ワーカーズ667号(2025/6/1)   案内へ戻る

 学術会議法人化案は廃案に

 五月十三日、衆議院で「日本学術会議法人化法案」が十分な審議もなく、自民、公明、維新三党の賛成で可決されました。この法案は「国の特別機関」として独立して職務を行うと規定されている学術会議を解体して、政府が介入しやすくする仕組みを作ろうとするものです。

 学術会議は、一九四九年に「学術会議法」により科学者の総意のもとに設立された科学者の組織です。第二次世界大戦時、科学が戦争に加担したことへの深い反省に立ち、一九五〇年、一九六七年、二〇一七年の三度の声明で「軍事研究に従事しない」ことを誓い、平和的復興、人類社会の福祉に貢献すべく世界の学術界とも交流しながら活動してきました。

 学術会議が自律的に運営してきたことにかわり、首相任命の監事や内閣府が学術会議の活動内容や会員選考の在り方にも介入する仕組みを作ろうとしています。財政は「国の特別な機関」として国庫負担でしたが、法人化後は、国や産業界の資金調達になるため、政府の利益や産業界の利益に沿うことが求められてしまいます。

 今の政府は、社会保障を切り捨て、軍事費の増大で兵器の購入や戦闘機の開発、さらに自衛隊の軍事訓練はアメリカなど他国と一緒に協力して行っています。軍事費の予算は年間八兆円を超え膨大化し、赤字国債の穴埋めが予想されます。

 そうした中で「軍事研究はしない」ことを表明している学術会議を解体し、政府の意のままにできる組織に変えるこの法案は、過去の七三一部隊の中で行われた生きた人間のおぞましい人体人権を思い出します。

 ロシアによるウクライナ侵略、インドとパキスタンの戦争、イスラエルのガザ侵攻など私たちを取り巻く環境は平和な世界から離れていくようで大変不安です。

 戦争準備のために科学技術を国の言いなりにするこの法案は廃止にすべきです。ともに闘いましょう。
 (宮城 弥生)


 トランプ予算案は 弱者切り捨てと大軍拡、警察体制強化だ!どこへ行く米国

 トランプ政権は「産業の呼び戻し」や「失われた工場・雇用の復活」を看板に掲げ、経済的に厳しい地域や低所得層の支持を取り付けてきました。しかし、5月発表された2026会計年度予算案を見ると、その「約束」は以下のように大きく裏切られています。来年度予算案を一瞥することでトランプらが目指す社会がどのようなものかが明瞭になります。

■社会的セーフティネットの大幅削減は貧困層の打撃に

予算案では、住宅支援や低所得者向けエネルギー援助(LIHEAP)などのプログラムを中心に、教育・住宅・保健分野で合計1630億ドルもの裁量的予算削減が計画されています。特にLIHEAPの完全廃止は、約600万世帯が冬季の暖房費支援を失うことを意味し、低所得層への恐るべき一撃となります(Vox)。

 教育、医療、科学技術などの非国防分野で1,630億ドル(約23兆円)の削減を提案。国立衛生研究所(NIH)や疾病対策センター(CDC)の予算は40%以上削減されることになります。

■クリーンエネルギー・産業支援の撤回

 バイデン政権下で作られた「インフラ投資・雇用法(IIJA)」で確保された再生可能エネルギーや産業デモンストレーション向けの計画資金15億ドル以上を取消し、EV充電インフラ支援5.7億ドルも削減。代わりに化石燃料や核エネルギー研究開発へ重点移行を図るものの、製造業の近代化や地域振興と雇用の創出に必要な援助は事実上切り捨てられています。

■驚くべき軍事・治安支出の肥大化

 前述のとおり、裁量的予算の60%(約1.01兆ドル)が軍事関連、さらに退役軍人省や国土安全保障省の「治安・警察的支出」を含めれば、実に約76%が「銃と警棒」へ回る一方で、製造業の支援や地域振興、生活支援に回るのはわずか24%にとどまります(ジャコバン)。

 国防費は前年度比13%増、国土安全保障費は65%増。これにより、軍事・安全保障分野への支出が過去最大規模に拡大することになります。

 さらに問題なのは、日本に対しGDP比3%の防衛費増額を要求する動きもあり(現行1.4%)、米国の軍事拡張が同盟国にも波及し、すでにEU諸国特にドイツの軍事費の飛躍的拡大が、国際的な懸念材料です。日本も含めて、世界的軍拡の流れを各国の市民労働者がいかに阻止するかが問われています。

■「言行不一致」!!“呼び戻し”できるほどの産業投資がない

 関税政策や「メイク・ハリウッド・グレート・アゲイン」などの象徴的スローガンはあるものの、実際に工場誘致や技能訓練投資といった具体的施策への予算配分はほぼ見られず、「専門労働力不足」「自動化の進行」によって、米国内での昔のような重厚長大な製造業復活は現実的でない(Business Insider)ばかりではなく、海外企業家からのハイテク巨額投資話(例えばソフトバンク)も、プラットフォーム依存型の米国に対して中国流のAI開発(工業製品化)が台頭し、その結果対米国巨額投資に疑問符をつけています。

―― 以上を踏まえると、トランプ政権が掲げてきた「産業の呼び戻し」と「貧困層への経済的包摂」という選挙公約は、軍事・治安予算の大幅増と社会福祉・産業支援の大規模削減によって事実上放棄されており、「低所得層を巻き込んだポピュリズム」の根幹を粉々にするものと言わざるを得ません。これはまさに「軍事的・警察的政権」を志向しつつ、貧困層の切り捨てを伴う、信じがたい裏切りと言ってよいでしょう。(阿部文明)


