ワーカーズ640号 (2023/3/1)  案内へ戻る

   「エネルギー・食糧危機」に抗して「命を守る春闘」を!

●物価高の賃金闘争

 今年の「春闘」は、昨年までとは一変した経済社会情勢のもとで闘われることになった。物価高における賃金闘争である。
 今日「古参幹部」に属する労働組合の役員や元役員は、七十年代のオイルショックによるインフレのもとで高揚した「国民春闘」を思い起こすかもしれない。

●エネルギー危機

 だが同じ「物価高」でも、当時と現在とでは、内外の状況が異なる。七十年代のオイルショックは、第四次中東戦争におけるアラブ産油国の石油価格戦略が引き金になった。

 今日のエネルギー危機は、ロシアのウクライナ侵略による石油・天然ガス・小麦・トウモロコシ等の価格高騰が引き金になった。また、コロナ禍によるサプライチェーン寸断による「コモディティ価格(半導体・銅・原油等)の高騰」も拍車をかけた。

 もともとリーマンショック以来の各国中央銀行の「量的緩和策」による「株価バブル」「マネーサプライ過剰」がベースにある以上、インフレに火がつくのは時間の問題であった。

●労働者階級の窮状

 さらに決定的に異なるのは、労働者階級の深刻な階層分化である。七十年代までは「労働者階級(工場の生産ラインの正規雇用)」と「新中間層(ホワイトカラー・技術者・中間管理職)」との階層分化が進行していた。

 ところが九十年代になると新自由主義のもと「非正規労働者(派遣・委託・短時間等)」が低賃金で不安定雇用、無権利状態の「アンダークラス」層として増え始め、今や労働者の半数近くを占めている。

●非正規労働者の困窮

 「春闘の形骸化」「労働組合の弱体化」のレベルでは語れない危機が「非正規労働者階級」(アンダークラス)を中心に襲っている。賃金のみならず「生存権」をかけた「命を守る春闘」が求められているのだ。

 労働組合への組織化も様々な困難があり、コロナ禍や物価高で「生活困窮者」に貶められつつある「非正規労働者」の反撃を視座に据えることなくして、闘いを前進させることはできない。各地の地域ユニオンの闘いに連帯して闘おう!

●グローバルサウス

 さらに再び世界に視野を向けると、この「エネルギー危機」はグローバルサウスの「食糧危機」を引き起こし、何千万人という人々の飢餓や乳幼児の栄養失調・感染症による「命の危機」をもたらしている。

 ウクライナでは、ロシアのミサイルによるインフラ攻撃で、電力・ガス・水道等のライフラインが破壊され、一千万人以上の市民が「命の危機」に晒されている。

 トルコ・シリア大震災では、四万人を超える市民が死亡し、内戦下のシリアでは民間ボランティアが、必死の救出作業にあたっている。

 ミャンマーでは、軍部のクーデターで、民主化を要求する市民が命をかけて闘っている。

●世界的連帯を視座に

 「先進国」の非正規労働者階級(生活困窮者)の危機とグローバルサウスやウクライナの命の危機は、その背景において密接につながっている。その意味でも外国人労働者の闘い、難民・移住者の人権を守る闘いは重要である。

 イギリスの医療従事者など公務員労組は、電気・ガス料金の値上げに反対し、賃金の引き上げを要求して、ストライキや街頭デモに立ち上がっている。
 正規労働者と非正規労働者の分断を越えて、グローバルサウス、ウクライナ民衆、ミャンマー市民、トルコ・シリアの被災者との連帯を深め「命を守る闘い」を貫こう!(冬彦)


  《少子化対策》抜本解決は〝養育・教育費の社会化〟で!――矮小な岸田〝異次元少子化対策〟――

 岸田首相が、またしても前言撤回だ

 岸田首相の看板政策である少子化対策で、現行のGDP比2%を倍増させる、との発言を、「あくまで将来のはなし」だとして事実上、訂正、打ち消した。

 岸田“異次元少子化対策”は、実効性のない空騒ぎ、支持率狙いの打ち上げ花火に終わりそうだ。

◆異次元の少子化対策?

 岸田首相は、2月15日の予算委員会で「家族関係社会支出(20年度で10・8兆円)をGDP比で2%にまで増額してきた、それを倍増(4%)させると言っている」と発言した。が、翌日には「倍増は今すぐではなく、あくまで将来のはなしだ」とあっけなく後退させ、2月22日の国会答弁では、それを棚上げしてしまった。

 そんな朝令暮改は、政権発足時にもあった。《令和版・所得倍増》を実現するとぶち上げたが、財界からの批判の声や株価下落を受けて、正反対の《令和版・資産所得倍増》にすり替えたのだ。

 こうした前言撤回、口先政治は、先制攻撃も可能な敵基地攻撃能力の保有、《専守防衛》《平和国家》の看板を投げ捨てる政策転換での強引さ、それに金額ありきの軍事費増額の場面との違いが際立つ。そんな軍事優先、民生の後回しを許すわけにはいかない。

◆少子化対策30年の無策

 日本の少子化が止まらない。1989年に1・57だった合計特殊出生率は、2021年には1・30にまで減少した。出生率は傾向的に減少し続けている。30年間進めてきた少子化対策でも、効果が無かったわけだ。(グラフ――1)

 この間、確かに家族関係支出は増やされてきた。90年度では対GDP比で0・35%、1・5兆円だったものを、19年度では1・74%、10兆円規模に増やされてきた。

 しかし、それでもまだ西欧諸国に比べて大きく見劣りするのが実情だ。スウェーデンは3・42%、フランスは2・73%だ。

 子ども手当など現金給付も圧倒的に少ない。英国2・12%、フランス1・42%で、日本は0・65だ。英国の3分の1以下、フランスの半分以下、OECD平均の半分ほどでしかない。(グラフ――2)

 日本の夫婦が希望する子供の数を持てない理由の一位は、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が回答者の52・6%を占め、20年間変わっていないという(21年、国立社会保障・人口問題研究所)。

 実際、子育てや教育にどれだけ費用がかかるのか。幼稚園~高校まで15年間全て公立で574万円、全て私立で1838万円(文部科学省、子供の学習費調査2021年度)だという。大学まで含めると、さらに一人1000万円単位で負担がのしかかる。高校まで全て公立でも子供2人を大都市圏の私立大学に通わせると、全体では3000万円規模の負担だ。

 こんな環境下で、現実の若者はどんな状態に置かれているのだろうか。

 婚姻率(=人口千人あたりの婚姻件数)は1989年の6・8から2021年は4・1に低下。男性で配偶者がいる割合は、非正規の職員・従業員の場合、25~29才で12・5%、30~34才で22・3%で、正規雇用の半分以下(総務省の調査)だ。パートやアルバイトの男性の場合、正規雇用の4分の1程度だいう。非正規雇用が4割近いこんな状況では、少子化傾向が止まるわけがない。少子化は、経団連主導による不安定・低処遇の非正規雇用拡大の結果という〝人災〟でもあるのだ

◆少子化対策は〝社会保険〟方式で

 子育て支援も含む少子化対策には、税による社会的資源の《再配分》としてではなく、社会的富の一次配分、社会全体の生産活動、経済活動そのものによって支えていくべきだ。

 具体的には労働者世帯、現役世帯の二大支出である《住居費》と《養育・教育費》の外部化・社会化が必要だ。ここでは《養育・教育費》の社会化について考えてみたい。

 現在、子育てや教育は基本的に各家庭が負担し、保育の無償化や子ども手当などの公的支出で補完してきた。それに少し前までは、各企業も扶養家族手当などで家計への支援もしてきた。

 しかし近年、子供がいる社員といない社員で会社への貢献度が変わらないのに手当を支給するのは不公平だ、として、配偶者手当や扶養手当を縮小する傾向にあった。要するにコスト・カットだ。

 それを再逆転させ、子育て・教育支援を企業にも担わせるようにするわけだ。優秀な労働力の供給で恩恵を受ける企業こそ、労働力の持続的な供給を支える社会的責任があるのだ。

