ワーカーズ612号 2020/11/1
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異例ずくめで早くも政権末期様相の菅総理所信表明の無残さ
6月17日、第201通常国会が150日間の会期を終えた。新型コロナ感染が拡大する中での暴挙である。野党が感染対策等のため、当然ながら国会会期延長を求めたのに自公は閉会としたのだ。そして7月31日、この間の無策に野党は臨時国会召集要求を自公に突きつけたが、これも無視。さらに病気再発を理由に安倍退陣となると、9月16日組閣のためだけに臨時国会を再開し、菅官房長官を昇格させ菅政権を発足させたのである。
何という異例ずくめの厚顔無恥な自公であろうか!
この4ヶ月間、自公議員には自らの執行部に対する諫言の一言もない。彼らこそ国会議員の資格を自ら放棄した税金泥棒である。それにしても今国会、野党の無力さは極まった。自公政権の傍若無人の立ち振る舞いに対して、なぜ野党は広汎な街頭宣伝・大衆運動の組織化を追求できなかったのか。
安倍長期政権を支えた菅官房長官は自民党総裁に当選するや否や、菅政権は自らが警察・内調政権であるとの本性を隠すことなく、改めて内外に誇示し顕在化させたのである。
それが日本学術会議推薦の6会員の任命拒否である。当初菅総理は「総合的俯瞰的に判断した」と発言したが、批判が強まると一転「名簿は見ていない」として逃げをうつ。だが任命拒否の楽屋裏は、何と御年79歳の杉田和博官房副長官が仕切っていた。杉田氏は警察出身者であり、ほぼ一貫して警備・公安畑を歩み、警備局長を経て内閣官房にて内閣情報調査室長、内閣情報官、内閣危機管理監として政権中枢で公安と危機管理を担う。2004年には一旦退官したものの、2012年12月26日、第2次安倍内閣では内閣官房副長官に就任し、2017年8月3日からは内閣人事局長を兼務する。安倍政権が官僚の人事やマスコミを支配できたのも、結局は陰の杉田官房副長官の力だったのである。
さて菅総理の所信表明は「目指すべき社会像」として「自助・公助・共助」そして「絆」を強調してみたものの、コロナ勝利の証で東京五輪開催の妄言の他には、放射能汚染水の海洋投棄、学術会議任命拒否、そして全世界が注目の核兵器禁止条約1月発効問題については一切触れていない。そのどれ一つ取っても、即菅内閣の倒閣に?がるものといえる。
菅総理はこの内閣は「国民のために働く内閣だ」といっているが、それはつまり安倍政権がそのような内閣ではなかったということであるのに、この驚くべき鈍感さなのである。
菅総理の所信表明は無残としか言い様がない。かくて成立早々に政権の危機に直面している菅自公政権を打倒するため、今こそ高らかに声を上げていこうではないか!(直木)
問答無用の強権政治――早くも強権政治の本性あらわす菅政権――
菅政権が発足して1ヶ月半が経過した。この間、安倍継承政権を掲げながら早くも強権政治に傾斜する菅政権の本性が見えてきた。
冷徹な菅自公政権と対峙するためにも、労働組合や市民運動、それに各種のNPOなどの身近な行動団体を足場にした草の根からの包囲網を拡げていきたい。
◆理由なき排除
「……『排除されない』、ということはございませんで、排除いたします。」
これは都知事なった小池百合子が希望の党を立ち上げて総選挙に望む際に記者会見で語った言葉だ。当時の民主党の前原誠司代表が希望の党に「公認申請すれば排除されない」と党内に語っていたことを問われた記者会見の場面での言葉で、記憶されている人も多いと思う。
小池都知事・代表のこの一言で希望の党は総選挙で惨敗し、小池知事も「小池総理」への野望を棒に振った瞬間だった。
同じようなことが菅首相によって繰り返された。高支持率で発足した菅内閣だったが、日本学術会議の会員の任命に際し、6人の推薦者を除外したことが発覚したからだ。
この件に接したとき、最初に思い浮かべたのは「由らしむべし、知らしめべからず」ということわざだ。辞典によれば、人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることは難しい。それが転じて、為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわかれさせる必要はない、という意味になったという。要するに、管首相は、自分の言うことを黙って従っていればいいのだ、ということを態度で表したのだ。
今回の任命除外については、すでに学術会議の「推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する」という日本学術会議法に違反していること、しかも除外理由を公表していないことなど、当事者や各界から厳しい批判が巻き起こっている。
この任命除外に対し菅首相は、学術会議も国費が投入されている特別職の国家公務員に対する首相の任命権にもとづくものであり、前例踏襲という悪しき習慣を改革したものだ、と強弁している。
しかし学術会議法のこうした解釈は、学術が戦争に加担した過去を反省し、「政府から独立して職務をおこなう」という学術会議の基本的な位置づけを踏みにじるものであることは明らかだ。
このことは、憲法第6条の「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する。」という内閣総理大臣を、天皇が任命拒否するケースがあり得ないことを考えれば、すぐにわかることである。
菅首相は、行政職である普通の国家公務員という、いはば行政機関内部での所属長と職員の関係のなかでの人事権行使と同列に、独立した外部団体への人事権の行使と同列に扱っていること自体が間違っているのである。
こうした〝理由なき排除〟は、同様の人事での官邸専制人事の行使を意味する。それは、行政機関だけでなく、内閣が関わる全ての機関・団体にまで内閣の人事権による支配権の確立をもたらす他はない。
◆手法は情報統制と人事権
菅首相はなぜこんな無理筋な任用拒否をやらかしたのだろうか。それは安倍首相による乱暴な人事によって政策実現を強行するという統治手法を踏襲している、ということなのだろう。
菅首相は「人事は政権のメッセージ」だというのが口癖だという。現に、「方向性が違う官僚」に対しては「移動してもらう」と明言してきた。官邸に逆らう官僚は左遷させるということだ。すでに実績は十分積んできた。
たとえば菅案件とされる「ふるさと納税制度」では、「返礼品競争を招く」「高所得者ほど節税効果が高まる」と、まっとうな問題点を指摘した総務省の次官候補だった局長を省外に追い出してしまった。これは霞が関の官僚を震え上がらせた、と語り草になっているという。
安倍首相時代でも、人事権の行使によって霞が関の官僚に対して政権の意向を強引に実現する手法が目についた。たとえば元東芝会長の西室泰三氏を就任させた日本郵政社長の人事、集団的自衛権の行使に前向きだった小松一郎元駐仏大使を内閣法制局長官に就任させた人事、国土交通省から出向したキャリア官僚の指定席だった海上保安庁長官人事で生え抜きを抜擢した人事などだ。
人事権による統治方式の次は、情報統制だ。
菅首相は、以前の取材に際して、13年に起こったアルジェリアの天然ガスプラントで発生した日本人を含む人質事件の対応で〝政権の動かし方を体得した〟と語っていた(20.9.14 山岡 淳一郎)。菅首相が内閣官房長官だった当時、日本人10人を含む人質37人が死亡した事件だった。その事件での日本人救出策などについて、多方面から集まる情報を統制して一元管理し、閣僚がバラバラに発言するのを封じて、安倍首相が決断できるお膳立てをした。「あれで政権の動かし方をがわかってきました。」と語っていたという。内閣官房には、内外のあらゆる情報が集まってくる。それを一元管理しつつ、自らの統治の都合に合わせて各所に分配・指示するというわけだ。
菅首相は、未だに自身の政権構想をまとまった形では多くを語っていない。そうした中で、情報統制と人事権による強権的な政権運営手法だけはすでに身に付け、それが大手を振ってまかり通っている。今後の推移如何によるところも大きいが、強権政治が最大の特徴という内閣になるのだろうか。
◆安倍継承の対中包囲網づくり
その菅首相、安倍外交を継承する、としただけで、まとまった外交政策について何も語らないまま、最初の外国訪問をベトナムとインドネシアにした。
最重要の同盟国の米国には、大統領選間近のため訪問棚上げ。対立を深める韓国には、徴用工問題の解決抜きに首脳会談はできないとの姿勢だ。そこで選んだのがベトナムとインドネシアだった。
菅首相が、最初の外国訪問国としてベトナムとインドネシアを選択したのは、それなりの理由がある。南シナ海などで勢力圏の膨張を進める中国を牽制する「自由で開かれたインド太平洋」構想の構築のためだ。かつてのベトナム戦争ではベトナムの最大の後ろ盾になっていた中国だが、その後は両国間で戦争もしたり、いまでは西沙諸島の領有権問題で中国と対立している国だ。インドネシアも南沙諸島を取り囲む9断線問題で中国と対立する東南アジア諸国連合の大国だ。
その「構想」は、安倍首相が16年に提唱しその後米国も同調するようになったもので、以前は「戦略」という位置づけだった。主目的は対中包囲網づくりで、安倍首相主導による「戦略」構想がベースになっているものだ。今回の両国訪問では、南シナ海などでの相互協力を深めることの他、日本からベトナムへの武器輸出での協定締結も合意した。
おまけに、今回の両国訪問の直前の10月6日には日米豪印4カ国外相会議を日本で開催し、それを定例化することを確認している。さらには豪州軍を日本による「武器等防護」の適用国にするなど、周到な事前準備した上での、対中包囲網づくりの意図が明白な訪問となった。
この菅首相の両国訪問に対し、中国は警戒感を隠さない。ただ9断線による南シナ海の囲い込みは、明らかな中国の膨張策であって地域の安全・安定を損ねるものだ。ただし、領土問題に対して、国家主権をぶつけ合うだけでは、ナショナリズムの衝突、軍事的緊張を拡大してしまうだけだ。基本スタンスは、あくまで関係国の国民レベルでの国家間競合や戦争への警戒、領土・領海の共同管理、共同利用の促進に置くべきなのだ。
菅内閣の軍事・安保政策では、当面問題になるのが、陸上イージス・アショアの代案問題、それにも絡む敵基地攻撃能力の保有問題だろう。この問題も、表向きは北朝鮮による弾道ミサイルの脅威に対する対抗作戦として語られている。が、実態はむしろ対巡航ミサイル防衛にも絡んだ対中対策として、また先制攻撃可能な普通の国づくりの文脈で進められているものだ。菅政権による暴走への警戒は怠たれない。
◆じわっと安倍離れ――田中曽根内閣?
