ワーカーズ394 2009/6/1
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日本政治の危機は、「自民か民主化」という選択の狭さにこそ現れている
困難をはねのけ第三の選択肢の創出をめざそう
この数ヶ月間、自民党と麻生内閣は、中川など重要閣僚の相次ぐ不祥事、麻生首相の自身の失言や政治的プレなどが国民の不審を買い、支持率の低空飛行 を続けてきた。
他方民主党は、自民党が小泉改革時代に冷遇した農村や地方の経済界に目をつけてリップサービスに打って出て、自民党をしのぐ支持を維持してきた。と
ころが小沢前党首のゼネコン献金が暴露され、その説明もうやむやとあって国民から厳しい視線を浴び、麻生自民党の復調を許している。
現在の経済危機に対する両党の対応策を見ても、一方が15兆円のバラマキを打ち出せば、他方が自民党のそれと変わり映えせぬ21兆円のバラマキを打ち出
すという相似ぶりだ。財源を、将来の消費税増税に期待するという魂胆も同じだ。
片や歴代首相の中でも質の悪さでは際だっている麻生太郎を戴く自民党、片やゼネコン献金に全党一丸となって頬被りを決め込んだ民主党。この両党が「
二大政党」などと自称し、そしてその支持率を浮いたり沈んだりしながら競り合っているという現状にこそ、現在の日本の政治の病巣の本質、我々労働者が
真剣に向かい合わなければならない政治の危機がある。
「政権交代で政治の流動化を」「官僚優位政治への揺さぶりを」と言われる。小選挙区制・二大政党制の利点が叫ばれたときと同じ理屈だ。しかし、政権
交替が仮に実現しても、基本政策の8割は同じという政権の誕生、大連立の選択肢を隠した政権交替であっては、政治的流動化も、官僚への揺さぶりも知れている。
「現実を見なければならない」とも言われる。その通りだ。我々の前に広がっている現実は、国民の多くが現在の政治に不満を抱きながらも、それを自民
から民主への政権交替の期待としてしか表現できない姿。しかも、民主党にさほど期待しているわけでないにもかかわらず、そうせざるを得ないという姿だ
。我々が目を背けてはならない本当の現実とは、そのようなものだ。本当に変革されなければならないのは、あえて言えば自民党政権でも、民主党の自民亜流体質でもなく、実は労働者・民衆の政治意識と政治行動そのものなのだ。
政権交替で起きるかも知れない政治的さざ波を、労働者・民衆に有利に導くためにも、労働者・民衆の政治的成長の糧としてとことん活かしていくためにも、いまこそ第三の政治的選択肢を用意するための尉いを強化していかなければならない。(阿部治正)
最大の不況対策は雇用・賃金の底上げ――“ばらまき”は一時の麻酔剤――
9月に迫った衆議院の任期満了が迫り、自民党・政府は総選挙を念頭にばらまき政治に躍起になっている。09年度の当初予算に加え、景気の下支えと称して15・4兆円にのぼる補正予算で与党への票の取り込みをもくろんでいる。
が、ばらまき政策は一時の痛み止めに過ぎない。痛み止めが切れる年末には再度景気の底割れの危機が待ち受けている。先進国で最も大きな落ち込みを招いた日本。外需頼みの経済構造は、内需不足、いわば雇用破壊、賃金破壊の故の深刻な帰結ともいえる。
構造的な解決策は、低コストを武器とした輸出主導の経済成長から持続可能な内需中心の身の丈にあった経済構造への転換をめざすべきだろう。活路は“ばらまき”への期待ではなく、深刻な不況の土壌ともなっている雇用破壊、賃金破壊と闘うことにある。
■省エネ?
15・4兆円の補正予算は4月13日に衆院を通過し、いま参院での審議が大詰めを迎えている。この補正予算を通すため、政府は6月3日に期限が来る通常国会を7月末まで大幅に延長し、総選挙を迎える体制づくりに汲々としている。今回の補正予算を含めれば、09年度の財政支出はあわせて102・5兆円でこれまでで最大だ。
その補正予算はといえば、あきれるようなばらまきのオンパレードだ。
目につくところでは省エネ車や省エネ家電の購入促進だ。いま注目のハイ・ブリッド車などCO2の排出を削減した車の購入に際して取得税や重量税を大幅に免除するというものだ。また薄型テレビや冷蔵庫などの省エネ家電も同じだ。
CO2の排出を本気で規制するなら脱車社会への転換こそめざさなければならないし、テレビなどでも小型のものこそ優遇すべきだろう。それが環境対策にも通じるごくまっとうな道だ。が、そんなことはどこ吹く風で、とにかく自動車メーカー、家電メーカーへのテコ入れ優先しか念頭にないかのようなばらまきだ。呆れかえるとはこのことだろう。例の“定額給付金”を引き合いに出すまでもない業界対策、選挙対策そのものという以外にない。
■焼け太り
それに大盤振る舞いのこの補正予算で、脱官僚政治がもてはやされていた場面は一転し、官僚の焼け太りも目に余る。
たとえば省庁自ら使用する施設の新築、官用車や薄型テレビの購入など、環境対策を名目として3800億円もの費用が計上されている。また一時凍結されていた高速道路も解禁され、1兆5千億円もの巨費の投入が盛り込まれた。ついでとばかり政府系の46の基金に合計4兆円以上も計上している。
官僚の天下り先になるこうした基金への助成金は、官僚のお手盛りであり、危機に乗じた官僚組織の焼け太りでしかない。なかには民主党が“巨大国営マンガ喫茶”と揶揄する「アニメの殿堂」の新設のための117億円も含まれる。
が、公共投資、ハコモノ投資は一時の麻酔と同じだ。使い切ればすぐ息切れする。
景気対策をお題目としたこうしたばらまき政策がなぜまかり通るのか。自民党・政府は、好況時でも不況時でも業界優先、官僚優先の政治しか思い浮かばないこと、それに周期的に遭遇する不況にはまともな対応策などないということをはしなくも示しているわけだ。
■業界テコ入れ