 図式的大枠は以下のようなものだ。

 まず、《子供・教育基金》という政労使で構成する公的基金をつくる。各企業は、社員に子供がいるかどうかにかかわらず、社員1人につき○○円という人的インフラ負担金を基金に納入する。各企業は、一定の教育を受けてきた労働者を社員として迎えられるからこそ、企業活動が可能になる。その便益に見合った負担をさせることが相応しいからだ。これに国や自治体による税からの子育て・教育支援金を追加で拠出する。

 その基金が、一定の基準に基づき、各世帯に養育資金、教育資金を提供するのだ。公教育の無償化の拡大などにもよるが、その規模感は一人5万円ほどだ。二人で10万円、三人で15万円だ。

 現に、与党内では、二人目で3万円、3人目は6万円という案も出ている。それぐらいの支援がないと、実効性がないことがわかっているからだ。とはいえ、与党内の議論は消費増税を想定しているようで、大規模な企業負担には向かっていない。財界が嫌がるものに自民党は及び腰だからだ。

 これは現在の年金保険、医療保険で実施済みの社会保険システムの一種だ。この利点は、税方式に比べ、大きな資金を提供できることだ。要するに、労働者なくして企業活動が成り立たない企業は、リタイア後の労働者の生活を支えなくてはならない(年金)のと同じように、就労以前の労働力のタマゴ(養育・教育費)にも、企業の収益を振り向けるべきなのだ。

 おとぎ話ではない。今回は紹介できないが、一例を挙げる。フランスの家族支援・少子化対策だ(フランスの「全国家族手当金庫《CNAF》」参照)。

◆抜本策は均等待遇と子育ての社会化

 少子化対策では税制による資源の《再配分》では不十分だ。繰り返すが、資源の一次配分こそ重要だ。政府が進めようとしている子育て支援などだけでは、解決できないことは明らかだ。

 雇用破壊、非正規化からの脱却が大前提になる。経団連が導入を煽った不安定で低処遇の非正規労働者の拡大、外国人技能実習制度、要するに、使い捨て型の労働者を増やし、それに依存した企業システムを根本から立て直すべきだ。

 具体的には、同一労働=同一賃金を前提に、子育て資金(それに住居費)を社会化する。そうすれば、年功賃金は不可欠では無くなり、同一労働=同一賃金も実現しやすくなる。

 とはいえ、自民党と経団連、それに企業に従属した企業内組合・会社組合では闘いとれない。労働者・生活者による政治の舞台も含めた強力な闘いで初めて実現できる。

 年金は〝現役から高齢者への仕送り論〟という世代間対立が煽られているが、実際は、資源の社会的配分の問題なのだ。少子化対策も同じ。社会的富の配分の問題だ。当事者たる労働者自身の闘いによって、初めて実効性を上げられる。(廣)案内へ戻る


  ウクライナの「内なる戦争」・・・汚職追放劇の裏側

 ウクライナの汚職問題は根深い。そのさい、旧ソ連圏諸国の宿痾(しゅくあ)である企業と官僚・政治家の癒着問題について少し歴史をさかのぼって考える必要がある。さらにウクライナでは、対ロシア抵抗戦争の内部で「内なる戦争」がくすぶり続けている。汚職追放劇もその一部とみられる。

■民衆を排除した「汚い国家」がソ連解体後に生まれた

 ウクライナのオリガルヒ(財閥資本)は、ソ連体制の解体(91年)から発生したのであるから、生誕時の事情はロシアと同じようなものと考えてよい。つまり国民に配られたバウチャー(私有化小切手)の買い集めやだまし取りだ。このようにして当時の高級官僚や企業幹部による不正な「国有資産」つかみ取りが進行したのだ。これがオリガルヒの出自だ。

 ウクライナの「市場経済化」がロシアと異なるのは、2014年に至るまで西側のIMFら新自由主義勢力の強い影響を排除して、比較的緩やかにこの過程が進行したことである。独立ウクライナの資本形成は、先に成立したロシアの強大な自然独占企業(天然ガスや石油)の恩恵と影響のもとに成長し、他方ではウクライナ国家の国債の大量発行による財政に寄生することにより自己の形成を推進したのであった。

 この地域の人民の存在を無視するのではないが、少なくとも「現代」ウクライナの権力はオリガルヒと高級官僚達の談合により形成されたことは象徴的事実である(「ウクライナの国民ブルジョアジーの詳細について」イリア・イリン2020年5月6日、共同・社会批評ジャーナル//ワーカーズ630号「独立ウクライナの階級闘争(上)参照)。ウクライナの歴代大統領は、ゼレンスキーを除けばすべてオリガルヒ出身である。民衆力はこうした国家との対立を経て目覚めてきたのであった。

■一党一派としてのウ・オリガルヒ

 ウクライナ・オリガルヒの特色は、複数の巨大事業経営や放送局・マスコミなどを支配する(これはロシアと同じ)ばかりではなく、彼ら自身が個々に一党一派の政党として存在することだ。決してロシアのように政府に屈服しプーチンのような独裁者に手なずけられてこなかった。

 ロシアでは、オリガルヒがプーチン政権の外部に独自の政党を運営することは困難であるが、ウクライナではほとんどのオリガルヒが政党に関与し、議員を囲い込みあるいは自分らの都合の良い大統領の誕生を目指す。目的は言うまでもなく自分たちのコンツェルン事業の利益のためだ。彼らは「政治綱領」を作り、所有する「マスコミ」を活用して必要であれば大衆を扇動するのである。あのマイダン革命(2014年)ですら、その発端は彼らオリガルヒ同士の政治的衝突と闘いに大衆が動員されたことに起因する。ところがオリガルヒの思惑を超えて大衆が覚醒していったのであった。
 
■汚職は体制的な問題だ

 このような次第だから、ロシアやウクライナの大資本家と政治家の関係はそもそも汚い。ズブズブだ。建国(91年)以来ウクライナの政治はロシア同様にあるいはそれ以上に汚職にまみれてきたのだった。「クローニー資本主義」の典型だともいえる。歴代政権、そしてゼレンスキー政権になっても国民の声は裏切られ、その体質はすこしも改善されたとは言えない。

 今年になって、汚職や職権乱用やらでゼレンスキー政権高官の追放が連日のように行われた。世界の各マスコミは、「旧態依然の汚職体質」と書き、あるいは戦時体制下でのゼレンスキーの「政権引き締め」と書いている。EUとの統合も将来に見据えての「自浄努力」あるいは米欧との武器支援の引き換えとしての「汚職退治劇」との観測もある。または統治力への疑問、そして政権の「崩壊」を予告するマスコミもある。それぞれの評価は当然の面があるとしても断片的なものにとどまる。
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 しかし、権力者が旗を振る「汚職追放」がすぐれて権力闘争や階級闘争であることは珍しくない。中国の習近平「ハエもトラもたたく」やプーチンによる「腐敗オルガルヒ追放」を思い起こさせる。むしろ側近追放や有力な経済人・政治家追放、それは独裁への道である可能性がある。ゼレンスキーはすでに「親ロ派政治家」の粛清を果たし、また労働者の大衆行動を禁じた。さらにウ・ロ戦争を通じてオリガルヒを解体しつつあると伝えられる。また、ゼレンスキー政権は新自由主義を領導する一方で、主要産業の「再国営化」に着手しているらしい。

 一見場当たり的に見えても、ゼレンスキーのこの一連の政治行動はより根本的な動機が働いているとみられる。権力・階級闘争のもっと深い社会底流の変動について、情報が少ないがさらに推考してみよう。
 
■ゼレンスキー政権の階級的性格

 まず、ゼレンスキーが汚職撲滅を進めているのは、すでに報道されてきたオルガルヒへの規制・抑圧という事実と表裏一体の関係だろう。贈賄・収賄の両者を厳しく裁くというわけだ。つまり、オリガルヒの政権に対する影響力の排除である。

 さらに左翼からの情報ではEU人脈(金脈)の「新自由主義」の浸透がさかんに懸念されている。とすれば大財閥の弱体化を進めつつ、ウクライナは中産階級の資本主義へと入れ替わりが起きつつあるのかもしれない。ゼレンスキーがそれを推進しているとみえる。

 情報が少ないのが残念だが、ウクライナの歴史学者でありながら左派活動家で現在軍務についているタラス・ビラスは、ゼレンスキー政権の階級的性質について指摘する。「労働者階級とオリガルヒ資本の両方に対して、主に中間ブルジョアジー、つまり古典的(classic)なブルジョアジーの利益を代表」していると主張。ゆえに、(戦争を利用しつつ)労働者保護法の骨抜きおよびオリガルヒ解体へと突き進んでいる、と説明している。企業再国営化の流れは不明だが、おおむね的確な評価だと思う。

■ゼレンスキー・ボナパルト?

