ワーカーズ621号 (2021/8/1)     案内へ戻る

  様相は〝追い込まれ解散〟――五輪を政治利用した菅政権は退場あるのみ――

 コロナ禍第5波の緊急事態宣言下で、菅(スガ)政権は東京オリンピックの開催を強行した。8月1日は、その折り返し地点だ。

 菅政権は、発足1年後の今年9月30日に自民党の総裁任期切れ、また10月21日には衆議院議員の任期切れを迎える。否応なく今年の秋は衆院の解散・総選挙だ。

 菅首相は、政権発足直後の昨年秋に解散総選挙に打って出なかった。就任祝いのご祝儀相場もあって高い支持率が合ったにもかかわらずだ。代わって描いたのは、新型コロナ感染拡大を終息させ、夏の東京オリ・パラを成功させること、そこで得た政権浮揚の追い風を受けて、秋の総選挙で勝利し、自民党総裁の無投票再選で本格政権を目ざす、という再選戦略だった。「五輪は最大の政権浮揚策」(政権幹部)というわけだ。

 ところが東京五輪の真っ最中の今、菅内閣の信任は地に落ちている。発足当初6割を超えていた内閣支持率は、コロナ禍の拡がりに歩調を合わせるかのように急降下している。NHKの世論調査でも、政権発足時には62%あったが、年明けの1月は40%、4月には44%に回復したが、第5波の7月には33%に落ち込んだ。他の報道機関の調査では30%割れもあった。

 この間、菅政権はアベノミクスなど安倍前政権の継承を掲げてきた。が、実際にやってきたことは、安倍前首相の〝説明しない政治〟〝嘘をつく政治〟の踏襲であり、また学術会議の任命拒否や公務員の左遷という行政的手法による強権政治であり、米国一辺倒の〝新冷戦〟への加担だった。

 菅政権の信任が揺らぐダメ押しになったのが、コロナ感染対策の失敗と、コロナ禍の拡がりの中での東京オリ・パラの強行開催だ。国民・有権者には生活やイベントでの〝自粛〟〝我慢〟を押し付けながら、東京オリ・パラの開催にはかたくなに拘った。感染の拡がりで7月8日には「無観客」を決めたが、世論でも多数だった中止や延期は一切拒否し、開催に突入したのだ。

 「なんとかなるだろう」「とにかく突っ込むしかない」「始まってしまえば盛り上がる」。まるで戦前の軍部のような無責任な態度がまかり通ったのだ。

 秋には必ず実施される解散総選挙。先の衆院の補選などで、数々の不祥事を抱えたままの自民党は完敗、7月の都議選でも全議席の4分の1と〝惨敗〟した。秋の解散・総選挙では、政権浮揚と延命のためにオリ・パラを利用した管政権を退場に追い込むのみだ。(7・25 廣)


  政権浮揚のための五輪  ――誰のためのオリ・パラなのか――

 コロナ禍での4回目の緊急事態宣言下、医療逼迫が叫ばれるさなかで強行されている東京オリンピック。ワーカーズ本号発行日(8月1日)はその折り返し点だ。

 そのオリンピック。「平和の祭典」だとか「世界は一つに」などと礼賛されてきたが、いま誰の目にも明確になったことがある。オリンピックはそんなきれい事ではなく、国家威信のため、政権浮揚のために行われている、ということだ。
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 オリ・パラ招致から8年。当初は〝復興五輪〟を謳った。招致では〝コンパクト五輪〟も押し出された。福島原発事故も、安倍首相による「アンダー・コントロール」で封印した。

 が、今はどうだろうか。〝復興五輪〟は単なるお題目、〝コンパクト五輪〟のはずが〝広域五輪〟だ。〝アンダーコントロール〟のはずが、〝汚染水の海洋放出〟と廃炉作業の遅れだ。開催費用は当初7000億円と掲げたが、いまでは3兆円超へ。やがて膨らむことは誰も分かっていたはずだ。
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 そもそも、招致そのものが疑惑から始まり、その後、多くの不祥事やトラブルが続いた。

 IOC理事などへの過剰接待、招致運動の中心人物だったJOCの竹田会長も誘致をめぐる買収疑惑で辞任に追い込まれた。建設費用の膨張でメーンスタジアムは設計からやり直し、大会エンブレムも盗用疑惑で変更を余儀なくされた。さらには〝復興五輪〟〝コンパクト五輪〟のはずが、開催地は東京や被災地の福島、宮城を超えて、首都圏や北海道へと拡大した。組織委トップの森会長も、女性蔑視の発言で解任だ。開会式の演出責任者も女性タレントの容姿を侮辱した発言で引責辞任、しかも開催直前になって、開会式の作曲担当が辞任、開会式担当のデレクターも、過去のナチスのユダヤ人虐殺を揶揄した発言で解任。不祥事のオンパレードとなってしまっている。
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 そんな個々の退廃現象も、元を正せばオリンピックは何のために、誰のためにやるのか、といった根本的な姿勢そのものが本末転倒になっているからだ。

 新型コロナ禍で延期を余儀なくされた安倍首相は、「1年延期」に拘った。安倍首相自身の総理・総裁任期中での開催だ。それが〝実績〟になるからだ。延期後も安倍首相は「完全な形での開催」に拘わり、「開催」自体が目的化された。
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 管政権では「復興五輪」はむろん、原則〝無観客開催〟を決めた後は、安倍首相の「新型コロナに打ち勝った証」もどこへやら、開催直前の7月17日には「世界が団結した象徴になる」へと変えた。目的など、どうとでも言える。いまでは開催すること自体が目的になっているのが見え見えだ。