15・4兆円という補正予算にしても、要は財界の要望に応えたものだ。現に財界や自民党は20〜30兆円の財政支出が必要だとぶち上げてきた。それだけ需要と供給のギャップがあったからだ。その需給ギャップは、推計では昨年10〜12月時点で約20兆円、今年1〜3月には50兆円台にまで拡大しているととも言われる。現に09年3月期決算では東証一部上場企業の売上高が前年度比で7・6%も減少し、48兆円も少なくなった。なかでも製造業は36兆円の減少で前年より10%以上も落ち込んでいる。こうした需給ギャップを国家予算で、言い換えれば税金で補填してくれとは、あれほど国家主導の社会主義を批判してきた財界らしくもないが、結局は“困ったときの政府頼み”は、先行した金融危機のケースとと同じで、洋の東西を問わないらしい。
本来、需給ギャップは供給が縮小することで均衡を取り戻す。それを不況だからといって政府が市場外から需要を作れば過剰設備は温存され、いつまで経っても需給ギャップは解消しない。だから本格的な景気回復は先送りされ、再び“失われた10年”を再現することになる。そんな先のことはともかく、景気の下支えとなるはずの財政支出も、すぐ息切れする。そうなれば追加の景気対策が必要になり、再度ばらまきに迫られる。100兆円を超える景気対策を打ってきた小渕政権時代がまた再現される可能性は大きい。が、政府はそうした官僚の焼け太りを含む景気の対処療法に走る以外に取るすべはない。
■膨らむばかりの国債依存度
ところで今回の景気対策での財政支出も、その大部分が国債すなわち国の借金に依存している。今回の補正予算では赤字国債を含む国債の発行が10・8兆円計上されている。
09年度当初予算での国債発行が33・3兆円だからあわせて44・1兆円の巨額の国債が発行される計算だ。小泉首相当時の“国債30兆円枠”はとうの昔の話で、これまでの国債発行額の残高は09年度末で総額592兆円、国民一人あたり463万円もの借金を抱えることになる。国と地方の借金はあわせて800兆円で、09年度の日本のGDPが約500兆円の見込みだから国債の対GDP比は約1・6倍。先進国ではダントツの一位、すべて税金で返さなければならないものだ。
政府は世界一の国債依存度について楽観的な説明に終始している。すなわち、日本の個人金融資産は1400兆円もあるので、現在は大半が国内で消化している、引き受け手はある、あるいは外国に買われているわけではないので、心配ない、などというものだ。
が、国家財政の破綻という以前に、国債に頼りすぎるのは国債価格が下がって国債金利に連動している長期金利が上がる可能性があり、それはそれで景気対策には逆行しかねないし、何より借金の金利が膨らんでしまう。目先の麻酔剤もジレンマにまみれているのだ。
■付け替え
日本はなぜかくも国債依存度が高いのか。
いうまでもなく財政が構造的に歳入より歳出のほうが大きいからだ。仮に現在の歳出がすべて必要なものだと仮定した場合、それをまかなうための税金が低すぎるのだ。必要な額は税金として徴収するとなれば、納税者も自分の財布から抜き取られる事態になる。そうなれば酷税批判で政権が持たない。
逆に歳出を押さえても良い。が、それでは公共事業や社会保障などで所得の再配分は縮小することになり、その場合も国民生活が破壊されて現在の体制が持たない。
そこで国の借金として一時的に国債に付け替え、見かけだけは相対的に少ない税金でやりくりし、国民の財布は直接は傷まないように足らない分は借金でまかなってきた、ということだ。要は日本的な統治構造の一つで、これが石油ショック以降も永く続いてきた戦後保守政治の一つの秘密でもあった。
別の角度から見れば次のような構図となる。
内需の土台となる国民の消費支出はこの10年の間切り縮められてきた。たとえば07年の1世帯あたりの平均所得は前年より10万6千円も減って556万円、94年と比べると108万円も低くなっている。年功賃金の崩壊や非正規化が大きく影響している。企業は輸出で稼いでも国内では需要がないのでマネーゲームに精を出すか、また輸出に精を出すしかない。その輸出が止まると財政支出を迂回経路として個人金融資産の先食いに走る、という構造だ。それは次の局面では政府の借金は税金として政府に貫流する。
何のことはない。労働者の老後の資金は政府に吸い取られて企業に対して需要を創り出していることになる。これが国債の“国内召還”の真相なのだ。
国債依存は、いわば自民党政府と納税者が、目先の痛みを回避することを最優先させてきた結果でもある。が、それは目先の痛みを回避するための、将来世代の生活を先食いでもある。いや、次世代どころの話ではない。麻生首相は3年後の消費税引き上げの可能性を示唆している。すでに当世代の問題でもあるわけだ。
■雇用破壊、賃金破壊と闘おう
政府は結局は国会会期を延長してでも15兆円もの補正予算案でばらまき政治をやり通すかまえだ。が、仮に補正予算が通っても、結局は一時的な痛み止め、均衡の先送りになるだけで、根本的な解決にはほど遠い。すでに秋口の“息切れ”を予想する声も多い。
現在の深刻な日本の不況は、震源地である米国以上で、欧州諸国よりも落ち込みは深刻だ。それも外需中心の成長構造の故だということは、いまでは多方面から語られている。
内需中心の経済に転換するには、なんと言ってもこれまで押さえられ、削られてきた家計を膨らませることだ。端的に言えば労働者の賃金を引き上げることである。
しかしこれは簡単ではない。これまでの輸出主導の経済成長のなかでも継続的に引き下げられてきたからだ。むしろ輸出を拡大する国内のコストが削られてきたというのが真相だ。非正規雇用が爆発的に増えたのも、そうした財界、企業による輸出主導の経済成長、そのテコとされた雇用破壊、賃金破壊の必然的な結果だ。
それだけに家計の増大、雇用や賃金の底上げという課題は不況のまっただ中で実現するのは生やさしいことではない。それだけ経営者の抵抗が大きいからだ。
現に雇用破壊は非正規雇用から正規雇用に拡がっている。就業者数も減っている。企業が人件費を圧縮しているからだ。結局は労働者の闘いで勝ち取らなければならない。不況だから仕方ないというスタンスでは、いつまで経っても労働者や家計は虐げられ、踏んだり蹴ったりの状態に止まらざるを得ない。
ここは意を決して企業・経営側に立ち向かう以外にない。(廣)
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プルサーマルという泥沼
