生存した。

ローマ帝国は、初期には文字通りの過剰人口の解決として植民地拡大があり、その後はローマ元老院による周辺部族民の支配と搾取に乗り出し帝国を築いた。

 豊臣秀吉らの朝鮮半島攻略などに見る封建的帝国主義は、恩賞として与える土地の「不足」という指摘もある。無謀な失敗に終わったが、領土・領民支配の拡大という野望を内在的に持っていたことを示した。

 近世・近代のヨーロッパでは英、仏、プロイセン、ロシア、リトアニアやポーランド、オーストリア・ハンガリーらの海外領土の獲得および植民地化や、欧州内の領土再分割戦争は何度も繰り返された。
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 まず確認できることは、国家は太古の時代においても近代においても大衆収奪の確立を志向し、それをテコとして権力の強大化を目指してきたのである。これは国家の生命運動ともいうべき特質なのだ。

■国家の本質としての領土・領民支配そして拡大の志向性

 国家の本質とは第一にまさに国家は太古の形態から近代的形態に至るまで、大衆収奪の確立(貢納、租税、地代、利潤)を志向し、それを持て権力の強大化に結び付けるということだ。

 ゆえに第二に次のような推論は私からすれば必然ではないかと思う。国家権力の意志とは「国家権力を強化するためには領土領民の獲得は可能な限り追求したい」と。つまり領土拡張の志向は不可避の属性なのだ。
かくして結果として帝国を築いたのは一部だとしても、あらゆる国家は帝国への野望を抱き、他民族併呑・併合の野望を内在している。それは、国家それ自身の本質にかかわるものだからだ。

 ゆえにレーニンの「帝国主義論」を読み「世界を分割支配する金融独占や資本輸出があるから帝国主義戦争が必然化する(この要件が欠けていれば侵略は起きないはずなので、ロシアの侵略はNATOに強いられたものだ・・)」と考えたとすれば、それは間違いも甚だしい。

■「現代帝国主義論」は国家の本質から切り離されてはならない

 繰り返しになるが、古代には貢納の拡大を求めて、あるいは封建時代は家臣団に対して「封土」を保証するために、あるいは資本主義では、生産力の高まりを基本として、海外植民地獲得による資源確保と商品の販売ルート確保さらには利権や資本投下のための領地争奪戦が起きてきた。

 米国によるイラクやアフガン侵攻、そしてロシアのウクライナ侵攻などの国家間武力攻撃はやむことを知らない。また、イスラヘルのガザ地区攻撃ばかりではなくシリアやトルコ、サウジアラビアやイランなどでも地域紛争の火種は尽きない。しかし、他方ではEUの歴史的拡大や米・中のグローバリズムは、次第に国境をそのままにし(あるいはEUのように国境を相対化し)国際・国内金融資本による共同搾取体制への移行が見られる。国家の本質は廃止されつつあるのだろうか?とはいえこれら「国境のボーダレス化」が一時期のものとして瓦解する可能性もあり我々の基本認識を変えるべきではない。
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 まとめ。歴史的帝国主義あるいは侵略主義は、国家の搾取と収奪のための「権力強化への志向性にある」、と繰り返し私見を述べてきた。したがって、国家の第三の本質として帝国主義は外への拡大ばかりではなく「国内での反動性と不可分」であると、書き加えることができる。両者はメダルの表裏の関係である。収奪の体制=領土拡大=国内での政治反動、これらの三位一体こそが国家の示す歴史本質だと考える。

 帝国主義は国内的反動の志向性でもある(これはレーニンも述べている)。しかし他方、国家の廃止は、長い歴史が必要である。一度や二度の決起や革命で解決するような簡単なものとは思えない。国際連帯を維持し、国家権力と闘い、民衆の権利を高め運動を絶えず活性化する長い展望が必要だと思われる。(阿部文明)案内へ戻る


  「ヘリコプター・べン」にノーベル経済学賞の末世

 2008年の世界金融危機の時にFRB(米国中央銀行=連邦準備制度理事会)の議長であり、そして今まさに世界信用制度の動揺さなかに、今度はノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキ。彼の「学説」と手腕はどのようなものであったか、まとめてみた。

■銀行制度を守れ!

 バーナンキ氏ら三氏は、同じような方向性の研究で今回ノーベル経済学賞を受賞した。しかし、それは一昔前の研究だ。安田洋祐大阪大学大学院経済学研究科教授によれば以下のように要約される。

 「(受賞した)重要な論文は3本ある。1983年のダイアモンド氏とディビッグ氏の共著論文、同年のバーナンキ氏の単著論文、そして1984年のダイアモンド氏の単著論文だ。」

 「以前、(銀行の)取り付け騒ぎが起きるのはマクロ経済(=経済の全体)が悪化した「結果」だと考えられていた。一方、ダイアモンド氏とディビッグ氏は、取り付け騒ぎを「原因」としてマクロ経済が悪化し得ると主張した。つまり、原因と結果が入れ替わったのだ。マクロ経済から金融ではなく、金融からマクロ経済というチャンネルを初めて理論として提示した「パイオニア」」であると(Diamond On-line)。つまりこの二氏の方向性をバーナンキはさらに切り開き実践家としても「発展」させてきたわけだ。

 とはいえ、このような「卵が先か鶏が先か」のような問題に無理に決着をつけたことにどんな意味があるのだろうか?