  消費税廃止、食料品ゼロは可能だ!――階級間所得配分の変革を!――

 ちかづく参院選の争点として、消費税の廃止や食料品への消費税ゼロなどの減税案が浮上している。

 このところの物価上昇や実質賃金の目減りから庶民の生活を守るため、消費税廃止や食料品への消費税ゼロは必要だし、可能だ。

 税は、いつの時代でも大衆反乱の原因となり得るし、今はまさにその局面でもある。

 とはいえ、税制はいわゆる所得の再配分・二次分配の話だ。私たちとしては、一次分配としての賃金への配分を第一に考える立場だが、再配分の場面でも、労働者・生活者としての正当な立場を押し出していきたい。

◆争点に浮上した消費税

 消費税のあり方が注目され、争点として浮上している背景として、昨今の物価上昇、中でも食料品の相次ぐ値上がりで、家計が圧迫されている現状がある。今は、名目賃金が多少引き上げられている現実もあり、食料品その他の生活必需品の値段が、堰が崩れたかのように値上がりし続けている。

 昨年・今年と、春闘での〝大幅な賃上げ〟が実現した一方、それでも食料品をはじめとするそれ以上の物価上昇で実質賃金は低迷、下落しているのが実情だ。実際、直近での実質賃金は、連続3ヶ月下落し続けているという。労働者世帯や年金生活者も含めて庶民の生活は圧迫され、節約を強いられている。

 そんな中、昨年の衆院選で躍進した国民民主党など、〝手取りを増やす〟主張を続ける政党の支持率が上昇し、その流れで、参院選での消費税減税が焦点として浮かび上がった格好だ。

 結論的に言えば、私たちも消費税減税か廃止、あるいは食料品への消費税課税ゼロを支持する。
  グラフ――1

 グラフを見て頂きたい。OECD諸国など、全体の消費税率に対し、食料品への課税率がかなり低く設定され、ゼロの国も多い。それに対し、日本は全体の税率が10%と相対的に低いとはいえ、食料品にも8%課税されている。それだけ低所得層の負担が重い課税になっている。食料品への課税率引き下げや課税ゼロは、むしろ当然の要求なのだ。

◆消費税廃止、食料品課税ゼロは可能だ!

 野党の消費税廃止や食料品への課税ゼロの要求に対し、自民党などは税収減を主な理由として反対している。加えて、消費税は社会保障の財源として引き上げられた経緯もあって、社会保障費に穴が開くとして反対姿勢を明確にしている。要するに、12年の民主党野田政権時の自公民によるいわゆる〝税と社会保障の一体化改革〟を口実にしたものだ。

 その時は、民主党の野田政権を中心として、社会保障の拡充策と消費税の段階的引き上げを強引に決めた。そのことを根拠として、自民党などは、消費税は社会保障の充実のための大事な財源だ、として、消費税減税や廃止に反対しているわけだ。

 が、実際は、消費税収がそのまま全て社会保障費に廻るなどということは無い。いったん税として国庫に入れば、他の税収と区別されることはない。要するに〝お札に色は付いていない〟。消費税は税法上、課税目的の規定がないので《目的税》ではなく《普通税》だからだ。あくまで社会保障支出の増加を賄う財源として見込むという、《使途》の規定があるに過ぎないからだ。

 目先の問題として、食料品への課税ゼロは、緊急の課題だ。最近の物価上昇でも、食料品の値上げが相次ぎ、食料品購入比率が高い低所得者の生活を直撃している。現に、エンゲル係数が、このところ上昇しているという現実もある。

◆財源はある

 自民党などは、消費税の話になると必ず社会保障費はどう賄うのか、と反論する。対置すべきは、簡単なものだ。私たちとしては、法人税や累進所得税、それに金融所得課税の課税強化で賄え、というのみだ。

 この点で、どの野党も明確な財源を示していない。共産党は法人税など、儲けている大企業に応分の負担を求めてはいる。が、立憲民主やその他の野党は明確に他の財源を示していない。国民民主やれいわ新選組などは国債発行で、というばかりだ。

 安倍政権を始め、最近の自民党政権は、段階的な消費税増税を繰り返してきた。3%、5%、8%そして現行の10%だ。この消費税の段階的引き上げの背後で、確実に進んできたのが、法人税の段階的引き下げ、そして個人所得税の累進課税の段階的引き下げだ。

 次のグラフを見て頂きたい。  グラフ――2 


 これを見れば一目瞭然、消費税収の増加と、法人税と所得税の低減が、まさに逆比例になっている。法人税は、90年度に40%から37・5%に引き下げられ、その後、99年に30%、12年から25・5%に引き下げられている。

 個人所得税の累進税率も緩和され、年収8000万円を超える部分に最高75%だったものが、現在は4000万円を超える部分への45%の税率だ。高収入部分への減税ばかりが実施されてきたのだ。これらの事実を自民党も立憲も国民もれいわも、言及しない。共産党がか細くいうだけだ。

 その法人税引き下げの恩恵を受けてきた企業はといえば、このところ毎年過去最高の利益を上げ続けている。その増えた企業利益はどこに配分されたのか。

 まず、株価上昇で株主の保有資産が膨らんだ上、自社株買いによる株主還元などで株価上昇による保有資産が増加した。さらには株主への配当も増やされてきた。2010年の配当総額は4兆円台だったが、24年3月期には15・2兆円、じつに14年間で4倍近くまで増やされてきたのだ。

 次に、経営者の報酬も大きく引き上げられた。配当を増やしてもらった株主から高評価を受けた結果だった。この10年少しで、1億円以上の経営者報酬を手にした経営者は300人から700人ほどに増えている。まさに出来レースだった。