 いずれにしてもクローニー資本主義(有力な財界グループなどが政府を利用し国有財産を流用する)を清算しない限り、ウクライナは所詮ロシア型資本主義から脱却できないばかりではなく、大衆にのしかかる権威主義的政治風土を脱却できない。

 しかし、さらに考えるべきことは、ゼレンスキーの「ボナパルティズム的動き」だ。つまり国民国家形成過程における権力の集中という問題だ。マルクスはナポレオン・ボナパルト三世を愚物として描き権力到達の力関係を分析したが、フランス大革命の継承者を自認するナポレオン三世のポピュリズム的独裁が、歴史的には自由な資本主義の普及と国民国家の独立機運を全ヨーロッパに広げたという意義は認められる。

 ゼレンスキーは、軍や小農民と非大独占のブルジョア階級を基盤とすることができる。ポピュリズムに依拠し「自由と解放の大義」を掲げ(あたかもナポレオン三世のように)戦争と階級闘争を利用しつつ、前時代的諸要素(オリガルヒ)を駆逐し、また武装した労働者市民・農民の反攻を抑圧して国家として再確立させようとしているもののように見える。
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 とはいえ汚職退治は、ゼレンスキーのパフォーマンスにとどまることは見えている。習近平やプーチンの「汚職追放」が、政敵の弾圧と独裁の道でしかなかったことを想起しよう(ロシアでの腐敗認知指数はその後むしろ悪化した)。武装したウクライナ市民は、政府の怠惰な汚職対策を批判し、断固として汚職政治を剔抉(てっけつ)しなければならないと同時に、このゼレンスキー政権の階級的本質を暴露して闘う必要がある。
(阿部文明)案内へ戻る


  超階級社会について

 『週刊ダイヤモンド(一月ニ一日号)』の特集「超階級社会・貧困大国ニッポンの断末魔」で、橋本健二早稲田大学教授の階級研究を紹介している。そこから特徴的な傾向を、いくつか取り上げてみたい。

●非正規労働者の増加

 橋本氏は日本の就業者を、①資本家(従業員五人以上の企業の経営者・役員)②新中間階級(雇用されている管理職・専門職・上級事務職)③正規労働者階級(雇用されている単純事務職・販売職・サービス職・マニュアル労働者)④旧中間階級(自営業者・家族従業者)⑤アンダークラス(非正規労働者・パート主婦を含む)の五つの階級に分けて調査してきた。

 とりわけ八六年施行の労働者派遣法をきっかけに、労働現場に非正規労働者が増えてきた。またバブル崩壊後の九十年代以降の就職氷河期には、正社員になりたくてもなれない新卒学生が非正規労働者の道を歩むことになった。

 今や非正規労働者階級(アンダークラス)の全就業者に占める割合は、パート主婦を含めて二七・四%、パート主婦を除いて一四・四%にまでに増えている(二〇一七年時点)。ちなみに正規労働者階級の割合は三四・五%、新中間階級の割合は二二・八%である。

●コロナ禍が直撃

 こうした格差拡大に追い討ちをかけたのが、コロナ禍に伴う小売店や飲食店の営業自粛だった。特に直撃を受けたのは、飲食店の経営者である旧中間階級と、そのスタッフである非正規労働者階級であった。

 各階級の世帯収入をニ〇一九年とニ〇ニ一年で比較するとその減少率は、資本家階級四・三%、新中間階級ニ・五%、正規労働者階級四・九%、旧中間階級一ニ・八%、非正規労働者階級八・〇%と、圧倒的に旧中間階級と非正規労働者階級の落ち込みが目立っている。

 また非正規労働者階級の多くは、介護や物流、ゴミ収集など、エッセンシャルワーカーとして、過酷な労働環境のもとで働いている。

 さらに非正規労働者階級の中でも、特に女性労働者へのしわ寄せが深刻である。世帯収入の減少率は、男性の六・〇%に対して女性は九・九%、貧困率の悪化は、男性のニ・ニ%に対して女性は五・〇%であった。

●分断社会を越えて

 コロナ禍を、テレワークで乗り切り、収入面での影響が比較的軽微であった新中間階級も、業態転換という名の希望退職や出向のリストラが迫っている。

 コロナ禍に続くエネルギー・食糧危機は、階級間の分断をいっそう激しくしている。

 今回の調査結果は、分断社会を越えて、労働者階級の幅広い闘いを構築することの必要性を、改めて示していると言える。

★なお賃金闘争全体のあり方については、ワーカーズ前号(二月一日・六三九合)の「賃上げムード?いや、闘い取るぞ!生活防衛の二正面作戦」と題する(廣)氏の優れた論説を再読されることをお勧めします。
(冬彦)


  読書室 斎藤幸平氏著『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』角川文庫2022年10月刊

○従来からマルクスの思想に対しては「エコロジーはマルクス主義の盲点」であるとの批判、またそもそも「マルクスの思想は、ジェンダーやエコロジーや政治権力を資本主義社会における不平等の構成原理や中心軸として体系的に考慮していない」との批判があった。

 それらの批判によると、マルクスの思想とは極端な生産力至上主義であり、あらゆる自然的限界を突破し世界全体を恣意的に操ることをめざす近代主義に本質があるとする。要するにマルクスの思想はもう古いというのである!

 だが実際のマルクスは人間と自然との物質代謝を重視し、資本主義的生産・資本の蓄積が人間と自然の関係性をどのように歪め、両者の持続可能性の条件をいかに破壊していくのかについて詳細に分析していたのだ。その鍵となる概念が「物質代謝の亀裂」である。

 本書の親本は、斎藤氏の処女作である。斎藤氏は、マルクスのエコロジー論こそはその経済学批判においても体系的・包括的に論じた重要なテーマであると論証し、今このマルクスのエコロジー論こそが現代の資本主義批判、環境問題のアクチュアルな理論だと提起した。そしてこの単行本刊行から3年後に、この廉価な文庫本が刊行されたのである○

『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』の構成

 今回の文庫本の親本となる単行本は、2014年12月、フンボルト大学に提出された斎藤幸平氏の博士論文とその英語版(第1章から第3章まで)を下敷きにし、その後日本で発表された諸論文(第4章から第7章まで)を加えたもの、つまり日本の読者に合わせ加筆・修正を行った日本語オリジナル版であり、実に日本語でしか読めない決定版である。今回、単行本の約半値である文庫本は、これをさらに訂正・修正したものである。それ故、読者にとって廉価な文庫本の形で手に入るようになったのは、実に喜ばしいことである。

 そして親本となった英語版の表題は『マルクスとエコ社会主義』である。この本は高い評価を受け、マルクス生誕200年の2018年度ドイッチャー記念賞を受けた。受賞は、日本人では初の、さらにまたドイッチャー記念賞を受賞史上最年少の受賞で、本書がまさに大変に優れた、真剣に学ぶに値する著作であることの証明であるといえよう。

 現在の時点で、9ケ国で翻訳され出版されているとのこと。さらに今回の文庫本の、「亀裂はどこに? マルクス、ラカン、資本主義、そしてエコロジー」と題する解説は、『ポストモダンの共産主義』で知られるスラヴォイ・ジジェクが書いていることを特記したい。

