ワーカーズ669号 (2025/8/1)
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始まった政治の地殻変動――矛先は企業利益至上体制へ――
参院選で、自公の与党が過半数割れに追いやられた。衆院に続いて、参院でも主導権を失ったわけだ。現役世代は、変化を求めている。政界流動化は、まずは歓迎だ。
今回の参院選では、上のグラフが、ほぼすべてを物語っている。20代から50代の現役世代有権者は、以前は改革派と見られていたアベノミクスの安倍自民党や維新の会に流れていた。それが昨年の衆院選、都議選、今回の参院選で、ものの見事に国民民主党や参政党に流れたのが見て取れる。現役世代の有権者の間で高まる生活苦や既成政治への不満の反映だろう。
とりわけ参政党は、主権は国家にあり、日本人ファーストという国家主義、排外主義を公然と掲げていた。〝姥捨て伝説〟を想起させる終末期患者の切り捨て、高齢の女性への貶め、外国人を標的に据えた。要するに、世代間対立や〝福祉排外主義〟を煽り、また企業や国家にとって利益を生まない周辺者、弱者へ矛先を向ける。こうした傾向は、西欧各国や米国の〝自国ファースト〟という、反エリートのポピュリズムの伝播であり、西欧基準でいえば、〝極右〟の台頭だ。
参政党や国民民主党などが、いくら日本人ファーストだ、現役世代を優先する、といっても、それらはいずれも二次配分=再配分の土俵上での問題に過ぎない。一次配分としての賃金や非正規雇用などの改善には、手つかずだ。別稿でも言及した木下武男氏もいうように、「労働者の働き方を変えられるのは、政治家でも、官僚でも、裁判官でも警察でもない。労働組合なのだ。」旧日経連の桜田武が言い放った〝労使関係の安定帯〟という〝階級支配の要諦〟を思い起こしたい。
その雇用と賃金。企業の内部留保や株主配当が膨らみ、富裕層への金融所得は優遇され続けている。大企業ほど労働分配率が下がっている現実。闘うべき相手を、外国人や弱者に向わせているだけの参政党など新興勢力が、財界や大企業と対峙できるはずもない。
現役世代は、救いを求めて浮遊しているかのようだ。昨年の都知事選で第二位に入り、飛ぶ鳥落とす勢いだった石丸新党はあっさりスルーされ、都議選も参院選も議席ゼロに終わった。
若者世代、現役世代の怒りを本来の相手に向かわせるべく、私たちの闘いも待ったなしだ。(廣)
参政党はカルト政党
今回の参議院選挙で躍進した参政党については、当然のことながら英BBCは”極右”と表現し、ロイターも ”極右の過激派”と分類し紹介した。仏ルモンド紙も「若い極右政党がポピュリズムを扇動し、外国人嫌悪を打ち出して歴史的な得票を実現した」と書き、参政党を極右政党と位置づけたのである。
このように海外マスコミは、参政党の「日本人ファースト」の標語に着目し、その外国人排斥と差別の政策に対して、また反ワクチンの行政施策を公然と押し出した姿勢に対して警戒を示し、日本の政治状況が極端に右翼方向に傾いたとの認識を報道した。
彼ら欧米の外国人記者から見ても、日本での参政党の躍進は、各国で猖獗を極めている極右政党と同じ体質と性格の政党が日本に出現したと確認できる危険な事態であり、世界的にも極右の台頭としか呼びようのない、日本のネガティブな現実認識である。
参政党躍進の理由とは
参政党はなぜこんなに躍進したのかの理由は、実に単純である。神谷宗幣が自ら説明しているとおり、マスコミが大きく取り上げて脚光を浴びるように画策したからである。
この点、前身として民社党の背景を持つ国民民主党の躍進は、ともにマスコミがある政治的意図を持って細工している可能性は小さくないという懐疑が沸かざるを得ない。
マスコミは国家社会における第四の権力である。そこには政治的意思や思惑があり、決して政治的には中立公平ではない。当然のことながら参政党と国民民主党を注目株に祭り上げた意図は、石破自民党を過半数割れに追い込むためであり、アメリカCIAの差配だろうと裏読みする論者は決して少なくはない。すなわち政治とは共同謀議の集積であり、その発現だからである。私たちは鋭敏な感覚を持っていなければならないのである。
「日本人ファースト」と「日本ファースト」の違いとは
ところで不思議なことがある。たった数年前に大々的にポスターが張られていた幸福実現党は一体どこへ消えたのか。一時期その党から立候補していた広報部長の及川幸久は、解党の理由を述べずに今回参政政党支持の応援演説を全国を回っている。何かがおかしい。
選挙終盤における参政党が注目を浴びる中での特番で司会の堀潤は、神谷宗幣に最後の質問として、「『日本人ファースト』と『日本ファースト』、この違いに注目が集まりましたが、なぜ『日本人ファースト』にしたのですか?」と尋ねた。
参政党代表の神谷宗幣は「はい。これは党員の皆さんへのアンケートで、1位、2位であがった言葉で、『日本ファースト』よりも『日本人ファースト』の方が支持が高かったからです。我々としては、『グローバリズムに対抗し、国民の生活を豊かにしたい』というのが『日本人ファースト』の意味であり、『日本ファースト』との違いはあまり意識していません」と答えた。確かに党員の意識では「日本人ファースト」の方が多数派だ。
本当に同じのなのだろうか。私には政治思想的には大きな違いがあるものと認識する。
「アメリカファースト」とは何か
「アメリカ・ファースト」とは偉大な政治思想である。それは合衆国政府に対立する反中央の独立自営農民のポピュリズムに立脚する政治思想だ。系譜としては、ウイリアム・ジェニングズ・ブライアン国務長官から、ヒューイ・ロング・ルイジアナ州知事、チャールズ・リンドバーグ、ロバート・タフト上院議員、パット・ブキャナンら、「アメリカ国内を優先せよ。外国のことになるべく関わらない」の偉大な政治伝統である。だから「アメリカ・ファースト」はそもそも「アメリカン・ファースト」ではない。トランプは、ポピュリズムの本当の意味を捻じ曲げわざと曲解するように仕向け、日本では「アメリカ第一主義」と無内容になる。決して単純なナショナリズムや国粋主義の意味ではないのである。
ドイツでもスローガンは「我が国ファースト」であり、決して「ドイツ人ファースト」ではない。参政党が「日本人ファースト」と言い、「日本ファースト」と言わないのは、そこに「反日日本人」を意識し、その差別化のために「日本人ファースト」を考えているからである。参政党の思想とは、安倍元総理が自分に反対する人々を「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と切り捨てた思想とまさに一体で、すなわちカルトなのである。
参政党の象徴はさや
東京選挙区で当選したさやは、参政政党憲法案に反し、芸名で立候補して当選後本名を初めて明らかにした。自分たちが主張してきた「候補者は戸籍名で」との規範を自ら踏みにじったことは、彼らの規範意識・倫理意識がどれほどのものかを問わず語りしている。
さらにさやは最終演説で「私をお母さんにしてほしい」と締め括った。まさに田母神ガールから始まり、チャンネル桜、三橋貴明と遍歴し、ついに韓鶴子で上がりである。
さや自身の政治意識も幼稚そのもので、現代世界の国連政治や核拡散防止条約下で日本が核を持てないことすら知らないようである。これは核が安上がり以前の問題である。
参政党は「日本ファースト」ならぬ「日本人ファースト」を主張することで恥の上塗りを重ねつつ、まさに危険そのもののカルト政党の実体を示したのである。(直木)
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参政党のウソ街宣@宮城県
しかし、宮城県知事の反論も事実の歪曲だ ――土も水もコモンだ!