 その上で残った企業利益は、それを内部留保として貯め込み、史上最高額を更新し続けている。23年度末の企業の「内部留保」は、前年度比8・3%増となる600兆9857億円で、初めて600兆円台になった。他方で労働者の賃金は、物価上昇の後追いにもならない状況だ。

◆〝俗説〟に惑わされない

 これらの数字は、いずれも労働者の賃上げ率を大幅に上回って増え続けていることを示している。

 先に見た法人税の段階的引き下げに加え、個人所得税の最高税率も段階的に引き下げられ、加えて、高収入層ほど多い金融所得課税は、一律20%と低率に抑えらている。あの〝1億円のカベ〟といわれるように、高収入層ほど相対的に低率の税しか負担していない現実もある。

 自民党などは、消費税廃止や食料品への軽減税率、また法人税強化などに対し、社会保障費が賄えないとか、安定的な財源としての消費税に変わるものは無いなどとしているが、よくそんなことが言えたものだ。

 自民党など与党ばかりでなく、野党も含めて資本・資産課税に重い腰なのは、経済の推進力としての企業業績改善に依存しているからだ。が、そんなスタンスに説得力など全くない。これまでの〝失われた30年〟は、コスト・カットによる外需依存経済の破綻そのものの結果だからだ。

 さらに言えば、このところの〝世代間対立〟を煽る言説だ。中高年や高齢者の収入確保のために就職氷河期をはじめとする若年層が収奪されている、という、いわゆる〝世代間所得移転〟〝世代間収奪〟という言説だ。

 これは問題解決の矛先が、一次配分における資本・富裕層優位の階級間格差の是正に向かうのを回避するために、意図的に〝世代間対立〟に誘導したいという思惑があっての言説に他ならない。こんな〝階級間格差〟を覆い隠す言説をのさばらせておく訳にはいかない。

◆物品税の復活も

 結論的に言えば、誰の、どこに課税するかを、段階的に、継続的に変えていけば、消費税ゼロも夢物語では無くなるのだ。自民党の歴代政権がやってきたのと逆に、法人税の段階的引き上げ、個人所得税の累進税率の段階的引き上げ、それに金融取引税の大胆な引き上げなどをやっていけば、5年10年で劇的に税収構造を変えることができる。

 石破首相は、食料品の消費税ゼロという要求に対し、スーパーのレジシステムを変えるのに1年ぐらいかかってしまうので、即効性は無い、としてる。そんなことは無いが、仮にそうであっても、困窮世帯への給付金とセットでやればいいだけで、食料品課税ゼロを否定する理屈にはならないのだ。

 加えれば、消費税導入時に廃止された物品税の復活も実現可能だ。

 消費税に変わる物品税額は、現行の消費税に取って代わる規模にはならないかも知れないが、贅沢品、奢侈品に課税することは可能だ。一例を挙げれば、自動車の取得税は、大衆車は別として、500万円とか800万円以上とか、労働者の年収を超える高級車に物品税をかけることは可能だろう。さらに宝飾品や骨董品なども同様だ。

 確かに課税事務は繁雑になるかも知れない。が、消費税だって、インボイス制など、中小業者も含めて煩雑な納税手続きが課せられている。やってやれないことは無い。

◆攻防は一次所得配分

 以上、消費税など税制の要求について考えてきた。が、それらはあくまで再配分の話で、本来は一次配分、要するに生産活動で得た富の一時的な配分こそが重要だ。だから、筆者としても、低所得層の底上げには、まず賃上げが重要であり、そのための春闘など、賃金闘争を強化することの重要性を訴えてきた。欧米でも、フランスや米国なども含め、賃金闘争でのストライキの果敢に闘われ、それ
なりの成果も上げてきた。

 が、日本では、春闘と言っても〝お願い春闘〟でしかなく、ストライキなどで闘った結果、賃上げを勝ち取ってきた、というのは、遠い過去の話になってしまっている。そうした一次配分をめぐる労使の攻防という場面ではなく、再配分としての税税をめぐる攻防だけでは、労働者の処遇の改善は限定的なものに止まる。

 とはいっても、賃金闘争での勝利を続けていくこと自体、困難な闘いだが、それでも賃金の問題や税の問題は、とりあえず果てしなく続く政・労・使の攻防の舞台であることは変わりはない。ここでの闘いによって労働者階級の地力を強化していくことによって、より長期的、決定的な場面で勝利することは可能になる。そうした観点に立って、一次配分、二次配分の闘いを前進させていきたい。
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  読書室 アンジェラ・サイニー著『家父長制の起源 男たちはいかにして支配者になったのか』集英社 2024年10月刊 本体価格2530円

〇 本書の帯には、「女より男のほうが強くて賢い」は本当か?とある。解説者の上野千鶴子は「なに、昔から男は狩りに出かけ、女は赤ん坊を抱いて家で待っていたんですって?」と問題を先鋭化し、「嘘ばっかり」と、「常識」をくつがえす。著者のアンジェラ・サイニーは、これだけ世界に広がり、定着している、誰も知らない家父長制の起源に果敢に切り込む。まさに「人種、カースト、階級に関しての古く誤った考えは批判されてきたのに、なぜ男女の不平等だけは例外とするのか。まさにこの男性支配こそが問題」なのである 〇