 管首相にとってオリンピック開催は、国威発揚のため以上に、自身の政権浮揚のためでしかない。管首相にとっては、五輪開催による世論の高揚を背に総選挙勝利へという、総理・総裁続投への露骨な再選戦略なのだ。
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 そうなるほど、いまの五輪は変質を重ね、利権まみれに陥っている。年々深まる商業主義で、今の五輪は、米NBCなど放映権料や大企業の公式スポンサー制に支えられている。放映権は今大会だけで4600億円、米NBCとは14年冬期から32年夏期まで1兆3000億円の契約だという。メディアの〝公式スポンサー〟への参加で、報道の中立性も損なわれている。その放映権によって〝スポーツの秋〟は忘れ去られて、誰しも呆れかえる酷暑下での開催なのだ。
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 腐敗まみれ、はびこる利権、究極的な五輪の政治利用……。〝平和の祭典〟をはじめ、〝五輪神話〟はすでに崩壊している。確かに64年の東京オリンピックはまだ一面の意義はあった。企業主導の労組解体攻撃や公害の多発など、高度成長期には負の面も多々あったが、他方で、敗戦の焼け野原からの復活を象徴した面もあったからだ。
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 スポーツそのものは、ヤリ投げなど、太古の共同体での催しを引き継いでいるものもあることで明らかなように、普遍性もある。が、時代は変わっているのに、商業主義と利権構造は深まるばかり。現在のIOC主催のオリンピックは、開催の意義もすでに失われている、というべきである。

 次回夏季大会はパリ(24年)で、次はロサンゼルス(28年)、今回のオリンピック開催直前のIOC総会でその次と決まったのはオーストラリアのブリスベン(32年)だという。もはや立候補地が選挙での競い合いで決まる場面さえなくなっている。背景には、開催地はどこも五輪関連の負債で四苦八苦している現実がある。
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 〝失われた30年〟から抜け出したいという〝イベント資本主義〟。カンフル剤頼りの景気回復と政権浮揚策。日本では、次は大阪万博だ、IRだという。いい加減にせよ!という以外にない!(7・25 廣)


  東京都議選「小池劇場」のもとで問われる「地域の課題」

●国政選挙の前哨戦?

 よく「都議選は国政選挙の前哨戦」と言われる。今回も七月四日の投開票結果を受けて「自公で過半数に届かず」「都民ファースト持ちこたえる」「小池氏、国政復帰に足がかり?」「野党共闘が奏功し共産・立民議席増」といった「国政の視点」からの論評ばかりが紙面を賑わせている。 だが、それで良いのだろうか?

●都民も「住民」

 当たり前のことだが、東京都もまた「地方自治体」のひとつであり、都民もまた「住民」である事を忘れてはならない。「区・市町村」という基礎自治体を支援する広域自治体として都があるのは、他の道府県と同じである。

 住民に身近な介護や保育は、区や市町村の管轄であるのに対して、保健衛生や医療体制は都の管轄である。道路行政も幹線道路の多くは「都道」であり、道路計画のあり方は都政の焦点であるべきなのだ。

●多様な地域性

 そして、基礎自治体にはそれぞれ特徴がある。荒川沿いの江東区や葛飾区等は中小企業に働く労働者の街。霞ヶ関や大手町のある千代田区は、キャリア国家官僚や金融ビジネスエリートの昼間人口の街。多摩川に近い世田谷区や練馬区は、サラリーマンが多く住み市民運動の活発な街。

 さらに中央線や、西武・小田急・京王・東急の私鉄各線が西に延びる武蔵野台地には、ベッドタウンが広がる。国立市や小金井市のように市民自治が発達した街。府中市のように大手電機メーカーの工場がある大企業労組の街。国分寺市のように伝統的保守の根強い街。立川市の反基地住民運動や、三多摩地域の労働運動の歴史もある。

 それぞれの多様な地域性を踏まえて、都政の課題を議論するのが、都議選の本来の意味のはずである。

●大都市ポピュリズム

 だが往々にして、そうした個々の課題を吹き飛ばすような「風」が吹いてしまうのもまた「大都市」の特徴でもある。

 実際、過労で入院していた小池氏が最終盤に退院し、かすれ声で「バタッと倒れても本望」と発言、酸素ボンベ携行で候補者を応援して回るや、形勢は逆転し「五輪は無観客」を掲げた都民ファーストに風が吹いてしまった。

 一連の小池旋風は、かつて青島幸夫が既成政党不信の風を背に「博覧会中止」を掲げて、大勝したのを想起させる。
 都民一人一人は「住民」「勤労者」でありながら、「孤独な群衆」(リースマン)でもあり、ポピュリズムに煽られがちな「大都市」の危うさである。

●都立病院の独法化

 例えば「五輪中止」の風が吹いたのも、コロナ感染拡大への危機感からではあるが、それ以前に都の保健衛生と医療体制、とりわけ都立病院の地方独立行政法人化の問題は、もっと問われてしかるべきであった。

 都はこれまで、国・総務省・厚労省と一体となって、都立保健所と都立衛生研究所の統廃合や都立病院の経営効率化ばかりを推し進めてきた。

 その結果、感染症に対する都の医療行政機能は硬直化し、コロナ専門病床の確保へ向けて、公立・民間病院を機動的に導くことができないまま、今日に至っている。

●世田谷方式を活かせず

 世田谷区が独自に始めた社会的PCR検査は、介護施設や保育施設を対象に定期検査、臨時検査を実施し、クラスターの発生を未然に防ぐ先進的事例として、大きく注目された。

 本来なら都の保健行政を企画立案する部署の担当者は、率先してその先進事例を取り入れて、都独自のモデルを制度設計してしかるべきであった。それこそ「行政マンの醍醐味」であるはずなのだが、それも出来ていない。