参政党神谷代表が選挙終盤に宮城県でウソ演説をし、県知事と論争中(?)です。
きっかけは宮城県の「水道の宮城方式」問題です。神谷は「宮城県は大事な水を民営化し、外資に売った」と主張し、宮城県政を糾弾しました。このような不正確な「批判」は、容易に村井知事によって「反撃」されました。知事曰く「所有権を県が保持している、民営化ではなく」「官民連携の事業」だと言う。「施設は県の所有」であり「県による監視もある」。また、「外資も入っているが、51%は純粋な日本企業」と、神谷の主張を一蹴し、勝ち誇って参政党に訂正と謝罪を求めています。
神谷の乱雑で不正確な「批判」は水道水民営化反対運動を取り組んできた地元市民からして迷惑な話です。「批判」がことの本質に及ばず真の課題をあいまいにするからです。
★市民たちが問題にしているのは、その実態です。県と企業との長期契約により、私たちの飲む水が、まさに「民営」=企業によって管理され運営されるコンセッション方式(民間企業が水事業の経営、検査など「運営権」を購入)となるからです。だから「事実上の民営化」と言われるのです。
県の説明にもかかわらず、施設の更新などハードの一番資金や投資が必要な部分を税金で賄い、一番おいしい所を企業が利益をかすめ取るという構図は隠しようもないのです。
水道運営会社「みずむすびマネジメントみやぎ」の現時点での最大株主は国内企業(メタウオーター)で、議決権51%を保有。しかし、実際に水道の運営管理を実行する「下請け」の「みずむすびサービスみやぎ」はフランスの多国籍水企業であるヴェオリア・ジェネッツが株式の51%を持っていることが明らかとなって県民の不安は高まっています。
問題なのは国内資本所有にしても外資所有にしても、企業は売買できるもので、より悪徳な儲け主義企業に手渡されてしまう可能性が否定できないのです。しかもすでに宮城県の下に無意味と思われる二重の企業が存在し、多くの株主(ほとんどが企業)が関与し、したがって莫大な配当(市民の水道代金から生まれる)を要求されるので水道料金の値上げ、水質の低下などが懸念されるのです。
★水道料金も水質も「企業の損益勘定」の圧力により決められる可能性が高まります。市民は村井県政にたいして「宮城方式は危険だ」「命の水を守れ!」と闘いを続けてきたのです。
参政党はこの問題に突然「参入」しましたが、事実を理解しておらず、問題を矮小化しています。参政党の主張の背景には「(日本企業はよいが)外資は危険だからダメ」と言う基準があるのでしょう。参政党は、「中国人による土地の買い占め」「水源の買い占め」を規制するように主張してきました。もちろんそれは違います。
つまり、元々の県の官僚的役人的支配による「水道運営」に欠陥があったのですが、だからといって企業(内外資本に関わらず)による「事実上の水支配」を許してはいけません。水は県と市民参加の管理による「コモン」としての所有・管理こそが期待されているのです。参政党の「水」「土」に対する危機意識は彼ら固有の排外主義の一環とみられ何ら問題解決の本質に至るものではありません。
★欧州では、注目すべき先行事例があります。パリ市の水道事業は、1985年からヴェオリアとスエズという大手民間企業に委託されていましたが、2009年に再公営化され、「オー・ド・パリEau de Paris」という市営の公社が誕生しました。これは旧態依然の役所機関に回帰したのではありません。再公営化とは市民団体が積極的に参加する制度です。オー・ド・パリの理事会では、水の料金、品質、供給状況などを市民向けにわかりやすく報告し、環境団体や消費者団体の代表が参加し、意思決定に関与できます。このようにパリでは、「水はコモンズ(共有財)」という理念のもと、民間企業からの脱却だけでなく、市民参加を水ガバナンスの中心に据える姿勢が明確です。
バルセロナでは、水道事業は半官半民の形態(アグバ=Agbarという企業と自治体の合弁)で運営されており、民営化批判が強く、市民やNGOが主導する再公営化運動が続いています。(堀川)
参政党の運動とナチスの「血と土」の酷似性
参議院選挙において参政党が「大躍進」を遂げました。彼らは「創憲」として、天皇主権・国家主権から始まる新しい自分たちの憲法を掲げています。そこには、あって当たり前の(かなり形骸化しているとはいえ)「国民主権」の明文がどこにもなく、戦前の帝国憲法に類似しているとんでもないものです。その参政党は、ここに至るまで、反ワクチン、有機農業、オーガニック食品、エコロジーなどで、無党派層を抱き込んできたのです。
そして、現時点では減税や社会保障費負担削減と共に、外国人患者の医療費未収金や自治体による税金滞納率などを大げさに取り上げ「反外国人」「反移民」をメインに掲げて、自民党の保守反動派を吸い寄せています。「奪われる日本の国土と富を護り抜く」などとますます排外的、極右的本性を露わにしています。
■彼らの「自然主義」は排外主義と隣り合わせ
参政党の躍進はかつてナチズムが、「環境保護」を名目に、全体主義的な政策や人権抑圧を正当化する思想として拡大し、大侵略戦争に突入したことを思い出させます。
ナチズムの「血と土」(Blut und Boden)思想は、自然保護と民族浄化を結びつける独特の全体主義的イデオロギーです。その核心は、「ドイツ民族の純粋な血統(血)」と「祖国の土地(土)」の神聖な結合を掲げ、環境保護を人種差別と侵略政策の正当化に結合した点にあります。当時のドイツ農村は、疲弊していました。ナチスは、農村生活が市場経済によって脅かされていると主張し、国家による保護を約束することで、比較的多くの農民がナチスのプロパガンダに好意的な反応を示しました。
これに対して参政党の「自然保護」「オーガニック」プロパガンダは、農民と言うよりも、これまではグローバリズムの脅威を感じた都市の中間層を組織化することに大きな役割を果たしたと言えます。しかし、「食料自給率を倍増させるため、一次産業(農業・林業・漁業)の予算を現在の3倍に増やす」と参政党が選挙公約を掲げているように、今後、農民への浸透も目指していると思われます。
こうした「血と土地」の思想が神聖化された結果、ナチスが後に近隣諸国を侵略し、人種的浄化を進める土壌を形成しました。この初期のイデオロギー的な準備が、ユダヤ人弾圧や侵略政策や占領地での植民政策にスムーズに結びついたのです。まさに参政党の歩みつつある道そのものと思われます。
万古の国体、日本人ファーストの参政党が見つめる相手は、外国人(アジア・中東諸国の)でありしかも「犯罪者」「異物」とみなしており、来るべき彼らの「聖戦」がどのようなものになるかを暗示しています。
■「環境保護」の名分で行われた侵略戦争
「自然保護」を唱えながら、「ドイツ人以外は自然の敵」 と規定。かくしてナチスはユダヤ人を「環境破壊者」として迫害する一方、東欧侵攻では現地の生態系を破壊する矛盾を冒していたのです。また、ユダヤ人大量虐殺で有名なナチスですが、意外に思われるでしょうが動物保護法、帝国自然保護法(1935年):有機農業の推進:化学肥料忌避などを推進しました。
ポーランド侵攻後、現住民を強制移住させ、ドイツ人農民を入植(領土の獲得)。「スラブ人は土地を汚す」というレトリックで占領を正当化したのです。「移民が資源を浪費し環境を汚染する」「ユダヤ人は自然への脅威」といったプロパガンダで迫害を推進しました。
『ナチス・ドイツの有機農業』は、藤原辰史氏(京都大学人文科学研究所の准教授)による、ナチス政権下での有機農業政策とその影響を分析した書籍です。この本は、自然保護やエコロジーの思想が、ナチスの人種政策や植民地主義とどのように絡み合ったかを詳細に探る内容となっています。
特に注目されるのは、バイオダイナミック農法(BD農法)などの有機農法が、ナチスの「血と土」思想と結びつき、ドイツ人以外の民族を排除する政策に利用された点です。バイオダイナミック農法が、化学物質に頼らない「健康的」な食料生産を通じて、ドイツ民族の「肉体と精神の健康」を保つための手段として捉えられました。これは、ナチスが推進した優生学(人種改良)的な視点と強く結びついていました。
■参政党Vsナチスの「血と土」運動
参政党の政策は、「環境保護と排外主義の結合」という点でナチスの「血と土」思想との類似性が否定できません。むしろ政治運動として開始された経緯も考慮すれば、まさに「酷似している」と断ぜざるを得ません。特に「自然との共生」を掲げつつ他者を排除する論理構造は、藤原辰史が指摘する「エコファシズム」の典型です。
なるほど、参政党は現時点まで民主的手続きを「重視する」点でナチスとは異なります。しかし、神谷代表による独裁的党運営(沖縄選対部長解任問題その他)や、天皇を頂点とした国家主義、「外国人」に対する過剰な危険視やデマ攻撃は、この政党の近未来における転落を予想させるものです。
歴史が教えるのは、「自然保護」や「国民優先」が「誰を排除するか」という問いを伴うのであれば、大規模で確信犯的な人権侵害へ転化するリスクがあるということです。ナチズムの歴史はこのことを教えています。「日本人ファースト」「自然保護」が差別の隠れ蓑とならないよう監視し、告発してゆきましょう。(7/21 阿部文明)
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「デマは真実の六倍速く伝播する」参政党と闘うために
■もつとファクトチェックを