本書叙述の立場

 著者のアンジェラ・サイニーは、学者ではなくサイエンス・ジャーナリストである。この問題に約400ページの大著で果敢に挑む姿勢には大きな共感が寄せられている。

 本書は孤立した単著ではない。まずは二0一七年に出版された『科学の女性差別とたたかう―脳科学から人類の進化史まで』に引き続く著作であることに注目する必要がある。なぜなら本書は、その著作の中にある「これまでずっと男性が優位だったわけではないとしたら、現代はこれほど家父長制による抑圧が蔓延していることをどう説明するのか」との読者からの質問に対する回答とするための著作だったからである。

 本書はだから家父長制の起源を追求しているのだが、その姿勢は実に謙虚である。サイニーは結論を急いではいない。家父長制の起源を安直な形では断言していないのである。

 一時期、女性に対する抑圧の普遍的な根拠を見つけようとするあまり、馬鹿々々しい程に問題を単純化する動きがあった。例えば「力が弱い」女性は「力が強い」男性の支配に抵抗できなかったとの結論がある。この立場は、先史時代に女性中心の平和な社会が、突然権力と性的支配への飽くなき欲望を持つ男性たちに倒されたのだ、とするものである。

 だがかつて母権制のユートピアが存在し、それが一瞬で倒されてしまったことを示す、説得力のある証拠はない。『家族・私有財産及び国家の起源』のエンゲルスが書いた「女性の世界史的な敗北」などなかったのではないかと想像する方が遥かに現実的である。

 そしてこのエンゲルスが依拠したモルガン『古代社会』のあまりにも単純な社会進化論こそが問題である。「文明社会」アメリカに比較し、はるかに遅れた先住民社会=インディアン社会だとの認識は果たして正しいものなのか。まさによくよく考えねばならない。

ボノボ社会と母系社会

 人類史を考える前に動物社会を一瞥したい。一方のボノボは「メスによる支配が一般的」だとの科学的コンセンサスがある。その他にシャチやライオン、プチハイエナ、キツネザル、象の社会もメス支配である。他方のチンパンジーはオス支配であり、動物界でもそれが一般的である。それはなぜなのか。まずはボノボの観察から学ぶことにしよう。

 ボノボのメスは平均するとオスよりわずかに小さい。この点はオス支配のチンパンジーと同じである。両者の差異とはメス同士に血縁関係がなくても強い社会的絆を結び、互いの性器をこすり合わせることでその絆を強化し、緊張関係を和らげることである。

 こうした親密な社会的ネットワークが権力を生み出し、個々のオスは無力となるのだ。

 ボノボの社会ではオスは生まれつきメスより上の立場にあり、オスはメスより優れたリーダーになるとの物語は成り立たないのだが、この説を講義した時、男性支配に囚われていたドイツの年配の教授は「このオスたちには何か問題があるのか」と質問したのである。

 人類の家父長制を生物学で説明できるとする専門家は多い。日本にも竹内久美子がいる。

 たが実際には「オスが支配するチンパンジーの社会」にさえ、メスのリーダーはいる。彼ら専門家は、母猿が父猿と同程度の権力を持つ可能性が目に入らないだけなのである。

 インドのケララ州は母権社会と呼ばれてきた。この伝統はナヤール族に起因する。さらにインド北東部のメガラヤ州のカーシ族には「すべての人間は女性から生まれた」のことわざがある。又男性には財産に対する権利も子供に対する権利もない。すべては母親の一族に帰する。インドネシアのミナンカバウ族も母権社会で権利関係は同様であった。

 実際の所、あまり知られていないが母系社会はアジアや南北アメリカ大陸に点在し、アフリカ中部には幅広く存在する。母系社会が非常に珍しいのはヨーロッパだけなのである。

家父長制の起源

 私たちが生きる現実の社会は、「家父長制」社会と呼ばれる。この家父長制はあたかも最初から巧みに計画された陰謀のように見えるが、実はそうではない。実際には絶えずゆっくりと変化しつつ、人々に特定の思い込みを植え付けてきた。アフガニスタンではタリバン政権が復活し、ロシアや東ヨーロッパでは女性の自由が弾圧され、アメリカでは人工中絶の権利 が再び脅かされている。物語は今でも強力に紡ぎ出されているのである。

 19世紀半ばにアメリカのセネカ・フォールズに結集した白人女性たちは、同地域の先住民の女性が何世紀も前から享受してきた権利は自分たちが現在求めているものより大きいことを知って驚愕した。勿論、先住民の部族にも色々あり、家父長制の部族も多い。

 『古代社会』の著者のモーガンは進化論のダーウィンと親交もあり、先住民を未開人と考えていた。彼は「アーリア人こそが人類の進歩の中心にいる」と考えていたからである。

 彼は先住民は過去を調べるための手段だった。その意味では母系社会は未開なのだ。彼は男性支配や一夫一婦制を近代化と同一視した。当然ながら男女同権は認めなかった。

 だが世の中は広い。この考えに希望を持った人々がいた。女性参政権運動の活動家は、家父長制を打ち壊すことは自然の冒涜ではなく、自然への回帰と認識したのである。

 『家族・私有財産及び国家の起源』でエンゲルスが書いた「女性の世界史的な敗北」の言葉は、その後一世紀にわたってフェミニストを鼓舞し続け、家父長制についての考え方を強く方向づけた。だが先住民は過去に生きた人々ではなく現実に生きる人々である。

 彼らも部族の文明社会に生きて暮らしている。モーガンとエンゲルスも肝心要のこの事実を軽視した。まさに単純な進歩史観の陥穽だ。彼らを未開とする規定は正しいのか。

 実際、家父長制と家庭の主婦とは一対のものだ。アメリカの中産階級は家庭に主婦がいることを理想とし、女性には憧れている者たちもいた。女性は結婚とともに職場を去った。だからアメリカは先住民の女性にも家庭に入るよう強制した。まさに余計なお世話だ。