■「ヘリコプター・ベン」

 バーナンキ氏の理論は次のような信念に裏打ちされているという。「FRBによる通貨の供給不足(およびそれを原因とした金融機関の大量倒産)が1930年代の世界恐慌の原因」(Wikipedia)だと固く信じてきた。さらにある講演では比喩としてだが「金融危機にはヘリコプターで紙幣をばらまけばよい」と彼は述べた。これが「ヘリコプター・ベン」の由来である。

 あるいは「キーストローク・マネー」という逸話もある。これはMMT(現代貨幣理論)などの野放図な財政拡大・信用拡大論者が好んでバーナンキの権威と結び付けている。なるほど、バーナンキは中央銀行による一般銀行への信用貸与=貨幣の増大を「富・財」を何ら根拠にせず、コンピューター操作(キーストローク)で信用創造⇒貨幣の増大が簡単にできることを確かに言っている(そしてそれは事実であるのだが、後で触れるようにだから経済にひずみが生じるのだ)。

 このようなお手軽な信用創造が、銀行など金融機関の「救済」のためとして実行されるという。しかし、その副作用、例えばインフレやその後の増税等々が結局は国民に押し付けられないのだろうか?

■バーナンキ的政策に効果は見出せない

 後回しになったが彼の政策の有効性を点検しよう。バーナンキは、2005年には米国大統領経済諮問委員会 (CEA) の委員長という政府の要職に在りながら、低金利によりバブル化しつつあった当時のサブプライムローン問題の危険性を看過した。さらに06年~14年にはFRB議長として米国金融政策の中心にいた。そして08年の「世界金融危機」に直面した。

 彼は住宅ローン担保証券(MBS)さらには米国債、さらにはあらゆる債権に対する無制限な量的緩和(QE)を実行し、市場にあふれ出たクズ債権を買いあさった。国家による信用創造をフルに発揮しまさにマネーを散布した。彼は確かに自らの「理論」をかなり忠実に実行したといえる。米国金融当局はかくして銀行に流動性確保や資本注入による救済政策を断行した。

 だが、すでに述べてきたように米国発の金融破綻を含む経済恐慌をバーナンキ的政策では止められず(さらには政府の金融機関救済施策も国費の投入で――つまり国民へのしわ寄せで――強力に実行されたが)富裕者、金融機関も巨額の損失を出し、2009年時点の銀行の損失推計はアメリカ1兆ドル、ユーロ圏8000億ドル、イギリスは6000億ドルだった。庶民のローン破綻も含む失業者の波ができ不況は世界に広がり百年に一度と言われる経済危機となった。

 その後バーナンキは「10年前の金融危機対応で当局者に2つの致命的なミスがあった」(ブルームバーグ2018/9/13)と語った。しかし、「ミス」が無ければ経済恐慌を阻止できたというのだろうか?この記事を読んでも弁解や責任回避がめだち理解不能だ。

 言うまでもなく、真の問題は危機のさなかの金融当局の対応「ミス」などではなく、また「バーナンキ的政策」はさほど効果無く終わった、ということでもない(当然の結果でしかないからだ)。今現代に問われるべきはバーナンキ的政策の継続が新たな経済危機を深刻化させ、また一般庶民に経済的不利益を押し付けてきたのではないのかということだ。

■バーナンキ氏らの理論とその背景

 バーナキンに与(くみ)するつもりはないが、確かに銀行などの信用制度の瓦解が、経済的下部構造にさらなる打撃を与え、より一層経済恐慌を深刻化するのは事実である。1929年の「ガラ=米国の株価崩落」に学んだというフリードマンとバーナンキだ。しかし、それはいわば経済恐慌のプロセスの一面の話でしかない。恐慌が開始されれば、むしろ実体経済と信用制度は相互に破壊的に影響しあいながら奈落の底まで落ちてゆくように見える。私は哲学畑なのでこのような複雑な過程については、短絡的な因果関係、つまり「原因」から「結果」へというものを求めずより深い根本原因を求めるべきだと考えている。
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 仮にバーナンキらのような一面化(銀行が破産すると不況に陥る)が許されるのならば、次のようにも言えるのではないか?不景気が広がり解雇された大量の労働者が消費を控え、全体としての需要を収縮させ不況を深刻化する・・と。ならば「賃金を上げよ、また失業者を保護すれば需要は回復し経済は救われる・・」と言うこともできる。(労組や左派にもありがちな見解だ)もっともらしく聞こえてもこれは両者とも誤っている、つまり、国家的支援により銀行がある程度救済されたり、あるいは労働者の生活の一定の救済(この政策はその限りで支持できる)になったとしても、そもそも恐慌を避けることはできない。
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 K.マルクス的に言えば、経済崩壊を導いたのはほかでもなく、資本主義に随伴する矛盾(売りと買いの分離、生産と消費の分離、生産の限りない拡大指向と消費の制限性、生産資本と商人資本の分離、資本間競争、信用制度による矛盾の拡張と先延ばし等々)がそれぞれ独立して成長しいつしか限界点に達する。次に始まるのがそれらの総合的かつ暴力的調整である資本主義に固有の全般的経済恐慌ということになる。つまりは皮肉な話だが資本主義によりゆがめられた市場経済のしっぺ返しであり、引き裂かれてきた価値法則の貫徹のなせる業なのだ。社会的に価値の持たないものは無用物として暴露され投げ出される。