 本書は、マルクスの物質代謝の亀裂論をマルクスのテキストに立ち返り、従来より体系的でより包括的な形で、マルクスのエコロジカルな資本論批判を再構成したものである。

 それでは早速3部に分かれている本書の構成を、以下に簡潔に紹介しておこう。
 第1部は経済学批判とエコロジー、となっている。第1章は労働の疎外から自然の疎外へ、第2章は物質代謝論の系譜学、と表題つけされている。
 第2部は『資本論』と物質代謝の亀裂、となっている。第3章は物質代謝論としての『資本論』、第4章は近代農業批判と抜粋ノート、と表題つけされている。
 第3部は晩期マルクスの物質代謝論へ、となっている。第5章はエコロジーノートと物質代謝論の新地平、第6章は利潤、弾力性、自然、第7章はマルクスとエンゲルスの知的関係とエコロジー、と表題つけされている。

 そしておわりにでは、マルクスへ帰れと結ばれているのである。

本書の第1章から第3章までの短評

 では、本書の第1章から第3章に、評価の要となる私の短評を加えておこう。

 第1章では、まず斎藤氏は1844年の『パリ・ノート』を使って、若きマルクスは人間と自然の関係の歪みとその矯正に関して、フォイエルバッハの影響の下、疎外論の観点から人間主義=自然主義の理念を対置したものであると一旦は総括する。

 その上でマルクスは『ドイツ・イデオロギー』においてこの対置の不充分性を自覚し「哲学」に別れを告げ、その後物質代謝論を使用して資本主義の矛盾をその「攪乱」・「亀裂」と捉え始めたとし、斎藤氏はマルクスのエコロジー思想の世界へ誘っていくのである。

 第2章は、マルクスのこの物質代謝論の深化を実際に詳しく後追いしたものである。まず『ロンドン・ノート』でのマルクスの物質代謝の概念規定を紹介し、さらにその後の『経済学批判要綱』においてその用法を一層精緻化していった、と斎藤氏は解説し展開する。

 すなわち斎藤氏は、マルクスの資本主義における分析対象は資本蓄積を一義的な目的とする社会システムが構成する人間と自然の特殊な関係性であり、その結果素材的世界における不和や軋轢がいかにして生ずるかに関する具体的な追求であったとするのである。

 このような人間と自然の関係における資本主義的な特殊性の把握にこそ、マルクスの物質代謝概念の独自性がある。それ故に本書でこの章の占める位置はたいへん重要である。

 第3章では、マルクスのエコロジー論をそもそもマルクスが問題とした原義に立ち返って物象化とは何かを考察し、マルクスの物象化論を体系的に再構築する。この章の核心は、従来のマルクス研究ではあまり着目されてこなかった素材的次元を、マルクスの経済学批判の中心テーマとして解明したことにある。つまり第3章が本書の白眉の部分である。

 従来の理解では、『資本論』は資本主義的生産の諸カテゴリーを体系的に叙述しており、マルクスの経済学批判の核心とは「純社会的な形態」を明らかにする物神性批判にあると考えられていたのであるが、斎藤氏はこうした理解に断固として異議を唱えた。

 すなわちこの章で斎藤氏は、『資本論』の問題意識は資本主義社会の総体性の概念的再構成等ではなく、マルクスが実践的・批判的な唯物論的方法で問題にしたのは経済的形態規定と具体的素材的世界の関連とその矛盾についての分析だ、と指摘したのである。

 したがって『資本論』第2部や第3部の完成をそっちのけにしてまで、また晩期のマルクスが驚くほどの情熱をもってなぜ自然科学にのめり込んでいたのかは、リャザーノフらには想定外のことであった。彼らにはまさに全く理解不能の謎であったのだ。そのため、彼らは残されたこれらの抜粋メートにはまったく冷淡な態度を取っていたのである。

 かくて斎藤氏は問題の所在を指摘する。すなわちマルクスの『資本論』の内容が体系的に展開されるためには、経済的形態規定がその担い手である自然の素材的次元との緊密な関係の下で考察されなければならない、との極めて具体的かつ積極的な問題提起である。

 それは、「素材」は「形態」と並んで経済学批判において重要な役割を果たすということである。この視点がないことが従来のマルクス理解の陥穽であり、この視点こそマルクスの追究していたエコロジカルな資本主義批判の核心である、との明確な指摘である。

 このように第3章は、斎藤氏の鋭い問題意識とまたそのことで彼がドイッチャー記念賞を受賞した理由が、実によく分かる展開となっているのである。

本書の第4章から第7章までの短評

 第4章は、自然科学についてのマルクスの抜粋ノートを精査する。この作業を経ることによって、よく知られている「資本主義の文明化作用」に対する楽観的な見解を、マルクス自身が訂正する過程を読者が正確に追体験できるような展開になっている。

 これらの研究の過程においてマルクスは、リービッヒ『農芸化学』からの抜粋メートの中の「略奪農業」論を受容することにより、人間と自然の物質代謝の意識的で持続可能な管理の重要性をマルクスは明確に意識し、社会主義実現のための実践的課題とみなすようになったのである。

 第5章は、『資本論』第1部出版以降の1868年以降もマルクスは自然科学研究に取り組んでいたのだが、従来はそのことを「『資本論』からの逃避」と考えられてきた。

 だが斎藤氏は残された抜粋メートそのものを検討する事で、晩年のマルクスの物質代謝論を核心としてその環境思想を、さらに具体的に追想することを可能にしたのである。

 第6章は、周知のように『資本論』第1部はマルクスの刊行だが、その第2部・第3部はエンゲルスの編集による刊行である。こうして『資本論』は「体系化」されたのである。

 勿論、エンゲルスが自らの日々の生活を支える中での持続的な努力と理論的な困難と苦闘した編集により『資本論』は「体系化」されたのだから、その功績は不滅といえる。

 だがその半面、マルクス自身追究過程であった『資本論』のマルクスの「未完の体系」が、エンゲルスがマルクスを理解できた範囲での「閉じられた体系」となったことも事実である。そこで斎藤氏は抜粋ノートを基に「利潤率の傾向的低下の法則」等の再構築を追求する。

 ここでも斎藤氏は、この法則への理解は従来の様に「鉄則」としてではなく、例えば久留間学派の金融論研究者である小西一雄氏が特定の条件下では低下しない可能性を排除せず「生きた矛盾」だとした捉え方を高く評価するとともに、この法則の一見矛盾した外見は資本の「弾力性」に依拠するものであり、この法則が究極的には素材的世界の弾力性に基づくものからだ、と鋭く指摘したのである。

 すなわち斎藤氏は資本は現実的な、素材的担い手を必要とするのであり、その際限のない価値増殖への欲動は担い手の素材的性質によって不可避的に制約を受け、それゆえ「利潤率の傾向的低下の法則」を単なる数式問題に解消することなく、資本の素材的側面も考察しなければならないとした。

 この視点も師匠筋の佐々木隆治氏の影響の下で「素材」は「形態」と並んで重要な概念である、と指摘してきた斎藤氏のまさに独壇場なのである。

 第7章では、マルクスのエコロジー思想は若い頃から晩年まで一貫していたが、今でも「エコロジーはマルクス主義の盲点」であり、「マルクスの思想はジェンダーやエコロジーや政治権力を資本主義社会における不平等の構成原理や中心軸として体系的に考慮していない」との誤解が根強い。勿論、これまで公刊されてきた諸著作ではそのように読めることも事実なので、単純に否定はできないことではある。

なぜマルクスのエコ思想は無視ないし誤解されてきたのか

 確かにマルクスは長い間誤解されてきた。ではそれは一体なぜなのであろうか。この背景には、ルカーチに端を発する「西欧マルクス主義」の長い伝統がある。彼らは自然科学をエンゲルスの専門領域と見なすことで、マルクスの資本主義社会分析を補完し救済してきたのだが、その代償として当然にもマルクスの自然科学研究を長らく無視してきた。そのため、彼らはマルクスのエコロジー思想そのものを展開できなかったと指摘できる。