 サイニーは話をトルコのチャタル・ヒュユクに切り替える。ここは少なくとも新石器時代末期の紀元前7400年の世界最古の都市である。何千人の人々がここで暮らしていた。

 ここで発掘された女性像は女神像とされ、女神崇拝者たちの巡礼地となった。19世紀の「昔は女系社会が一般的だった」とする神話が復活しようとしていた。だが女神像を崇拝していたからといって、その社会が母系社会とは直ちに言えないことは明らかである。

 サイニーの謙虚さは特筆すべきものである。通常の論者ならここぞとばかりに母系社会の存在が証明されたと一気に幕立てるところであるからだ。その後も母系社会と言い切れないとの説明が引き続き丁寧に書かれているのである。私たちはその考察に学ぶべきだ。

 その後、サイニーの考察は、ロシア、ハンガリー、イスラム圏と続くのである。

 本書の解説で上野千鶴子は、「家父長制は永遠ではない」と書いている。サイニーの主張の核心は「人種、カースト、階級に関しての古く誤った考えは批判されてきたのに、なぜ男女の不平等だけは例外とするのか。まさにこの男性支配こそが問題」である。

 確かに今でも家父長制の起源ははっきりとしない。だが家父長制を維持・再生産するには、努力や協力者と共犯者が必要なことを意味する。だから彼女は「闘い続ける」のだ。

 上野は、解説を「歴史のどこかに起源のあるものには、必ず終わりがある。今あるものは変えられると信じることができる、希望の書である」と結ぶ。全く同感である。

 家父長制の起源を考える読者に一読を薦めたい。(直木)案内へ戻る


  東アジアにおける戸籍制度と宗族と日本の家(下)  - 前号より続き-

貴族社会における戸籍制度の成立と消滅

 日本では応神時代に百済の王仁が『論語』とともに儒教を伝えたとされる。その後、天智・天武時代に律令制を制定した。だが本来はそれと同時に導入されるべき科挙制度は採用しなかった。貴族たちのあいも変らぬ世襲制が結果的にその導入を阻止したのである。

 飛鳥時代に律令により人民掌握のための戸籍が導入された。実際にはそれ以前にも渡来人を戸籍によって支配していたが、670年に一般の戸籍が作られた。それは6年ごとに作成され、30年を経ると廃棄される規定であった。この時の戸籍を庚午年籍と呼び、氏姓を確定する台帳の機能も果たしたものとも考えられるが、庚午年籍は現存しておらず、そもそも全国的に全ての階層の人民を対象にして造籍したものなのかも不明である。

 その後、飛鳥浄御原令により、690年(持統4年)に全国的な戸籍となる庚寅年籍が作成された。日本の律令制の行政単位は、郷里制(50戸を1里、数里を1郷)に基づき、戸籍は里単位で管理していた。だが基本単位はあくまで戸だった。その戸内の家族(戸口)の名、年齢、戸主との続柄等を詳述することによって、個々の家族構成を直接的に把握することを可能にし、それを基に班田収授を行い、人頭課税をする台帳の機能を果たした。また良賤身分を定める原簿の機能をも果たしていたようだ。さらに実際の課役や班田収授(田地の分配)の実務上での基本単位は郷戸が活用されていたことがわかったのである。

 すなわち里は郷里制の施行以後は郷と改称された。以後この郷を構成する戸を郷戸と呼ぶ。郷戸には戸主が置かれ、班田収授や貢租徴税の単位とされた。郷里制の施行期間(715~740年)にはその郷戸内部をさらに1~3の房戸にわけ、郷戸と並んで貢租徴税上の責任を負わせた。また郷戸は郷の構成単位であるのに対し,房戸は郷の下に新たに設けられた2~3の里(コザト)の構成単位とされていた。

 郷戸には通常戸主の直系家族以外にも多くの傍系親やその家族・寄口・奴婢などが含まれ幾つかの家に分かれていたが、比較的単婚家族に近い房戸もあくまで公法上の単位にすぎず、籍帳上の郷戸・房戸をもって直ちに当時の家族形態とみることはできないとされる。

 その2年後、庚寅年籍に基づく口分田の班給が畿内で開始された。同時に全国でも班田収授法が施行されたと推測される。こうして律令に則った戸籍を介することにより律令政権による個別具体的にに人民を掌握して、人民を強力支配する体制が整ったのである。

 また戸籍と同じように、律令時代の人口(人頭)を知ることの出来る史料として、計帳がある。計帳は課役を徴収するための基本台帳であり、毎年作成された。そこには人口、性別、年齢から一人ひとりの身体的特徴までが里長(郷長)によって書き上げられていた。そして国ごとにまとめられて調、庸、雑徭、軍役など、課役賦課の基本台帳とされた。

 朝廷の中央政府は戸籍によって人民を掌握することを建前とした戸籍の改製は10世紀頃まで行われ、平安中期の延喜年間に編まれた戸籍が現存する。だが三世一身法から墾田永年私財法の制定によって律令制が後退してゆき、さらに有力貴族や寺社による荘園制の成立により、平安後期に律令制が衰退した後には戸籍改製の必要性が薄れ、全国的な改製が行われなくなってしまい、事実上消滅していったのである。

封建社会における家(家と家子郎党)

 この時代に新興勢力として新たに台頭してきたのが荘園制と関連が深い武士である。

 鎌倉時代以降の統治は現地赴任の国司筆頭者に大幅に権限委譲され、また受領に指揮される国衙では資本力のある有力百姓等を公田経営の請負契約等を通じて掌握した。彼らは田堵・負名とも呼ばれ、住民掌握はもっぱら彼らによって行われるようになっていった。