5月18日朝、静岡・御前崎港にプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料が到着した。その後、陸路で浜岡原発へ、海路で伊方原発(愛媛県)と玄海原発(佐賀県)へと輸送される。九州電力が玄海3号炉で11月、国内初のプルサーマル(ウランを燃料としている軽水炉でMOX燃料を燃やす)を予定しているとい。しかし、この事態にはどれだけの誤りと危険があるか計り知れない。また、MOX燃料の海外からの輸送は航路周辺諸国にとっては実に迷惑なものであり、今後も10数回行なわれるというから、何事もなくても許容できるものではない。
日本の電力各社は使用済み核燃料を英国とフランスに委託し、再処理してプルトニウムを取り出し、これを高速増殖炉「もんじゅ」の燃料とする予定であった。ところが、1995年に「もんじゅ」がナトリウム漏れ火災を起こして、この計画は完全に頓挫した。そこで考え出されたのが、これをウランと混ぜて普通の原発(軽水炉)で無理やり消費するという愚かで危険な対処である。
青森県六ヶ所村の再処理工場は、プルトニウムの抽出を外国への委託ではなく、国内で行なおうというもので、これらを総称して「核燃料サイクル」という。いま、再処理工場の本格稼動も「もんじゅ」の再稼動も延期に次ぐ延期、つまり問題山積で動かせない状態だ。もちろん、「核燃料サイクル」も空中分解している。ところが、これを国策とする政府は後戻りということを知らないし、電力会社や原発産業も国策への依存を止めようとはしない。
昨今、原発はクリーンなエネルギー≠セとして、再評価の動きがある。これがウソであることは、ウラン採掘から核廃棄物まで、あらゆる場面で放射能汚染をもたらしている事実によって明らかである。一例をあげれば、フランスのラ・アーグ再処理工場周辺では放射能汚染による小児白血病が多発している。イギリスのセラフィールド再処理工場周辺も同じ状態で、どちらも日本の使用済み核燃料の再処理を行っているところだ。六ヶ所村の再処理工場が本格稼動すれば、間違いなく同じ危険にさらされる。
「1983年にテレビ局がカンブリア地方のガン発病率を調べ、セラフィールド核施設周辺で小児白血病が多発していることを報道しました。核施設から3キロほど南にある人口2000人ほどのシースケール村で、幼児の白血病発病率がイギリス平均の10倍を超えていたのです。こうした高い白血病発病率を示した地域はイギリスにもう一つありました。スコットランドの北にあるドーンレイです。ここでは高速炉の原型炉が77年から運転され(94年に事故が原因で閉鎖)、79年から高速炉用再処理工場が運転されていました(97年に閉鎖)」(グリーンピース・ジャパン編「核の再処理が子どもたちをおそう・フランスからの警告」)
もちろん、普通の原発≠熕[刻な問題を多く抱えている。とりわけ、放射能廃棄物の最終処分場が確定しない、札びらで財政困難に陥っている自治体に押し付けようとしても住民の反対でことごとくつぶれている。使用済み核燃料は原発敷地内のプールにとりあえず貯蔵されているのだが、それが限界に来ている。そこで、海外に原料≠ニして輸送したり、六ヶ所村再処理工場に運んだりしている。海外に送ったものはいずれすべて帰ってくるし、再処理工場は最終処分場ではない。要するに、持って行き場がないのだ。
電力各社にとっても内心は歓迎すべからざるMOX燃料の帰還だが、安全性・経済性を不問に付し、プルサーマルという泥沼に足を踏み入れようとしている。止める勇気・理性の欠如が災厄を招くことを、いずれ思い知ることになるだろう。
原発をめぐっては他にも触れなければならないことが多くある。中部沖地震に見舞われた、柏崎刈羽原発7号機の22ヶ月ぶりの運転再開もそのひとつである。何が起こるかわからない危険で無謀な行為である。案の定、5月9日に運転が再開されたが、11日には早くも異常が発生している。例によって、環境への放射性物質放出などの影響はないということだが、危険な綱渡りをいつまで続けるつもりなのだろうか・・・
「東電によると、11日朝、緊急時に原子炉に冷却水を注入する『原子炉隔離時冷却系』の起動試験をしたが、冷却水をためている『圧力抑制プール』の水位が通常より上昇したため、低下させた。その後隔離時冷却系を停止しようとしたが、通常の操作では停止できず、別の操作で止めた。東電が原因を調べている」(5月11日「神戸新聞」) (折口晴夫)
現地・浜岡から「集会」と「抗議行動」の報告
@5.10「はまおか集会」報告
5月10日(日)午後、御前崎市の「県原子力広報研修センター」において、「1・2号機廃炉は当然、6号機増設などトンデモナイ」はまおか集会が開催された。
ご存知のように、東海地震の想定域の真上に建つ浜岡原発は、全国の原発の中で一番「原発震災」が危惧されている。
昨年12月13日(土)の地元静岡新聞の1面に「浜岡原発1・2号機廃炉へ」との大見出しが載った。同時に「6号機新設」との見出しも載る。
この1・2号機は建設より30年も経っており、最近は故障ばかりで修理の見通しがたたないほどボロボロに劣化が進んでおり停止が長くほとんど稼働していなかった。また、東海地震に対する耐震防災がほぼ不可能なことも指摘されていた。そこで、中部電力は地元住民や自治体に交付金・補助金をバラまき、効率上から6号機新設というリプレース(置き換え)を計ったと言える。
1・2号機の廃炉は当然だとしても、日本の原発史上初めての本格的な廃炉工事になるわけで、放射性廃棄物の処理方法をめぐる問題、そのために莫大な資金が必要となる工事費用、工事における労働者被曝等など大きな問題がたちはだかる。
この新聞発表前の11月5日、定期点検の調整運転していた5号機において、異常事態<気体廃棄物処理系における「水素濃度上昇事故」>が起こり、中電は原子炉を手動停止させた。その後、保安院の承認により5号機は運転再開をしたが、12月30日全く同じ事故が再び起こりまた原子炉を停止させた。現在、5号機は停止して検査中である。増設計画の6号機はこの5号機と同型のものである。