 そして近年マルクスのエコ思想が明らかになると「西欧マルクス主義」者たちは、それとは逆にエコロジー等の問題は社会主義革命にとって本質的な問題ではない、との詭弁を弄し始めたのである。

 こうして彼らに対する反論としてアメリカのフォスターらの『マルクスのエコロジー』等が登場したのだが、残念なことながら彼らもまた膨大に残されているマルクスの抜粋メートを全面的に検討はしていないこともあり、論拠には問題が残った。そのため、フォスターらには長らく恣意的だとの批判がついて回ったのである。

 斎藤氏は、抜粋ノートにより「西欧マルクス主義」者たちによって無視されたマルクスの自然科学への取組みを、『資本論』との関連で実際に検討する事によってエコロジー論におけるマルクスとエンゲルスの知的関係と差異を詳細に検討するができたのである。

 勿論、エンゲルスは物質代謝の言葉は知っていた。なぜならマルクスが『資本論』の中で使用しているからである。だが彼はマルクスの表現を部分的に書き換える。つまりマルクスと同じ意味での物質代謝論の理解は、残念ながらエンゲルスにはなかったのである。

斎藤氏による本書のまとめ

 最後に本書の「はじめに」にある斎藤氏の記述を、本書のまとめとして引用しておく。

 21世紀に入ってからマルクスのエコロジーは深刻な環境危機を前にラディカルな左派環境運動によって再び注目されるようになっている。

 新自由主義的グローバル資本主義が「歴史の終焉」を掲げて世界を包み込んだ結果、「文明の終焉」という不測の形で惑星規模の環境危機をもたらしたことで、マルクスの有名な警告がいま再び現実味を帯びるようになっているのだ。……。

 大洪水よ、我が亡き後に来たれ! これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである。(メガⅡ/6:273)

 ここ[『資本論』の労働日の部分のこと―直注]で直接論じられているのは、労働者の酷使によって彼らの健康や寿命が犠牲になることについて資本がまったく顧慮を払わないという問題である。だが、引用中に出てくる「人口減少」を「気温上昇」や「海面上昇」に置き換えたとしてもなんら違和感がないことだろう。

 実際以下で詳しく見るように、マルクス自身も自然の「掠奪・濫用」を労働力の掠奪と同じように問題視し、物質代謝の亀裂として批判していたのである。

 残念なことに、「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」という態度は、グローバルな環境危機の時代において、ますます支配的になりつつある。

 将来のことなど気にかけずに浪費を続ける資本主義社会に生きるわれわれは大洪水がやってくることを知りながらも、一向にみずからの態度を改める気配がない。とりわけ、1%の富裕層は自分たちだけは生き残るための対策に向けて資金を蓄えているし、技術開発にも余念がない。……。

 いまや、「大洪水」という破局がすべてを変えてしまうのを防ごうとするあらゆる取り組みが資本主義との対峙なしに実現されないことは明らかである。つまり大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならない」からである。

 だからこそ、資本主義批判と環境批判を融合し、持続可能なポストキャピタリズムを構想したマルクスは不可欠な理論的参照軸として二一世紀に復権しようとしているのだ。

 実に熱い斎藤幸平氏のメッセージではないか。まさに大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならない」のである。『人新生の「資本論」』及び『ゼロからの『資本論』』を共感を強く持って読んだ貴方には、この斎藤氏のマルクス理解のそもそもの基本となっている『大洪水の前に』の一読をこの機会に是非ともお薦めしたい!(直木)案内へ戻る


  希望図書購入制度で読むマルクス研究


 M県図書館では希望図書購入制度があります。私は、今回それで希望図書を読めるようになりました。このような制度は他の図書館でもあると思います。私は県図書館で今までにも高額図書は図書館購入申請で読んできました。

 ちなみに今回の購入希望図書は大谷禎之介の著作『マルクスの利子生み資本論』全四冊。

 昨年十月に購入申請しましたが、委員会審査が十二月。実際の購入は一月末。やっと読み始めました。まともに買えば四万円近い、ギョギョという値段です。「大谷氏はマルクス経済学の権威であり、貴重な学術書であり、この著作は世界的な業績と評価されております・・・」と申請時に熱弁振るいました。(笑)

■この膨大な著作がなぜ書かれたのか?

 その理由について、大谷さんに代わって数行書いてみたいと思います。

 マルクスは『資本論』第三巻の草稿第五章「信用。架空資本」において、冒頭「信用制度とそれが自分のためにつくりだす、信用貨幣などのような諸用具との分析は、われわれのプランの範囲外にある」と銘記した。

 ところがエンゲルスはあたかも「信用(制度)」の分析検討が主課題であるかに誤解した。その誤解の下に編集しなおしたばかりか、「不整合」なマルクスの文言を「訂正」し続けた・・。(ゆえに、マルクスの利子生み資本の論述が不首尾となった。)
  ・・・・・・・・・・
 大谷さんの見解では本来第三巻の草稿第五章(現行エンゲルス版の第五編)は全体がそもそも「利子生み資本」の分析の場所であり、「信用」は利子生み資本の説明のかぎりにおいて論及されたにすぎない。しかし、この原因で、マルクス経済学者の少なくない人はこの場所をマルクスの信用論の説明と受け取った。著名なマルクス経済学者、三宅義夫氏もそうだ。

 素人の私も、大谷さんのこの指摘を知るまで当たり前に第五編は「マルクスの信用論」、と受け取ってきた。エンゲルスがそんな意図で「編集」したのではそのように受け取られてしまう。

■この問題は根が深い
 
 マルクスの経済学批判体系ブランはザックリ「1資本、2土地所有、3賃労働、4国家、5国際貿易、6世界市場」(マルクス)である。マルクスの『資本論』は「1資本」のなかの「第1編・資本一般」の研究にすぎない(と本人が言う)。つまり、その他は固有の研究がなされずプランの大半が未完のまま残留した。

 まさに上述の信用制度がそうだ(大谷説では「1資本」の中の「3,4編」に予定されていたと、つまりマルクスは『資本論』の後に固有な信用論の展開を計画してきた)。

 銀行・金融資本の存在は複合的で長い進化の歴史がある。さらに近代以降は中央銀行(日銀など)の成立やそれ自身の国家への従属の問題が深くかかわり、それらの個別かつ総合的研究が必要だ。
  ・・・・・・・・・・
 身近な「賃労働」だってそうだ。『資本論』は雇われた労働者の賃金と搾取について論じたが、実は生産過程での剰余価値の源泉を解明した限りで触れられたにすぎない。つまり「賃労働」を主題とした研究ではない。だから、「1資本」の解明ののちに「3賃労働」となる。

 歴史的に労働形態も多様であり、賃金形態も多様だ。また、賃金は受け取って終わりではない。支給された賃金もすぐさまむしり取られるのである。租税(直接に国家徴収)、インフレ(国家財政と日銀信用膨張を通じた、企業の追加収奪)、莫大なローン問題(金融資本の金利徴収)等々は、労働力の再生産費としての賃金を削り取り生活を脅かすことが資本システムとして常態化している。固有の研究が必要とされている。

 マルクス経済学の後継者は、斎藤幸平さんも含めてこれらの問題にも取り組んでほしい。(B)


  ドキュメンタリー映画「原発の町を追われて~避難民・双葉町の記録1,2,3部」&「原発の町を追われて・十年」

 堀切さとみ監督・撮影・ナレーション。二時間半近い記録を観賞。

 この映画は、切ない。満たされない思いが映画の最後まで膨らみ続ける・・・。

 政府・東電ら責任者が真に裁かれていないこともある。被災地復興やアンダーコントロールという虚構のむなしさもある。「新」双葉町駅周辺をぐるりと巡っただけの「聖火リレー」マスコミと関係者のガードで、数少ない参加住民は警戒監視される始末だ。