●住民不在の再開発

 同じことは地域再開発についても言える。東京オリパラに向けて、競技場周辺の幹線道路敷設やマンション建設が推進され、一部では公営住宅の住民に立ち退きが強いられた。

 そればかりか、東京全域にわたって、地域の暮らしを脅かすような駅前再開発計画、自然環境を破壊するような幹線道路計画が目白押しなのだ。それで利益を得るのは、不動産業者、建設会社、大手ディベロッパーであり、住民が長年守り続けてきた自然環境や暮らしやすい街づくりは、追いやられようとしている。

●地域から政治を変える

 こうした地域の課題を地道に追求してきた市民運動のイニシアチブのもと、無所属候補を立て野党が共同推薦する形の取り組みも行われ、いくつかの選挙区で勝利ないしは善戦している事も見逃してはならない。

 「小池劇場」に惑わされず「地域から政治を変える」勤労者・市民の取り組みに注目し、共に育てていくことこそ、未来へ向けた希望につながると考える。(夏彦)案内へ戻る


  「台湾有事」や「半島有事」で"火中の栗"を拾いたがる 日本の危険な右派勢力

■日米軍事「同盟」のはらむ矛盾

岸信夫防衛大臣は米メディア(ブルームバーグ)のインタビューに答え、台湾の平和と安定は「日本に直結している」との認識を改めて示した。もちろん春の日米首脳会談の流れに沿ったものだが、さらに一歩踏み込んだのである。

いわゆる台湾有事に対して日本が「日本の危機として受け止め(関与する)」という岸の認識は、中台紛争の際には日本は傍観せずに参戦するということに通じる。これは看過できないあまりに危険な発言だ。

この岸ら反動派の動きについては後に見ることにしたい。まず、春以来、日米同盟と台湾関与についていろいろな論評がなされている。例えば「台湾防衛で米国の弾除けに使われる日本」「自衛隊が“多国籍軍”の先鋒に」「弾除け的に使われる“属国”」云々の記事(7/1)を「JBプレス」は掲げた。これでは米国だけに美味しいところを持って行かれて、日本は最悪のシナリオでは中国からのミサイル攻撃まで覚悟しなければならなくなる、と。

たしかに、「日米同盟」といえども米国の戦略にはめ込まれる形の自衛隊の存在だ。有事の際の前線では、米国司令部が米兵の血を流すリスクを最小限に抑えつつ日本の軍隊を活用することで、米国も台湾有事に関与し「自由と民主主義の価値観」を守る米国の存在感を世界に示すつもりかもしれない。ベトナム・イラク・アフガンの轍を踏みたくないバイデン政権にとってはたしかに歓迎したい「良策」だろう。大切な軍産複合体の利益とも合致する政策だ。

このように、最悪の「台湾有事」では日本は矢面立ち、米国にいいように「利用」され、火中の栗を拾うことになりうる。

■自ら”火中の栗”を拾いたがる勢力が国内にいることを見逃すな

この「JBプレス」記事は、もっともらしく見えるかもしれない。「弾除け的に使われる哀れな“属国” 日本」の自衛隊や国民。かわいそうな彼らは西太平洋の“多国籍軍”(クアッド=日米豪印戦略対話)の先鋒にたたされ弾除けに利用される。米国だけが利益を得るだけではないか、狡猾な米国による圧力や甘言に騙されてはならない、近未来に待つ日本の悲運を政府がよく理解して目覚めてほしい、というのだ。

 しかしながらこの認識は浅薄で一面的である。日本は逆に米国という「虎の威」を大いに利用してきた。そればかりでなくアジアにおける軍事大国として自ら「威=武力」を獲得してきたのだ。米軍の支援で武力を高めまた共同訓練などを通じ「強固な日米軍事同盟」を実体化してきた。

日本側の狙いとは何か?それを理解しなければ日米同盟の全貌は見えない。

日本の思惑は、西太平洋の対中国最前線に米軍を関与させ、共に中国と対峙することである。このような目論見を抱く強大な勢力が日本国内に存在するのだ。

具体的には日本の右派・日本会議=安倍晋三・麻生太郎らの政治勢力だ。彼らは自ら進んで台湾有事(半島有事でも、南シナ海有事でも同じことだ)という「火中の栗」を拾おうとしているのである。だからこそ一貫して日米安保条約・日米軍事同盟の重要性を彼らの政治スローガンの筆頭に掲げ、「集団的自衛権承認」の閣議決定し、さらに新安保法制を強行採決(2015年)してきたのである。先行して安倍晋三はそれらの布石として「クアッド」や「自由で開かれたインド太平洋構想」を打ち上げ、とまどう米国やオーストラリア・インドを巻き込みさえしたのである。

 彼ら右翼反動派を構成する勢力は、政界や自衛隊ばかりではなく、官僚界にも財界にもいる。米国政府すら「直接の米中戦争」のリスクを招き寄せる可能性のあるこの日本の反動派の蠢動(しゅんどう)を警戒しているだろう。

■安倍晋三ら右派の狙いは国内の政治反動でもある
 
 「中国の脅威」と「台湾有事」の勃発。この危機の発出こそが、彼らの言う政治変革に直結する。反動派の野心の矛先は決して安全保障政策や対中国包囲だけにあるのではなく、国内的政治反動を完遂する目的で戦略的に展開されていることを見逃してはならない。「中国の脅威」「台湾守れ」なるスローガンと国内政治の反動化(南西諸島の要塞化・土地利用規制法・憲法改正など)は車の両輪なのである。