菅政権は、内政外交とも基本的には安倍政権を継承するとしている。政権発足1ヶ月半の時点では、まだ菅カラーへの転換が進んでいるとはいえず、安倍首相の残影を引きずる二股路線の発足としか言い様がない。
現時点で菅政権の政策展開では、安倍首相のようにイデオロギー先行の政権ではなく、個別政策で国民・有権者の信任を受けようとする姿勢が垣間見えるだけである。携帯料金、デジタル庁、縦割り行政の是正、GoToトラベル、地方創生、観光立国などだ。
携帯料金引き下げでは、国民・利用者の利便性を高めるなどと言っている。が、実際は家計支出の適正化で他の業界への家計支出の誘導を意図したものでしかない。「利用者の利便性」は表向きの話、要は他の国内産業へのテコ入れが目的なのだ。
それにデジタル庁についてはは、マイナンバーカードの普及や国民背番号制度の導入などにもつなげるもくろみもあるのだろう。
かつて中曽根内閣が発足したとき、田中角栄元首相の後押しで成立した事情で、〝田中曽根内閣〟〝直角内閣〟だと揶揄された時期があった。しかしその後、政権発足後ほぼ2年後に田中角栄が脳梗塞で入院した後には自民党内部で君臨するようになった。その中曽根内閣は、「戦後政治の総決算」「日本列島不沈空母化」や「大統領的な首相」への野心をあからさまにし、ほぼ5年間という長期政権を継続したような事例もある。
今後菅政権がどういう方向に進んでいくか、未だはっきりしないが、強権政治への傾斜だけは、確かなようである。
◆日常的な草の根の闘いから
菅政権に対する包囲網づくりを考える場合、菅政権の支持基盤を考えることが重要な課題になる。安倍政権でも見られたが、菅政権に対しても、若者の支持率が際立って高い、という現実だ。単なる世代論や世代間対立としてみるのではなく、現在の日本の政治風景をどう捉えるかが不可欠の課題になっていると考えるからだ。
安倍首相が辞任した時点で、安倍内閣への支持率が急高騰した経緯があった。それまでの30%割れや30%台の支持率が60%、70%に急上昇し、併せて自民党への支持率も高騰したからだ。
その菅内閣だが、発足1ヶ月で例の日本学術会議の新メンバーのうち6人が認容されなかった問題で、マスコミ各社の世論調査で菅内閣の支持率が大きく落ち込んだのだ。
例えば、読売新聞の調査では、菅内閣支持率が74%(9月)→67%(10月)、不支持――14%(9月)→21%(10月)と、大きく落ち込んだ。注目はその年代別支持率だ。18~39才――78%(前回は76%)、40~59才――68%(前回は74%)、60才以上――58%(前回は74%)だ。3世代間で10%づつという明確な違いも特徴的な傾向だ。低下率はなんと、40~59才ではマイナス6%、60才以上ではマイナス16%であるのに対し、18~39才では2%しか下がらなかったのだ。
朝日新聞の10月調査でも、同じような傾向が出ている。それによれば、全体では支持率が65%から53%に12ポイント低下、不支持率が13%から22%に9ポイント増加、という結果だった。
次に年代別支持率だ。
傾向は明白だ。50才以下と50才以上で明らかな差が出ている。50~59才では13%、60~69才では18%、70才以上では14%下がっている。対して29才以下では6%、30~39才では2%、40~49才では9%しか下がっていない。とりわけ30~39才では支持率がマイナス2%、不支持率が+1%の変化だ。全体では菅内閣への支持率が大きく落ち込んでいるのに対し、とりわけ30~39才の支持率が、誤差の範囲とも言えるほど、下がっていないという事実だ。
理由はいろいろ指摘されている。浸透する自己責任論、政権への無力感、はびこるネトウヨ、安定志向、孤立感などなど、だ。
若者の内閣支持率の高さは客観的な事実だ。若者ほど現在の生活への満足度も高くなっている。また自民党の支持率の高止まりと野党への支持率が低迷し続ける事態も含めて、このジェネレーションギャップを埋めていかない限り、自公政権を追い詰めていくことなど夢のまた夢だろう。
◆草の根からの陣形づくり!
まずは観客民主主義からの脱却が不可欠だ。政治を自分自身の日常の生活と結びつけるためにも、自身の身の回りに存在する労働組合や各種NPOなどの活動にふれあい参加することで、自分自身と国政をつなげて考えるようになる。政治に対して、連帯した対抗策を話し合うこともできる。
そうした草の根の日常活動に参加することで、国政の様々な課題が、自分の生活と密接に繋がっていることも実感できる。
若者は、現在もそうだが、これからの社会を中心的に担っていく存在だ。そういう若者のエネルギーを引き出すような活動が今こそ求められているときはない。
先月、非正規労働者の均等待遇を求める最高裁判決で、いくつかの前進があった。各種手当てでは労働者の要求が認められたが、ボーナスと退職金の要求は認められなかった。基本時給の格差をはじめ、格差の主因であるボーナス・退職金での差別を容認した最高裁判決は、まさしく企業側の意向を反映した実質的格差維持の判断だった。
ただこの裁判の意義は、たとえ少数であっても、自分たちの要求を具体的な行動によって主張していくことの重要性にある。自分たちが行動すれば、事態を動かしていけるし、その実例と確信をもたらすからだ。
現代の若者は、私の知る限りでも、自分、あるいは自分たちの行動が、現状を変える力を持つことを実感していない。でも、日常の活動に同調する人が一人増えることで、現状を変える可能性は確実に高まる。そうした取り組みや経験の積み重ねが自信となり、力になるからだ。そうした地道な活動を着実に積み重ねていきたい。
菅内閣は、学術会議問題もあって支持率は急降下している。ご祝儀、期待感相場もいずれ縮小する。また首相著書の改訂版の出版では、公文書管理を記述した章を消去して出版するという姑息な姿も見せた。菅首相を追及する場面は今後いくらでも増えるだろう。
現時点ではっきりしているのは、管首相、管内閣が、情報統制や人事権を行使することで、強権政治を深めていくだろうことだ。草の根からそうした強権政治への対抗勢力を拡大していきたい。(廣)
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菅政権の日本学術会議「6名任命拒否」を許すな!
菅政権が日本学術会議の任命名簿から6名を除外したことの問題点を3つあげたいと思います。
1、日本学術会議の趣旨を真っ向から否定
そもそも日本学術会議が発足したのは、戦後日本を平和国家として再出発させるにあたって、戦前の大学や科学者が軍事研究に加担したことを反省し、今後はそのようなことがないよう、平和的立場から社会に貢献することを決意したからにほかなりません。
今回の人事介入はこうした日本学術会議の趣旨を真っ向から否定する暴挙であり、厳しく糾弾されなければなりません。
2、安保法反対者を排除し軍事研究を促進
今回任命を拒否された6名の学者が、2015年の安保法制に反対の意見表明をした方々であることからも分かるように、菅政権は日本の軍事大国化に反対する研究者を排除する意図があるのは明白です。
その背景には防衛産業の研究開発を促進し、海外への武器輸出で利益を得ようとする資本主義の軍需産業化の圧力があり、大変危険なことです。
3、「会議の在り方」にすり替える「人事独裁」を許すな!