 そして武士が武家となる歴史的経過の中で中世社会に家は形成されていったのである。

 すなわち家とは家族及び家子、郎党、所従・下人で構成されおり、農耕・軍事の両機能を持つ共同体かつ経営体でもあるが、その家の上層の家族・家子以外には血縁関係がない。また家族・家子にも養子制度が広汎に採用され、それは本来血縁を超えている。だがそれにもかかわらず、家は特徴的ながら擬制的な血縁共同体だと認識されていたのである。

 森鴎外の『阿部一族』には、彼の創作ながらも阿部家の様子が興味深く描かれている。

 本郷和人著『世襲の日本史』が指摘したように、まさに鎌倉時代以降の日本社会に独自な特徴とは、中国や朝鮮半島のように宗族を中心とした社会ではなく、氏(家族)の社会と家社会とが互いにその興隆と衰退とを交差させながら発展してきたことにある。

 鎌倉時代以降、上は貴族から下は庶民に至るまで、自然発生的に成立した家という擬制的な血縁的共同体が地域社会に広範に形成され、支配者が被支配者を統治する時、この自然発生的に成立した家こそが、地域社会掌握のための基礎単位となっていったのである。

 全国的な安定統治が達成された徳川時代の幕藩体制下でも住民掌握の基礎となった宗門人別改帳は、血縁以外に遠縁の者や使用人等も包括した、家単位で編纂されていた。

 そして実際に各地の慣習法の中には、母系相続や末子相続があった。「姉家督」と呼ばれた母系相続が豪農や豪商の間で広く行われていた。それは出来が選べない実の息子に代わって家付きの娘に父系(血脈)でもない養子を広く求める家族戦略でもあった。

 また武家ではそのような養子を取る場合、その者が家督相続者になるのに対し、豪農や豪商の場合は娘が家督相続人になることもあった。日本には宗族はないからである。(直木)


  何でも紹介 基地とハンセン病 二つの国策への怒りが私の闘いの原点

奥間政則さん、1965年奄美大島生まれ、沖縄県国頭郡大宜味村在住、59歳。職業は建設業(一級土木施工管理技士)、両親はハンセン病回復者。2015年、奥間さんは「50歳の時、それまで仕事以外には無関心で見て見ぬふりをしてきた人生が一変、ハンセン病と基地問題という二つの国策による差別と闘う覚悟を決めた」ーーーー。この年、ひとつはハンセン病証言集の中の父の手記との出会い、もうひとつは5月の辺野古新基地建設反対の県民大会への参加、このふたつが彼の人生を変えたという。

4月、静岡での講演には仕事着姿で登壇、豊富な映像とともに多くの問題を紹介してくださった。一級土木施工管理技士として、一億円規模の工事の現場監督もやれるとのことだが、今は各地に呼ばれ講演する一方、2018年以来のドローン活動を再開、辺野古大浦湾で強行される環境破壊工事(汚濁防止枠から濁った水が流れ出ている様子など)、また石垣、与那国、宮古などの島々に配備強化されていく自衛隊基地建設などにも、土木屋さんならではの視点で問題点を明らかにしている。

この日の映像の中で、私が最も印象に残った動画は、昨年6月23日沖縄慰霊の日の会場テント内で、ウチナーグチ(沖縄の方言)で周囲の人に訴える奥間さん自身の姿。大柄な県警(?)数人に取り囲まれ排除されようとも、毅然として声を上げる姿から、国策に対する腹の底からの怒りが伝わってきた。「今年も6月23日にまたやるつもりです」と笑顔で語る。

国策によってかつてハンセン病者は隔離され、子をもつことを許されず断種・堕胎を強いられた。それにあらがい、奇跡的に生を受けた奥間さん。幼い頃は、酒を飲んで母親や自分に暴力を振るう「とーちゃん」には憎しみしか無かった。50歳で、父の残した膨大な手記に出会い、その時初めて差別や偏見に苦しんでいた本当の姿に出会い涙が止まらなかったという。父は、生前には一切何も語らなかったという、そのことは底知れない苦しみの中に生きたことを物語っているのではないか?

ハンセン病と基地問題、一見全く無関係に見えることが、国策という名の下でとりわけ弱いものに向けられる暴力という点で共通する。それに対する怒り、そこに奥間さんの原点を見る。「無関心は支持であり共犯である」自戒の意味も込めてか、鎌田慧氏の言葉を紹介して下さった。

講演では、土地規制法(全国583カ所が指定された市民監視・弾圧法)やPFAS問題など多くの問題にも触れた。興味のある方は以下のDVDもご覧下さい。

---『二つの国策差別に翻弄された父母への想い 奥間政則 ~ハンセン差別・琉球弧の軍事拡大~』 上映権付き 25000円 個人視聴用(資料付き) 3000円(税込み)--- (澄)案内へ戻る


  日本独立を言う西田議員 ならば米軍基地だらけの沖縄を何とかしろ!