参政党が、とんでもないデマ政党であることが、マスコミでも正しく報道されるようになりました。とはいえ、まだまだ数が少なく悪い意味で「控えめ」であることは残念です。参政党は、収容先の名古屋入管で持病が悪化したにもかかわらず、放置され死に至った、スリランカ女性のウィシュマさんを国会の場で「詐病ではないか」と言い放ち、維新からも処分を受けた梅村議員を今回入党させ、候補者に採用した疑う余地もないレイシスト団体です。
もちろん参政党だけが「デマ政党」ではありません、もっと酷いのはNHK党です。しかし彼らの本性はすでに明らかになり、遅きに失した感もありますが国民に知られるようになってきました。NHK党の勢いはありません。デマ政治に押し上げられた斉藤兵庫県 知事の支持率は「第三者委員会」の結論もありようやく低落してきています。
いまは「政権入り」を示唆する参政党に批判を集めるべきでしょう。〈別掲載記事参照〉「参政党の運動とナチの「血と土」の酷似性」
■真っ赤なウソや歪曲そして開き直り・・・
★「日本軍が沖縄の人たちを殺したわけではない」(神谷宗幣代表、5月10日の青森県内の街頭演説)⇒誤り
★「沖縄戦に関しては、別に日本軍の人たちが沖縄県民を、それこそ殺害しに行ったんだというふうな表記があるわけです」(神谷氏、7月8日の青森県内の街頭演説)⇒架空の話にすり替え(以上「沖縄タイムス」)。
★「日本にいない外国人からは相続税取れない」⇒誤り 神谷氏が発言、毎日新聞
★沖縄戦「日本軍は県民を守りに来た」「戦ってくれたから本土復帰できた」参政党の神谷代表⇒裏付ける資料なく根拠不明 、沖縄タイムス+プラス
★参政党の候補者は「外国人は生活保護を受給する権利がない」と指摘し、その上で日本人は受給申請しても「門前払い」だとして「外国人ばっかり(受給)というのはおかしい」(毎日)⇒真っ赤なウソ。
神谷代表などからすれば外人や老人、重症患者は迷惑であり「排除される者」のようです。その延長にナチスの様に障がい者やマイノリティーが「異物」「役立たず」として排除される危険性があります。
■「デマは真実の六倍速く伝播する」
「デマは真実よりも速く伝播する」という説は、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)の研究に基づいています。この研究では、2006年から2017年のツイートを分析し、誤情報が真実に比べて約6倍速く1500人に到達することが示されました。しかし、私見によれば問題はこの「時間差」なのです。国民が真実を知るのにかかるこの「時間差」にデマ政治家はすべてをかけて利用しています。彼らは機関銃のようにデマを発信します。ゆえに「真実を早く、もっと早く」・・これがデマ政治の退治法の一つとなります。
デマはしばしば恐怖や怒りを喚起し、感情的なシェアを促進することで高速で伝播します。真実の確認には時間がかかるのに対し、デマは検証なしで拡散します。また、人々は既存の信念に合う情報を無批判に受け入れがちです(やっぱりそうだったのか、だから、貧乏になったのだ、とか)。デマは根拠のない無用な対立を煽り、社会の分断を深め真の社会問題の所在に蓋をします。
情報の検証スキルの普及:ファクトチェック体制:プラットフォームの責任:情報発信者の透明性:政治的主体の情報源開示義務化。アクセス数だけが自己目的化しそれによる金儲けの規制も不可欠です。
■資本の下僕、参政党と人種主義
参政党の罪は排外主義にあるだけではありません。
参政党は、「外国人労働者の受け入れの実態は、低賃金労働力の流入であり、国内労働者の賃金を押し下げる懸念も大きいと考えます」(移住連~政党アンケート)。として、意図的にまるで外国労働者の流入が日本の低賃金を作り出しているかの言説を展開し、深く思考しない大衆に排外主義を植え付けてゆくのです。
こうして彼らは、客観的に存在する「上下の闘争」をあいまいにし、あるいは逸らせることにより、労働者市民の資本の勢力との闘いを混乱させ妨害するのです。どの政党も問題にする、日本における労働者の所得低迷⇒貧困化傾向の原因は、直接には小泉竹中構造改革(非正規労働者の大量発生)や低金利・円安政策による輸出企業中心政策を長年取ってきたことにあります。それは実のところ日本労働者の労働力(労賃)の切り下げであり、ダンピングなのです。かくして低賃金は意図的に政府与党により造り出されてきたのです。一方では、輸出大企業を中心に、労働者の低賃金をテコにして獲得してきた「利益」は莫大な内部留保として積みあがっています。それは、当然、労働者に還元されるべきものです。しかしそれを「取り戻せ」と企業批判もせず、参政党は貧困の原因を「外国人」にそらしています。全くの資本の下僕政党なのです。
「日本人が大切」と言い放つ参政党は、自公政府が採用してきた国民窮乏化悪政についてたいして批判していません。口を閉じます。ここにこそ彼らの意図――貧困の原因を隠し排外主義を煽り、政権入れを目指す――が丸見えなのです。(AB)
ウクライナ戦争を社会革命に転化する道 決起する市民を支持しよう!
■苦悩するウクライナ労働者
ヴィタリー・ドゥディンは、ウクライナの左翼政党「社会運動」の創立者であり代表者でもあります。
「ウクライナ戦争の終結を阻む2つの主な問題」と題されたドゥディンの記事(「ウクライナ連帯キャンペーン」)は、戦争を終結に向かわせる上での主要な障害について分析しています。紹介を兼ねながら私見を付け加えてみましょう。戦下の労働組合や党組織にあって、かれはリアリストとして、現実を見ています。その中で特に挙げられているのは次の2点です。
①西側の一部の進歩派や左派の勢力が軍事的支援を拒否していることが、ウクライナの戦争努力を妨げていると指摘されています。この勢力は、侵略を受けている国に対する支援を放棄し、武器供給に反対する立場を取っています。これが、ウクライナでの一般市民や労働者のさらなる苦境を助長する要因とされています。
②ウクライナの支配層が市場志向の自由主義的経済政策に依存していることも問題とされています。戦時下にもかかわらず、雇用創出や資源動員への積極的な国家介入が欠如しており、庶民が重い負担を強いられている現状が批判されています。この背景には、富裕層への課税回避や国営化に対する抵抗など、従来の新自由主義的な方針が根強く影響しているとのことです。
そしてドゥディンは「ウクライナ政府高官と、戦争努力を弱体化させている新自由主義のコンセンサスを終わらせることができない彼らを批判しなければならない」と。しかし、ウクライナ労働者・兵士たちは、「批判」以上のことを成し遂げなければならないことを私見として書いてみます。
■戦争とは「国と国の戦い」ではない
ウクライナの戦いを困難にしている国内要因、すなわちそれがまさに腐敗堕落した無能なウクライナ政府と官僚と軍部です。とりわけ軍隊の深刻な堕落は兵士の戦意を奪います。彼らがウクライナ兵士・労働者の犠牲的闘いにのしかかっているのです。普通の人は、このように聞けばあまりに意外なことに意味不明だと感じるでしょう。
しかしそうではないのです。ウクライナ労働者農民の勢力によるロシアとの戦いは、自国政府との徹底した戦いなしには、そしてそれに勝利することなしには完遂できないのです。ドゥディンはそのことを言っているのです(もっと明確に言うべきですが)。
ロシア軍とのし烈な戦いの中で、労働者(労働組合として取り組むケースもある)や農民兵士は、犠牲的に戦ってきたことは疑いもないことです。しかし、政府機関ばかりではなく財閥らは戦争を利用して私腹を肥やすことに熱心であり、新興ブルジョアたちもそのあとを追うばかりです。あまつさえ、労働者保護法の換骨奪胎を目指す法制改悪を目指しています。ゆえに、彼らの勢力を、戦争の主導から排除することが最低限必要です。
そのためには、端的には民衆権力=兵士・労働者・農民・労働組合による、権力が必要です。この力で、腐敗勢力を剔抉(てっけつ)し、私有財産を没収し国有化し人民化し、彼らの「富」(ソ連崩壊過程に奪い取ったものだ!)を、ロシアの侵略戦争に抵抗し、人々を開放するために使うべきなのです。
ロシアにしてもウクライナにしても戦争は国内の階級矛盾を抑え込む反面その対立を地中深く潜行させるものです。両国の先進的意識的活動家は、その非和解的な矛盾を捉えて社会の転換へと(そして戦争の終結へと)導く戦略的戦いが必要です
■戦争を社会革命に転化するには「権力」の問題が問われる
ウクライナ内部での一定の左翼組織の兵士・労働者大衆への浸透は、対ロシア戦争を支えるばかりではなく、ウクライナの官僚的・財閥体制を根本的に転換させる可能性の余地を残したと言えるのです。
彼らに提起された歴史的な任務は、ロシアの野蛮なプーチン体制の侵略戦争に抗う事を通じて、同時にその刃をもってウクライナ国内のブルジョア勢力を打倒すことです。
勤労する人民にとっては、その生命の再生産と生活の基盤としての土地や幾多の生産手段の所有や占有が不可欠です。それを奪うロシアの帝国軍隊に抵抗し反撃するのは正当な闘いです。それらはウクライナ・オルガルヒや資本家との戦いと同義であり、歴史的には被抑圧階級による正当な反撃の一部なのです。
ウクライナの内部は、オルガルヒだけではなく欧州資本家と結びついた新興資本家階級が議会などを活用して、労働者の権利、労働組合の存立を弾圧しているのです。これでどうして「民族自決」などと言う――例えば第四インターその他――ことができるのでしようか。ウクライナでは階級的闘いを「棚上げ」することは出来ず、したがって、ウクライナ政権を批判するばかりでなく、政権=権力奪取の問題を忘れることは出来ないのです。
■ウクライナは決起する!