 まとめになるが、バーナンキ氏らの生産性のない議論は結局のところ政府や中央銀行が「救済」の力点をどこの利益集団に置くのかということに行き着くのだ。バーナンキら受賞三氏の「理論」は――金融資本主義時代の先駆として――銀行をはじめとした金融機関とそこに財産を集中し富の拡大を目指してきた富裕層に対して、危機の際には優先的に保護を与えようとする論理と政策だと言えるだろう。これがバーナキンばかりではなくアルフレッド・ノーベル記念経済学賞委員会の立場でもある。
 
■「最良の時代」が破綻を準備してきた

危機の十年前、グリーンスパンの下ですでに低金利政策は開始され、その結果としての「金融(不動産)資産価値」は倍々増していた。信用創造は政府と中央銀行の独占物ではない。バーナンキの英国におけるカウンターパートナー・M.キング(当時のイングランド銀行総裁)によればその時代を通じで民間銀行は自己資本比率が数倍どころか、30倍場合によっては50倍にも達していたらしい。つまり、1億ドルしか自己資本が無いのに50億ドルの貸付をやっていたらしい(『錬金術の終わり』日本経済新聞社)。増大する金融資産価値や不動産価格は優れた担保でもあるので、当然のように銀行は融資を拡大した。金利や地代や投資収益が順調に回転しているときは資産家たちにとっては夢のひと時だが、それが破綻へのカウントダウンであった。その後に嵐は来た。バーナンキもM.キングも宴に酔いしれそれを見抜けなかった。
 
■信用創造とバブル、QE政策慢性化の罠

 さて、ここからの話は、今回のノーベル賞受賞の「論理」から外れることに注意してほしい。もはや経済危機時の「銀行救済」の問題ではない。バーナンキは、国家的信用創造を危機時代に限らず、例えば不況脱出や景気刺激策として政府の財政拡大による「需要創出政策」と連携しつつ強力に継続してきたという問題に移行している。

 QE政策(量的緩和=国債などの債券購入による市場へのマネー散布政策)はバーナンキが発明したものではないが、FRB前任議長のグリーンスパンから引き継ぎつつ、先に見たようにそれを世界金融危機時に大規模に実行し、そしまた低迷するその後の米国経済を支え不安定な信用制度のアンカーとして危機後も大胆に継続した。【表】のようにバーナンキは危機とされる08年09年以後も14年までの在任期間中大規模な債権の買い取り=貨幣の散布を実施した。出口戦略(QE政策の手じまい)に移行したのは次のイエレン議長(14~18年)になってからであった。

 しかし、イエレン議長(現財務長官)はタカ派的で引き締め政策に転換したと言われているが、債券購入が大幅に減少したのではなく【表】のようにイエレンの下(2014~2018年)でもバーナンキ時代以前の水準に戻ることはなかった。

 入れ替わるように日銀は国債などの債権買い取りと低金利政策の道を驀進することになる。量的・質的金融緩和(QQE⇒QE政策の増補版)は第二次安倍晋三政権(2012~2020年)が掲げる経済政策アベノミクスの中核政策であり、デフレーションからの脱却を目ざして、消費者物価の前年比上昇率を2%まで引き上げることを目標としてその後十年間実行された。ここで詳しくは触れないが、アベノミクスは目立った成果が無いどころか円安傾向を作り出すことで短期的な輸出増を目指した、結局は日本人労働力を安売りし、産業力を弱め実質賃金の継続的下落を宿命づけたのである。かくして日本経済の沈降スパライルを強めただけであった。
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 EUなども信用危機・通貨危機の時代を経て同様のQE経済政策を長期に採用したのだ。かくして、世界に拡大した大胆なQE政策は、国家による信用の拡大による「安いマネー」の発行と低金利とにより、現在、世界で諸国民を困らせているインフレ昂進のエネルギーをせっせと蓄積してきたということになる。そのインフレが今まさにパンデミックや戦争などをきっかけとして世界に蔓延している。インフレと同時に急速な需要の収縮と信用の収縮がまさに始まっている。来年にかけての不況はインフレ下で深刻な生活の危機となると予想される。バーナンキの受賞はその意味では痛烈な皮肉でしかない。(阿部文明)


  アナフィラキシーショックについて

 新型コロナワクチン接種の特設会場で、接種直後にアナフィラキシーショックが起き、救命処置の甲斐もなく死亡する事案が発生しました。ここでワクチン接種のリスクに対する基本的な原則について、要点を述べたいと考えます。

●リスクは避けられない

 およそ手術、検査、ワクチン接種等には、様々なリスクがあり、それを最小限に留める努力は不可欠ですが、それをゼロにすることは不可能で、リスクは避けられないものです。

 そのためにどんな治療においても、インフォームドコンセント(説明と同意)が不可欠の手続きとされているのです。

●インフォームドコンセント

 ではインフォームドコンセントの原則はどのようなものなのか、しばしばその内容について、曖昧な理解が流布されているようですが、求められる原則は次のようなことだと考えられます。

①リスクの説明
 患者にリスクを具体的に説明すること。今回の場合、十数万人に一人=〇・〇一%以下の頻度でアナフィラキシーショックのリスクがあることを、医師が接種希望者に直接具体的に説明すること。

②救命処置の説明
 その上で、当施設ではリスクに対する万全の体制を取っていることを具体的に説明すること。接種後これこれの症状が起きたら、迷わず「アナフィラキシーショック(疑い)」と診断し、医師・看護師・救命士が一体となって、躊躇無くアドレナリン注射を最高限度量で行い、同時並行に救命処置(心肺機能蘇生)を行いつつ、救命センターに救急搬送することを具体的に説明すること。