燃料の一部をMOX燃料に交換する予定の4号機も、5月初めの調整運転中に5号機と同じ事故「水素濃度上昇」を起こし、原子炉を手動停止し、現在原因を調査中である。
5機ある今の浜岡原発の運転状況をまとめてみると以下のようになる。
・1号機(54万キロワット)・・・廃炉
・2号機(84万キロワット)・・・廃炉
・3号機(110万キロワット)・・・運転中
・4号機(113.7万キロワット)・・・事故で停止中
・5号機(138万キロワット)・・・事故で停止中
実は、唯一運転している3号機も6月から定期点検に入る予定で、このまま行けば浜岡原発はすべて停止となってしまう
集会では、現在の浜岡原発は以上のような事故・問題のオンパレードであり、最も危険な浜岡原発を1日でも早く止めるべきだとの圧倒的な声。そのためには各地の反原発運動と連携・連帯して全国運動を展開することを確認した。
また、清水修二氏の「原発に頼らない地域経済の再生」という講演があり、危険と不安の中での暮らしから抜け出すために、原発がなくても安心して暮らしていくために地域経済の再生を図るべきだとの提起がなされた。
AMOX燃料、浜岡原発に到着
3月6日にフランスのシェルブールを出港したMOX燃料輸送船「パシフィック・ヘロン」号は、喜望峰を通る2ヶ月以上の航海の末、5月18日(月)午前6時ごろ浜岡原発の地元御前崎港の中部電力専用岸壁に到着した。
フランスの通信社「AFP」は、輸送船にはハイジャック対策のため武装されており、英国警察部隊が乗り込んでいたと伝えていた。
輸送船の御前崎入港の情報を2日前に知った(いつもの中電の秘密主義のやり方)市民グループ「浜岡原発を考える静岡ネットワーク」は、慌ただしく呼びかけと反対行動の準備をして、朝御前崎港埠頭に集まった。
東京からの応援者(たんぽぽ舎のメンバー)も含めた約30名が、接岸したMOX燃料輸送船に向けて抗議の横断幕とのぼりを手に持ち、「原発の危険を増大させるプルサーマル反対!」「プルトニウムはいらない!」などのシュプレヒコールを繰り返した。
御前崎港埠頭での抗議行動のあと移動して、中部電力浜岡原発門前で、中電に対して「プルサーマル計画の凍結」の申入書を2団体連名(浜岡原発を考える静岡ネットワークとたんぽぽ舎)で提出した。
出てきた中電職員の対応は極めて不誠実で、名刺も出さず、話をする場所も用意せず、門前の道路のところで申入書を仕方なく受け取るという態度であった。(富田 )
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映画紹介 「感染列島」
この映画「感染列島」のロードショウは今年の一月だった。その時は映画館に行きそびれて観ずじまいだったが、たまたま職場の近くの小さな映画館に、数ヶ月遅れでフィルムが回ってきたので、早速観に行った。
おりしも、4月からメキシコで新型の豚インフルエンザ・ウィルスが猛威を振るい、旅行者を通じ、世界各地に感染が広がり、日本でも急遽、対策が講じられ始めた時期とあって、映像と現実とが重なり合い、あまりにリアルであった。
ストーリーは、東京の「いずみ野市立病院」の救命救急医・松岡剛(妻夫木聡が演じる)のところに一人の急患が来たところから始まる。高熱、痙攣、吐血など、症状から新型インフルエンザが疑われたが、既存のインフルエンザ・ウィルス検査では陰性、しかもタミフルなどの抗ウィルス薬も効かず、患者は死亡してしまう。
その直後から、同様の患者が急増し、正体不明の感染症は、またたく間に全国に広がってしまう。市立病院は、押し寄せる患者への対応で、さながら野戦病院のような状況となり、医師、看護師ら医療スタッフの激務と、患者の悲痛な叫びがあふれかえる。
この事態を打開するため派遣されてきたのが、WHO(世界保健機構)のメディカル・オフィサー・小林栄子(壇れいが演じる)であった。彼女のリーダーシップのもとで、市立病院の半分が新型感染症専用の隔離施設となり、危機管理体制が敷かれる。
ここからの展開は、医療監修として、実際に感染症学の専門医師である森毅彦があたっているだけあって、実にリアルである。病院施設の外に、テントを設営し、臨時の「発熱外来」を設置する。詰め掛ける多数の患者を、症状で選別し、重症者のみを隔離病棟に入院させ、軽症者には自宅療養を促す。医療スタッフは全員、マスク・ゴーグル・手袋・全身を被うブルーの防護服を着用し、予防にタミフルを服用する。
死に瀕する患者であふれ、人工心肺装置が不足する中、回復の見込みの無い多臓器不全の患者から、まだ回復見込みのある患者に装置を付け替えるなどの、非情な措置を指示する。これは「トリアージュ」と呼ばれ、実際に阪神大震災の時も行なわれたが、災害時に、見込みの高い患者を救うために、見込みの低い患者を見捨てる行為には、医療スタッフの多くが心理的に耐えられなくなる。現場ではスタッフ同士の怒号が飛び交う。
実は、この映画を観る数日前、私が勤務する病院でも、新型豚インフルエンザに対応し、従来からの対策マニュアルをベースに、今回の事態に合わせて手を加えた対策要綱が作られ、臨時の体制がとられることになった。私の従事する医療技術部門でも、急遽、技師全員を集めたミーティングが開かれたばかりであった。その時に目を通したマニュアルとこの映画は、多くの場面で重なり合っており、とてもフィクションとは思えない。
映画のストーリーに戻ろう。新型感染症の正体を突き止めるため、救急医・松岡は鳥インフルエンザの権威である教授・二志稔(藤竜也が演じる)と共に、東南アジアの「アボン」という小さな国を訪れる。その国のある島では、一人の日本人医師が、住民を謎の病気から救うため、孤軍奮闘していたが、自らも感染し、死んでいたことを知った。その日本人医師の遺した手記から、恐るべき事態が明らかになった。
その島は、かつてはマングローブの森が豊かで、村人達はその森から薪を得ていた。ところがある時、大企業がやってきて、日本向けのエビの養殖事業を始め、森を伐採し、海を抗生物質漬けにしてしまった。薪を得る森を奪われた住民は、やむなく奥地のまだ足を踏み入れていない森に、薪を取りに行かなければならなくなった。そこで、奥地に棲息するコウモリに接触し、感染症が村全体に広がってしまった。大企業は、その事実を隠すため、養殖池と冷凍工場を閉鎖し、村中の家屋を焼き払い、舟で避難する住民にも口止め工作をしたというのだ。