2025年7月22日、ゼレンスキー大統領が汚職対策機関の独立性を大統領任命の検事総長の下に置く法案に署名。これに対し、キエフ、リヴィウ、オデッサ、ドニプロ等で数千人規模の抗議デモが実施されました今回のウクライナでの大規模デモは、表向きは「汚職対策機関への政府介入」に対する抗議ですが、実際にはより広範な不満や不信が噴き出した決起です。しかも、戦争当初のウクライナ人ではありません。いまでは、大国ロシアと対峙してきた自信も備えた、社会の新たな統治を模索する団結しつつある大衆が登場してきた点に注目しましょう。(阿部文明)
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ウクライナの大衆決起に注目を!
「大衆が組織化すれば、蓄積された革命的なエネルギーが国を一新する」
「社会運動」の機関誌にようやくウクライナの大衆決起に関する記事「キエフで抗議活動 反腐敗のスローガンに左派の主張が加わる」が出ました。
世界中の多くの人は西側メディアと同じように今回の大衆決起について「ウクライナの危機」「対ロシア戦争を弱体化する」と懸念していることでしょう。
しかし、それは一面の事実としてももう一つの側面を見逃しています。すでに、「ワーカーズ」「ワーカーズブログ」などで書き綴ってきたように、ウクライナの社会分裂と弱体化の根底には腐敗した官僚国家と財閥政治、そして戦時下でも労働者保護法や労働組合法の攻撃の手を緩めない新興資本家たちの存在があるのです。だからウクライナの左派党である「社会運動」は、財閥から基幹産業や資産を取り上げ戦争のために(国民がその犠牲を払っているのだから)彼らの富を動員すべきだと主張してきました。(別稿参照「ウクライナ戦争を社会革命に転化する道~決起する市民を支持しよう!」)
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2025年7月24日「社会運動」「キエフで抗議活動 反腐敗のスローガンに左派の主張が加わる」と言う短い記事を以下に貼り付けます。
・・・・・・・・・・
(貼り付け開始)⇒7月23日、キエフをはじめとする各都市で、法案第12414号(反腐敗機関の力を制限する法律)の可決をきっかけとした、腐敗と闘う意思のない当局に対する抗議行動が行われました。戦争中としては前例のない、1万人規模のデモがイヴァン・フランコ広場で行われ、そのデモには「社会運動」の団体も参加しました。
「永遠の腐敗者」というスローガンで、私たちは、オリガルヒ体制は腐敗に運命づけられており、富が少数の手に集中すると、その乱用につながることを強調しました。実際、大衆の不満のきっかけとなったのは、大統領の権力構造に有利になるように、NABUとSAP(腐敗取り締まり機関)の独立性が損なわれるという懸念でした。しかし、その背後には、権力が社会正義の要求に応えられないことに対する広範な怒りが存在します。国民が命と健康を犠牲にして国の未来を築いている間、エリート層は違法に富を蓄積し、責任を逃れる方法を探しています。これは、生存するために権利を断固として主張しなければならない野蛮な資本主義の現実へと私たちを逆戻りさせます。
今日、資本家とその売国奴たちが実際の影響力を持っているかもしれませんが、大衆が組織化すれば、蓄積された革命的なエネルギーが国を一新するでしょう。ビジネスの快適さではなく、労働者階級の単純な英雄たちの幸福が、政治の内容を決定するでしょう!
◆抗議行動では、次のようなスローガンが叫ばれました。
○ オリガルヒを塹壕へ。その額に弾丸を!
○ 寄生虫のような議員たちは、国民に生きることを許さない!
○ あなたたちは私たちに腐敗を与え、私たちはあなたたちに革命を与える!
あなたの街での抗議行動に参加し、自由で連帯し、社会的なウクライナのための闘争で団結しましょう!(⇒貼り付け終わり)。(B)
エプスタイン文書問題 亀裂深めたMAGA 陰謀論を広めたトランプの自業自得
関税問題が前面に出ている現在、トランプが国内で窮地に陥っていることは日本ではあまり報道されません。米国の国内政治においては、すでに当サイトでも取り上げてきたBBB(大きく美しい財政・減税法案)が通過し、強権的軍事国家への進化と低所得者の切り捨てが明確化して、トランプの支持率は下がっています。そして、今に至って「岩盤支持層」MAGAがトランプに批判の目を向けつつあるのです。
エプスタイン文書問題(Epstein documents issue)は、単なる一人の富豪による性的人身売買スキャンダルを超えて、アメリカの支配層全体、特にエリート層の腐敗や闇の構造、司法機関や情報機関の関与の可能性などをめぐる「国家的不信」の象徴として、右派・左派問わず多くの人々の想像力を刺激してきました。まさに陰謀論の震源域なのです。
激怒したトランプはMAGAを「弱者」「愚劣」な連中だと対立が深まっています。
■MAGA(マガ)とは何か、どんな人々か
MAGA(マガ)は、"Make America Great Again"(アメリカを再び偉大に)の頭文字をとった略語で、アメリカ合衆国の政治スローガンです。もともとは1980年の大統領選挙でロナルド・レーガンが使用したものが最初ですが、近年では特にドナルド・トランプが2016年、2020年、そして2024年の大統領選挙で用いたことで広く知られるようになりました。
このスローガンは、アメリカが過去に持っていた栄光や強さを取り戻すべきだという主張を表現しています。MAGAを支持する人々(2025年5月時点で共和党支持者の53%)は多様ですが、共通する思いや考え方として以下のような点が挙げられます。
グローバル化や自由貿易によって職を失ったり、経済的に取り残されたと感じている人々が少なくありません。彼らは、MAGAの政策が自分たちの生活を向上させてくれると信じています。経済的ナショナリズム指向と強硬な移民政策を支持します。
かれらはアメリカが過去の栄光を失い、弱体化しているという危機感を抱いています。この状態を変えるためには、既存の政治体制を打破する必要があると考えています。腐れ果てた既存の政治家やエリートとは異なる、既成概念にとらわれない強いリーダーであるトランプが、アメリカを立て直してくれるという幻想を抱いています。
MAGAの人たちは主流メディアや政治エリートから見過ごされてきたと感じており、トランプこそが自分たちの意見を代弁してくれる存在だと考えています。既存のエリート層やメディアへの敵愾心が強く伝統的価値観を重視する人々と言えます。
■陰謀論とエプスタイン文書
MAGA運動のコアには、「ディープ・ステート(影の政府)」への敵愾心があります。エプスタインが長年にわたり有力政治家、学者、ロイヤルファミリー、金融界の要人たちと関係を築き、未成年の女性を紹介し、同時にそれらの接待を記録していた(と噂される)ことは、「支配層が裏でつながっている」ことを裏付ける証拠として彼らに受け止められています。
その上で、エプスタインが起訴後に監視下の独房で「自殺」したこと、その直前に監視カメラが停止していた、看守が「寝ていた」などの不可解な状況が多数あり、「顧客リスト」や関連する文書がいまだに公開されないこと等々、「闇の権力にまたももみ消された」と「ディープステイト」論に火に油状態になっていました。
かくして「誰かが真実を隠している」という強い疑念をこの問題は強化しました。MAGAの陰謀論的傾向を持つ一部層では、「ヒラリー・クリントンやビル・クリントンが関与していた」「FBIやCIAが揉み消した」といったストーリーが拡散されました。ゆえに、トランプ政権下ではFBIやCIAが財政的・人員削減攻撃を受けたのです。トランプとその支持者は、FBIや司法省(DOJ)を「左翼に乗っ取られた組織」「MAGAつぶしの道具」として敵視しています。たとえば、トランプの自宅マー・ア・ラゴに対する家宅捜索(機密文書自宅持ち込み問題)と比べて、エプスタインのような大犯罪者に対する扱いが「甘すぎる」という印象が、司法のダブルスタンダードとして批判されています。
■「トランプよ、お前もか!」失望広がるMAGA