 日本国憲法九条改正も視野に入れ、自衛隊を海外で闘う軍隊に変貌させ、彼ら流の政治社会改革を目指しているのだ。「自民党改憲草案(2012年)」によれば彼らの目論見は明白だ。主権在民を否定しつつ、国内的には「緊急事態条項」で国民の声を抑圧し、自衛隊の海外敵基地攻撃=制圧能力の獲得を目指す。さらに彼ら歴史修正主義者は「東京裁判」や「ポツダム宣言」を拒否し、戦後の象徴天皇を「元首」に格上げし、古い道徳的価値観や権威主義的価値観を守らせるつもりだ。

反動派は米国の圧力や口車に乗せられて、没主体的に行動しているのではない!彼らは自らの政治野望に従って「火中の栗」を自ら拾いつつ米軍を西太平洋に軍事関与させる戦略だ。このような安倍晋三=日本会議などに巣くう右派反動勢力の野望を、このJBプレスらの「属国論」や同じように天木直人らの「対米従属論」という誤った認識は隠している。彼らは国内にうごめく階級的な政治的動きを理解できないのだ。

■梯子が外れても懲りそうにない、日本の右翼反動派

ところが、米国政府は突然「反中国」キャンペーンのトーンを下げた。カート・キャンベル米国家安全保障会議・インド太平洋調整官は七月六日、アジア協会(Asia Society)というシンクタンクにおける講演で、「アメリカは中国と平和的に共存できる」とし、「台湾の独立を支持しない」と述べた。つまり、米国は一貫して「一つの中国」を支持してきたしこれからもそうすると。だから競争相手だが「米中に大国の共存」が可能だと語った。つまり米国政府は中台間で何か武力衝突が生じても、非難はするものの「国内問題」として対処するということになるだろう、と。

では「台湾海峡への関与」とは何事であったのか。日本の右翼反動派は、はしごを外された格好だ。実は麻生太郎はキャンベルの講演の前日七月五日の講演で、「台湾で大きな問題が起きれば、存立危機事態に関係する」として、「日米で台湾を防衛しなければならない」と「日米同盟対中国」の戦端のイメージを具体的に語っていたのだから。(「「バイデン・習近平」会談への準備か?──台湾問題で軟化するアメリカ」ニューズウィーク日本版)。
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まず、米国の事情を見てみよう。米国政府に何があったというのだろうか。バイデン政権成立以来の精力的な「反中国キャンペーン」の狙いが何なのかを探るのに丁度良い機会となったが、それにしてもバイデン政権の手のひら返しがあまりに早いので、世界中から嘲笑を招くことだろう。

バイデンの「反中国」のキャンペーンの嘘くささや政治的意図は明確だ。国際的にはトランプ時代に失った米国の「威信」の回復の手っ取り早い道具であった。それは、G7(六月)までは見かけ上うまくいったように見えた。

しかし、アフリカ諸国は言うまでもなく、アジア諸国もすでに中国の影響力は甚大であり、嘘っぽいバイデンの「自由と民主主義の価値観」の称揚と「反中国」の旗に簡単になびくわけもなかった。G7に参加するEU諸国などの「中国脅威論」も、バイデン新政権のぶち上げた中国敵視政策とは実際には温度差があったことなどからくる「軌道修正」かもしれない。

さらに勘ぐればすでに見てきたような、日本の極右勢力の過剰なまでの「台湾有事」に対する関心の強さに危機感を抱き、米国政府として右派勢力に冷や水を浴びせるつもりなのかもしれない。「バイデン・習近平」会談への地ならしだけの話ではないと思うが、いずれにしても大国・米国らしい身勝手さだ。
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さて、この間バイデンがまき散らした「中国脅威・中国包囲論」にシンプルに応じたのは、上記したように唯一、麻生や安倍らの日本の極右反動政治家だ。背後には軍部の影もある。日本だけが、驚くほどにバイデンの「中国包囲」の意向に沿って「台湾有事で体張る」勢いを示してきた。上記のように岸防衛相は、台湾危機は「日本に直結している」と語り、麻生は「存立危機事態」の拡大解釈で自衛隊の「台湾派兵」も示唆したのであった。もちろん右翼の広報紙「読売」「産経」は、台湾有事は日本の有事だとの認識のもと、新安保法制に基づく自衛隊の台湾海峡への出動を待ち望んだ。

思い起こしてほしい。トランプ前政権下でミサイル試射実験が頻発化し米朝対決がピークに達していたころ「北朝鮮攻撃」をトランプに強く教唆したのが安倍晋三だ。彼らは「台湾有事」「半島有事」等を必要とする危険な政治プログラムをきっと持っているのだ。(護憲派や平和主義者はこれらの認識が甘すぎる。) 

日本反動派の抱く中国への敵意の深さと、国内外での軍事反動への志向が、米国からの押し付けではなく、日本資本主義社会の内部から発出していることをこの間に示された一連の動きが明確に示している。そのことを再度強調したい。敵は国内にいる。(アベフミアキ)案内へ戻る