この映画は、単なる「感染パニック」ものではなく、先進国の都市部を襲う新型感染症の背景に、途上国の生態系を破壊する多国籍資本の利己的な活動があることを示唆している。その意味で、この映画は文明批判の視点をも提供している。
映画館を出た後、感染症の歴史について、いくつかの本を拾い読みしてみた。大きな感染症の発生には、単に商業と交通の発達で人や物の移動が広がっただけでなく、常に何らかの社会的な要因がつきまとっている。
14世紀のヨーロッパでペスト(黒死病)が大流行した背景には、内陸交易の広がりだけでなく、農奴制のもとで住民の栄養状態が悪化していたことが指摘されている。1918年のスペイン風邪の流行も、第一次世界体制による社会的インフラの破壊や、国民の貧困による栄養不良、国家間の政治的対立による情報伝達の遅れなどが、被害を拡大した。
最近の鳥インフルエンザも、アジアの養鶏場が先進国への輸出用に大規模化した時期に起きている。今回のメキシコ発の豚インフルエンザも、輸出用の大規模な養豚場の増加と無関係とは言えないのではないだろうか?また、必ずしも強毒性ではないとされる豚インフルエンザが、メキシコで多数の死者を出しているのも、住民の貧困や医療体制の不足が社会的な原因と思われる。
次々と世界を襲う「新型感染症」に対して、WHOや各国の政府・自治体・医療機関が、どう対処しようとしているのかを知る上でも、また新型感染症とグローバリゼーションとの関わりを考えてみる上でも、良い素材を提供してくれている映画である。(松本誠也)
コラムの窓 氷河期の生き残り
「おれ達みんな、氷河期の生き残りだもんな」知り合いの薬剤師が、薬を渡しながら笑って言った。
メタボ検診で特定保健指導を受け、コレステロールを下げる薬を処方され、調剤薬局を訪ねた時のことである。
「氷河期の生き残り?」と聞いて思い浮かべるのは、北海道大雪山に棲息する「クロウサギ」のことだが、人間もそうなの?そうだ。人類の歴史は、氷河期の飢えと寒さとの闘いの歴史でもあった。
今から約六百万年前、東アフリカの大地溝帯でアウストラロピテクスと呼ばれる「猿人」が誕生した。その後、原人(「ジャワ原人」「北京原人」等のホモ・エレクトゥス)、旧人(「ネアンデルタール人」等の古代型ホモ・サピエンス)、新人(「クロマニョン人」等の現代型ホモ・サピエンス)と進化して行く。
この間、「ギュンツ氷期」「ミンデル氷期」「リス氷期」「ヴュルム氷期」と呼ばれる幾度かの氷河期が地球を被った。同時に、人類はその誕生の地である東アフリカから、ユーラシア大陸へと何度も進出を試みた。「出アフリカ」と呼ばれる「グレートジャーニー」である。この氷河期を乗り越えて、長旅を達成し、今日まで生き延びたのが、我々「現代型ホモサピエンス」だったといえる。
実際、今から十万年前頃は、大陸ヨーロッパでは、ネアンデルタール人(旧人)とクロマニョン人(新人)は、併存していたらしい。ネアンデルタール人の脳の容積は、現代人とほぼ同じで、死者を花束と一緒に埋葬する等の精神文化を有していたが、結果的には滅びてしまい、クロマニョン人だけが、現代まで生き延びた。
同じ程度の能力を持っていたにも係わらず、なぜネアンデルタール人は滅び、クロマニョン人だけが生き残ったのかは、一口では説明が難しい。顎の骨の形から、発音のパターンが多様で、より豊富な語彙を言語に乗せることができ、親の経験を子の代に伝えることができたからではないか、という説を唱える人もいる。
いずれにしても、現代型ホモ・サピエンスは氷河期を乗り越え、生き延びてきた。その過程で獲得した形質の一つが「飢餓に耐える」能力であったことは間違い無い。例えば、食物を摂取し、運動のエネルギーに変換した後、余ったエネルギーを体内に貯蔵し、その後の飢餓にそなえる仕組みがそれだ。
食物を体内で消化すると、ブドウ糖となって血中に流れ、筋肉の運動や脳の思考に使われる。それ以上のブドウ糖は、インスリンというホルモンの働きで、グリコーゲンや脂肪に変換され、貯蔵される。そこまで食物を摂取したところで、満腹中枢が働き、食べるのを止める。「おなか一杯になるまで食べる」という習性は、今日の活動エネルギーを確保するだけでなく、明日の飢餓に備えるための習性なのだ。
現代社会において、人々が飢餓に直面しなくなっても、この「飢餓に備える」食習慣は続いてしまう。インスリンはどんどん働き、体重は増える。やがて、過食による肥満が顕在化した頃、インスリン分泌のメカニズムが狂ってしまい、ついにインスリンの分泌が不全となり、今後はブドウ糖は血中に垂れ流し状態となり、体重も減り始める。
その結果、体中の血管がいわば「砂糖漬け」になり、毛細血管の集中している腎臓や目、脳神経がボロボロになり、腎不全や失明、神経障害による壊疽といった病気が引き起こされるのである。
糖尿病をはじめとした「生活習慣病」は、何か「特別な悪癖」のせいではなく、人類が十何万年もの氷河期に身につけた「飢餓に耐える」本能的性質に起因している。ということは、飢餓に直面しなくなった現在、この本能を意識的にコントロールする文化的・社会的規範が必要になっていることを意味する。
興味深いアメリカの疫学調査がある。出産の時、低体重であった子供は、成長してから生活習慣病にかかる確立が統計的により高いというのだ。これも、母親の体内で飢餓に耐える性質を獲得していることが関係しているらしい、という説を唱える研究者もいる。未熟児医療が発達し、乳児死亡率が減少した現代、教育における「食育」の重要性が、それだけ増しているということでもある。
ところで、この意識的なコントロールは、実は人間が共同社会を形成し営む過程で、それなりにやってきたことでもある。それは、たとえ食料が十分にあっても「明日の飢饉にそなえ」干物や漬物などの保存食を作って備蓄し、日々の食事は満腹中枢の司令を待たず「腹八分」に抑制するという社会習慣である。