③同意・不同意の選択
 上記の①、②の説明を理解した上で、患者が「同意」または「不同意」を選択する。不同意の場合は、そのことによるデメリット(感染した場合の重症化リスク)や次善の策(接種会場や日時の変更も可能)を具体的に示すこと。

●救命処置体制

 現在の問題は、①(リスク説明)と③(同意の選択)だけがあって、②(救命処置の説明)がすっぽり抜けていることです。

 このことは、ワクチン接種当初から分かりきったことでした。現に厚労省はワクチン接種開始に当たって、アナフィラキシーショック時は「躊躇なく最高限度量のアドレナリン注射を即実施すること」と文書で通知していました。

 それなのに、アドレナリン注射を実際に実施できる体制が不備のまま、ニ年半も放置されてきたことは、重大な問題です。

●スタッフの訓練

 もちろん接種会場にはアドレナリン注射薬は常備されているはずです。接種に当たる医師・看護師たちも、通知には目を通していたはずです。

 しかし現実には、こうした救命処置は、救急告示病院(二次救急)か救命センター(三次救急)の救急部で、日常的に救急医療に携わっているスタッフでなければ無理なのです。

 ですからワクチン接種は本来なら、救急医療を行っている病院で実施するのが望ましいのです。

 特設会場で救急医療を経験していないスタッフが配置される場合は、事前に救命処置の研修と訓練を施すことが不可欠です。

 事前研修だけでは不十分で、毎日の業務開始前に当日スタッフで模擬訓練を行うべきです。なぜなら救命処置は医師・看護師・救命士の連携プレーで行うものだからです。

●接種希望者の権利

 現状は、①事前の通知にある「リスク説明」を読んで、問診表の「基礎疾患の有無」にチェックし、③会場での問診で「ワクチン接種を希望します」にチェックするだけです。②のリスク発生時の救命処置の具体的説明が抜けています。

 接種希望者は、問診の際、この②救命処置の具体的説明を求める権利があります。その説明が不十分と思われたら、接種会場を変更してもらうとか、救命処置のできる日時に変更してもらうことを要求する権利があります。これは「命の権利」です!

●国・県・医師会の責任

 もちろんアナフィラキシーショック対応の不備を、ニ年半も放置してきた国(厚労省)、都道府県(保健課)、医師会には重大な責任があります。

 国は一片の「通知」で地方に丸投げし、都道府県は「通知」を現場の保健所に流して済ませ、医師会も「通知」をスタッフに「読ませた」だけで事足れりとしてきたのです。

 そのしわ寄せは、きちんとした研修や訓練も保証されず現場に配置されたスタッフに来るのです。

 「使命感」だけを当てにされ現場に配置されたスタッフは、研修を保証されなかった点では「被害者」であり、十分な救命処置を受けられなかった患者にとっては「加害者」です!

 医療スタッフは、「被害者」にも「加害者」にもならないために、救命処置の研修や訓練を、医師会や行政に要求して闘う権利があります!(冬彦)案内へ戻る


  読者からの手紙・・・ 防衛力の強化より、人々の対等・平等な国際的交流を!

★ 憲法解釈変更と強まる軍事力強化

 岸田首相は敵基地攻撃能力(反撃能力)を含め「今後5年以内に日本の防衛力を抜本的に強化し、防衛費の相当な増額を確保する」と表明した。

 「敵基地攻撃能力」とは?文字どおり、敵の基地を直接攻撃する能力のことだ。

 相手のミサイルの発射拠点をたたく力を備えておけば、相手に攻撃することを思いとどまらせる力になるという狙いもあるということだが、日本の憲法は戦争放棄を掲げ武力による戦争行為で紛争解決をしないことになっていたが、これを改めて、相手から武力攻撃を受けた時にはじめて防衛力を使う「専守防衛」を持ち出し、防衛力は「自衛のための必要最小限」にとどめると憲法解釈を変換してきた。他国に脅威を与えるような軍事大国にならないことの基本理念に配慮したものだったが、1956年、当時の鳩山一郎内閣は「我が国に急迫不正の侵害が行われ、その手段として誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とはどうしても考えられない」とある一定の条件では憲法違反ではない、という見解を打ち出し、敵が今にもミサイルを日本に撃とうとしている場合、ほかに防ぐ手段がなければ、敵のミサイル基地を最小限の武力で攻撃することは自衛の範囲内と「敵基地攻撃能力」(反撃能力)を持つ事への憲法解釈変更に一層踏み込んでいるのだ。

★軍事力強化では戦争はなくならない

 そもそも、戦争は武力の優劣が決定的な理由で起こるわけではないのだから、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有をしたからと言って戦争抑止にはならないことは明らかだろう。 

 民族対立・宗教対立、国家間対立及び各国内における差別・抑圧等々、戦争がなくならない現代社会では、戦争を遂行するための武力能力を高めつつ、兵器開発は核兵器をも造りだし、新しい強力な武器が造り出されている。

 兵器は戦争を遂行する道具であるが、破壊力・性能向上の強化など、軍事力の強化は相手方への脅威であり、対抗意識の高まりは戦争勃発への危機的状況を作り出すだけである。従って、(反撃能力)を持つことや強いては核武装すれば侵略されず、戦争にはならないなどと考えているのは、人民を抑圧し支配し戦争や軍事産業で利益を上げている戦争好きな者だけだろう。