 しかし、耐えられない切なさの中心には、住民の分裂がある。避難住民は福島県内あるいは県外で当地住民からの「妬み」やあからさまな差別に幾度も直面した。さらに「爆心地」双葉町避難住民内部での思いのすれ違いが確執となる。農民の土地と家に対する思いは強いが、みんなが同じ方向ではない。
 ・・・・・・・・・・・・・・
 分断は、自然に生まれたというものではなかった。その大きな要因は「お金」、補償金・補助金等にあることが被災者から少しずつ語られる。事故当時まで「原発マネー」や東電に依存してきた町民感情は複雑だ。「危険」だからと補助金を長年受け取り続けた、今度は本当の被害に遭い補償金をもらう。仕方なく受取る人もいるが、当たり前として受け取る人もいる、一定のお金を故郷喪失の「弁済」として納得出来ない人もいる。怒りから「腰抜け!」と言う罵声も出てしまう。

 「お金の力は人を変える」Tさんの言葉だ。人間は格差や差別を本能的に嫌悪する心性を持つ。補償金の差配は被災者間に妬みや分断をもたらした。差別的な補償金を利用し、政府や東電・原子力村は分断を作為的に被災地に持ち込んだのかもしれない。
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 このような住民同士の苦しみと憎しみ。その葛藤のもっとも外側にいるのが原子力行政、つまり原発事故に深い責任のある政府だ。当時の安倍首相は「住民もアンダー・コントロールされてます」と高笑いしたことだろう。

 ある避難住民は「福島県民は国民ではないのか」と政府を厳しく非難した。

■会場参加した堀切さとみ監督と出演者の鵜沼さんの発言

 堀切さん、「一番の被害者に肩身の狭い思いをさせてはならない。」

 鵜沼さんは、「双葉町に帰れなければ被災地仙台でボランティアをする気持ちでいた」と。
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 単純明快な「脱原発」映画ではない。丹念な取材と聞いたが、これだけの声を(本音を)引き出せたのは監督・製作者の「地べた」のような低い目線だと思う。立場や理念で人を安易に裁かないフラットな姿勢だ。ぶつかり合う葛藤がそのまま映し出された。だが、さまざまな環境で再起を強いられる人々のベクトルは、混乱し錯綜したにもかかわらず、それゆえにと言うべきか今でも一つの渦をなして動き続けている。(阿部文明)


  川柳(2023/3) 作 石井良司

 ノーマスク自己責任に見る周り
 早送り動画がゆとり消していく
 AIに聞いてみたいなノーマスク
 戦死の子ロシアの母も泣いている(「女」)
 千羽鶴折って軍靴を許さない(「靴」)
 辺野古沖土砂に珊瑚の涙声(「声」)
 貧乏を知ってか来ない詐欺電話(「不思議」)
 百手先読むプロ棋士の脳の中(「不思議」)
 痴話げんか外出時はペアルック(「外」)
 補助輪が外れて孫の得意顔(「外」)
 少子化に校舎も過去の写真集(「アルバム」)
 アルバムの写真も褪せた拉致家族(「アルバム」)
 復興も風評落とす汚染水(「風」)
 サッカーに負けても律儀ゴミ拾い(「珍しい」)
 クレームがヒント商品大当たり(「やったね」)
 千羽鶴永遠にピカドン忘れない(「忘れる」)
 敵地攻撃過去のいけにえ忘れられ(「忘れる」)


  沖縄通信・・・沖縄「平和の礎」名前読み上げ運動に参加する

 何度も沖縄に行き、一番印象に残った場所が摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎(いしじ)」(沖縄県糸満市)でした。実は、私の親戚関係者の中に父親が沖縄戦で戦死した人がいた。

 その人から、「私が2歳の時に、父親は沖縄戦に参加して戦死しました。しかし、何処で戦死したのか?まったく判らないので、戦後父親が沖縄戦の時に世話になった沖縄の家を訪ねて聞いたが、残念ながらどこで戦死したのかまったくわからなく、骨も見つからなかったです。」

 私はこの話を聞いてから、沖縄の行くと必ず平和祈念公園の「平和の礎を訪ね、静岡県の刻銘者の中からその人の名前を探し、その前に花と水を手向けるようにしている。このような追悼を繰り返すうちに、6月23日の慰霊の日に多くの家族が「平和の礎」を訪れてる気持ちが少し理解出来るようになった。

 昨年、沖縄戦の戦没者らを悼む6月23日の沖縄「慰霊の日」に向けて、「平和の礎に刻まれた約24万1632名の戦没者全ての名前を読み上げる運動が取り組まれた。

 私たちも、新たに結成された「沖縄『平和の礎』名前を読み上げる実行委員会」の呼びかけに応じて、この「読み上げ運動」に参加した。

 静岡の「読み上げ運動」を取材してくれた地元の新聞社は、次のように報道してくれた。

 「このイベントは今年初めて企画された。全国の参加団体が、米軍死者も含め約24万人の犠牲者の名前読み上げを西から東へと受け継いで弔った。静岡ではメンバー7人が交代しながら名前を読み上げた。読み上げた会のメンバーは『名前を読み上げると、1人1人の人生が浮かんでくるように感じる。未来ある人々の命が奪われたことを考えると胸がつまる。沖縄が平和の島になるといい』との感想を述べていた。」

 今年も「沖縄『平和の礎』名前読み上げる実行委員会」より、6月の慰霊の日にあわせて、「全刻銘者のお名前を読み上げる集い」を開催しますとの連絡があった。

 「昨年は6月12日~23日に開催、約226時間かけて、日本全国および海外からの参加者1549名を順次ZOOMでつなぎ、名簿を画面共有しながらお名前を読み上げました。ご遺族や小中学生を含む幅広い参加者が、沖縄戦で亡くなられた一人一人に思いを致す大切な時間となりました。2023年は6月1日~23日の開催予定で、準備を進めております。」

 この「沖縄『平和の礎』名前読み上げる実行委員会」と情報交換をしていたところ、知らない他県の人から「静岡は富田さんが読み上げ運動を担当していると聞きました。実は私のおじいちゃんは静岡県出身で沖縄戦で戦死したと聞いています。おじいちゃんの名前が、静岡県の刻銘者のなかにあるか、わかりますか?」との電話が来ておどろいた。

 このようにこの「沖縄『平和の礎』名前を読み上げ運動」は多くの関係者に広がっている。今年も静岡の仲間と共にこの「読み上げ運動」を取り組む。(富田英司)案内へ戻る


  大阪 統一地方選 維新府政?市政を終わらせよう!カジノはいらない!

 大阪では、2029年に開業を目指すIRカジノの是非が4月9日に投開票予定の大阪府知事選・大阪市長選の争点です。カジノは、スロットマシンを6400台も並べる超巨大パチンコ店のようです。それに大阪市は公金を投入します。夢洲の土壌は汚染されている上、軟弱地盤で地震の際に液状化の危険があるため、大阪市が土地所有者として地盤改良します。

 大阪維新の会の吉村洋文・大阪府知事と松井一郎・大阪市長が足並みをそろえて誘致を目指してきIR。昨年12月に吉村知事が2期目を目指して府知事選に出馬宣言し、今年1月には元共産党参院議員の辰巳孝太郎さん(46)が「カジノと一緒に大阪を沈ませるな」と無所属で府知事選に立候補表明しました。

 カジノ推進VSカジノ阻止の一騎打ちになるかと思われたところ、2月8日に法学者で大阪芸術大学准教授の谷口真由美さん(47)が政治団体「アップデートおおさか」の擁立する市民派候補として名乗りを上げました。大阪IRについて谷口さんは、「個人的には反対。住民に向けてもっと情報開示されることが民主主義のプロセスとして大事」との意見です。

 大阪で長年にわたりカジノ誘致に反対運動をしてきた人々の間からは「吉村知事の対抗馬が2人いたらカジノ反対票が割れる。一本化すべき」との声が上がっています。辰巳さんと谷口さんはカジノ反対票を奪い合うことになるのか、それとも相乗効果で大阪IRへの府民の問題意識を高め票田を広げるのでしょうか。