2024年の大統領選挙戦で、トランプ氏はエプスタイン文書の追加公開を公約の一つに掲げ、顧客リストの徹底的な公開を約束しました。これは、彼が「腐敗したエリートを一網打尽にする唯一の戦士」であるというイメージを強化するためでした。しかし、トランプ政権でも司法省が文書公開に関して慎重な姿勢を示し、さらにエプスタイン氏の死因を「自殺」としてさっさと追認するような動きがあったことで、一部のMAGA支持層には「トランプでさえ、この巨大な闇には手出しできないのか」「アメリカ大統領は、エプスタインの犯罪の詳細を隠蔽」した、「エプスタインが関与する裕福なエリート、その中にはトランプも含まれる」という疑惑や失望が生じました。
亀裂をさらに深めさせたのが、当初トランプの側近中の側近であった人物です。イーロン・マスクはX(旧Twitter)上で「なぜエプスタインの顧客リストはまだ公開されていないのか」「トランプ氏の名前が『エプスタイン・ファイル』にある」からだと投稿しました(2025年6月5日)。マスクの「政府効率化省DOGE」が専門家を率いて多くの文書解析の後に語ったので世界に注目を集めました(しかし、マスクチームが直接にエプスタイン文書の捜査を行った記録はありません)。
もしジェフリー・エプスタインの顧客リストにドナルド・トランプの名前が公式に載っていたとすれば、その含意はMAGA(Make America Great Again)大衆にとって、「信仰的なレベルでのアイデンティティの大崩壊」(米国ジャーナリスト)を引き起こす可能性があります。つまり、陰謀論に乗ってMAGAを束ねて大統領になったトランプにとっては自業自得と言うべきです。米司法省は7月18日、ジェフリー・エプスタイン元被告を巡り非公開で行われた大陪審証言を公開するよう裁判所に請求しました。公開は未定です。(阿部文明)
本の紹介 『賃金とは何か』 濱口桂一郎 朝日新書 950円
先の参院選では 自公の与党が大敗し、〝手取りを増やす〟をスローガンに掲げた国民民主党や〝日本人ファースト〟を掲げた参政党の躍進が注目された。
争点になったのは、近年の物価上昇への対処であり、消費減税や給付金の是非が問われた選挙でもあった。背景には、日本の労働者の賃金が上がっていない結果としての生活苦であり、不満がある。なぜ日本で30年も賃金が上がらなかったのか、労使の間での一次配分としての賃金を引き上げるには何が必要か、そうした議論はスルーされ、二次配分(=再配分)を巡る選挙での攻防でもあった。
本書は、その一次配分としての賃金とはどう決まるのか、なぜ上がらないのか、そこからいかに脱却するか、の解説書だ。
◆職務給から職能給への転換
本書の構成は、第Ⅰ部は「賃金の決め方」として、戦前期や戦中・戦後期、それに高度成長期や安定成長期、さらには低成長期における賃金体系の変遷を跡づけていくという展開になっている。
第Ⅱ部では「賃金の上げ方」として、賃金水準をめぐる労使による攻防の推移を扱っている。
第Ⅲ部では「賃金の支え方」として、最低賃金制度の推移を概括する。
そして終章では「なぜ日本の賃金は上がらないのか」として、この30年間は、ベア・ゼロでも定期昇給として毎年2%程度賃金が引き上げられてきたので、個々の労働者は、それで我慢させられてきた、と振り返る。
本書は、新書版という解説本でありながら、日経連や経団連の、あるいは労働側の賃金政策を、網羅的、時系列的に詳しく跡づけている。雇用や処遇を中心に研究してきた著者の着眼点は、賃上げや春闘の闘争史に偏りがちな他の類書とは違い、富の一次配分という現代的な課題に即した著作になっている。
まずは経営者側だ。
日経連は、戦後の混乱期に拡がった生活給に対し、生活給は悪平等、職務給か職能給とすべきとして、労働の対価としての賃金を提唱。その後、職務給から能力主義賃金へと転換していった。その変遷を追うと、ざっと以下のようなものだ。
『賃金制度と能率給』(日経連・1949年)
『職務給の研究』(日経連・1955年)職務給指向、〝賃金の本質=労働の対価〟
1962年、職務給への急進論
1966年、日経連、能力主義管理研究会を設置
1969年、日経連『能力主義管理』――職務への値付けから職務遂行能力への値付けに転換
ここでの職務遂行能力とは、体力・適正・知識・経験・性格・意欲の要素の集合体としての全人格的なものが『能力』――要するに現在に至る〝属人給〟だ。
◆労働側のスタンス
他方で労働側の賃金論はどんなものだったのか。
総評の「賃金綱領」(1952年)では、経営側の職務職階給に反対し、全物量方式による実質賃金要求(=マーケット・バスケット方式)を主張。
1966年「賃金体系近代化のために『同一労働=同一賃金の実現へ』」では、年功賃金体系は低賃金の体系だとして職務給導入を訴え、企業横断的な職務給を提唱。これには著者から、「労働運動の本質に根ざした正しさ」との評価がある。
だが、実際の推移はどうだったのか。
総評・小島調査部長=「10年も20年も先の賃金体系を考えていない……そういう考え方を労働組合が持つのは、マイナスこそ多かれ、プラスではない。」「資本主義の下で労働者が搾取されない『労働者的な賃金体系』というものはありえない。」!
これには著者は、「まことに大時代的な古めかしいマルクス主義の公式論」だと揶揄している。要するに労働者はどういう賃金体系を目ざすべきなのか、職場討議に下ろすことを拒否したわけだ。要は、そんな議論をすれば、仲間割れが避けられない、という逃げの態度に他ならない」と酷評している。
が、現場では横断賃率を指向する議論もあった。例えば動労からは「乗務員は、年令のいかんにかかわらず、たとえば東京――静岡の運転という同じことをやってい」て「仕事の同一性が明白であるために」「年功序列型賃金が労使共にささえきれなくなっている」と声を上げている(1961年『これからの賃金体系闘争』)。
要するに、この時期は、同一労働=同一賃金など、労働側にふさわしい賃金体系の実現を求める動きと、そこに踏み込むと労働側に仲間割れが拡がる、混乱をもたらす、として、組織を守る立場から構成員の誰もが賛成しやすい〝大幅賃上げ〟をめざす動きが、錯綜していた時代だったわけだ。
◆安定成長期――賃金制度論の無風時代
上記のように、60年代後半に労組が職務給への転換に挫折し、経営側は職務給から職能給へと軸足を変えていく。その転換点となったのが、日経連による『能力主義管理』だ。これは個々人の職務遂行能力に着目し、その人事評価に基づいて賃金を格付けする、要するに〝職務〟にではなく人間の能力を格付けする、といういわゆる〝属人給〟の一種だ。
ただし、能力に格付けするといっても、必ず評価者の主観的判断が入り込む。加えて、長期雇用=終身雇用を前提にすれば、能力評価だけでは生活できない人が出てくる。そこで日経連が導入したのが、〝職能給の年功的運用〟だ。基本は査定給だが、それに年功的要素を加え、評価が低い社員でもそれなりの年齢給を加味して昇給させる、というものだ。
◆低成長期の雇用・賃金制度
この〝職能給の年功的運用〟は、当初は日経連の思惑どおり、うまく機能した。が、その後、成果給、年俸制など取り入れたが、チームワークの毀損など、弊害も出てきた。そのなかで経済成長は低迷、賃金も低迷、日本経済は低成長に陥った。そこで出てきたのが、日経連の『新時代の日本的経営』1995年だった。
これは、終身雇用と年功賃金を抜本的に改革し、〝雇用の三類型〟を提唱したものだ。いわゆる「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」の三類型だ。要するに、中核業務を担うエリート層、専門家グループ、それに非正規が中心の実働部隊へと、三類型化した雇用に転換するというものだ。
筆者は、非正規労働など、すでに一定程度広まっていたとして、これが雇用破壊を招いたというのは言い過ぎ、としている。が、々の企業が取り入れたことを、日経連や経団連のお墨付けを受けて、その後一気に拡がるというのは、よくあったことだ。だから私なども、派遣など非正規が爆発的に増え、今では3分の1以上が非正規雇用を余儀なくされていることに関し、〝天災〟ではなく〝人災〟だとして批判してきた代物なのだ。