菅政権は「日本学術会議のあり方」に論点をすり替え、行政改革論議で煙に巻いてウヤムヤにして乗り切ろうとしていますが、問題はそんなところにはありません。
あくまで今回の人事介入を誰が、どういう理由で行なったのはを明らかにさせ、6名を速やかに任命し、政権の違法な人事介入の責任を取らせるべきです。
人事権を違法に行使し反対者を排除する「人事独裁」国家化をはかる菅政権を断固許さず、労働者市民が声を上げていきましょう!(松本誠也)
コロナ臨調は「泥縄の政府の政策により被害は深刻化した」と総括すべきだった
専門家19人の作業部会を設け、安倍晋三首相(肩書はいずれも当時)や菅義偉官房長官、西村康稔コロナ担当相をはじめ、政府関係者ら83人に延べ101回のヒアリングとインタビューをした。検証期間は国内初の感染者が確認された1月から7月までの半年間だと報道があった。
当然ながら政策実証は不可欠だ。とりわけこれだけの社会問題となったからにはコロナ禍対策の検証は徹底的になされ今後に生かすべきだろう。ところが「泥縄だったけど、結果オーライだった」(民間臨調)と。安倍政権下での新型コロナウイルス対策は、この一言に象徴される、と言うのは正しいのか?
少しも「オーライ」ではなかった。たとえば、新型コロナによる日本の死者(人口当たり)は、世界の標準であり、「コロナウイルスにある程度耐性がある」とされる東アジア地域では最悪の被害であった。ゆえに「泥縄の政策で被害は深刻化した」と総括すべきだった。
◇ ◇ ◇ ◇
官邸主導の「一斉学校休校」の暴走やアベノマスクの茶番は無意味で無駄であった。そして海外渡航制限の遅れは被害を拡大した。その背後には「東京五輪強行」「安倍のレガシーづくり」の野心も見え隠れする。
さらには「PCR検査拡充せよ」の国民の声に対する国家による抑制指導は、社会不安をあおり医療の適切対応を混乱に追いやったのだ。これらは今でも是正が中途半端である。その背後にある、積年の医療体制・検査体制の予算カットこそがまさに問題であり、中長期的に是正されるべき課題だが、スガ政権はあろうことか無感心だ。
政府の混乱と言えば「外出自粛」を経済界の圧力でゴーツー・キャンベーンに切り替えたことも指摘すべきだ。学校休校や外出規制が、労働や雇用の崩壊と経済の委縮に行き着くことは自明のことであったが、政府は「生活補償」に消極的であった。そして、経済回復が遠のく中で、一度ばかりの補償で現在では打ち切りを関係閣僚が明言している。許しがたいことだ。
日本政府は、全体として対応政策に失敗した。そもそも守るべき高齢者や基礎疾患者をしっかりまもり、他方では、国民に対する過剰な行動規制をとるべきではなかった。そして、そのためには検査体制拡充と同時に「陽性者」とくに無症状者・軽症者に対する現実的な対応が不可欠であったがそれにもたつき、無用な医療体制の疲弊や危機を生み出させた。医療リストラ政策の撤回もしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
世界的な視野で見ても、コロナ対応政策は現在でも混乱を続けている。
武漢・湖北省のロックダウの開始とその一定の成功により、ロックダウン政策があたかも「標準的な感染症対策」とみなされたことは、その後の禍根を生んだ。それは経済的打撃を生み出し、現実問題としては貧困者・賃金労働者の犠牲のもとで遂行され、階級的な差別的な感染症対策となった。
世界的にも「コロナ倒産」「コロナ解雇」「経済格差拡大」が深化し米国などでは「貧困層の感染拡大」にもつながった。インドでは出稼ぎ労働者や貧困街で暴動が多発した。 ロックダウンや日本などの無差別の移動制限は例えれば「消費税」のように一見国民に等しく忍耐を強いるように見えるが、弱者しわ寄せ、労働者・勤労者への犠牲転嫁政策であり、「規制には生活補償を」の怒りの声に安倍・菅政権は一度だけの給付で答えたのみだ。
「コロナ臨調」による「結果オーライ」論はとても認められるものではない。
このように、感染症対策といえども階級的な弱者しわ寄せ政策として前面に押し出されてきた。資本とその政府は社会危機(大不況や大災害、疫病など)に際してまさにこのような行動をとる。このことを強く警告したい。(阿部文明)
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「敵基地攻撃力の獲得」の軍事的意味
◆アベ軍拡の流れを振り返る
イージスアショア計画撤回とともに、再び三度「敵基地先制攻撃能力獲得」の声が反動派から叫ばれています。この問題を簡単に振り返りましょう。
まず、自衛隊は”いずも”など三隻の空母を所有し運用しつつあり、米国に次ぐ海外武力展開能力を獲得しつつあります。イージス艦も八隻体制。日本周辺だけでは過剰なイージス艦は、もちろん「護衛艦」として旭日旗空母打撃軍の「護衛」に当たる。つまり、そもそも海外武力展開のために着々と積み上げられた総合計画の全貌があるのです。(英仏やロシアでさえ空母は一隻)日本海軍の任務はすでに戦術としての「専守防衛」どころか「国防」でもなく戦略としての「インド太平洋構想」のもとに正当化された対中国武力対抗路線を歩んできました。米軍と連携した世界戦略です。米国の西アジア太平洋戦略である「オフショア・コントロール」については詳しく述べられませんが、琉球弧と台湾と南シナ海のラインで中国を軍事包囲するものです。日本は地理的にその最前線に位置しています。
付加すれば、最近成立した水陸機動団は、指摘されるように和製海兵隊。これは、孤島防衛などではなく海外侵攻(上陸)能力の獲得ですし、政府が欠陥機オスプレイに固執するのもこの軍団の速やかな海外兵力展開・占領に不可欠の輸送能力と軍部が確信しているからにほかなりません。本音では自衛隊は強襲揚陸艦が欲しいのですが、日本の小型空母に兼務させる姿勢もうかがわせています。
◆いまさらの「敵基地攻撃能力獲得」?
こうした中で出てくる「敵基地攻撃能力の獲得」論の意味を考えるべきです。たとえば話題として出てくる巡行ミサイル攻撃(スタンドオフミサイル)導入を単独の兵器として切り離してみてはいけません。安倍政権下での最新鋭ステルス戦闘機F35の大量発注(空母搭載用など)にもみられるように「敵基地」攻撃の能力どころかその継続性や上陸=占拠・占領能力の獲得という総合的な戦略がすでに積み重ねられてきました。ステルス性能が高く作戦行動半径の広いF35は、九州からでも攻撃参加可能だし、日本海の空母からなら北朝鮮の全域で作戦行動が可能でしょう。すでに日本には北朝鮮の基地攻撃能力は存在するし、現在の軍事的課題としては「敵の」反撃力を根こそぎにする戦力獲得でしょう。
さて、「敵基地攻撃能力」論は、ズバリと言い切れば朝鮮半島などに現実的に攻め込みうる、そして占拠し「敵」の反撃力を封じる総合的な攻撃とそれに必要な他国侵攻能力の充実だといえるでしょう。その意味では自衛隊・反動政治家らの危険な地金が露見したということなのです。
(ここで立場を変えてみましょう。北朝鮮は自衛隊基地あるいは在日米軍基地を先制攻撃できる「能力」がありますが、日本に侵攻して占拠・占領する意思も能力もないでしょう。しかし日本はその力を持とうとしているということ。)
このように簡単に振り返ってもジャーナリズムや「赤旗」らの「専守防衛を外れるな」「憲法守れ」(東京新聞)などと安倍・菅政権に注文を付けることはあまりにもズレズレの話だといわなければなりません。
「日本は既に「敵基地攻撃能力」を相当程度保有している、 憲法9条との乖離(かいり)は限界に達し」た【共同通信8/1】というリアルな指摘も少ないながらやっと出てきたのも当然です。
◆軍事エスカレートを起こすのは不可避
再三指摘してきたところですが。敵の攻撃の機制を制する「敵基地攻撃」が、「防衛」的な軍事行動、などと言う屁理屈は言うまでもなく成り立たない。この行為はまちがいなく先制攻撃です。そしてそれを引き金として全面的戦闘に発展する可能性が高い。なぜなら日本の先制攻撃に対して、この「敵国」からの報復に遭遇するのはあまりに明らかです。ゆえに敵基地攻撃にしても「他国領土攻撃」であるにしても全面的な戦争行為に必然的に転化する恐れがある。このことを政府は明確にすべきで「敵基地攻撃」などと自分の行動を何か抑制的で限定的なものとして矮小化すべきでない。
その全面戦争にも備える・・というのであれば、「敵基地攻撃」の質が問題になる。つまり計画的組織的な「敵」攻撃力の破壊と「敵地」占領も視野に入るのではないか。つまり、このように「敵基地攻撃計画」は、全面的攻撃(陸・海・空)までプランとして立案することになるはずです。巡航ミサイルを数発撃って「作戦終了」とはなるはずがありません。
自民党のミサイル防衛に関する検討チーム(座長・小野寺五典元防衛相)は7月30日、党本部で開いた会合で政府への提言案を了承した。北朝鮮などのミサイル技術向上を受け、「相手領域内でも弾道ミサイル等を阻止する能力」の保有を求めつつ、検討は「憲法の範囲内」で行うと発表し、マスコミは「敵基地攻撃の表現避けてトーンダウンした」などと報道した。しかし、それは大間違いです。「相手領域内でも弾道ミサイル等を阻止する」戦力とは何か?遠方からミサイル撃つだけではなく侵攻作戦を可能とする総合戦力獲得も含むものではないのか?その余地を残したのではないのか。