 2月8日の「アップデートおおさか」の設立、候補者擁立の記者会見では、「既にIRに反対して取り組んできた辰巳さんと一緒になって反対するという選択肢はなかったのか」という質問がでました。谷口さんは「辰巳さんは素晴らしい政治家。カジノ反対と意見がはっきりしている人は辰巳さんを応援し、賛成の人は維新を応援するということでいい。私は端境にいる人を置き去りにしたくない。(大阪IRがいいのか悪いのか)分からない人を置き去りにした論戦は民主主義の何かを欠いていると思う」と答えました。

 谷口さんが言うカジノについて「個人的には反対」の、「個人的には」に引っかかります。これだと「アップデートおおさか」がカジノやむなしとなれば、そちらに流れていきそうです。

 大阪のIRカジノを巡っては、昨年春に「カジノの賛否を問う住民投票」を求めて市民らによる直接請求署名運動が行われました。有権者の50分の1の署名を集めれば、大阪府議会に住民投票を実施する条例案を提案することができる仕組みで、法定数を超える約20万筆の署名を集めて大阪府議会に提出しましたが、維新会派が過半数を占める府議会は半日の審議で否決しました。

 2月8日の「アップデートおおさか」の設立、候補者会見では、住民投票の実施を示唆する発言が関係者から出ました。「アップデートおおさかの」の事務局長、小西禎一・元大阪府副知事は「大阪のIRは当初、国際観光拠点と言っていたのに、蓋を開けてみれば日本人相手のカジノ。大阪市は夢洲の土壌汚染と液状化の対策に約790億円の負担を決めたが、地盤沈下を含めるとどれだけの負担になるか分からない。本当に問題が大きく、このまま進めるべきでない」と発言しました。地盤沈下対策の費用をIR事業者が負担するのか、大阪市が負担するのかは明らかにされておらず、小西・事務局長は「まずは情報を明らかにしてほしい。その上で住民が判断していくべきで、住民が判断する手段はいろいろあるが、住民投票はその一つ」としました。

 大阪市長選、大阪維新の会現職の松井一郎さんが引退、幹事長で大阪府議の横山英幸さんが出馬予定で対立は、「アップデートおおさか」から自民党大阪市議、北野妙子さんが離党し無所属で出馬予定です。

 北野さんは、2015年と20年に行われた大阪市廃止?分割=トコーソー反対の急先鋒でした。今回のIRカジノについては反対です。大阪市長選は、事実上 維新対非維新の一騎打ちです。市民派から立候補がなかったのは残念です。

 でも、限られた選択肢で反維新を鮮明にしたいです。カジノ建設をストップ、維新府政?市政にストップを!(河野)


  色鉛筆・・・あなたも「チョコレートな人々」に出会える

 2月の初旬、ちょうど、バレンタインデ-間近のタイミングでの上映会でした。冒頭、熱心にチョコレートの素材となるカカオの粒を、大きさ毎に分け作業をする1人の青年の姿がありました。その青年の特性を活かした働き方であることが、丁寧なナレーションで伝えられます。ああこれが、彼らの日々の労働と社会との繋がりなのか、と何か安心感を覚える私が居ました。

 人々が生きていく上での、大切な多様性を尊重した会社経営の実践に、どれ程の苦労や失敗が繰り返されてきたか、それは私の予想をはるか上まわることでした。敢えてその経過を観客に見せることで共有化を図ろうとした製作者のねらいは、的中でした。私も、出会いを求め久遠チョコレート、商品名「QUON」を買いに、店舗を訪れてみたくなったのです。そこには、手作りで手間と愛情をかけ、妥協のない作り方を貫くチョコレートの数々が並んでいました。

 「温めれば、何度だって、やり直せる」まるで夢のような力。私たちのチョコレート工場へようこそと、19年の試練を乗り越えた代表の夏目浩次さん。2014年、豊橋市の小さな店から始まった「久遠チョコレート」は、今では各地の福祉施設と連携して全国52拠点、年商16億円、従業員も570人にのぼります。その9割は女性や障がい者、性的少数者など生きづらさを抱えた人たちです。

 夏目さんが最初に挑戦したのがパン屋さんで、複雑なパン作りの工程を覚える困難さ、やけども多く、売れ残ったパンは廃棄処分と、店の経営は自転車操業に近いものでした。当時、障がい者の就労としての賃金が、月に1万~2万円という低さに衝撃を受け、なんとかしたいというその思いが、チョコレートの出会いに繋がったのでしょう。

 こんな素敵なシーンがありました。障がいのある従業員たちが、初めてのお給料を受け取ると、その給料袋と用意された花束を、1人ひとりが母親に感謝を込め手渡すのです。母親たちの笑顔は、働くことでの子の成長と社会と繋がることでの安心感だと思います。 気がかりなのは、当初のパン屋さんで働き、店の看板娘のように、お客さんや近所の店舗の人に慕われていた女性のこと。その後、他の就労移行支援事業所で働き、久遠チョコレートの店舗に訪れ夏目さんと再会するが、母親と2人で去る後ろ姿がいつまでも残る。彼女も久遠チョコレートで働けたらいいのになあ、と私は思ってしまいます。

 本作のテレビ版は2021年に東海テレビで放映され、日本民間放送連盟賞テレビ部門グランプリに輝いたとのこと。夏目さんには600通もの手紙やメールが殺到し、なかには「ここなら働けるかも」という応募もあったそう。「久遠チョコレート」が人々を繋ぐ、そんな社会に期待したい。皆さんも、機会があれば、ぜひ「チョコレートな人々」に出会い、味わい何かを感じて欲しい。(恵)案内へ戻る


  読者からの手紙・・・ 生産性向上の「前向きな賃上げ」「防衛的な賃上げ」でない生活向上のための賃上げを 

 今年の“官製春闘”は、生産性向上のために成果や役割に応じて賃金に差をつける流れの中で、労働力需給を見込んだ政財界あげての賃上げ容認である。

 トヨタ自動車の労働組合は、月給6.7カ月分のボーナスや基本給を底上げするベースアップを含む、過去最高水準の賃上げを要求し、交渉初日に、経営陣はこの要求に異例のスピード満額回答で応じる等、大手企業では満額回答を示すなど、大幅な賃上げ(?)回答が出されている。

 企業の内部留保(企業の税引後利益から、配当や役員賞与などの形で社外流出する分を除いた額を表します。会計上の勘定科目で言うと、主に利益剰余金や資本準備金という「純資産の部」に計上されている項目 )が400兆円を超えて500兆円に迫るほどあるのだからこれくらい出したとしても何の問題もないだろうし、賃上げという形で還元することによる見返りは「優秀な人材の確保」と生産性のアップで、より多くの利益をもたらし、賃上げ分の数倍にもなると見込んでいるのだから「前向きな賃上げ」と積極的になるのは当然と言うことができる。

 多くの大企業が満額回答が示されたあとで中小企業での賃上げ交渉が始まるが、経営が厳しい多くの中小企業では、元々賃金は低いし、労働時間も長く、慢性的な人出不足も抱えおり、そのため賃金が低いと、さらには働き手が逃げて行ってしまうため、それを防ぐためにせざるを得ない状況の「防衛的な賃上げ」を迫られているというのだ。

 大企業を支えているのはその下請けであったりする中小零細企業であるからそこで働く労働者こそ真っ先に優遇されなければならないはずが、そうではなく「防衛的な賃上げ」でなんとか過ごさなければならないという企業間での賃上げ格差が起こっている。

 日本の賃上げ交渉は個別企業とそこで働く労働者との交渉“企業主義”であり、大企業・大労組が賃上げのトレンドを作ってその後に中小企業・労組に移っていくというスタイルである。大企業の満額回答が中小企業の回答を高めるかは今のところ未定だが、「防衛的な賃上げ」から満額回答とはいえない見通しだ。

 労働者は生活のために働くのであり、働く場所として企業や工場があり、契約によってその身を委ねるが、すべて委ねているわけではなく、生活が苦しいと感じれば賃上げ要求する権利があり、生活の維持でも、大企業であろうと中小企業であろうとも働く労働者は同じ人間であるのだから条件は一緒であるべきだ。