 本当の意味で戦争のない世の中を作り出すためには、差別や抑圧と戦い、民族や宗教・国家間の諸問題を民主的対等で平等な相互関係に基ずく交流を通じて解決していくことであり、対立をあおる不毛な軍事力強化であってはならない。         (光)


   読書室  文藝春秋編『統一教会 何が問題なのか』文春新書2022年11月刊

〇「この一冊で統一教会のすべてがわかる」が、出版社のこの本への宣伝文句である。この本の元となった記事は、本年九月号と十月号の「文藝春秋」で反響を呼んだ統一教会関連の特集記事を軸に新書版として編集されたものだ。私たちの関心の焦点となる巨額献金・政治家との癒着・信者家庭の悲劇・統一教会の特異な教義等々の紹介がある。その意味では最新情報がコンパクトにまとめられた、実にタイムリーな出版物といえるであろう○

  1969年は、東大安田講堂の封鎖解除で開けた。今でも私にはテレビ報道に見入っていた記憶が鮮明だ。その年の四月に、私は都内の有名な社学同の拠点校に入学した。大学が主催した入学式は、全中闘の学生による演壇占拠により中断された。そして六月まで学内は封鎖されたままで講義はなかった。それでも私たちは自主登校してクラス討議を何回か継続していた。この間、自治会主催による自主講座が大講義室で行われていた。私は林直道氏の資本論講座や岩崎昶氏の映画論や磯田光一氏の講義を聴いたことを覚えている。英才の磯田氏の場合、この講義が元で『戦後史の空間』が誕生した、と私は考えている。

 その頃、聖書に関心があった私は原理研究会の会員と知り合う。誘われるがままに彼らの集う、いわゆるホームへも行ったことがある。しかし私は離脱した。彼らが「ニセ預言者」だと感じたからである。そうしたこともあり、私はマルクスに惹かれていくのである。

 その後、原理運動が盛んになるにつれ、私は浅見定雄氏の『ニセ預言者に心せよ!』、『新宗教と日本人』、『聖書と日本人』等、を次々に読破して、自分なりの仮説を立てた。

 これらの読書の過程で、自民党の清和会とは実は征倭会であると私は気づいたのであり、彼らの今後の動向に大いに関心が湧いてきた。私なりの仮説は、その後安倍銃撃事件により事実であったことが赤裸々に暴露されることになった。そしてこの事実は日本人に大きな衝撃を与えた。こうして次々と統一教会関連本の出版が続く日々となったのである。

 今回の出版ブームの中で自分の関心から次の三冊を私は購入した。一冊目は日隈威徳氏の『<新装版> 統一協会=勝共連合とは何か』(新日本出版社)、二冊目は菅沼光弘氏の『元公安調査庁2部長が教える「統一教会」問題 本当の核心 安倍元首相はなぜ撃たれたか』(秀和システム)、三冊目は山口広氏、佐高信氏他『統一教会との闘い――35年、そしてこれから』(旬報社)である。これらすべて本年の十月に刊行されたものである。

 簡単に内容を説明すれば、一冊目は勝共連合に焦点を当てそれと一体の統一教会の実態とその教義を批判した古典で、二冊目は統一教会とは米国が育成してきた新興宗教だと喝破したもので、三冊目は霊感商法等との具体的な闘いの日々を明らかにしたものである。

 私が今回本書を強く押すのは、統一教会の全体像を新書版という、読みやすい分量でコンパクトに提示しているからである。この統一教会のいかがわしさは、伝道する際に、自らの正体を隠して近づき、その人々を洗脳した後で初めて正体を明らかにすることにある。

 本書は、石井謙一郎氏の「統一教会、その違法性と反社会性」の記事から始まる。また その教義は、伊藤達美氏の「教義から見た統一教会」でその核心が批判されている。

 本書の圧巻は、鈴木エイト氏の「“安倍派”への工作を示す教団内部文書」の暴露である。統一教会と安倍晋三との関係の深さは、ジェンダー問題に象徴されているのである。

 このことに関わっては、甚野博則氏の「合同結婚式で海を渡った日本人妻の悲劇 が秀逸である。また信者には貞淑・禁欲を強く求めながら、自らは放縦・淫乱の教祖・文鮮明一族の実態は、石井謙一郎氏の「教祖・文鮮明一族の隠された真実」に詳説されている。

 充実した記事がある一方、他方では「山上容疑者はなぜ安倍元首相を狙ったのか」と「宗教はなぜ権力と結びつくのか」のように、『文藝春秋』取材班が協力したものや4名による座談会記事がある。これら二つは切り口が甘い内容である。まさに竜頭蛇尾なのである。

 だが全体では新書版ながら実に盛り沢山の内容である。一読を薦めたい。 (直木)案内へ戻る


   読書感想 大塚久雄「近代欧州経済史入門」を読んで

●経済史学への影響

 大塚久雄といえば、戦後の一九五十年代から七十年代にかけて「経済史学」の分野で一世を風靡していた。今では想像しにくいが、年配の研究者や少しでも歴史学をかじった者で、学生時代に大塚史学の影響を受けた人は意外に多いのである。

 その大塚史学も八十年代あたりからは顧みられなくなり、今ではそれに接する人は、それが「過去の否定された学説」であるとする「大塚史学批判」から入るのが当たり前になっている。