プロイセンのクラウゼヴィッツ将軍はかつて「どのような戦争でもいったん開戦されれば《絶対戦争》の形態に近づく」と考えた。つまり、どのような戦争も全面戦争に向かう軍事的指向性が強力に働くと指摘しています。さらにそれを阻止・制御するのは、外交と政治であると主張した。戦争とは別な手段をもってする政治の継続だからです。戦争を阻止し、またその拡大を制御するのは、内政外交という政治だ。
だが、「敵基地攻撃」獲得を目指す自民党の連中は、政治や外交で本来の政治目的(例えば極東の平和と軍縮)を果たそうという姿勢が全く見られない。かれらは、あたかも旧陸軍がそうであったように、軍拡及び戦争を自己目的にしているとしか私には思えない。彼らの安易で軽率な発言を聞けば、実際の戦争行動が軍事対決の自己運動に従って拡大し、クラウゼヴィッツのいう「絶対戦争」そのものの姿に近づく危険性がある。自民党や安倍・菅政権には、それをコントロールするという姿勢や視野が欠けている。
このように「敵基地攻撃能力獲得」の動きは、「自衛隊」が米国流の侵略的軍隊に飛躍することであり、憲法九条を生き埋めにすることであり、しかも矛先は決して北朝鮮に向けられているのではなく真の目的は中国と対峙することです。フィリッピンが米国と距離を置く中、インド、オーストラリアを日米同盟の端役に引きずり込むこと、さらに東南アジアを中国と離反させることに安倍と菅政権は夢中です。「敵基地攻撃能力獲得」がどれだけ危険なものであるかは論を待たない。
◆南西シフトと「自衛隊」の変貌
イージスアショア設置計画はそもそも日本の防空・国防にも資せず、むしろ米国の対中国・対ロシアの(ミサイルの)監視が主眼であり、貿易赤字を抱える米国に押し付けられた面がありました。だから、「イージス止めるなら敵基地攻撃ミサイルの獲得を」というのは本来軍事的にトレード関係にはないもの。自衛隊中枢の本音は「米国のために無駄な金を使うな、日本独自の軍事力増強に集中せよ」ということ。その際、自衛隊出の中谷元防衛相は「辺野古基地建設も再検討」と主張しています、米軍のために資源を使うなら自衛隊の強化に使え、という日本軍の本音です。
それは今自衛隊が恐ろしく変貌しつつあることと関連します。すでに論及した琉球弧は与那国島、沖縄本島をはじめ石垣島、宮古島がありさらに奄美大島など九州につながる諸島です。住民の反対のさなか、現在大規模な基地建設が進んでいるのです。(予算はいくらあっても足りないでしょう)これらの自衛隊基地群は、日本が熱心に参画する米国のオフショア・コントロール戦略のまさに最前線基地で、もちろん日本軍が島々に居座り中国軍と対峙するものです。(阿部文明)
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暗号通貨、リブラ、CBDCそして円・ドルの今
ビットコインの価値の仕組み理解できない英中央銀行総裁の話から。イングランド銀行総裁にしてこの発言です。「ビットコインが本質的な価値を持っているとは考えにくい」と言いつつ「人々が欲しがっているという意味で、ビットコインは本質的な価値を持っているかもしれない」。『ビットコインの本質的な価値理解できず=英中銀総裁』[ロンドン 10月12日 ロイター]
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そもそも現在の「貨幣や通貨」とは何者なのか?金銀貨幣のようなそれ自体として価値物ではありません。同時に金を裏付けとした銀行券として信用貨幣として流通する過去はあったが、兌換停止なので今や円・ドル・ポンドは金という価値実態と切り離されています。とりあえず円とは「国家による信用創造と強制通用力」によって成り立つ「信用通貨」と呼んでおきます(深入りしません)。つまりここで重要なのは、円が独立した価値物として流通手段や価値尺度機能を内在していないということです。
では暗号通貨・仮想通貨の場合はどこが違うのか?まず、ビットコインの「価値」ですが、これは経費と労力のかかるマイニング(採掘)作業があるという意味では、多種労働の投下されたものであり、解説レベルの本によればこの際の莫大なコンピューター作業とと投下労働は「ビットコイン流通ネットワークの維持に貢献する」仕組みだという。ならば、そのマイニングされたコインの「価値」は「有用」労働による裏付けがあるということになるでしょう(ProofofWork)。
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ビットコインは「金」によく擬されます。確かに原理的に現代の円・ドルなどとは異なる。円ドルは、それ自身無価値であることは少し考えればわかることです。国家が付与する強制的な通用力で、交換手段、決済手段として流通するわけです。それとは真逆です。ビットコインはネットワーク上であたかも価値「物」として運動する。したがってここが大切なのですが、同コインは各種の「国民」通貨が為替相場にて乱高下するのをしり目に、直接的な国際取引が成立する。しかも金のようなリスキーで困難な「現送」作業もなく瞬時に決済が実現する。この機能において暗号通貨ほど便利で安心できるものはないとも言えます。
ピアツーピア(P2P)によって実行される取引はブロックチェーン技術によりネットワーク上で分散管理され、全体からタイムスタンプが打たれて承認される。参加者全員がそれを自分の台帳で事実として確認するのだから覆されることがない。また区別され区切られうる価値「物」である(コインと称せられるのもそのためです)。金は摩耗し減価するが、暗号通貨は摩耗しない。価値尺度機能もある。発行者がなく(金貨幣鋳造ですら国家が関与するが)徹底して非中央的なもの。この範囲では金と類似であるといえます。
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しかし、仮想通貨=暗号通貨は現在、一般国民通貨である円・ドル・ポンドらによって「価格表示」されるという倒錯関係にあります。この価格変動が投機的動機も重なり激しく価格が上下動する。さらに、ビットコインはマイニングが次第に困難になり、単位当たりの投下労働量が増大し「労働価値」が上昇するように仕組まれていると言います。
それを知る投機家は、「必ず将来は青天井に(円ドルポンドに比較して)上昇する」と見込んでいるよう。暗号通貨は現代通貨制度の不備や真の普遍的な国際貨幣の不存在が生み出した鬼っ子とも言えますが、当面ビットコインは通貨として普及するより投機対象の「暗号資産」とみなされています。では将来「新国際通貨」になりうるのか?その資質は備えていても次に述べるように現実問題として不可能でしょう。
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注意したいことは、各国の管理通貨制度の元締めである「中央銀行」が、暗号通貨の取引拡大に不安と不快感を表明し続けてきたことです。
「ビットコインの価値が不確実」であり「支払い手段としてのビットコイン利用に注意を促」(同上ロイター)している、などと。
ビットコインは、どんな権威権力(例えば国家)とか、ゆるぎない「銀行信用」を具備した往年のイングランド銀行のような後ろ盾もありません。それは通貨ネットワーク維持と言う「有用性」を運用する労働のたまものだと言っていいのでしょう、だから初めから国際的存在なのでしょう。つまり金がそうであったように既存の国民経済・信用制度からは独立した存在なのです。「ネットワーク・セキュリティーが破られない限り」という条件付きですが。
しかし、正統派エコノミスト(そんな人がいるとして)は、こぞってそれを理解しないか、否定します。本音がもう一つあるからです。
さらに使い勝手の良い「暗号コイン」が現れて、万が一にも暗号通貨の利用拡大が続けば、中央銀行の意義は喪失し管理通貨制度の脅威になりうるからです。だから有力企業まで暗号通貨使用が拡大することを恐れているのです。
現代の通貨制度と信用制度の大切な土台であり、現代資本主義の要諦であるこの制度を、総資本の代理人たる彼らは守り抜かなければないからなのです。
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とはいえ、技術としてのブロックチェーンを除けば暗号通貨をもてはやすつもりは全くありません。われわれが暗号通貨に何か期待を寄せるものは一切ありません。
金の国際通貨としての復権が不可能であるとすれば、同様に暗号通貨の国際通貨及び日常支払い手段としての普及を、資本主義の国家が放置することはありません。
もし、そんなことになれば考えなくともわかりますが、中央銀行の信用拡張と官製相場でバブル化した今の金融・経済に氷水をぶっかけるようなことになり、ふくれた経済的「富」の収縮が急速に生じるのは誰が見ても必至です。
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リブラは、フェイスブック利用者二十五億人(世界人口の三分の一)が、取引に利用できる国際的通貨になるはずでした。
リブラは国家・民族・銀行から独立して存在するものではなく、ビットコインとは異なります。暗号通貨のテクノロジーを活用しつつ「リブラ・アソシエーション」という二十八社の金融・テクノロジー大企業に支配されたものです。「資産の裏付け」として各国貨幣が当てられ、そのため当然にも為替変動も考慮されざるを得ないものです。