本書は、これまで見てきた範囲にとどまってはいない。ベース・アップと定期昇給、それに最低賃金制度なども、豊富な観点からの解説も傾聴すべきものが多々ある。本書の紹介はこの辺で区切り、以下、若干の感想へと移っていきたい。
◆弱い〝分水嶺〟の捉え方
本書は、戦前期・戦後期から現在にまで対象期間を長く設定し、解説も詳しい。で、かえって戦後賃金闘争のターニング・ポイントとなった1960年代後半の歴史的敗北を捉え切れていないように思えてしまう。
それは、職務ごとの賃金格差付けで、労働者内部での平等観・公平観の形成での失敗したこと、総評などが大幅賃上獲得というスローガンで、その失敗を覆い隠してきたこと、だ。
実際、その後の経緯を見ても、石油ショック後の日経連の賃上げガイドラインやコスト・インフレ論に屈服。
以後、賃上げより雇用優先、〝企業あって雇用〟〝生産性基準原理〟などに屈服してきた。その後も、物価上昇程度の賃上げでマンネリ化、労組組織率も低下。89年のバブル経済崩壊と実質賃金の低迷の時代に突入という展開になった。
本書の最終章、ジョブ型雇用、同一労働=同一賃金の実現について、個別具体策の対案では、特定最低賃金(=特定最低賃金(産業別最賃)の強化、公契約条例、派遣労使協定方式を対置している。
が、これでは個別すぎて、グランド・デザインレベルでの抜本的対案にはほど遠い。著者としても現実を知悉しているだけに、包括的な打開策には苦労しているようだ。
私としては、90年代から、同一労働=同一賃の金への転換への道筋について、基本給での職務給、プラス子ども手当と住宅手当での企業からの拠出による賃金からの外部化、を提唱してきた(『自立と生活保証をめざした賃金体系を!』(1996年)など。
要するに、職務給(同一労働=同一賃金)、すなわちジョブ型雇用への転換と生活保証給だ。
ただしライフ・サイクルでの出費増が避けられない教育を含む子育て手当と住宅手当は、別途基金化し、すべての企業からの拠出金で賄う。これは、企業活動に不可欠な新たな労働力の確保について、すべての企業に負担義務を科すことだ。
これらはすでにフランスなど西欧でも部分的に実現していることであって、日本でも実現可能だ。
子ども手当と住宅手当を基本賃金から外部化すれば、基本賃金は、勤続や熟練の格差を最小にできる。熟練のための費用も、社内訓練であれば、その労働能力の形成費用は個人負担ではないので、基準賃金に格差をつける必要もなく、〝仲間割れ〟は少なくなる。
◆なぜ日本の賃金は上がらないのか
最後に、終章として「なぜ日本の賃金は上がらないのか」という問いに対して、著者自身も〝上げなくとも上がるから上げないので上がらない賃金〟と禅問答、あるいは風刺的に記述している。本書の帯にも書かれているように「日本の賃金が上がらないのは〝定期昇給〟があるから!?」。要するに諸外国にはない定期昇給の存在だ。これによって、上がっていないようで、上がっている、ということになるわけだ。
これは〝エスカレーター仮説〟、要するに、エスカレーターに乗っている人数は常に変わらない。が、個々人レベルで見れば、確実に上部に上っている、昇給している、ということを表現したものだ。
わかったようでわからない話だが、日本の賃金がなぜ上がらないのか、という点について、もっとわかりやすい指標がある。かつての日経連、現在の経団連の賃金原則だ。
春闘での賃金交渉に当たっての経団連の立場は、マクロ原則での〝生産性基準原理〟であり(1967年に提唱、1970年に『原理』に格上げ)、個別企業レベルでは、〝支払い能力〟だ。
要するに、〝生産性基準原理〟は、賃上げ率が必ず生産性向上率と企業利益率を下回るという原則、〝支払い能力〟は、企業利益増の範囲内(1990年代から追加)で、というものだ。この原則は、今でも変わっていない。
この賃上げ基準を適用すれば、企業が生産性を上げた範囲内でのみ賃上げを容認する。要するに、賃上げは企業利益率を上回ることはない、企業の利益率の方が必ず高い、という原理で、現実もそうなのだ。
次は〝支払い能力〟論だ。これは中小企業も含めての具体策で、個々の企業レベルでは、黒字でなければ賃上げはしない、できない、ということなのだ。これでは、どこまでいっても、賃上げは企業利益の範囲内、支払い能力の範囲内、ということになる。だから、現実もそうなのだが、企業利益は大幅に増えても、賃金は、せいぜい物価上昇を補填する程度のものにならざるを得ない、ということになる。このことは、最近の労働分配率の低下がまざまざと示している。
◆見習うべきは労働者魂
とはいえ本書は、すでに闘いを忘れるか、会社の意向を汲んで動いている既存の労組指導者などが 足下にも及ばない労働者としての心意気を紹介している。それはEUレベルでの最賃指令に猛反発したスウェーデンやデンマークのなど北欧の労働組合の心意気である。
北欧諸国には、法定最賃法などないという。組織率80%を誇る労働者自身の闘いで賃金を上げ、支えてきた誇りからの態度だという。彼らにとって、国家権力の力を借りなければ賃金を支えられないなどというのは、労働組合として恥ずかしいことなのだ、という。全くもって、その通りなのだ。
本書はそうした労働者の労働者魂や心意気を土台に提唱しているわけで、既存の御用組合幹部に対する、痛切な批判にもなっている。
とはいえ、本書の主題である日本の雇用形態と処遇をめぐる労使の攻防という視点だけでは、労働組合の再興を見通しづらいかもしれない。私としては、ギルド時代も含めた苦難の道をくぐり抜けて結成された経緯も含め、既存の会社組合を本来の〝まっとうな労働組合〟につくり替える取り組みを提唱している、木下武男氏の『労働組合とは何か』(岩波新書)も推奨したい。
木下氏は明言する。
本来の組合は〝個人取引〟でなく〝集合取引〟。一つのジョブでの同一賃金。闘いの手段はストライキ=労働の提供の拒否。現代の企業内組合は企業内従業員組織=会社組合であって、本来の組合ではない。企業内組合は、外部のまっとうな組合運動の侵入を未然に防ぐ橋頭堡の役割を担っている。
とりあえず以上、労働組合のルーツから振り返り、個別企業を超えて労働条件を決定できる、まっとうな労組への展望を示す概説書になっている。是非セットで読んでほしい。(廣)
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賃金をめぐる労使攻防のターニング・ポイント
《本の紹介》で取り上げた、濱口桂一郎氏の『賃金とは何か』(2024年)という新書本は、経営側が主導した企業内での競争的な賃金体系での攻勢に対し、労働側が的確に対処しきれなかった、というスタンスで解説した本だった。その上で、ジョブ型雇用と処遇への転換の必要性を提起し、その具体策としていくつかの方策を提案するものだった。
ここでは、同じテーマを取り扱った著作を紹介したい。かなり以前の本で、手に入りにくいかもしれないが、戦後賃金闘争の転換点にフォーカスしたもので、以下、簡単に紹介したい。
『賃金の社会科学』――日本とイギリス
石田光男著 中央経済社 1990年だ。
日本では〝職能給の年功的運用〟という、世界で類を見ない賃金体系が定着してきた。が、この『賃金の社会科学』では、その主要な要因は、戦後のある特定の時期において、労働側が経営側が提起する賃金体系に屈服し、勝敗の決着がつけられた結果だ、とする。そして、このことが、労働者・労働組合にとってよりふさわしいジョブ型雇用と賃金体系を実現する方針と闘いそのものを放棄した最大の要因だとしている。
その時期とは、昭和40年代中葉、1960年代後半のことだ。この時期は、69年2月に、当時の日経連(現=経団連)が『能力主義管理』という新型労務管理を提唱した時期でもある。それは〝職務遂行能力〟という賃金の格付けに活用する特殊な指標を提唱し、それに基づいて個々の労働者の賃金を決める、というものだった。要するに、個々人の能力を格付けする〝属人給〟だ。
◆日経連の攻勢
本書で石田氏は、その時期での賃金を巡る労使の、というより、労働組合内部の議論とその推移を詳しく跡づけている。前提として、日本の戦後の労働者の間での公平観・平等観の中には、ライフ・サイクルに応じて、年齢や勤続に応じて賃金が上がるという常識、いはば生活を賄いうる〝生活給〟という公平観と、熟練など〝能力〟にもとづく差異を認めるという公平観が同居していた、と見る。