●大塚史学批判

 曰く「イギリスの農村から資本主義が始まったとする大塚の農村工業説は否定された、資本主義の発生は世界商業からである」、曰く「大塚の説は一次資料に基づかず、西欧研究者の二次資料をもとに組み立てられた観念的な叙述でしかない」、曰く「イギリスの資本主義を典型的なモデルとして、ドイツや東側やアジアを封建的な遅れた資本主義とみなす西欧中心史観だ」等々。

 だが、こうした「大塚史学批判」の「結論」だけを読んで、肝心の大塚の文献を読みもせず「わかったつもり」になる愚は避けるべきだろう。実際、改めて大塚久雄の文献をていねいに読んでみると、今日流布される上記のような大塚批判は、いささか一面的で浅薄なものではないか?という疑問がわいてくるのは筆者だけだろうか?

●世界商業の覇権

 具体的に見てみよう。第一の「農村工業説批判」にしても、大塚は必ずしも「農村工業」からストレートに資本主義の成立を説いているわけではない。むしろイタリア商人が地中海交易でアラブ商人を介して、アジアの香辛料や嗜好品と南ドイツ鉱山の銀を交換し、世界商業資本として君臨する時代から説き起こしている。

 そしてポルトガルによるアフリカ喜望峰を周回する大航海ルートの確立を機に、世界商業の中心はリスボンに移る。さらにアメリカ大陸の銀山の発見を機に、スペインが世界商業を握る。やがてオランダ、イギリスへと、その覇権は移っていく。

●毛織物工業の発達

 では世界商業の覇権が移動していった背景に何があったか?大塚は、各地における毛織物工業の発達の度合に着目する。

 そして都市部の織元に多い問屋制手工業、農村の織元に多いマニュファクチャ(工場制手工業)を分析し、後者の発達が世界商業の富を地域の市場に呼び込み、後のイギリスの綿織物工場における機械制大工業につながっていくと説くのである。

●背景にある問題意識

 もちろん今日では、経済史学研究のその後の進展により、大塚久雄の唱えた説のいくつかが、重要な点で見直しを迫られているのは事実であろう。

 だがここで我々は、大塚久雄がその経済史学研究において、どういう問題意識を抱いていたのか?に目を向ける必要がある。

 第二次世界大戦後、大塚に限らず歴史研究者の直面したのは、同じ「先進資本主義国」の中で、なぜドイツでは民主主義(ワイマール体制)が崩壊し、ファシズムが勝利してしまったのか?同じく日本においても、なぜ大正デモクラシーは挫折し、天皇制軍国主義の支配を許してしまったのか?という、深刻な問題意識であった。

 その解を大塚は経済史学に求めたのである(封建的要素の残存等)。その結論が妥当だったか否かは、大いに議論のあるところではあろう。

●今日に通ずる視点

 しかし少なくとも、今日の地点に立って大塚史学の批判に言及するならば、その背景にあった問題意識を十分踏まえて論議する姿勢が不可欠ではないだろうか?

 大塚がドイツのワイマール民主主義の崩壊とファシズム台頭、日本の大正デモクラシーの挫折と天皇制軍国主義成立に対して抱いた深刻な問題意識は、今日のロシアにおける専制体制や、ミャンマーにおける軍部独裁体制といった現代史に通ずる面も皆無とは言えないように感じるからである。(冬彦)


   「沖縄通信」・・・ブックレット「また『沖縄が戦場になる』って本当ですか?』(1冊500円)の紹介

このブックレットを発行したのは、沖縄で新しく発足した「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」です。

会の発足チラシには、「平和を望む全国の声を結集し、戦争への道をストップ!77年前、筆舌に尽くせぬ戦禍を被った沖縄にふたたび戦争の危機が迫っています。中台間の緊張を煽る日米政府は与那国、石垣、宮古、沖縄、奄美、馬毛島の島々にミサイル基地や自衛隊駐屯基地を配備し、『台湾有事』を口実に戦争準備へと突き進んでいます。軍事力強化は国家間の緊張感を高めるばかりで、ひとたび衝突が起こり紛争がエスカレートすれば、真っ先に標的にされるのは、これらの島々であり、特に台湾に近い与那国島、石垣、宮古島などの『先島諸島』に戦火が及ぶのは火を見るよりも明らかです。こうした状況の中、危機感を抱いた沖縄のジャーナリスト、学者、文化芸能関係者、平和活動家などが一堂に会し、全国に向けて声明を発しました。ぜひ、ご賛同、ご支援をよろしくお願いします。数千数万の力を結集し、政府に対し外交的努力による平和的解決を求めていきます。ぜひ、ごいっしょに戦争への道をストップさせましょう!ウェブサイト(https://nomore-okinawasen.org)にある同会発足の趣意書をご覧の上、呼びかけ人または賛同人になっていただければ幸いです。」と、呼びかけています。

 今回発行された会の「ブックレット」の内容を紹介します。

 表紙の下のところに、「『南西諸島に攻撃拠点』『住民巻き添えの可能性』、目を疑うような衝撃的な見出しが昨年12月24日の沖縄二紙の一面に躍った。対中国戦略のための『日米共同作戦』をスクープした、共同通信の石井暁さんが沖縄県民の前で、二度と沖縄を戦場にしないという強い使命感と記者生命をかけて明快に語った講演を完全再現収録しました。」と書かれています。

 2022年9月25日に「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」のシンポジウムが開催され、共同通信編集局専任編集委員の石井暁さんが講演をされました。