こんな中途半端なリブラですが、その計画が発表されるや否や各国政府金融当局と中央銀行が非難の大合唱を開始。国権的なフランス政府は「通貨をつくれるのは中央政府だけ」であると彼らの立場を明確にしました。こんな寸足らずのリブラでも、中央銀行の権限を脅かすものとして排除されたのです。
リブラ計画はこのままでは頓挫するでしょう。そこでリブラ・アソシエーションは、既存の金融界の大立者を役員として招き寄せることで、非難をかわそうとしていますがどうなることか。
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リブラの動きに刺激されて、現在急に注目を集めるようになったのが「中央銀行デジタル通貨(CBDC)」です。簡単に言えば各国通貨である円・ユーロ・ポンドなどがそのままにデジタル化され、中央銀行が発行するということ。
先行している中国のデジタル人民元の実証実験の例では、端末にチャージされた「元」が、ちょうどPayPayなどのように端末から店の端末に「支払われる」。技術的革新はたくさんあるが、経済的な意味では何の新味もなく「国民通貨」を一歩も出るものではありません。
発行主体と運営主体が国家なので、脱税阻止・マネーロンダリング阻止のほかにも、データ集積による人民の管理支配の一環だとの指摘もあります。また、中国のケースでは一帯一路計画の中で、デジタル人民元の普及を図り元の国際化(中華経済圏の拡大)の野望もあるようです。
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現状では相対的に有力な国際通貨といえばドルです。
経済力の世界シェアの縮小にもかかわらず、依然として43%程度の国際取引は米ドルです。ドル支配は米国の経済特権をもたらし軍事力とともに世界支配力(パクス・アメリカーナ)の源泉でもあります。
長年それに不満を持つ日銀や欧州中央銀行、イングランド銀行、スウェーデン中銀のリクスバンク、スイス国民銀行、カナダ銀行らに国際決済銀行も参加。彼らでデジタル通貨「共同研究」を始めることを表明しました。
ドルに対抗する(あるいは「暗号通貨」に対抗する)意思を示しています。一部に「新国際通貨」に結びつく期待感が表明されています。
しかし、共同研究により国際決済の時間短縮・簡略化などは可能でも所詮お里が「国民」通貨「各国」中央銀行なのでいずれにしても為替問題をクリアーできません。
統一通貨実現にはユーロ(?)のケースでもわかるように経済政策・財政政策のある程度の統合性が不可欠です。金融当局同士の話し合いのレベルではどうにもならないものです。
国際決済の効率化はある程度進んでも「新国際通貨創造」にはこれだけでは容易に到達できるものではないのです。現実としてこれら六か国・地域でそのような金融財政政策の統合は無理でしょう。
このようにグローバル資本主義の不可欠の前提である国際通貨秩序の安定を阻害しているのは、ほかでもなく資本主義とその政府自身なのです。 (阿部文明)
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大阪市廃止・分割=トコーソー反対!
11月1日、「大阪市を廃止し特別区を設置することについての投票」、いわゆるトコーソーの住民投票があります。(この記事は10月26日に書きました)
読者のみなさんが、この記事を読むころには住民投票の結果が出ているかもしれません。
まず維新がやろうとしている「大阪都構想」について説明します。
政令指定都市である大阪市を廃止し、4つの特別区に分割します。
現在の大阪市の歳入は約8600億円、特別区になると、「個人市民税」「軽自動車税」「市たばこ税」の3種類だけが自主財源で、約1800億円と4分の1に減ります。大阪府から「財政調整交付金」「目的税交付金」などをもらい、特別区の歳入は、約6600億円になります。
特別区は、2000億円少ないですが、この2000億円は大阪府の財源となります。大阪府に入った2000億円の使い道は、大阪府が決めます。大阪府議会の中にしめる、大阪市選出の議員は3割しかいません。大阪市(特別区)のために使う金額はしれています。
そして、国から大阪府を通じて特別区に入ってくる地方交付税は、必要額より約200億円も足りなくなります。大阪市が、税収見通しが500億円減ると。
大阪市廃止・分割のコストは、15年で約1300億円かかります。
市の事務の消防・水道・救急・まちづくり権限などが府に移ります。
権限・財源が大幅に減るので、大阪市にとっていいことは、何一つありません。
これらに対し維新は、広域機能を大阪府に一元化すれば、二重行政を制度的に解消できる。住民サービスが拡充する。と言っています。
二重行政というから、維新はムダと言っていますが、府立図書館、市立図書館があればムダですか? 大阪府大と大阪市大があればムダですか? ムダではありませんよね。
住民サービスの拡充については、住民投票の賛否を問う「特別区設置協定書」には、特別区設置時点では住民サービスは維持、その後は住民サービスを維新するように努める。と書いているので、維新は、明らかにウソを主張しています。
維新が言う成長戦略も、結局はカジノなど大型開発への投資です。これで、多額の費用をかけても、儲かって税収が増えると。ほんま考えが博打ですね。
世論調査は賛否拮抗
前回のトコーソーの住民投票は、反対70万5585票、賛成69万4844票の僅差で否決しました。住民投票の投票率は66.83%と高かったです。今回もトコーソーを否決するポイントは、投票率を上げることだと思います。
共同通信社、産経新聞社、毎日放送、関西テレビは、10月23~25日、大阪市内の有権者を対象に電話による2回目の世論調査を実施しましたら、都構想への賛否は反対が43.6%で、賛成の43.3%とほぼ並びました。9月上旬の世論調査では、賛成49.2%、反対39.6%と9.6%も賛成が多かったのですが、よくここまで盛り返したと思います。
維新の狙いは、大阪府が大阪市の権限・財源を奪うことにあります。
以上みたように百害あって一利なしの、大阪市廃止・分割=トコーソー反対します。(河野)
何でも紹介・・・異論排除のスガ政治を許さない! ~核をめぐって考える~
毎月3日に「アベ政治を許さない!」スタンディングを、いつからだったかそんなに熱心ではなかったが続けていました。安倍さんが政権を下りたのでどうしようかと思案して、取りあえず「安倍なきアベ政治を許さない!」としたところです。
ところが、菅義偉という人物は単にアベ政治の継承にとどまらず、自ら悪だくみをめぐらす、浅知恵のようにも見えますが、それを力で押し通そうとしています。こういうねちっこいのは、おぼっちゃんの安倍さんのように分かり易くないものと覚悟しなければならないでしょう。ということで、これからは「異論排除のスガ政権を許さない!」というスローガンを掲げることにしました。
1 煙たい日本学術会議
その異論排除の第1弾として、日本学術会議が攻撃にさらされています。私が学術会議の名前を知ったのは3・11後の2012年、「高レベル放射性廃棄物の処分について」という論文(回答)によってでした。近藤駿介原子力委員会委員長が金澤一郎日本学術会議会長あて、2010年9月に「高レベル放射性廃棄物の処分に関する取組みについて」審議依頼したもので、コピーを保存していました。
高レベル放射性廃棄物の処分は「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」により、原子力発電環境整備機構(NUMO)が適地に埋め捨てることになっています。ところが、その適地を決めるための「文献調査開始に必要な自治体による応募が行わない状況が、依然として続いて」おり、だから〝いい知恵を〟といった原子力委員会の依頼は、次のような言葉で結ばれています。
「つきましては、貴会議におかれまして高レベル放射性廃棄物の処分に関する取組みについての国民に対する説明や情報提供のあり方についてよろしくご審議の上、ご意見くださるよう、お願い申し上げます。提言には、地層処分施設建設地の選定に向け、その設置可能性を調査する地域を全国公募する際、及び応募の検討を開始した地域ないし国が調査の申し入れを行った地域に対する説明や情報提供のあり方、さらにその活動を実施する上での平成22年度中にとりまとめられる予定のNUMOによる技術報告の役割についての意見が含まれることを期待します。」
これは既定方針通りにことが運ぶように、国民にうまく〝科学的〟説明をといった感じです。ちなみに、最終処分というのは使用済み核燃料を全量再処理し、プルトニウムを分離したあとの高レベル放射性廃棄物をガラス固化し、地下300メートルより深い岩盤に埋めることです。
2 見直し迫られた原子力政策
この依頼に学術会議はどのように応えたのか、まず前提において全量再処理の中止も含めた高レベル放射性廃棄物について検討するとし、既定方針にとらわれない姿勢を明らかにしています。入り口段階で、原子力委員会にとっては余計なことをということになっています。ここには、依頼と回答の間に3・11があったことも影響しています。