森林や河川や海で狩猟、採集、漁労をする際も、一定量を残し、翌年にかけて自然の再生力を保全するための「掟」を守ってきた。自然を守る習慣は、自ずと人間自身が過食に至らないための自己コントロールでもあった。
ところが現代の労働は、人間をこうした共同社会のコントロールから切り離してしまい、ひたすら企業の利潤追求のために、長時間・過密・不規則な労働によるストレス、非正規化し不安定な雇用の不安感によるストレスをもたらし、いわば「精神的飢餓」によって、生活習慣病を多発させている。
メタボ検診の効果がなかなか上がらないのは、患者個人だけを変えようとしても、取り巻く社会全体の労働習慣が変わらないままだからに他ならない。もういちど「氷河期」以来、人類が経てきた経験とそこで身につけてきたはずの社会的・文化的知恵を取り戻すべきなのではないだろうか?(誠)
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スリランカ通信
LTTEの最後の砦ムライティフの戦闘の中で、LTTEの最高指導者プラバカランが死亡したというニュースが、5月18,19日にかけて一斉に報道された。(タミールネットは、これをコロンボの嘘だとは言っているが)
この戦闘は激しいものだったらしく政府軍にも多数の犠牲者が出た。(軍はその数についてはコメントを拒否している)
先の政権党のUNPの時代、明らかにLTTEと内々通じていたことは、私が前のスリランカ通信にも書いた。休戦交渉も形だけはおこなわれたが、その都度破棄された。
現ラジャパクシヤ政権も、その政策を受け継ぐものと理解していたが、彼らは明らかに方針転換をはかっていた。2004年の大津波での大被害も一つの切っ掛けだったかもしれない。この時、海外から大量の救援物資が流れ込んだ。使途不明金が沢山出た。一部はLTTE側にも流れた。
今回、ヨーロッパ、米国、日本などが内戦後の北部復興、再建にむけての援助を約束している。日本の明石代表は何度スリランカを訪問したことか。新聞でも「また来た明石」と一種の揶揄口調だ。これらの国の提供する資金はスリランカの政治ボス達にとって大津波の時以上の甘い汁だろう。
日本では国内のいわゆる公共工事で無駄な金づかいがされている。同じ道路を何回も掘り返し、予算消化に努める姿はみんなが見ている。外国への資金提供は、どう使われるかは国民の目に見えない。その上人道援助という大義名分がある。資金提供国の資材、技術のみ返りは又提供国企業に戻ってくる。日本なら無償の道路、橋梁工事でも、日本車の売上げに影響してくる。
大量の外資導入を見込んで、このところデプリーシェイション(下落)がはげしかったルピーが、対ドル115でとどまるだろうと財界は観測している。アメリカ発のサブプライム危機にはじまった世界不況の波は、衣類、紅茶等の輸出に大打撃を与えた。経済を立て直すにも戦争継続は不可能だろう。
しかしこの国の問題は内戦終結で解決出来る者ではない。軍特殊部隊(STF)の跳梁、コロンビアに次ぐといわれる警察の腐敗、アルコール、タバコ、ガソリン税への歳入依存体質等々、問題は山積している。(スリランカ・Mより)
★追伸・・・プラバカランの遺体はDNA鑑定がされると報じられたが、その後殉教者扱 いされる恐れがあるとの理由で、急いで火葬された。
読書室ヨハン・モスト著『資本と労働』
カール・マルクス自ら校訂した『資本論』解説本の20年ぶりの復刊を喜ぶ
小林多喜二の『蟹工船』の大ブレイクに引き続いて、『資本論』にも注目が集まっている。現在、漫画本の『思想劇画 マルクス資本論』と『(まんがで読破)資本論』の売れ行きが好調である。
『マルクス「資本論」入門 (KAWADE道の手帖)』、『いまこそ「資本論」』、『マルクスる?―世界一簡単なマルクス経済学の本』、『超訳『資本論』等の『資本論』に関する本が、本屋の棚に並ぶ盛況ぶりでなのである。
今ここで私が紹介したいのは、マルクス自らが校訂したモストの『資本と労働』だ。この本は、私たちもよく知っている大谷禎之介氏の二十数年前に岩波書店から出版した本が元になっているようだ。
モストは、ドイツ社会民主党の活動家で、一八七二年九月に反戦デモを組織して逮捕され、翌年の二月から八カ月間投獄された。この投獄の間、『資本論』第一巻に読み深く感動した彼は、労働者に広めたいと発願して、『資本論』のダイジェストを作り、出獄後『資本と労働―マルクス「資本論」のわかりやすいダイジェスト』として出版した。
ダイジェストといっても、エンゲルスの『資本論綱要』のような忠実なものではない。モストは、マルクスを絶対視せず、自分がわからないところは労働者もわからないとの判断の下に、『資本論』第一巻全二十五章を、再編集して十二章にし、その前後に「はじめに」と「むすび」をつけた。ここにモストの独創があり、その故に要約と言い換えの妙があったのである。
この核心となる章名を列挙すれば、まず「商品と貨幣」、「資本と労働」「資本主義的生産様式の基礎」、「労働日」、「分業」、「大工業」、「工場制度発展の諸結果」、「労働賃金」、「資本の再生産過程と蓄積過程」、「資本主義の人口法則」、「資本主義的過剰人口のさまざまな形態――民衆の窮乏」、最後が「近代的資本の起源」である。
『資本論』に比較して検討すれば、彼の独創は明らかである。しかしこれはその後のモストの「独走」にも通じており、初版での彼による『資本論』の当該部分の要約や言い換えはしばしば不正確なものとなっていた。これを惜しんだドイツ社会民主党の幹部は、マルクスに補正のための加筆を要請したのである。
したがって、初版では不正確かつ不十分であった理論的にも重要な「商品と貨幣」「労働賃金」の二章は、マルクス自らがほとんど全部書き直した。こうして一八七六年に『資本と労働』の改訂第二版が出版された。しかしこの間モスト自身はパリ・コミューンをたたえた演説で再び逮捕され、投獄されており、モストはこの改定では何の役割も果たしてはいない。この作業は、モストの初版の体裁を尊重してなされたが故に、『資本論』での表現とは異なる表記も多い。その事で『資本論』とは相対的に独立した価値を持つ事になる。モスト自身は、その後アナーキストへと政治的な立場を変えた事で、この本は長らく忘れられる事になった。しかし政治的立場の変化とは無関係に今でも価値ある本である。