会の共同代表である山城博治さんが開会の挨拶で、「本日は、『台湾有事と日米共同作戦計画、南西諸島を再び戦禍の犠牲にするのか』というタイトルで、石井暁さんに講演をいただきます。昨年の12月24日に、日米共同作戦計画についてのスクープが共同通信の配信でなされました。沖縄タイムス・琉球新報にも大きく報道され、私たちの沖縄が、日米の共同作戦の拠点になっていることが改めてわかりました。戦争になれば、再び沖縄が戦場になる。そう警鐘を鳴らしてくださったのが石井記者であります。本日は、石井さんから、日米共同計画はどのような計画なのか。それが私たちにどのような禍いをもたらすのか。あるいは、私たちがどのような手立てで、その有事を止めることができるのかを詳細にお聞きします。今、我々県民に一番求められているお話しであろうと考えています。」と述べています。

なお、本書には沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の代表をしている具志堅隆松さんも会の共同代表として、「私はこれまで40年間、戦没者の遺骨収集をして、その骨を家族の元へ返そうという活動をしてきたのですが、その究極の目的は『二度と沖縄を戦場にしない』ということです。戦争の犠牲者を家族の元へ返すということは、その犠牲者にとってあるいは遺族にとって必要なことだと思います。そもそも国策である戦争の犠牲者なのですから、国がやるもんだと思っていたのになかなかやってくれなかったわけです。しかし、実際にこのように探せば今でも遺骨が見つかるんですよということを示したくて、遺骨収集をしてきました。」と述べています。

さらに、石井暁さんや地元沖縄のジャーナリストである新垣毅さん(琉球新報報道本部長)、阿部岳さん(沖縄タイムス編集委員)、三上知恵さん(映画監督・ジャーナリスト・元琉球朝日放送アナウンサー)も参加したトークセッションの内容も記載されています。

このトークセッションで印象に残った言葉は、「戦争を前提にしたプロパガンダに惑わされない」、「戦争をさせないことが政治である」、「辺野古新基地でも米軍と自衛隊が一体化」、「ふたたび沖縄戦が目の前に迫っている」、「自衛隊報道を避けてきた沖縄メディアの責任」、「台湾有事に絶対に巻き込まれない強い覚悟を」、「世論を巻き込む大きな議論を国会で」等々でした。

「終わりに」の所で山城さんは、「本日はたくさんの議論がありました。今後、国家安全保障戦略、あるいは新国防計画あるいは中期防衛整備計画などという安保3文書というのが出るそうです。この文書がまとまったら、沖縄有事、沖縄で戦争するということが動かなくなってしまう。その3文書が狙っているものは何なのかを考え、明らかにしていきたい。そのためにそこに向けて大きな行動を取りたいと思っています。」と述べています。

ぜひ多くの方々がこのパンフを手に取って読んでいただき、沖縄戦が目の前に来ている窮状を知って、沖縄や日本が戦場にならないために共につながっていきましょう!(富田英司)案内へ戻る


  コラムの窓・・・会計年度任用職員って何だ!

 民間でできることは民間で、という言葉はそうだよねと受け入れてしまいそうですが、それでいいのでしょうか。身近な自治体で働いている労働者がどのような条件で働いているのか、おおかた終身雇用の恵まれた環境だと捉えられいるのではないでしょうか。

 たしかに、公務という権力行使の側面の自覚もなく、サラリーマン化している公務員は多いようです。生活保護の窓口だけではなく、市民が訪れてもまともに対応することなく、ことなかれで済まされることもあると思います。だからといって公務員の削減、どんどん委託に移すというのは問題です。

 元来、自治体の仕事は利益を目的とするものではないので、委託にして経費削減となると、委託先労働者が必然的に劣悪な労働を強いられるだけです。それでなくても、人件費削減を求められる(誰が求めているのかも問題ですが)自治体は正規から非正規へ、公務非正規労働者へと置き換えられています。その結果、官製ワーキングプアと呼ばれる劣悪な労働が増えています。

 11月24日の「東京新聞」が、会計制度任用職員の2022年度末「雇止め」問題を報じています。20年4月に導入されたこの制度は雇用継続を保証することなく、〝公募〟によって切り捨てられる可能性があります。というのも、総務省は制度のマニュアルで再任用は原則2回までとしているからです。

 公務非正規労働者は雇用継続と、正規職との差がありすぎる労働条件改善を求め、長く闘ってきました。そうしたなかで多くの成果をあげる職場が増えてきたのですが、まるでこれらをすべて切り捨てるようなかたちで導入されたのが会計年度任用職員制度です。10月30日に開催された10回目の「なくそう! 官製ワーキングプア大阪集会」では、雇用が不安定(有期雇用)、給与が低い、正規職員との待遇格差が大きい、といった問題が取り上げられました。

 アンケートでは、低すぎる給与でひとりで生活ができない、ボーナスは支給されるようになったが「毎月の給料はその分減らされ、日給制になりました。出勤の少ない月は10万円程度しか給料がなく、仕事内容とは合わない」といった声があります。「時間外労働は当たり前なのに手当はありません。『善意と献身』の無償労働を当然のこととして当て込んでいます」「会計制度任用職員に人権はない。人と思われていない。ただの消耗品だ」等々。