 読書室 ヨルゴス・カリス他著『なぜ脱成長なのか』NHK出版 2021年4月刊

 ○本書は、バルセロナを本拠にして脱成長の経済論を推進する旗手たちが、脱成長に関する基本的な考え方とバルセロナ等でのウェルビーイング(幸福)の向上とコモニング(共有化)等の数々の実践例を紹介する、優れて実践的な「入門書」である。ここでの提言はコロナパンデミック下で行き詰まりを露呈させた新自由主義的な経済成長至上主義に対し、人々の意識変革を誘いながら、ベーシックサービスやケア・インカムの導入、コモンズの復権など、脱成長に向け必要な政策を論じ、真に豊かな社会を構想するものである○

 本書は、都市の成長と水資源開発を研究して来たヨルゴス・カリス(バルセロナ自治大)たち4名の「脱成長論」の共著である。問題意識を共有するその他の3人を紹介すれば、「ジェンダー、階級、人種、民族と環境との相互作用の研究」と「資源採取産業の過酷かつ危険な労働現場」に関心を持つスーザン・ポールソン(米フロリダ大)、「成長なき社会はコモンズを基盤に成立する」と考え、出身地での廃棄物紛争や脱成長の政治戦略を論じるジャコモ・ダリサ(ポルトガル、コインブラ大)、そして「生態経済学・政治学を研究」しつつ、インド貧困層の人々とともに労働した経験と貧困層の環境保護意識に学び経済発展に代わる複数の道を探求するフェデリコ・デマリア(バルセロナ自治大)である。

 こうした各自の経歴の中から浮かび上がって来た論点を討議し合い、すり合わせを行った上で書かれた入門書であるが故に、本書は単なる現状分析やその否定あるいは言葉での批判にとどまらずに、その先へ向けて大胆に踏み込んでおり、実に読ませる内容がある。

 ここで本書の章別の構成を紹介しておこう。

 目次
 はじめに
 第1章 「脱成長」とは何か
 第2章 成長で犠牲になるもの
 第3章 草の根から変革を起こす
 第4章 道を切り拓く5つの改革
 第5章 人々を動かすための戦略
 [付録]脱成長に関するよくある23の質問
 謝辞
 [日本語版解説]資本主義に亀裂を入れるために 斎藤幸平
 原注

 では簡潔に各章ごとの解説を行っていく。

 第1章は、本書の肝であり、「脱成長」とは何かを原理的に明らかにする。脱成長論とは、経済成長の追求をストップして、生活と社会の視点をウェルビーイングに置き直すことを主張する議論である。すべての人が真の意味で豊かな暮らしを送るための変革を促し、既存の資源をどう分かち合えばいいのか、そしてより少ないお金で、より少ない搾取と環境負荷で、より豊かな暮らしを実現するためにどのような投資をしていくべきかを考察する。経済成長には循環型、永続型、複利型の3種類ある。生物の成長は循環型で、永続型などありはしない。複利型の成長には目を見張らせるものがあり、コモンセンスともなっている。だがコロナ危機はこの当たり前を揺さぶった。脱成長論が目指すのは成長ではない。成長を目指さない未来を作るのは、コモンズ(共有)とコモニング(共有化)である。

 第2章は、経済成長を追求することで増え続けるコストについて考える。複利型経済成長が持続不可能な理由は、地球が有限であるばかりでなく、賃金抑制や社会福祉等の削減で社会に不平等を拡大するだけでなく、社会を支える金融等を攪乱し、金融危機を発生させる。また経済成長は地球の生物の生態系にも深刻な影響を与えるものになっていく。

 第3章は、成長追求型の未来を目指さない生き方や、同じく成長追求型を目指さない関係性、制度、生産労働/再生産労働をすでに導入している事例に焦点を当てる。ここでは草の根レベルの活動に注目し、脱成長論を展開する。紹介されるのは、生物多様性の損出や気候変動を阻止するグローバルなプログラムではないが、ローカルな立場からのものだ。

 第4章は、具体的な5つの改革案の提示がなされている。列挙しておけば、改革1は「成長なきグリーン・ニューディール」、改革2は「所得とサービスの保障―ユニバーサル・ベーシックインカム、ユニバーサル・ベーシックサービス、そしてユニバーサル・ケア・インカム」、改革3は「コモンズの復権」、改革4は「労働時間の削減」、そして改革5は「環境と平等のための公的支出」である。すべて極めて具体的で参考になるものと考える。

 ここで大事なことを説明しておく。それは改革1の「成長なきグリーン・ニューディール」とは、普通の「グリーン・ニューディール」=「緑の成長」と「繁栄の実現」を目指す立場ともそれをジレンマと捉え「終わりなき成長というドグマとの訣別」を目指す「欧州グリーン・ニューディール」の立場とも違う。それは紙幅の関係で詳説は出来ないが、「欧州グリーン・ニューディール」より社会や生態系への負担をさらに減じたものだ。

 第5章は、それらを可能にする政治的な戦略を考えたものである。ここでは脱成長を目指す変革を、誰が、誰に対して、どのように推進していけるかを、具体的に考察してゆく。

 そして[付録]は、脱成長に関するよくある23の質問に簡潔に答えたものである。この部分から読書を開始して脱成長についてのイメージをあらかじめ鮮明にしてから本文を読み始めるのも読書術としてはあり得ることであろう。ここでいうまでもなく、回答する側の立場とは、「脱成長」=より環境負荷の低い経済成長を目指す立場からのものである。

 本書は220ページに満たないコンパクトな本でありながら、実に内容の充実した本である。特記すれば、そうであればこそ30万部を売り上げた『人新世の「資本論」』の著者・斎藤幸平氏が本書を高く評価して19ページの読ませる解説を書いているのである。