私が注目したのは、この本の力強いまとめの部分である。
「読者は、これまで抜粋によってお伝えしてきたマルクスの論述に教えられて、資本主義的生産様式はもともと一つの過渡形態にすぎないこと、それはそれ自身の機構によって、もっと高度な生産様式に、協同組合的生産様式に、社会主義に行きつかないではいないのだ、ということをすでに認識されていることだろう」(協同組合と明記したこの部分はこの本の白眉である―引用者)
「こんにちの社会はいずれ倒れて、もっと高度な、もっと高潔な社会に席を譲らないではいないのだという確信、そして労働者階級こそ政治権力という強大なテコによって現在の社会構造を根本的に変革する資格をもっているのだという確信、この確信をもった人ならだれでも、次のこと以外にいかなる生涯の使命をももつ必要がない。すなわち、自分の信条を他の人びとにも伝え、たえまなく宣伝の太鼓をたたき続け、全人類をきょうだいにするシンボル・赤旗のまわりに社会革命の兵士たちを次つぎに連れてきて、理想の達成をめざして燃えあがるような熱情を彼らの心に移植する、ということである」 「工場でも作業場でも、屋根裏部屋でも地下の住居でも、食堂でも散歩のときでも、要するに労働者のいるすべてのところで、宣伝が行われなければならないし、都市から農村へと認識が広められていかなければならない」 「万国のプロレタリア、団結せよ!」
モスト『資本と労働』は、新書版でたったの百五十九頁であるが、極めて内容の濃い本である。この本は全国労組交流センターの努力により出版された。価格はちょっと割高の千円である。マルクスの『賃労働と資本』と『賃金・価格・利潤』を読んだ後、『資本論』に挑戦を考えている人々には、是非この本を薦めたい。 (直木)
早くも崩れた「自公民」対「共産党」の独りよがりの対決図式
最近、来たる都議会選挙・衆議院選挙は、「自公民」対「共産党」の対決だとわめき立てて共産党は元気そのものです。しかし日本の人口一億二千万人の現実の投票行動を読み切るのは大変困難なです。今、人口百二十万人のさいたま市、つまり日本のそれの1%の人口を持つ市長選挙が行われたばかりなので、それを踏まえて私の見解を申し述べます。
五月二十四日に投開票されたさいたま市長選は、民主党県連支持の清水勇人氏が、自民党県連、公明党県本部推薦の現職相川宗一氏に五万七千百五十票差をつける圧勝だった。地域別でも西区、桜区、緑区以外の七区でトップに立った。
清水氏の全体での得票率は38・61%だったが、旧浦和市長の相川氏への不満が根強いとされる旧大宮市では45・78%。清水氏の地元見沼区では三万三千票余りを獲得、61・46%に上った。清水氏は旧浦和市では相川氏に二千五百三十一票負けたが、相川氏の地元浦和区、南区でリード。相川氏が地下鉄7号線延伸を重要公約に掲げた岩槻区でも勝利した。
四年前の市長選にも出馬した相川、中森両氏は、それぞれ約三万六千票と約五万八千票減らした。自民の支援が分裂した二人の得票数を合わせても、民主が支援した清水氏を五千八百四十一票しか上回れなかった。
さいたま市長選で共同通信社が実施した出口調査によると、支持政党のない無党派層で、清水勇人氏が39・7%から支持を集めたのに対し、相川宗一氏は、ほぼ半分の20・5%にとどまった。
支持政党別では、民主党県連が支持する清水氏が民主党支持層の75・6%を固めた。相川氏は自民、公明両党の県組織から推薦を受けたが、相川氏と回答したのは自民党支持層で44・3%、公明党支持層で52・8%。自民党の一部女性国会議員らが支援した前衆院議員中森福代氏に、自民党支持層の23・9%、公明党支持層の19・4%が流れており、分裂選挙の影響が出た格好だ。
◆2副市長が辞表を提出 一時空席の可能性も
さいたま市長選で相川宗一市長が落選したことを受けて、小宮義夫、大塚英男両副市長は二十五日、同市長に辞表を提出した。市幹部が明らかにした。
清水勇人氏は同日の記者会見で、副市長人事について、民間からの登用を含めた三人体制を検討する意向を示す一方、「今は白紙の状態。現副市長の意向は聞いておらず、(民間登用は)六月議会は出さない方向」と話しており、一時的に空席となる可能性もある。
この新聞報道を見ても、共産党の推薦した松下氏への記述は全くありません。彼は市長選挙に立候補した六名中第五番の成績しか取れなかったのです。共産党の敗北です。
政治的現実を観念的に否定してみても、現実の政治情勢を変える事は出来ません。
金権腐敗の「自公民」との対立図式は鮮明なので、共産党執行部は当選か当選ラインだと考えていたようで、この結果に全く茫然自失の体たらくです。共産党は「正しい」事を主張すれば、道は開けると考えていたようですが、何を「正しい」と考えるか、またどの「正しさ」に価値を見出すのかは、現実には人様々です。人々は自分を信じています。
このように労働者民衆が本当に政治的に自立するのは、深刻な政治的経験を、誰の強制もない中で自ら深く反省する事でしか現実とならないのではないかと私は考えています。
したがって、第四インターのように自己の勢力が弱いから「社共」と投票せよとも、もちろん政権交代の実現のために民主党に投票せよと呼びかけるのでもなく、一切の幻想と手を切って、今こそ「階級的立場に立った自主投票」を私は呼びかけたい。 (笹倉)
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ワーカーズ5月1日号「ソマリア沖の海賊について」に関して
ソマリア沖の海賊の誕生した事情を具体的に説明してくれて、よくわかりました。沖縄でも、敗戦直後の「ナツコ」という小柄な女性が海賊≠ナはないが、密貿易の女王≠ニして台湾から小さな小舟さばにで生活必需品を戦利品≠ニ交換して運び沖縄の人々の生活を支えたこと、その背景として敗戦後、日本政府からも米軍からも見捨てられた沖縄の人々が生き抜いてきた事情を想起させる。
何もない焼け野ヶ原で見捨てられ、勝手に生きていけと放り出されたとき、生き抜く術