提言では、「原子力発電をめぐる大局的政策についての合意形成に十分取組まないまま高レベル放射性廃棄物の最終処分地の選定という個別的課題について合意形成を求めるのは、手続き的に逆転しており手順として適切でない、という判断に立脚し」、6つの提言を行いました。
①高レベル放射性廃棄物の処分に関する政策の抜本的見直し
②科学・技術的能力の限界の認識と科学的自立性の確保
③暫定保管および総量管理を柱とした政策枠組みの再構築
④負担の公平性に対する説得力ある政策決定手続きの必要性
⑤討論の場の設置による多段階合意形成の手続きの必要性
⑥問題解決には長期的な粘り強い取組が必要であることへの認識
学術会議は既定方針を否定し、「暫定保管と総量管理」を打ち出したのです。残念ながら原発の全面停止を言っているわけではありませんが、高レベル放射性廃棄物を増やし続けることに警告を発しています。「例えば、スウェーデンでは処分場のサイト選定の作業が進展しているが、その前提には、原子力発電からの期限を区切った撤退(フェードアウト)という考えが存在し、高レベル放射性廃棄物の総量増加に対する歯止めが存在している。」
3・11に触れて、「東日本大震災の経験は、現時点での科学的知見と技術的能力の限界を冷静に認識することを要請している。これに反して、特定の専門的見解から演繹的に導かれた単一の方針や政策のみを提示し、これに対する理解を求めることは、もはや国民に対する説得力を持つことができない」とし、ここでも既定方針への固執を強く批判しています。
さらに、「電源三法交付金など金銭的便益提供という政策手段により処理しようとするのは、適切でない」と厳しくこの国の常套手段、カネの力で危険な施設を押し付けるという政策にも釘を刺しています。この点は現在進行形の危機をはらんでいるところです。
3 埋め捨てではなく暫定保管を
それでは、学術会議が提起している暫定保管(最終処分ではない)とはどのようなものか。埋め捨ての危険性は言うまでもありませんが、現状で最終処分地を確保することなどできないでしょう。いま〝文献調査〟に手を上げている自治体も、10億円とか20億円とかの交付金を〝食い逃げ〟しようというつもりでしょうから。
暫定保管とは、「高レベル放射性廃棄物を、一定の暫定期間に限って、その後のより長期的期間における責任ある対処方法を検討し決定する時間を確保するために、回収可能性を備えた形で、安全性に厳格な配慮をしつつ保管すること」とし、その期間は「数十年から数百年程度」としています。
人は目に前から消えたものは忘れてしまい、なくなったと思いがちです。だから核のゴミも埋めてしまって問題解決としたいのでしょうが、それは自殺行為です。取りあえず見えるところにおいておき、どのように処分するのかを考え、合意を得ようというのが暫定保管の考え方です。
北海道の2自治体首長(と議会)が前のめりとなって文研調査の名乗りを上げました。前例となる高知県東洋町では町民の怒りを買い、応募した町長が出直し選挙で大敗して応募は撤回となりました。今回の2自治体が同じような経過を辿るのかどうかわかりませんが、財政的に立ちいかない自治体を追い詰めて手を上げさせ、地域を、人々を分断する、こんなことをいつまでも続けさせてはなりません。
4 核なき未来へ
時あたかも、稼働していた原発が次々と停止しています。3・11以後、再稼働した原発は9機です。関西電力では4機稼働していたものが大飯原発4号機が11月3日定期検査入りしたら原発稼働ゼロになります。四国電力の伊方原発3号機は広島高裁の仮処分で停止、残るは九州電力の4機のうちの玄海原発4号機のみです。
他方で、①エネルギー基本計画の見直し、②六ケ所再処理工場と燃料工場が審査合格、と核エネルギー政策はさらなる泥沼に向かおうとしています。梶山弘志経産相が「脱炭素は避けて通れないテーマだ」「原発は安全確保を前提とした上で欠かすことができない」(10月14日「神戸新聞」)などと言っているので、2030年度目標のベースロード電源として原発20~22%という幻のような数値を堅持するつもりなのでしょう。
10月15日、『NHKクローズアップ現代+』が「独自・核燃料サイクルなぜ?〝幻〟の見直し」で、2014年に東電の外部取締役から核燃サイクル路線に疑問が提されたとの情報を伝えました。独自取材で得た情報ということで、頑張った感があるのですが、結論は16兆円もの巨費を投じる核燃サイクルが動き出す前に慎重な議論が必要という緩いまとめでした。
引き返す機会は何度もあったけど、この国の原子力マフィアはどこまでも目先の利益、既得権益を手放すことができないようです。フクシマの放射能汚染水も、どうあっても海に垂れ流し、目の前から消し去ろうとしています。
高浜町の森山栄治元助役に絡んだ関電の原発マネー不正還流は、原発に巣食う連中の品性の貧しさを白日にさらしました。森詳介元会長(80)、八木誠前会長(70)、岩根茂樹前社長(67)ら計9人に対する刑事告発が10月5日、ようやく大阪地検特捜部に受理されました。5000人を超える怒りの告発、私もその一員になっています。
米国の核の傘に守られ、核兵器禁止条約には背を向ける、それでも唯一の被爆国として核廃絶を目指すなどと寝言を言う恥ずべき国家の恥ずべき責任者。菅義偉という政治家も同地道を進もうとしています。私たちが進むべき道は、核の脅威から解放された未来を目標にすべての核から手を引くことです。 (折口晴夫)
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読書室 佐々木 隆治氏・志賀 信夫氏編著『ベーシックインカムを問い直す』法律文化社 2019年10月刊
○本書は、日本における現時点でのベーシックインカム実施はすべての人々の幸福に貢献できる政策にはなりえないことを、三つの観点から、つまり反貧困運動等、世界各国の実例等、理論的考察等で精査することによってベーシックインカムを再考したものである○
9月23日、BS・TBSの「報道1930」で、東洋大学教授・パソナグループ取締役会長の竹中平蔵氏は「毎月7万円のベーシックインカム」の導入により、「生活保護や年金をはじめとする社会保障を廃止する」との大胆な提案を行った。日本の全人口を約1億2千万人とすると、年間で約84兆円となり、2019年度社会保障給付費(医療・年金・介護・生活保護等)の合計は、年間約120兆円である。したがって確かに机上の計算では、この約120兆円を組み替えればベーシックインカムの財源は余裕をもって確保できる計算となる。そのため、竹中氏の発言は今大きな波紋を広げてきているといえる。
竹中氏提案のベーシックインカム論を正確に認識する上で、本書は私たちにとり掛け替えのない武器となることは疑いない。限られた紙面ではあるが、そのことを展開したい。
本書は三部構成になっている。第Ⅰ部は、日本の現状とベーシックインカム、第Ⅱ部は、世界のベーシックインカム、第Ⅲ部はベーシックインカム論再考である。そして本書の締め括りとなる第11章は、これまでの議論を踏まえつつ、ベーシックインカムと資本主義システムとの関係について考察している。筆者は編集にも加わった佐々木隆治氏である。
佐々木氏によれば、ベーシックインカムについては行政の効率化を求める新自由主義的な論者だけでなく、深刻な雇用状況を背景にして福祉国家のワークフェア(社会保障給付を支給する際に、その代わりに受給者に就労を義務付けること)的政策に批判的な左翼によっても提唱されてきた現実がある。しかし彼らに欠落している論点は、なりよりも資本主義システムが人類史上極めて得意な生産システムであり、それ自体が強力な権力作用を持っている事実である。この点を踏まえるならば、ベーシックインカムを、単なる貨幣の再分配、あるいはそれによる普遍的な所得保障に解消することは出来ないのである。
すなわち資本主義システムにおける市場は、単なる交易の場としての「いちば」ではなく、社会的生産を編成する性格と機能を持つまでに発達したものである。また貨幣も単に交換を便利にするための中立的な道具ではなく、その市場で機能する貨幣となっている。
かくして私たちは資本主義における市場の独自性格とその機能と貨幣の弾力性、さらには貨幣の権力性を指摘せざるをえない。
この市場機能は資本主義的生産の特殊性と結びついており、それは社会的分業がバラバラな私的生産者によって担われていることで成り立つ。彼らは互いに生産物を交換する時にそれらは初めて商品となり、互いにその商品を値踏みし合うことにより市場となる。
このように私的生産者たちは値踏みして交換する時には、彼らの生産物の持つ有用性とは区別される社会的力をそれらが持つものと意識する。マルクスはこの社会的力を価値と呼ぶ。つまり資本主義システム下の市場とは価値を持つに至った商品の交換の場である。そしてこのシステムが創設されるには組織された暴力が必要だった。市場の成立により私的生産者たちは商品に支配され、それに依存する生活が待っていた。マルクスはこの社会的力を持つモノを物象と呼び、人間の経済活動が物象に規定され制御される転倒した事態を物象化と呼ぶ。マルクスはこの概念で市場の独自性格の理論的表現としたのである。
同じく単なる交換から市場が生まれたのではないように、貨幣も単なる交換から生まれた中立的な道具ではない。貨幣の独自性は、その価値表現にある。商品は値札をつけているだけではその他の商品とただちに交換は出来ないが、貨幣はあらゆる商品と直接的交換可能性を排他的に持つものなのである。こうして貨幣は巨大な社会的力を持つに至る。