 沖縄戦で犠牲になった学徒隊の生徒らを慰霊する「ひめゆりの塔」(沖縄県糸満市)について、自民党の西田昌司参院議員が5月3日、那覇市内で開かれたシンポジウムで、説明内容を「ひどい」「歴史の書き換え」などと講演しました。 

 以下その時の、西田議員の発言です。

「あのひめゆりの塔で亡くなった女学生の方々がね、たくさんおられるんですけれども、あの説明のしぶり、あれを見ていてると、要するに日本軍がね、どんどん入ってきて、ひめゆりの隊がね、死ぬことになっちゃったと。そして、アメリカが入ってきてね、沖縄は解放されたと」

「そういう文脈で書いてるじゃないですか。あそこは。そうするとね、あれで亡くなった方々、本当に救われませんよ、本当に。だから歴史を書き換えられるとこういうことになっちゃうわけですね。そして、沖縄の中では今の知事さんもおられますけれどもね、そういう話では、結構それなりの市民権を持っているわけですよ」

「これは我々京都の中でもですね、共産党が非常に強い地域ですけれどもね。ここまでなんていうか、間違った歴史教育は、まだ京都ではしてません。沖縄の場合にやっぱり地上戦の解釈を含めてですね、かなりむちゃくちゃなこの教育のされ方をしてますよね」

「だからそのことも含めてもう一度、我々自身がですね自分の頭で考え、自分の頭で物を見てですね、そしてその流されてる情報が、何が正しいのかどうかということをですね、自分たちで取捨選択してそして、自分たちが納得できる歴史を作らないといけないと思いますよ。それをやらないと、日本は独立できないんです」

 ひめゆり平和祈念資料館によると、西田議員の発言した記述は塔の周りや資料館に存在しない、と言います。

 旧日本軍が沖縄の住民に米軍への投降を禁じ、犠牲の拡大につながったことは歴史的事実です。

 多数の一般住民が巻き込まれ、県民の4人に1人が犠牲になった激しい地上戦の後、県民が米国に「解放された」と考えるはずがありません。歴史を書き換えようとしているのは西田議員です。

 説明に誤りがあるなら具体的に指摘すべきですが、西田議員は2007年の初当選以前に現地を訪問した際の「全体的な印象」を語ったと記者団に説明し、「細かい記憶はない」と認めながら、発言の撤回・修正や謝罪を拒みました。しかし、5月9日西田議員は、自身の発言について、「非常に不適切だった」とした上で、「沖縄県民、またひめゆりの塔の関係者の皆さま方におわびを申し上げる」と形だけの謝罪をしましたが、西田議員は「歴史を書き換えている」と認識したひめゆりの塔の展示内容があったのは「事実」と述べ、撤回はしませんでした。

 沖縄の日本軍は、沖縄の住民を守るためでなく、本土決戦を一日でも遅らせて沖縄の陣地を守るための組織でした。沖縄県民は、自分たちを守らなかった日本軍に対しても、沖縄を占領した米軍に対しても、強い嫌悪感を持っています。
 西田議員よ、日本独立を言うなら、米軍基地だらけの沖縄の現状を何とかするため行動しろ。(河野)


  コラムの窓・・・敗戦から80年、さまよう視線!

 盛夏に向けて、戦後80年をどう読み解くのか多くの議論が行われることでしょう。しかし、その視点が〝戦後〟と称される時点ですでに宙を舞っています。この点で、「世界」5月号は座談会「『大東亜共栄圏』から捉え直す日本の戦争」を適切に提供しています。

 高校で必修科目となった「歴史総合」をこれまでの歴史教育を大きく変えるものととらえ、その内実を「日本軍に動員された植民地朝鮮人の問題」や「戦前の日本が中国大陸方面ではなく東南アジアと向かう『南進論』の系譜や、抗日抵抗運動の構造」をめぐる議論へと向かうべきとしています。
 
*高等学学習指導要領解説・地理歴史編
 「歴史総合」は,地理歴史科の中に設けられた標準単位数2単位の必履修科目である。
近現代の歴史の変化に関わる諸事象について,世界とその中における日本を広く相互的な視野から捉え,資料を活用しながら歴史の学び方を習得し,現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を考察,構想する科目として,今回の改訂において新たに設置された。

 学校教育は近年、愛国心や道徳が強調されるようになり、およそまっとうな歴史教育など望むべくもないと思うのですが、「歴史総合」の視野からみえる日本はどんなものなのでしょう。まず事実の把握が必要ということで、座談会では次の指摘があります。

 戦時、ビルマへの独立付与について、東条英機首相が「ビルマ国は子供というよりむしろ嬰児なり。一から一〇まで我が方のである。一から千まで我が方の指導の下にあり。それにもかかわらず本条約が形式上対等となりおるは、ビルマ国を抱き込む手段なり」と言う。敗戦後1957年、最初に東南アジアを訪問した岸信介首相は「日本盟主論」的発想で東南アジアは「掴んで」おくべき地域として認識しています。

「東条の『抱き込む』という発想と、岸の『掴んで』おくという言葉は、本質的に共通しています。ちなみに両者とも満州体験があります。東条は日本で内閣制度が始まって以来、最初に東南アジアに行った総理大臣、岸は敗戦後、最初に東南アジア訪問を果たした総理大臣。戦中と戦後はつながっています」

 大島渚監督によるテレビドキュメンタリー「忘れられた皇軍」(1963年8月16日放映)には既視感がありますが、座談会ではエンディングの「日本人よ、わたしたちよ、これでいいのだろうか、これでいいのだろうか」と強烈に語りかけていたと紹介しています。これはどういうことでしょうか。

 高齢の方であれば、雑踏のなかで白衣、義手・義足の傷痍軍人が喜捨を求める姿を見たことがあるでしょう。内海愛子さんは「その『南進』に必要な人員、兵力の問題があります。日本は、朝鮮に志願兵制、徴兵制を敷きますが、動員のための図、天皇を頂点とした日本人、真ん中に朝鮮人・台湾人、その下に南方の『原住民』がいる図があります。欧米列強の植民地支配からアジアを解放する、その中核民族であると強調しています」と。これぞ八紘一宇です。