 同じ人間なのだから労働者の要求やその獲得のための活動は労働者全体の利益になるようなものでなければならない。

 「前向きな賃上げ」や「防衛的な賃上げ」という企業側の賃上げではなく、“企業主義”から脱却した労働者全体の生活改善闘争を創り出しましょう!(m)


  読者からの手紙・・・少子化問題 現代社会にはびこっている家父長制と男女差別の撤廃・生活不安の払拭を。

 朝日新聞に「注目されるフランスの少子化対策、カギは「親へ期待しないこと?」と題して、フランス在住のライターで、「フランスはどう少子化を克服したか」の著者、高崎順子さんとの対話が掲載されていた。

 それによると、フランスでも以前は多くの先進国と同様に、女性の社会進出が進むとともに出生率も下がり続け、それまで出産を奨励する国で、多子家庭への手当などがあったのにもかかわらず、経済協力開発機構(OECD)が発表した出生率のデータを見ると、1970年代半ばまではおおむね2.0前後をキープしていたものの、93年には1.66まで落ち込んでいます。

 この数字は、当時のフランス社会の「女性が働きながら子供を産み、育てることは難しい」という事実を政府に突きつけました。そうして育児と仕事の両立が難しくなったとき、女性はキャリアの継続を選ぶという状況が調査結果やデータから明らかになり、国としても無視できなくなり、「もっと、男女が平等に仕事と家庭、両方の責任を果たせるような社会を」というメッセージを掲げ、90年代半ば以降、仕事と家庭の両立を支援する方向で、家族政策(家計や生活面に対して、社会的に家族を支援する政策)を充実させるようになり、強固な家父長制が長年続き、女性が社会活動をしにくい仕組みや雰囲気を払拭し、女性だけの子育て、両親だけの子育ては、ともに大変なことだ、という事実を正面から認め、具体的には、家庭外保育の整備、子の誕生時の父親休業(産休)制度の充実(施行は2002年から)、産後に仕事をしながら働き続けられる労働環境の整備、経済的支援(育休中の収入補填(ほてん)、妊娠・出産医療費の支援拡大)など、さまざまな場面に国が関与し、サポートを充実させるようになったと言うのです。

 こうした多種多様な制度があることで、「今後、困ったことがあっても、そのときに国や公的機関が何かしらの手を差し伸べてくれるだろう」という安心感が少子化を克服する事だというのです。

 日本はいくら「女性活躍」と旗を振っても、母親が子育てをするのは当たり前、働くのもいいが子育てもちゃんとしろ、という社会全体の意識が今でもとても強く、女性自身もそれを強く感じていて「自己責任」との狭間でもがき、全体として「少子化」が進んでゆくのを止められないというのが現状だから、子育てを「親であれば、しっかり子育てできて当然」「子どものために自己犠牲してこそ親だ」と「親の責任」と考える風潮を変えて、子育てには不安な気持ちや経済的なリスクが伴うものだから、政策決定に関わる人は正面からそれを受け入れ、それを見越した支援策を考える必要があるとしめくっています。

 日本政府は「女性が働きながら子供を産み、育てることは難しい」という現実を正面から向き合い、根本的に少子化対策を打ち出しているかと言えば、岸田首相は「社会機能を維持できるかどうかの瀬戸際と呼ぶべき状況に置かれている」(1月23日施政方針演説)と「異次元の少子化対策」を打ち出したが、中身は防衛費増額の議論と同様に、「規模先にありき」で、財源のメドもないのに既存の措置の給付規模を増やし、対象を拡大させるだけの、内容に新鮮味はなく、決して「異次元」と言えるものではない。

 自民党を支える支配者層にとっての少子化は、資本による労働の搾取の対象の減少、資本主義社会での富である商品を生産する労働者の減少であり、それは経済力を示す国内総生産DGPの減少に現れ、国力・経済成長が衰えること(国力の衰退とみられるのであり、)少子化は現在の年金、介護、医療などの社会保障を支える現役世代の減少であり、久しく言われている現代資本主義社会を維持するための社会保障制度の崩壊ともなる問題でもある。

 「静かなる有事」国力の衰退とまで言うなら社会全体として少子化対策に取り組むべきであり、出産・育児から教育まで含めて子育てに関する総てに渡って配慮した社会保障政策を打ち出すべきであり、その場しのぎの一時金程度で済ます政策を「異次元」とまで言いふらす岸田政権の欺瞞性を暴露し、女性の社会進出と権利保障を含めた労働者全体の社会保障と諸権利拡大に向けた戦いを!(M)


   コラムの窓・・・オール電化の嘆き、あるいは原発復権!

 電気代の高騰が生活に深刻な打撃を与えている、新聞投書欄にそうした訴えが目につきます。高齢の2人暮らしで月額3万円越え、しかも前年と比べて使用料は100キロワットも少ないのに。同じく高齢2人暮らしでオール電化住宅の方は、いつもは3万円弱なのに4万円越え。

 オール電化だと電気料金が2倍になったとか、10万円を超えたという実態もあるようです。清潔で火を扱わないから安全という電力会社の売り込みで普及したオール電化住宅も、こうなると逃げ場がなくなった感があります。何事も単一ではなく、せめて複数の手段を確保すべきだと思うのですが、テレビは原発稼働で料金下げてほしいという声を流しました。

 2016年4月1日、電気小売業への参入が全面自由化となり、消費者は地域独占から解放されました。私は原発推進の関電から、クリーンとは言えないまでも自前の発電部門を持つ大阪ガスに乗り換えました。安さを売りにしてドッと業者が参入しましたが、それらの多くは大手電力会社依存の小売業者でした。

 電力自由化といえど、発電・送配電・小売りを完結できるのは既存電力会社しかありません。20年に送配電部門が発電・小売り部門から切り離されて分社化されましたが、大手が主導権を握っている実態は変わっていません。

 この間、マスコミで大きく取り上げられている「電力不正閲覧」は必然事でした。大手電力が「新電力」の送配電の子会社の顧客情報を不正閲覧していたものです。関電では、「一部の社員が(関西電力送配電株式会社から)不正に入手した顧客情報を悪用して、オール電化の勧誘に使っていた・・・」(2月18日「神戸新聞」)

 これは構造的不正で大手全10社が手を染めており、発送電の完全な分離、全国の送配電網を一元管理する公的機関に委ねる以外の解決法はないでしょう。現状では供給過剰になった場合、大手は太陽光発電など他社の電気を止めてしまいます。その際、最も優先されるのは出力調整が困難な原発の電気です。

 この点、福井県議会の質疑を報じた「福井新聞」(2月18日)によると、県は「2021年度までの48年間で県に入った原発関連収入は8640億円」と答弁しています。その内訳は、1974年に創設された電源3法交付金総額が5900億円、76年に創設された核燃料税は総額2447億円、電力会社からの原発関連の固定資産税は293億円。これらのカネはどこからか、税金と電気料金として私たちの財布から出たものです。

 神戸製鋼所の石炭火力発電は昨年3号機が稼働しており、2月1日には4号機も稼働しました。石炭火力は〝座礁資産〟と呼ばれれているのに、この発電所が向こう30年近く稼働すると言われています。「神鋼は発電時にCO2を出さないアンモニアへの燃料転換を図り、CO2を回収・埋設する技術の導入を視野に入れる」(2月17日「神戸新聞」)そうですが、実現の可能性は未知数です。

 同紙は明日香壽宣東北大学教授の「日本では、温暖化対策よりも電力会社や一部企業の短期的な利益が優先されている。政策も、アクセルとブレーキを同時に踏むような矛盾だらけだ」、との批判を掲載しています。再エネ・省エネは冷遇されてきたのです。

 ところで我が家も高齢2人暮らしですが、光熱費はこの2ヶ月同じ1万円弱、エアコンがないのがこの低額の最大の要因です。暖房にはだるまストーブと練炭火鉢、時代遅れの感がありますが、やかんでいくらでも湯を沸かすことができるし、湯たんぽにも重宝しています。この生活では節約の余地はありませんが、国家的浪費が目に余る原子力マフィアへのテコ入れは止めてほしいものです。 (晴)

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