はあるところからもってくるさ=iナツコさんのことば)ということであった。荒海をさばに≠ナ往来したナツコさんたち。ナツコさんは度胸のすわったリーダーであったろう。なんでも小柄な女性だったそうだが大きな人にみえる。
今やみんなでこいでいくさばに≠ェ沖縄には生まれつつある。私どももあやかりたいもの。そのこいでいく方式については先人たちの経験が参考になる。09・5・5 宮森常子
色鉛筆 手紙〜親愛なる子供たちへ〜
ある日、TVから心地よいギターの音色が聞こえてきた。その音色に導かれるようにTVを見ると音色だけでなくその歌詞にも心が打たれてしまった。というのも、昨年6年間介護していた母が突然亡くなり、悔やんでも悔やみきれない気持ちが私の心のどこかにあって、この曲を聞いているうちに涙が流れてしまった。
そして、TV番組の中で認知症の母親をひとりで介護している30代の男性は「自分の人生をめちゃくちゃにした母親に、俺の人生を返してくれよとつらくあたってしまったり、介護に疲れてどうしようもない時、この曲を聞いた。母親が自分を育ててくれたんだということを思い出させてくれて、この曲で救われた」と話していた。介護でつらい思いをしている人たちにとってもこの曲は、心穏やかな気持ちにさせてくれるようだ。
また、年老いていく父親の姿を見ながらこの曲を作曲して歌っている樋口了一さんは、全国各地の老人施設に出向いて介護士達に聞かせたり、介護士の専門学校では授業の中で生徒達にこの曲を聞かせているという。
このように介護が個人的な負担になっていたり、常に人手不足の老人施設など、今ある介護制度には様々な問題が起こっている。社会全体で介護制度を充実させて安心して年をとっていける社会を目指したいと思う。
原作詞 不詳/日本語訳詞 角智織/日本語補足詞 樋口了一作曲 樋口了一/ストリングス・アレンジ 本田優一郎
年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしてもどうかそのままの私のことを理解して欲しい私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れてもあなたに色んなことを教えたように見守って欲しい
あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返してもその結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しいあなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末はいつも同じでも私の心を平和にしてくれた
悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように見える私の心へと励ましのまなざしを向けて欲しい楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったりお風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけていやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを悲しい事ではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に祝福の祈りを捧げて欲しい
いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったならあなたが か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたようによろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい
私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しいあなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど私を理解して支えてくれる心だけを持っていて欲しいきっとそれだけでそれだけで 私には勇気がわいてくるのです
あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しいあなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びとあなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい
私の子供たちへ愛する子供たちへ
今は 母のことを思い出しながら聞いているが、この曲は私が子供たちへ出す手紙なのかも知れない。(美)
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編集あれこれ
前号の5月1日号は、2号分の合併号でした。1〜3面は、5月1日のメーデーにふさわしく現在の雇用破壊などについて述べています。巷には、失業者があふれています。私の妻も、最近派遣会社から契約打ち切り、つまり首になりました。こんな中政府は、定額給付金などというばらまきの施策をとりました。私は、かねてから今特に必要なところにお金を使うべき、つまり医療や介護、雇用対策に使うべきと考えていました。だから、この定額給付金は医療の「国境なき医師団」に寄付する予定です。
前号は、現在の使い捨ての雇用を解決するためには、同一労働=同一賃金原則を掲げています。そのためには、労働者同士の団結が必要です。かなり困難な情勢ですが、なんとかしないといけません。
4・5面は海賊対処法について述べています。この行為は、憲法9条に違反していいるのみならず、従来の政府見解である専守防衛にも反しています。これについても、反対の声を大きくしていかなければなりません。
その他の記事もなかなか読みごたえがありました。特に読者からの手紙は何と4本もあり、よかったと思います。読者の皆さん、これからもワーカーズをよろしくお願いします。 (河野)