 最後に本書の核心となる思想を、以下に引用しておこう。

「脱成長社会の定義となる条件は何か。それは互いのケア、そしてコミュニティの連帯だとわたしたちは確信している。そのふたつが、より公平で持続可能な未来へ進むためのエンジンでもある」(本書10ページ)

 夏休みの読書の友として本書を推薦する。皆様の一読を期待したい。 (直木)案内へ戻る


  何でも紹介・・・ 袴田さん見守り隊

2014年の静岡地裁での再審開始決定は、東京高裁では棄却。だが2020年12月最高裁は、東京高裁で審議をやり直すべきとして差し戻しの決定をした。5人中2人の裁判官は、直ちに再審開始をすべきと主張。

もうすでに死刑確定から41年、獄中で48年もの月日が過ぎている。東京高裁は、無実の袴田さんに対し一刻も早い再審開始と無罪判決を出し、身柄だけでなく心から安心出来る真の解放を実現するべきだ。

コロナ禍にもめげず、6月27日淸水で無罪判決を求める集会が開かれ、浜松で袴田さん見守り隊等の活動に取り組む、いのまちこさんが、巌さんの日常を紹介して下さった。姉の秀子さんを描いた漫画『デコちゃんが行く』の編者でもある。

いのさんは2016年、初対面の巌さんから怒濤のように語りかけられ(ほとんど理解することが出来ない)、動揺しつつもかろうじてまた来てもよいか尋ねると「また来てもいいよ」との返事をもらい、お宅に通い始めた。巌さんに会うまで全く知らなかった「事件」のことを学び、心底驚きショックを受けた。同時に深く感動し、巌さんへの畏敬の念も抱いたという。以来仲間と共に、見守り隊、学習会、街頭宣伝など活発に取り組んでいる。

巌さんはとにかく出掛ける。気楽な散歩とは違う、それは自分の命を狙う悪と闘うための、強迫観念からの行為。だから悪天候や暑さ寒さにかかわらず外出するし、時に6時間以上という日もある。

1人で外出中に階段から落ちて怪我をした2017年7月からは「見守り隊」を結成し数歩後ろを交替で同行している。男性は1人、あとの8人は全て女性。巌さんにとって、男性はかつての警察官、検察官、看守などを連想させるためか、今もなお警戒心が解けていないという。

 巌さんの外出は気分次第で、いつ出発するのか分からない。あるいは出発しない日もある。夕方から外出し、夜10時過ぎに帰宅した日もある。根気強く見守り続けていることに頭が下がる。

いのさんは「秀子さんは絶対に巌さんを否定せず、あ~そうだねそうだねと接している。巌さんにとっての女神だと思う。365日、秀子さん以外の人たちも皆で一緒に見守りたい。安心して大事にされて生活して欲しい。巌さんに接していると、本当に人の痛みが分かる人なのだと痛感する。心から敬意を持つ。」と。

続けて、海女は海から上がると50度もの熱いお風呂で体を温めるという話をされた。『48年間もの絶望』という冷たく深い海の底から戻った巌さんを今、秀子さん始め周囲は暖めているのだ。2014年の釈放以来、どんどん穏やかになってきたという巌さんの表情が、一日でも早く心の底から晴れる日が来ますように!(澄)

「袴田さん支援クラブ」 HP:http://free-iwao.com/ Mail:info@free-iwao.com


  「沖縄通信」・・・映画「サンマデモクラシー」の紹介

 おばあの「サンマ裁判」の闘いを描いた映画作品である。

 日本復帰前の米国統治時代の沖縄で、本土復帰を求める運動に火を付けたのは、肝っ玉おばあが起こした裁判だった。歴史も埋もれていたこの「サンマ裁判」を掘り起こしたドキュメンタリー映画「サンマデモクラシー」が話題となっている。

 沖縄の人たちの食卓にサンマが上がるようになったのは戦後からという。祖国復帰への素朴な願いとともに「日本の味」として普及したころ、なんと20%の輸入税がかけられた。だが、その根拠となる琉球列島米国民政府の高等弁務官布令に、サンマは挙げられていない。

 この事実を知って憤ったのが、冷凍サンマを輸入していた糸満の魚卸売業の玉城ウシ。1963年に徴収された税金の返還を求めて琉球政府を訴えた。その当時の高等弁務官は泣く子も黙るポール・キャラウェイ。彼は「自治は神話だ」と言い放ち、本土復帰運動を抑え付けた米国統治の絶対的権力者である。

 理不尽なサンマの大幅な値上げは食卓を直撃、大衆の怒りが燃え上がる。この裁判を弁護人として支えたのがラッパと呼ばれた破天荒な弁護士・下里恵良。その下里と盟友の間柄だったのが瀬長亀次郎であった。

 ウシにとって2人は最強の味方となる。一方、沖縄の最高権力者キャラウェイは、自治を求める沖縄の民意を徹底的に弾圧。やがてサンマ裁判は布令そのものを問う闘いに、さらに復帰運動の起爆剤となっていく。この絶対的権力者・キャラウェイに立ち向かったウシおばあの闘いは、自治を求める沖縄の人々の巨大な渦を生んでいく。

 沖縄テレビのプロデューサーで那覇市出身の山里孫在監督(57歳)は、「沖縄の面白いことは何でもかじっているつもりだったが、この裁判はまったく知らなかった」と言い、復帰当時山里さんは小学2年生で、「あめりか世を知る最後の世代。復帰前の沖縄の空気感を伝えるものをつくりたかった」と言う。