以上の基本を踏まえて初めてベーシックインカムとは何かを考えられるようになる。
すなわち市場により私的生産者は各々の商品を交換して社会的分業を成立させているのだから、自分の商品を持つとしてもぜひとも貨幣を手に入れなければならない。つまり市場の下では、人々は商品や貨幣という物象に依存しなければ生きていけないのである。
誰でも急病等で急な支出が必要となる場合、現物給付があれば助かるだろう。ベーシックインカムもあれば助かるであろう。しかし生活保障を確実なものとするためには、市場の偶然性に対する社会的な規制がなければ実現不可能となるだろう。さらに貨幣の権力性も大いに関係している。これらの要素は貨幣の再配分に深刻な影響を及ぼすからである。
現状のケアワークの商品化は、劣悪な労働条件下にある。また保育では無認可保育園の増加や介護現場では入居者に対する虐待事件が頻発している。まさに貨幣の権力性である。
一般にベーシックインカムのポイントは労働と所得を切り離すだと考えられている。これに関しては、「第Ⅰ部日本の現状とベーシックインカムの中の第1章労働の視点からみたベーシックインカム論」を書いた今野晴貴氏の考察に詳説されているので省略する。
最後にベーシックインカムの可能性を考察する。佐々木氏はベーシックインカムのみによって現在の社会保障システムの矛盾は解決できないし、ましてや賃労働を解き放つことなど出来ないとする。ではベーシックインカムには何の実践的意義もないかというとそうではないとした。ではどのような場合に意味を持つと佐々木氏はいうのだろうか。
アメリカや日本のような社会的基礎サービスの整備が不十分であり、その不足を各自が貨幣で入手しなければならない国とそれらが整備された北欧とは全く異なっている。労働運動と社会運動の長い歴史の中で構築された福祉国家の積極面とともにベーシックインカムが実現されるなら、福祉国家のワークフェア的側面を縮減し人々の自由の拡大にもなる。
この点、「ブルシッドジョブ」(全く無意味で不必要であり、あるいは有害であるため、雇用条件の一部として被雇用者がそうでないふりをすることを強いられているにもかかわらず、被雇用者ですらその存在を正当化することが出来ない雇用の一形態)を巡るD・クレーバーの議論は注目に値する。彼によると、1980年代以降の製造業離れとサービス業の増大の現象に隠されているのは、これである。この増加は可能な限り給付を抑制し、賃労働を促進しようとするワークフェア的な福祉行政によっても引き起こされている。
こうした強引な制度の創設とそれに伴う各サポート体制の整備、各種の煩瑣な申請事務等の無駄な労働をなくすことにベーシックインカムが役立つとクレーバーはいう。しかし現実には社会的基礎サービスの維持・拡張しながらベーシックインカムを実現することは困難であり、出来たとしても社会的基礎サービスや社会保障の切り下げとなるのである。
最近では、ベーシックインカムがポスト・キャピタリズムの文脈でも主張されるようになってきた。それは資本主義を前提とした上での「改良」ではなく、資本主義の終焉を見据え「ポスト・キャピタリズム」社会を構想するA・ネグリとM・ハートの議論である。
彼らの立論はマルクスの貨幣を一般的等価物と捉える立場とは異なってはいるが、貨幣を個々人の共同性に依拠するコモンとして位置づけ、新たな社会的紐帯としての貨幣を構想する。こうして彼らによると、「新しい社会関係」の創出とは国家による富の分配ではなく、生産及び再生産の協同的で民主的なプラットホームを形成し、生産及び再生産を自立的で持続可能なものに転換していくことなのである。最新作の『アセンブリ』に注目。
つまりネグリたちは、将来社会での貨幣の廃貨を考えたマルクスとは異なり、マルクスらが考えた労働証書とは異なる、新たな社会的生産に対する証書としてベーシックインカムを考えている。そして彼らの見解は今後検討するに値するものだといえるだろう。
さて竹中平蔵氏のベーシックインカム論に対する直接の反撃は、「第Ⅰ部日本の現状とベーシックインカムの中の第1章労働の視点からみたベーシックインカム論」を書いた今野晴貴氏によってただちになされている。詳しくは触れられないがこの部分の要旨が反撃の根拠になっているので、この力作のご検討を読者の皆様にはぜひとも期待したい。
かって竹中平蔵氏は、就職難の中で呻吟している若者を前にして、こう言い放ったことがある。「皆さんには貧しくなる自由がある」と。この発言は全く許せるものではない。
竹中氏がめざす今後の日本社会像に対抗していくためにも、NPOや労働組合などを通じて、各自生存する権利のために求め声を上げていくことが重要である。一方的に「上から」働き方や生活を決められることに従うのでなく、生活可能な賃金や社会保障を自分たちで「下から」求めて闘っていくことが、この状況を変えていくために必要なのである。
菅新首相は竹中平蔵氏と近い関係にあり、今後、竹中氏が新政権の経済・社会政策をリードしていくだろう。2000年代に非正規雇用労働者の拡大を推し進めてきた竹中氏が再度目立つ表舞台に立ち、国家や大企業の利益のために、私たちの生存権を一層脅かそうとしている現在、ベーシックインカムに関する本書の熟読が喫緊の課題である。(直木)
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「エイジの沖縄通信」(NO74)今年も「愛の母子像」前で横浜米軍機墜落事故のつどい
昨年の9月にも、この「横浜米軍機墜落事故」の事を取り上げました。
今から43年前の1977年9月27日午後1時すぎ、厚木基地を飛び立った米軍機(ファントム偵察機)が横浜市緑区荏田町(現在の青葉区荏田北)に墜落。
その日、米軍機(ファントム偵察機)は、厚木から千葉県館山の東南沖に待機する空母ミッドウェーを目指し離陸した。離陸後すぐエンジンから出火し、2名の乗員はパラシュートで即時脱出。ジェット燃料を満載した無人の機体は緑区の上空に取り残され、火を吹き轟音を立てて墜落した。離陸からわずか3分後のことだった。
墜落現場は閑静な住宅街。まだ土だった場所は墜落の衝撃で4メートルの穴が開いたという。炎は一瞬で6軒の家を焼き尽くし9名が負傷。
中でも、墜落の衝撃で分解したエンジンの直撃を受けた土志田和枝さん(当時27歳)と、ご主人の妹さん(26歳)は衣服が焼け落ちた姿で2人の子どもを抱え、黒煙の中から飛び出したという。しかし、3歳と1歳の幼い兄弟は大やけどで死亡し、母親の土志田和枝さんも4年4カ月の治療もむなしく亡くなられた。
私が、この横浜での米軍機墜落事故が本土では最悪・最大の米軍機墜落事故であることを詳しく知ったのは、東京新聞の「コラム」記事であった。
この記事を通じて、横浜でも悲劇を繰り返さないためにと横浜米軍機墜落事故の実態を伝え続けている齋藤眞弘さんの事を知り連絡を取った。
齋藤眞弘さんは「被害者になった土志田さん家族の事を知っていた訳ではないが、自分の子どもと犠牲になった2人の子どもの年齢が近く、人ごととは思えなかった。こんなことがあっていいのか。二度と起こしていけない」との思いから活動を始めたと言う。
1986年に「横浜米軍機墜落事故平和資料センター」を設立。志を同じくする人が持ち寄った新聞記事や現場の写真などを自宅で整理して希望者は閲覧できるように活動している。齋藤さんたちは定期的に「平和資料センターかわら版」を発行し、現在51号(8月31日発行)を数える。
毎年事故の起きた9月27日前後の日曜日に、横浜の港の見える丘公園の一角にある「愛の母子像」(穏やかな表情の若い母親に2人の子どもが抱かれている像)前で、「和枝さん母子の願いを語り継ぐつどい」が毎年開催されている。
この「愛の母子像」は和枝さんの父親である土志田勇さんが、和枝さんの悲願(母子像を公の場所に建立したい)を実現するために国と何度も話し合い、全国の多くの人たちが後押しする中、ようやく公の土地である「港の見える丘公園」に建立することが決まり、1985年1月17日にこの像が設置された。
その後、「愛の母子像」の前では市内の小・中学生らによる「和枝さん母子の願いを語り継ぐつどい」がたびたび開かれてきた。
2017年の「愛の母子像」前でのつどいには、地元横浜市の日吉台中学校の演劇部の生徒たちが墜落をテーマにした朗読劇を演じ、沖縄から参加した伊波中学の演劇同好会生徒約40人は、同じ志を持つ日吉台中の生徒の前で劇中歌を披露した。
今年も9月27日(日)13時~「愛の母子像」前で、9人の死傷者を出した横浜・米軍機墜落事故から43年の「和枝さん母子の願いを語る継ぐつどい」が開かれた。
最後に、この横浜の米軍機墜落事故について詳しく知りたい方は『米軍機墜落事故』(河口栄二著/朝日新聞社)、「米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ」(土志田勇著/七つ森書館)、亡くなった土志田和枝さんが生前書いた日記をまとめた著書『あふれる愛に』(新声社)をお読み下さい。(富田英司)
コラムの窓・・・一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島!