 すっかり維新政治が支配的となった大阪では正規職員が大幅に減少し、大阪、守口、泉佐野市では半減しています。しかも、非正規職員に置きかえられたのでもないようです。それは直営・非正規化ではなく、施設や業務の民間委託(パソナとか)や、自治体病院の独立行政法人化への移行だというのです。なるほど、〝官から民へ〟ですね。

 そうすると、〝痛みを分かちあう〟というのも、痛みを(誰か他に)押し付けるということか。なるほど、なるほど、そうなると犠牲を押し付けられる方ではなく、押し付ける方の勝ち組になることが人生の目的になってしまうのですが、それでいいのかな。 (晴)
   
   川柳 2022/12作 石井良司

 持ちネタの死刑本音で首になる
 支持率の低下八波が嘲笑う
 八十億地球の飢餓の荷が重い
 ハロウィンの命呑み込む人の波
 縺れ糸繕い合って金婚譜
 好奇心まだ晩学の血が騒ぐ
 プーチンが国境線を描き替える(「国」)
 丸儲け平和を嫌う兵器商(「丸」)
 プーチンが孤独の似合う花になる(「花瓶の枯れた花の印象吟」)
 手詰まりに珊瑚が嘆く辺野古基地(「手」)
 投入の土砂に咳き込む辺野古沖(「困る」)
 但し書き読まずに押した契約書(「トラブル」)
 終末の時計が進む核の危機(「サイン」)
 ミサイルの届く近くて遠い国(「近い」)
 ドローンに便利と武器が同居する(「利」)
 プラゴミを再利用してエコの道(「利」)
 震災の月命日にワンカップ(「今でも」)
 第八波再度ネオンに赤ランプ(「ネオン」)
 ネオン街のゆるみにコロナ爪を研ぐ(「ネオン」)
 遊興にサインの要らぬ文通費(「遊」)



  色鉛筆・・・学校の本来の役割をみんなで考えていこう


◆GIGAスクールの根本にあるSociety5.0とは

サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)。狩猟社会(Society1.0)、農耕社会(Society2.0)、工業社会(Society3.0)、情報社会(Society4.0)に続く、新たな社会を指すもので、第5期科学技術基本計画において我が国が目指すべき未来社会の姿として初めて提唱されました。2019度補正予算案において、児童生徒向けの1人1台端末と、高速大容量の通信ネットワークを一体的に整備するための経費が盛り込まれました。 (内閣府より提案)

◆GIGAスクール構想

 Society5.0時代に生きる子供たちにとって、PC端末は鉛筆やノートと並ぶマストアイテムです。今や、仕事でも家庭でも、社会のあらゆる場所で ICT の活用が日常のものとなっています。

 社会を生き抜く力を育み、子供たちの可能性を広げる場所である学校が時代に取り残され、世界からも遅れたままではいられません。

 1人1台端末環境は、もはや令和の時代における学校の「スタンダード」であり、特別なことではありません。これまでの我が国の150年に及ぶ教育実践の蓄積の上に、最先端のICT教育を取り入れ、これまでの実践とICTとのべストミックスを図っていくことにより、これからの学校教育は劇的に変わります。この新たな教育の技術革新は、多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学びや創造性を育む学びにも寄与するものであり、特別な支援が必要な子供たちの可能性も大きく広けるものです。

 また、1人1台端末の整備と併せて、統合型校務支援システムをはじめとしたICTの導入・運用を加速していくことで授業準備や成績処理等の負担軽減にも資するものであり、学校における働き方改革にもつなげていきます。忘れてはならないことは、ICT環境の整備は手段であり目的ではないということです。子供たちが変化を前向きに受け止め、豊かな創造性を備え、持続可能な社会の創り手として、予測不可能な未来社会を自立的に生き、社会の形成に参画するための資質・能力を一層確実に育成していくことが必要です。その際、子供たちがICTを適切・安全に使いこなすことができるようネットリテラシーなどの情報活用能力を育成していくことも重要です。(以下略 2019年文部科学大臣挨拶より)

◆混乱する学校現場

 長引くコロナ渦で、小中学校はICT端末を貸与し学校に登校できないときなど、教育の補償という面では成果がありました。しかし、ネット環境がない家庭や高校生はICT端末を自己負担で購入することで、購入できない生徒もおり平等でない教育環境が生まれました。また、ICT教育の一斉授業の中で、美術作品の色合いがネット環境の中では、実際の作品と色が違って見えたりと不具合も生じています。また、端末を持つと同時に個人番号が与えられます。学生の間は、その番号がずっと使われます。また、教員のICT教育の研修の機会が増え、事務作業の仕事量も増えてきました。

 アメリカでは、仮想学校と言って実際には登校せずに、ICT端末の中で授業を受けたり運動会をしたりと試みが始まっているようです。不登校対策になっていると評価があるようですが、学校の役割は勉強を教えるだけの場所なのでしょうか? 

 私は学校とは、掃除や給食当番などの活動を通じて人との関わりを学んでいく場所、地域の人とも関わりながらの運動会、運動場では鬼ごっこなどで遊んだり、部活動をしたりしながら人生観を育んでいく場所だと思っています。

ICT教育を全面否定はしていませんが、それぞれに付けられた個人番号に試験の結果や成績が入力され、将来はマイナンバーカードと繋がっていき、評価の世界だけで生きていく人が増えていくのではと危惧しています。

また空想社会だけで生きていく人が育つことを心配します。学校本来の役割をみんなで考えていきたいと強く想います。(宮城 弥生)
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