 山里監督は沖縄テレビで多くの報道番組を手がけてきた。ここでは玉城ウシの足跡を丹念な取材を積み重ね「大衆魚サンマから火がついた沖縄の大衆運動」のダイナミズムを描く。この映画のナビゲーターを務めたのが「うちな~噺家である志ぃさー」で、とても軽快な語り口が見事で引き込まれる。

 なお、作品では辺野古の米軍新基地建設を巡り、2015年当時の翁長雄志知事が、民意を無視する菅義偉官房長官(当時)に向かい「キャラウエィに重なる」と言ったニュース映像も挿入している。山里さんは「沖縄は何度も裏切られ、失望と期待を繰り返しながら、民主主義を求めてずっと闘っている島なんだなと実感した。苦味も込みで作品を味わってもらい、50年を経た『今』を考えてほしい」と述べている。(富田英司)


  川柳 作 ジョージ石井 2021/8

対策はいつも自粛と無為無策
宣言を緩めて締めるネジ遊び
官僚のメモ読み総理自助を説く
緩むなと下戸が酒屋を締め上げる
そろばんが開催せよと言う五輪
支持率へアップに頼むメダル数
復興の証し忘れている五輪
観客はテレビの前の五輪席
時差ボケか北京五輪とバッハさん
放置した盛り土を嗤う土石流
ワクチンを終えたと老いのグウタッチ
オータニサンゴジラを超えるホームラン
老いてなお大事にしたい好奇心
コロナ禍にただただ感謝白衣の手

失政へ庶民の投げる紙つぶて(課題「紙」)
香港のリンゴと消える民の声(「紙」)
忖度を接待漬けにせがまれる(「義理」)
常套句並ぶ文書を読む総理(「並」)
有頂天そこから先に待つ奈落(「頂」)
休みなく悲鳴を上げる医療職(「鳴」)
そこそこに鳴かず飛ばずも良い余生(「鳴」)
自国愛センターに置く世界地図(「中央」)
権力に媚びぬメディアにある自由(「マスコミ」)
コロナ後へリストを作り描く夢(「作」)
三ツ星のシェフも家では海苔茶漬け(「食事」)
東方へマルコの辿る絹の路(「ロマン」) 案内へ戻る


  憲法で保障された表現の自由を侵害する大阪府吉村知事 大阪府政から維新を引きずりおろそう!

「表現の不自由展かんさい」は、大阪市のエル大阪で7月16~18日に開催されました。

しかし、開催までには紆余曲折がありました。開催が決まった当初から、抗議の電話などが相次いでいました。

 そのため、会場である大阪府の施設が「管理上の支障が生じる」ことを理由に提供を拒否しました。これに対して、不自由展の実行委員会が大阪地裁に提供拒否の停止処分を求めたところ、地裁は会場の利用を認める決定を出しました。施設の指定管理者がこの決定を不服として大阪高裁に即時抗告したところ、大阪府の吉村洋文知事は、「即時抗告するのは当然だ」と述べました。

 即時抗告棄却、特別抗告も棄却して、めでたく「表現の不自由展かんさい」は開催できることになりました。

 吉村知事のとった行為は、ダメでしょう。吉村知事が、「表現の不自由展かんさい」の内容に反対なのは、これまでの発言でも明らかです。それは吉村知事の考えであって、そうなのでしょう。

 でも、吉村知事がやることは、憲法で保障された「表現の自由」を守りその侵害行為に対しては、強い姿勢で闘うことでした。

 今回のケースであれば、「表現の不自由展かんさい」開催に対しての妨害行為に対して、「そんなことは止めろ」と言うべきでした。

 こうした困難な中、「表現の不自由展かんさい」は、3日間で連日、朝の段階で入場整理券が予定枚数に達する盛況で、延べ1300人が来場しました。

 「表現の不自由展かんさい」の内容は、原発事故や天皇制、従軍慰安婦、沖縄駐留米軍の問題を扱い、過去に公共施設での展示が認められなかったり、検閲されたりした作品など約30点が並ぶなど、重要なものばかりです。

 様々な圧力に負けず、「表現の不自由展かんさい」を開催された方々に心から敬意を表します。(河野)


  兵庫県知事選、自民が闘わずして維新に屈服!

 兵庫県知事選挙投票日の7月18日、地元紙「神戸新聞」が奇妙な記事を掲載した。開票率0%なのに「当選確実」が報じられる、その理由を言い訳がましく書いている。その種明かしは夜の8時、つまり投票終了時に明らかになったのだが、テレビに兵庫知事選斎藤元彦当選のテロップが流れた。

 地元「サンテレビ」は午後8時から知事選報道を2時間枠で構えていたが、もう開票速報への興味も失せ、ちらっと見ただけでおしまい。振り返ってみれば、選挙そのものも実に不毛だった。1962年から59年間、官僚出身の知事が続き、しかも副知事が知事に〝昇格〟してきた兵庫県政、副知事だった金沢和夫候補できまりと思われた。

 自民党会派は現職井戸県政継承の金沢候補を推薦したのだが、造反組が大阪府財政課長の斎藤元彦氏を担ぎ出し、県選出の自民党国会議員が総意でこれを支持、さらに党本部が推薦を決定。かくして、地元自民党は分裂選挙となり、維新は当然にも斎藤候補を推薦。公明党はというと自主投票を決め込み、どちらに転んでも傷がつかない〝蝙蝠政党〟ぶりを発揮した。

 というわけで、知事選はがぜん維新に県境を越えさせるなという風になり、立憲民主や国民民主は金沢支援、私の周囲の人たちも維新を阻止するために金沢支援で活動していたようだ。立候補者は5名、共産党は独自候補を立てて選挙戦を闘ったが、所詮は2択、維新阻止という選択肢しかない不毛な選挙となった。