要するに、戦後の雇用が職工一体での長期雇用(=生涯雇用)を前提として出発したことから、ライフ・サイクルに応じた賃金上昇が不可欠だったことの反映からだ。
その後、日経連は、職務給と職能給で変遷があるのだが、やがて職能給を唱導するようになる。
日経連は、さらに先を進む。
69年の日経連『能力主義管理』では、能力主義管理とは「従業員の職務遂行能力を発見し」「労働効率を高め」「少数精鋭主義を追求する人事労務管理施策の総称」であり、その理念は「企業における経済合理性と人間尊重調和という「社会哲学である」とする。さらに労働者は「人生そのものを企業に託し」「自己完成の欲求」「能力の最大限の発揮」に連なるものとされ、これらを〝人間尊〟の理念だとしている。
さすがに石田氏もこれは「企業内労使関係の労使対立は全く想定できない管理様式」と断じ、これを「『活力ある』社会主義の人間類型」と定義する。が実際は、宗教団体内部の人間類型というべきだろう。
◆試練を回避した総評
総評は、60年代後半、労働者内部での仕事と賃金に関する平等観、公平観の獲得に結果として失敗した。
自分の職務が他の職務と格差づけられることへの抵抗感、ジョブという概念と格付けが、人格評価と結びついて評価されることへの忌避感、労働者自身の間で、それらを格付けすることへの抵抗感などが障害となった。
結局、個々人の人格を含めた職務の格付け(職務評価)で合意形成ができず、労働者内部の格差を曖昧にできる〝大幅賃上げ〟という、根拠が明確ではない賃金スローガンに逃げ込むことを余儀なくされた、としている。
まず、55年から75年にいたる期間、全労や同盟は、企業内秩序形成で、経営側に対峙できる質を持っていない。要するに、会社の補完勢力だ。総評は、といえば、一貫して日経連の政策に反対してはいた。
が、65年代中葉以降、年齢別個別賃金を立て、年齢に応じた最低と標準的な生活費の確保にシフトし、同盟と大差なくなった。これは65年代以降の経営側の攻勢に対し、敗北を自己表明したもの。要するに、経営側の差別分断攻撃を、大幅賃上げで組合内部の分断を消し込むというものだった。要するに、「賃金体系の問題に手を触れてはいかん」(総評調査部・小島)という観点からのものだった。
他方で、「前近代的な年功賃金に不平・不満を持つ労働者」に対し、抽象的に「職務給反対、同一労働=同一賃金や格差縮小をとなえているだけでは」ダメ、あるいは労働組合独自に職務評価をしていくべき(全電通・及川)という意見もあった。
労働側としての対抗案としては、職種別熟練度別賃金(横断賃率論)や年齢別ポイント賃金がある。前者は、労働組合側としての職務評価、熟練評価を土台にしたもので、「経営側の秩序と対抗的になりうる質を持っていた。」が、ポイント賃金は生活給を前提とした年功給(メンバーシップ型)の一種にとどまる。
これらの意見に対し、総評の小島は「職種別格差設定は分裂を呼ぶ」、「それは企業横断性を主張しているが、まずは企業内でということとなり、かえって職務給をさそい込む」、と組合側独自の職務評価を否定する。
そうした立場に対し、「……乗務員は55歳に近い人も21歳でも、同じ仕事をやっている。……お前も20年運転手やれば、このぐらい(の収入)になるのだ、といっても説得できない、……それで(経営側に)やられっぱなしになる(P58、動労・吉田)」といった批判も出ていた(『これからの賃金体系闘争』)。このあたりは、濱口氏の『賃金とは何か』(P102)でも引用されている部分だ。
◆独自の公平観・平等観の形成を放棄
要するに、労働側があるべき賃金体系論を持つ方向に進めなかったのは、むしろそれが労働者の団結にとって危険だと認識されていたからだ。労働側として職務評価、要するに職務=ジョブを格付けすること、自分がやっている職務が格付けされ、「あいつのやっている仕事より低く評価された」「こいつと同じ賃金に評価された」等という、身内の上下関係を巡って争いになる(全逓・宮崎)、また、「熟練度を規定する客観的な基準が日本にはない」「むしろ、統一を弱める結果になる」(総評・小島)という評価からだ。
こうした認識は、結局、職場に労働者的な秩序が存在していないことの反映でもある。日本の労働界には「……格差あるいは労働者の賃金は労働者が決めるという考え方が基本的にない。」「だから……議論することでそれを定着させる」ことが大事だ(地銀連・佐藤)との意見も出された。
これに対し総評は、「一度組織に混乱を起こしたら……組織が壊滅されるまで攻撃される危険性がある。……もっと組織を大事にすべき」(総評調査部・小島)。
こうした状況に対し、石田氏は言う。総評運動の主流は、結局、現にある日本の勤労者のありように〝立ちすくんだ〟と評価する。私としても、確かにその通りだと思う。西欧では、ギルド時代も含め数百年にもわたる労使の攻防をくぐり抜けて近代的な労使関係が形成されてきた。が、日本の労使関係は、たかだか明治維新以降の150年程度の歴史しかない。労使関係においても、数百年にわたる労働者の血と涙の結晶ともいうべき闘いという集団的経験を持たない日本では、これだけは譲れないという血肉化された労働観が未形成だったという他はない。
結局、どうなったか。石田氏は〝能力主義〟的秩序への労働組合の同化と、評価する。
要するに、経営側による職能給などの労働者個々人の格付けに対し、労働者が納得しうる職務評価=ジョブ評価での合意形成に失敗したのだ。代わりに、職務評価による仲間割れを回避し、標準世帯の生活をまかなえるだけの年齢別・ポイント賃金を対置することで、組合としての独自の公平観・平等観の形成を放棄したのだ(P62)という。
◆まかり通る経営側の賃金政策
その敗北後の73年には石油ショックがあったが、当時の日経連が主導した賃金抑制策、いわゆる賃金抑制ガイド・ゾーン、ガイド・ラインに沿って、世界でいち早く石油ショックを乗り切り、成長路線に回帰させることができた。
日経連は、その後も能率給、成果給、年俸制など、労働者どうしを競争させる賃金体系を推進し、さらにはパート・アルバイト、派遣労働、フリーランス労働、非正規公務員など、非正規労働を急拡大させ、賃金ばかりでなく雇用合理化も進めてきた。労働組合が主要な目的である、労働者の雇用や賃金という場面で、独自の力を発揮できない状況が続いている。
その結果生じたのが、30年にも続く賃金低迷であり、政府が賃上げを唱道するという官製春闘の時代、それでも賃上げが物価上昇を後追いできないていたらくの現状がある。
労働側の賃金体系に関するスタンスは、本来、労働者側の確固とした賃金理論を土台とし、その実現に向けた賃金体系の確立を目指す必要があった。が、現実はと言えば、労働者内部の意見の相違や対立を解消できず、結果的に、すべての労働者の要求を包み込める〝年齢別ポイント賃金〟〝大幅賃上げ〟という形ばかりのスローガンに逃げ込んだ、ということになる。実際、71年以降は、総評では賃金体系に関する記述は消えてしまった(石田)。
さて、元に戻る。
石田氏は、企業内部の競争主義的な関係を、むしろ、世界において先進的なものだと評価している。(はしがき)
また、第二章の「まとめ」では、理念といての〝能力主義〟は善だ、と断言している。
本書を読んだ当初も、石田氏の観点は、私などとは正反対のものだったが、それが間違いだったことは、今では明らかだ。なぜなら、バブル崩壊以降の〝失われた30年〟に突入。その間、リストラの横行など、無力化された労組との労使関係を土台とするリストラ頼みの輸出主導型経済で、日本経済は、世界の中で取り残され、GDP世界第2位から第4位にまで沈没してきた。
しかし、本書で、1960年代後半での労使の攻防で、労働者側が確固とした足場を獲得できず、経営側の論理と力ずくで抑え込まれた、という事実認識はその通りで、その限りで、労働側の復権のヒントを与えてくれるものになっている。どん底からの闘いの再構築が必要だ。(廣)
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コラムの窓・・・持ちこたえた参院選兵庫選挙区!