三池闘争60年、年を経て炭鉱での労働を経験した労働者はもう少なくなっていることでしょう。炭鉱労働者の最後の攻防ののち、起こるべくして三川鉱炭じん爆発が1963年11月9日発生しました。死者458人、CO中毒患者が839人、甚大な犠牲者を生んだ労災事故。あの激動の時代は何だったのだろうか。
10月17日、「三池闘争60年シンポジウム」が大阪で開催され、朝から昼休憩をはさんで夕方まで多彩な催しが行われました。すでに終わった闘いを振り返るということを超え、CO中毒による高次機能機能障害患者を取り囲む問題も提起されました。低酸素脳症は炭鉱災害だけではなく、今日的には練炭・排ガス自殺などでも発生すると言います。
患者は性格が変わって暴力的になる、あるいは無気力になるなど、患者だけではなく家族も苦しむことになります。ですから、三池CO中毒患者の治療(ケア・リハビリ)にあたった経験の蓄積は貴重であり、「それを一般化し、モデル化し、他の疾患にも拡大していけば高次脳機能障害の中核病院となる可能性が高い」(2004年11月、三池CO中毒検針医師団代表原田正純医師の提言)
問題はその貴重な病院が閉鎖の危機にあるという点です。大牟田吉野病院には今も8名のCO中毒患者が治療・療養しており、全国に60万人もの高次脳機能障害患者がいるのです。
もっと酷いのは、三川鉱炭じん爆発は炭鉱労働者の人命軽視と保安無視、生産・利益優先によるものです。なのに、三井資本(三井鉱山の継承会社である日本コークス工業株式会社)は損害賠償はすれども、事故責任の表明・謝罪は拒否していることです。
シンポジウムで「日本帝国主義と炭鉱史」の報告を行った編集者の中西徹氏、実に偶然ですが最近知人から借りた本の著者でした。その本の名は「うち、おい達の崎戸という時代」、副題に「平和と理想の果てで、崎戸が遺棄された時代を想起する」とあります。
1968年1月19日、中西さん家族はふるさと・崎戸を追われて船で佐世保湾に入りました。「この日午前9時36分、ベトナム戦争を継続し、北爆の戦闘機を満載した原子力空母エンタープライズ(乗員5250人)が、全国に広がった寄港反対の声を無視して堂々と佐世保湾に入港し、巨体を浮かべていた。」(54ページ)
実に波乱の1ページですが、多くの炭鉱離職者とその家族は故郷を追われ、同じように日本列島を漂泊することをこの国に強いられています。朝鮮人や中国人労働者の強制労働について、中西氏はその実態を書き留めています。
「各地の炭鉱で日本人鉱夫が侵略戦争に駆り出され、採炭現場の坑内労働者が不足すると、『内戦一体』で皇国臣民とされた朝鮮人が甘言に騙され炭鉱に送り込まれた。
さらには、多くの強制徴用(連行)された朝鮮人・中国人捕虜が採炭現場の坑内労働で酷使され、何人も死んだ。炭鉱は島の要所要所に見張り所を置き、逃亡を試みた者に容赦のない制裁を加えたので、一度入ると死ぬまで脱出『鬼ヶ島』と恐れられ、『一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島』と、世間に広く喧伝されたのだった。」(43ページ)
端島というのはいうまでもなく軍艦島のことで、朝鮮人の強制連行・強制労働などなかったという声高なウソが発信されています。中西氏は今回、まさに「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」(『崎戸』本・Ⅱ)を編集・出版しました。炭鉱に事実を覆い隠そうとするたくらみは、事実によってくつがえされるでしょう。 (晴)
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読者からの手紙
1人の人間として終始一貫(?)している事は、大志、夢、目標は無く、ひたすら平穏無事の人生を生き切ることが唯一の原点であった。私が本能的に左翼的傾斜故に、一応、反国家、反資本主義、反天皇制の思想を抱くのは、人権、平等、民主の現行日本国憲法を含め、世界の多くの民衆に、支持、肯定されている普遍的な理念が制度(建前)としては一応実践されてはいても、絶えず自由、民主、非戦平和、連帯の美しい観念としか存在せず、圧倒的多数の民が苦しめられ、圧迫されている現実があるからだ。
非戦平和確立のための国際機構(国連等)があるが、いずれも民族国家の強固な壁に立ち尽くし、本来の目的を依然として実現されていない。インド、パキスタン、旧ソ連邦に屈したアゼルバイジャンとアルメリアとの戦闘。挙げれば多くあり、いつどこでその他の地域を無益な殺人が発生するか? 常に不安だ。
日本だけでなく、多くの国が内部で人民相互の反目対立、さらに僧悪すら生まれ、民族ナショナリズムへと沈められ、ついには場合には、あってはならない人類滅亡の地獄が招来されんとする今日の情勢だ。
自国民族の文化、伝統を頼りにし、自己のレーゾン・デートル(存在意義)として自由だが、少なくとも他国民を差別し、ついにはあえて戦争をよしとする考えはゴメンだ。(Y.F)
川柳 作 ジョージ石井
一億はしない自腹の家族葬
自助共助排除も追加する総理
お買い物飢えたマスクがよく喋る
ゴミの日にカラスが覗く暮し向き
邪魔者を外す総理の意思表示(「示」)
菅総理の素顔鎧が見え隠れ(「素」)
折鶴が羽音を立てて飛ぶ葉月(「音」)
AIが地球動かす不気味な世(「動」)
国難が追い風増える軍事力(「力」)
乱獲が激怒秋刀魚の意趣返し(「激しい」)
ウイルスの的にもなった夜の街
土とカネ珊瑚が咽ぶ基地移設(題「移」)
さりげない友の助言が治療薬(「友情」)
非正規と正規コロナで増す格差(「差」)
色鉛筆・・・コロナ禍の中での別れに思うこと
友人が先日、最愛の母親を亡くした。大正15年生まれの94歳。友人との40年以上の付き合いの中で、彼女のこれほど深い悲しみに沈む表情は初めてだった。
94歳とはいえ、杖を頼りに一人で歩き、誰とでも日常会話を楽しむ美しく気丈な母親だった。とびきり手先が器用で、ディサービスでは手芸の先生役だった。実家で兄夫婦と暮らし、近くに住む友人は忙しい合間を縫って、週一回一日は必ず一緒に過ごしていた。
三週間前に誤嚥性肺炎で突然の入院、その総合病院(500床)ではコロナ禍の中、「面会は、週一回5分間だけ」という厳しいものとなった。三回目の面会の直前に、主治医より「意識がありません」との連絡を受け、慌ただしく家族が駆けつけた時にはすでに呼びかけには何の応答もなかった。
友人にとっては、辛い後悔の思いしか残らない別れだった。「なぜもっと早く、家族と応答出来るときに呼んでくれなかったのか」「最後はきっと不安と寂しさでいっぱいだったろうに、そばに居てあげられなかった」と。普段使っている眼鏡も補聴器も入れ歯も無い状態で、「おむつを外そうとしたので手を拘束しました」という看護師のことばに、家族はどれほど傷ついたことだろう。
「全てはコロナ禍だから仕方が無い・・・」と、この別れを受け入れるべきだろうか?せめて末期を迎える人への敬意と尊厳は守りたいものだが、現実はどうだろう。友人の母親と同時期に、隣りのベッドでも危篤に陥った患者さんがいて、看護師が患者への最後の呼びかけに名前を取り違えたという笑えない、いや悲しい出来事もあったという。三週間入院していても、名前を覚えてもらえていなかった。病院側の多忙を物語る。
もともとの医師不足人手不足の脆弱な医療体制が、コロナ禍がさらに追い打ちをかけその実態が露わになっただけで、医療従事者そして弱者である患者にその一番のしわ寄せが来ているのだ。医療従事者としての通常の過重な仕事に加え、感染予防に神経をすり減らす苛酷な毎日。
感染者を受け入れている病院はどんどん赤字が増え続けていると言う。私には摩訶不思議としか思えない。なぜそこに多くの公的な予算をあてないのか?
新しく就任した菅総理は、「やるべきことを、スピード感を持って、躊躇なくやる」と胸を張って発言していたが、そもそも本当に第一に「やるべきこと」とは、病人・お年寄り・子ども・障がいをもつ人・被災者・貧しい人などなど社会的弱者へ手を差し伸べることこそが大事である。菅総理には、この人達の存在はまるで視野に入ってはいない。
GOTOトラベルなんか要らない、それよりGOTO「公助」だ。(澄)
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