 さて、こうして侵略戦争に狩り出された朝鮮人(や台湾人)軍人・軍属は「サンフランシスコ講和条約」(1952年4月28日)によって、日本国籍を失うこととなりました。一般に「条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした1952年(昭和27年)4月19日法務府民事局長通達・民事甲第438号『平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について』により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された」(ウィキペディア)

 これで「いいのだろうか」、かつての日本臣民はまさしく植民者であったが、敗戦から80年、日本人はいまも植民者意識を払拭できていないのではないか、そんな思いを払拭できないでいます。8月15日に向けて、こうした疑問に応答する発信をみることができたらいいのですが。 (晴)案内へ戻る


  色鉛筆・・・自分の気持ちを言葉で伝えられない若者達が闇バイトに

 『暴れる子ども 小学生の暴力行為7万件』(朝日新聞4/7)のタイトルに驚く。暴力行為は多感な時期の中高生だと思っていたが、2023年度に小学校で確認された児童の暴力行為が約7万件に上ったと文部科学省が発表。10年前の約6倍に増えたという。

 記事ではまず公立小の校長が「10年ほど前から暴力行為を見聞きすることが増え、4年生の男児が友人に腹を立てて教室の窓ガラスを、別の児童がガラス戸を割った。他校でも児童がカッターを振り回した話を耳にする。気持ちを言葉で伝えられない傾向があるのでは」と話す。また、学童保育の施設長は「気持ちを言葉にできる子とできない子の差が大きく、言葉にできないイライラが暴力になるのではと」と話し、学童で働く女性も乱暴な傾向のあった児童が母親のことを語り始め「気持ちを聞いてほしかったんだと思う。暴力の原因の一つに大人側のコミュニケーション不足があるのでは」と話している。自分の気持ちを言葉にできない子が増えていることに驚いた。長年保育士で働く私も年々子ども達の言葉が少なさを感じ、友だちとトラブルになった時「どうしたの?」と聞いても何も言わず、黙っている子ども達が多くなり「○○したかったの?」と子どもの気持ちを汲み取って言葉にする事が増えてきたように思う。

 そして次の日の新聞には 関西外国語大学の新井肇教授の見解が掲載されていた。『衝動のコントロールが苦手な子が増えている。少子化できょうだいや地域のいる子どもが減り子ども同士で遊ぶ姿が少なく衝動の折り合いの付け方を身につけることが難しくなっている。小学校では集団の活動が強いられる中で折り合いがつかず衝動的に暴力を振るってしまう可能性がある』『自分の感情を言葉でつかむ力が弱くなっている。スマホで「あ」と打てば「ありがとう」と出る。内面と向き合って感情を表す言語を探す作業が簡単に済んでしまう』『暴力行為の増加は「子どもの心の危機の深刻化の表れ」と言える。子どもが自分の気持ちを言葉で表出できるように大人がしっかり聞く。親や教員のゆとりが欠かせません』と述べている。まさに暴力行為は今の息苦しい社会の様々な環境から起こっていることがわかる。

 現在小学校ではタブレット端末を一人一台ずつ持って画面に向かって授業を受けている。子ども達は小さい頃からスマホ、テレビゲーム、インターネット等に触れているからタブレット端末もお手の物だろうが、その弊害として語彙力が育たなく自分の気持ちを言葉にできない子が増えているのではないだろうか。ならば子ども達とじっくり関わって話を聞いてあげ、いろいろな会話をしてコミュニケーションをとればよいのだが、親は仕事に追われ、教員も多忙でゆとりがなく、子ども達とゆっくり関われる時間がないのだ。子どもも大人もゆとりのある社会体制にしなければ子ども達は救われない。

 そして4月16日NHKの「クローズアップ現代」をたまたま見ていると、自分の気持ちを言葉で伝えられない若者達が闇バイトの犯罪に引きずり込まれているというのだ。小学生と同じことが闇バイトの犯罪につながっていたとは驚いた。まず、闇バイトで検挙された少年刑務所の受刑者には共通点があるという。『前は暴力や反抗的態度で自分の意思表示があったが、最近は感情を出さない怒りもしない、どう(感情)を出したらいいのかわからないようだ』と刑務官は話す。そして収監されている闇バイトの実行犯の若者は『複雑な家庭の環境で育ち、自分の感情を表に表すことができないまま生活してきた』『小さい頃から自分の感情を押し殺してうわべだけの会話で喜怒哀楽とか考えたこともなく、丸まる全部「ヤバい」としか出していない』『親の意のままに親の求めるものに応えなくてはと思い親に操られていた』と。喜怒哀楽の感情がないとは切なくなる訴えだ。

 さらにもっと驚いたのは 自分の気持ちを言葉で伝えられない若者の弱みにつけ込むマニュアルがあったというのだ。闇バイトのリクルーターは『闇バイトで重要なのは受け子出し子との「信頼関係」。傾聴して悩みや弱みをとことん聞き出す。こちらの話は一切しない。「さみしかったんだね、つらかったんだね」と相手がことばにしなかった感情を言語化して安心させる』と話す。すると犯罪に巻き込まれた若者は『相談しやすかった。寄り添って「つらかったね、助けてあげる」と優しい言葉を投げかけてくれた。自分が相談して寄り添ってくれるのが初めてだったので信じちゃった』と。なんということだろう。闇バイトは貧困からくるものだと思っていたが、助けを求めていた若者達だったのだ。小さい頃から自分に寄り添って話を聞いてくれる大人がいたら暴力行為や犯罪は起きなかったかもしれない。ゆとりのある社会体制になれば不安がなくなり、みんなが優しくなると犯罪は起きなくなるだろう。(美)

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