今回の参院選は外国人排斥が票になるという、この国が陥っている退廃が全面開花したかの感がありました。そうしたなかで、2馬力知事選で全国的注目を浴びた兵庫はどうだったのか、結果は維新も参政党も、もちろん立花孝志候補も落選しました。
元明石市長の泉房穂候補が開票と同時に当選確実となり、公明と自民がこれに続いて当選しました。次点は維新の新人候補、前回選挙では約65万票でトップ当選だったのに、27・5万票に後退しています。参政党の候補は27・3万票。ちなみに立花候補は15・7万票、比例代表は約68万票で当選者ゼロとなり、NHK党は政党要件を失いました。
無所属の泉候補は約82万票、その得票数は全国でもトップ。きっと、昨年の県知事選で斎藤知事が得た約111万票の何割かも得たのでしょう。当初は立民と国民民主が推薦といわれていましたが、国民民主は別候補を立て22・5万票で敗退しています。その多田ひとみ候補は実は斎藤選挙ボランティアだったと暴露され、国民民主の杜撰な候補選びがここでもあらわになっています。
落ちた維新はどうだったか、19年の参院選でトップ当選した清水貴之参院議員が知事選に無所属で立候補したのですが、約26万票にとどまっています。維新は知事選で斎藤支持に回ってねじれ、維新県議による情報漏洩なども明らかになって3人が会派離脱。こうしたごたごたが、前回22年参院選でも約66万票を得てトップ当選だったのに、この凋落となったのです。
さて、立花候補はどんな闘いを行ったのでしょうか、選挙ポスターから見ることにします。包帯を頭に巻いている(包帯のない別のポスターもある)のは3月14日にナタで襲われたあかし、政治家は命がけという決意の表れなのでしょう。そして、「正義が本物の悪に勝てる国にしたい」とご愛敬。
ポスターの下段に何が書かれているのか、近づいても読みづらい。とにかく、斎藤知事は「利権の塊にメスを入れて改革をしています」とか、「メディアが本物の悪の味方をした場合」、ネットの力(要するに立花の発信)が正義を示す、とかいったことがくどくどと書かれています。戦略らしきものとして、斎藤知事に投ぜられた111万票の何割かでもいただければトップ当選できるのでは、と捕らぬ狸の皮算用。
2枚目のポスターには〝ひとり2馬力〟よろしく、ふたりの立花候補の顔写真を張り付け、殺されかけたとか大書し比例はNHK党へとも書いています。選挙公報では何を書いていたのか、まず「日本のトランプ立花は斎藤知事を応援します」、とこちらも実に面白い。冗談ではなく、赤い帽子のトランプにまねた写真が新聞に掲載されていました。
「マスコミの嘘の報道により、斎藤知事は〝政治生命〟を、立花孝志はナタで襲われ〝命そのもの〟を奪われそうになりました。テレビは核兵器に勝る兵器であり、国民を洗脳する装置です」「立花孝志は国民の知る権利を守るため、正に命がけでテレビや新聞といったオールドメディアと闘っています」「日本国民を守るために、NHK党立花孝志は、不法移民に対して断固とした対応をしていきます」等々。
さらに暴動や略奪などない平和な日本を守る・・・、とありもしないことを外国人はやると犬笛を吹いています。選挙戦では泉候補を追いかけて妨害でもしようとしたらしいのですが、うまくいかなかったようです。むしろ、立花候補に対するカウンターを行った女性によると、立花のあとに参政党が来てどちらの演説も聞くに耐えず、心が折れそうになったということでした。
そして極めつけは12日の神戸市長田区のJR新長田駅前での街頭演説で、「僕に対して反論してくるやつら。あれ妨害じゃないですか」「選挙の自由、妨害してるんでしょ。いらないんですよ、あんな人間」「ああいうやつらはもうね、殺さなきゃいけないんです」と発言しています。
5日の街頭演説では「これからも人種差別します」とも発言。今参院選で立花とともにNHK党は立花とともにNHK党は沈没しつつあるようですが、もっと危ない参政党などが人気を博する現実には暑いさなかのこの夏に背筋が凍る思いです。
そんななか、社民党が120万票超えの比例票を得てラサール石井候補が当選し、政党要件を確保しました。兵庫ではかつて、土井たか子という巨大な存在感ある政治家が人気を博しましたが、連立入りなどで混迷を深めて解体。今は社民と新社会が命脈を保っています。だが、八面六臂の大椿ゆうこさんの国会内での活躍がしばらくは見られない、その残念な思いは私も含め多くの方が共有するものだと思います。 (晴)
読者の声 高まる差別排外主義を危惧する。
今回の参議院選挙では、外国人への差別排外を主張する考えの候補者が多く、正直ウンザリしました。
外国人差別排外のひとつ参政党は、今まで参議院で1議席しかありませんでしたが、今回14議席を獲得し参議院で15議席になりました。
参政党のひどさを見ていくと、同党の神谷宗幣代表は7月18日、三重県四日市で演説し、同党の憲法構想案への批判に関し「あほだ、ばかだ、チョンだと(言われる)」と発言した。「チョン」は韓国・朝鮮人に対する差別的な表現とされています。直後に「今のカット、ああ、またやっちゃった」と撤回しましたが、こんな言葉を普段から使っているのでしょう。根っからの差別主義者です。
また、参政党の神谷代表は、病で死を前にした人の生き方に、政治はどこまで介入すべきかについて、7月9日北海道函館市の街頭で、「高齢者を無理やりチューブにつないで生かす必要あるんですか。そんなに何百万、何千万円かける必要ありますか。そんなに我が国にお金余っているんですか」と言い、終末期の延命措置の全額自己負担化を述べています。
また、「発達障害など存在しません」「発達障害の大半は子供の個性にすぎません」
と神谷代表が編著を担った2022年発行の「参政党Q&Aブック 基礎編」には、そんな記述があります。
2023年4月には、今回の参議院選にも比例代表で出馬している松田学氏が「発達障害の医療利権を糾(ただ)す」とX(ツイッター)に投稿、街頭演説でも「発達障害は存在しない」と語りました。
また東京選挙区で、今回の参議院選で当選した新人・さや氏は、7月3日、日本テレビ系のYouTubeチャンネル「日テレNEWS」で配信された選挙番組に出演し、安全保障に関する見解を述べるなかで「核武装が最も安上がりであり、最も安全を強化する策の1つだとは考えています」と発言しました。これはひどいですね。
外国人の生活保護をめぐっては、参政党が「外国人への生活保護支給を停止」と政策に掲げています。
生活保護行政を担う厚生労働省保護課は朝日新聞に対し、生活保護の受給に関して外国人が日本人より有利になる要件があるかについて、「ない」と回答しました。制度上の優遇はないということです。在留外国人の生活保護率は1・93%(2023年度の1か月平均)で、日本人を含む全体の生活保護率は1・62%(同)で大差はありません。
外国人の方は、所得税や住民税、社会保険などを払っています。当然生活保護を受ける権利があります。
外国人の方も、共に安心して暮らすことができる社会を創っていくことが重要です。(K)
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色鉛筆・・・差別を許さない政治を目指そう
秋に東京で開催されるコンサートに参加するために、夕方から始まる現地東京の合唱のレッスンに行きました。旅行ではないので、なるべくお金を使わないようにするために、節約モードの一泊二日でした。
午前中に新幹線に乗り、昼食は新宿の丸亀製麺でいただきました。元気よく「いらっしゃいませ ご注文は何をしますか?」とニコニコ尋ねてくれた店員さんは外国人、日本人の店員はお一人、つくる人も計算する人も外国人、だからといって、うどんはいつも通り美味しいし、計算も早いし、親切だし気持ちよく過ごせました。
練習が終わり、懇親会後、ホテルに着くとチェックインは、タッチパネルで自分の名前を入力すると、ホテルの説明を表すバーコードと部屋のカードキーが機械から出てきます。モタモタしている私に親切に優しく対応してくれたのは、外国人。チェックアウト時は、フロントに誰もいませんでしたが、タッチパネルが対応してくれました。
ホテルは素泊まりだったので、朝食はドトールで朝食をいただきました。「おはようございます。いらっしゃいませ、ご注文は?」と気持ち良い対応をしてくれたのは、また外国人。とても美味しくいただきました。この一泊二日の期間を振り返り、合唱の練習では日本人にあったけれども、それ以外では、ほとんど外国人の店員ばかりでした。
この現状でなぜ日本人ファーストという政党がいるのかが不思議でなりません。外国の方が日本語をおぼえて、現場での研修を積んで、美味しいうどんやパンを焼いてくれる。客として入店して何の問題もありませんでした。むしろ日本経済を支えてくれてありがとうございますと言いたいです。経済自体が、世界で回っている状態で、外国人を差別しては、いけないと強く思います。
ところが、この日本人ファーストという党が議席を伸ばしていることに不安を感じます。
今回の参議院選挙に関して、中学生の孫に誰に投票したいか聞いてみました。
すると選挙公報を私に見せながら公約して掲げている給付金の高い方の金額で決めていました。現金十万円支給を掲げている党派でした。もちろん現金十万円はありがたいけれど、今の消費税を廃止することや、軍事費を下げることが大切なのではと話しました。給付額に反応する要因としては、中学生の孫も感じる物価高、米不足を含めた今の日本の政治のまずさだと思います。
今の生活が良くないから選挙に行って政治を変えたいという若者は増えつつあると思います。ただ、日本人ファーストを掲げた党が、選ばれるのは間違っていると想います。なぜ、間違っているのか、愛国主義を掲げる危険な背景を丁寧に伝えて行かなければと強く感じました。( 宮城 弥生 )
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