 結果はどうだったか、斎藤候補が約86万票、金沢候補が60万票で共産党の金田候補の約18万票を足しても及ばない、マスコミが午後8時で当選を打ったのが正解だったという結論になる。副知事より20歳以上若い43歳の新人がさっそうと登場し、維新の支持もあるとなれば、金沢候補の勝てる要素はやはりなかったのか。西宮市内で吉村大阪府知事が応援に来ているのを見たことがあるが、人だかりがしていて人気のほどがうかがえた。

 維新は地域政党だが、新型コロナ感染と同じく大阪から県境を越えて着実に浸透しつつある。首長選こそ候補を立てても敗北しているが、参院では2議席を確保、市議会では議席を増やしつつあり、とりわけ阪神間では影響力を拡大している。6月6日に行われた尼崎市議選では、議席を7から10に伸ばし、公明12に次ぐ第2会派になった。ちなみに、自民7、共産5、立憲2、国民1、無所属5という結果だった。

 県民が維新政治の悪辣さを知らずにイメージだけで斎藤知事を誕生させてしまった、などと非難しても意味がないだろう。息詰まるような生活のなかで、既得権を叩き壊すと言えば、その先に何があるかと考える前に惹きつけられてしまう、そういう空気が満ちてる。維新はその雰囲気のなかで勢力を拡大しているのだろう。

 自民党政治はさすがに支持を失いつつあるようだが、公明党ともたれあい、さらに維新を巻き込み、延命を模索している。金沢候補は、現状に不満を募らせてる人々から〝守旧派〟とみられ、変化への期待が斎藤候補に向かったのだ。こうした現状を前に、野党の選挙協力というだけではとても太刀打ちできないことを、今回の知事選は見せつけた。

 さっそく、吉村大阪府知事は「身を切る改革後押し」「しっかりタッグを組み、強い関西をつくっていきたい」「成長戦略には、兵庫との連携を考えながら取り組む」(7月20日「神戸新聞」)等と勢力圏拡大を誇示している。兵庫は維新の〝植民地〟になったなどと弱気になっている場合ではない。県政は市政と比べて遠く、存在感が希薄だが、維新の好きにさせるわけにはいかない。 (折口晴夫)案内へ戻る


  コラムの窓・・・開会式の日に五輪の終焉を想う

 勿論、開会式を見ることもないし、競技も見ません。ラジオもテレビも新聞も、そうマスコミはこぞって競技報道を競うので、息苦しくなるほどです。東京五輪はあらゆる〝可能性〟を汲みつくし、無残な開会式を迎えてしまいました。

 招致の段階で賄賂が飛び交うらしい五輪、それに見合うように首相が大ウソをつく、そうして実現した東京五輪は今を約束されていたように思うのです。そのことは、開会式前日に開会式を演出する人物を解任しなければならなくなり、そこに到る多くの関係者たちの脱落も必然でした。

 金メダルを30個、これは何でしょう。東京五輪を集約するこの言葉が選手を呪縛し、人々を国家的紐帯に繋ぎ止める呪文のようなもの。だがそれも、開幕を前に色あせてしまいました。五輪の意義など語れない、それはそうだろう、「4年に一度のスポーツの祭典」「アスリートファースト」なんて全てウソ。

 IOCにとっての死活問題は巨額の放映権料であり、観客がいなくても試合が成立してその映像を放映できれば何の問題もないのです。それだから、選手もありていに言えばひとつの〝商品〟であり、そうするとパフォーマンスの高さは商品価値ということになってしまい、選手の頑張りは搾取されるばかりです。

 コロナ感染はどうか、東京都が2000越え確実、大阪府は500超え近い、東京発の変異ウイルスさえ取りざたされています。来日の選手たちは行動を縛られ、感染が分かった選手は競技に出られない、そもそもこんな時期に開催すること自体が非常識なのです。記者をスマホ・JPSで行動監視して自由な取材を許さないのも、コロナ禍とはいえ前代未聞の暴挙です。

 東京五輪は本当にボロボロ、これを管理強化で乗り切ろうということのようですが、これを仕方がないと許したら、一時的管理強化が日常になることを忘れてはなりません。観客をマイナンバーカードで管理するという目論見は、ほぼ無観客となったのでつぶれましたが、何かの折に復活するでしょう。

 何人もの関係者が不祥事、舌禍で退場したのも、単に彼らの問題ではなく、この国のありようを反映したものでした。人権などというものには囚われない、被害を被るのは自分たちではない誰かだから問題ないという無責任です。ともあれ、全ての〝装飾〟が剥がれ落ち、裸の五輪を見せつけてしまった東京五輪が、五輪そのものの終焉の契機となるなら、それこそ開催の意義もあったと言えるのかもしれません。 (晴)


  開会式演出の危険な仕掛け

●辞任・解任の果てに

 今回のオリンピック開会式の演出チームから、作曲者の一人が、過去の「障がい児虐待」を暴露され辞任に追い込まれた。続いて出演予定の絵本作家が、やはり過去の「教師への嫌がらせ」で辞任。そして演出調整担当者も、過去の「ホロコーストお笑いネタ」を暴露され解任された。

 危機感を抱いた組織委員たちの大半が「開会式セレモニーの中止」を主張したが、事務総長は「予定通り」と声明し押し切った。

 だが組織委員たちのいやな予感は、現実のものとなってしまったようだ。

●入場行進曲にゲーム音楽

 開会式の入場行進曲が、「ゲーム音楽メドレー」で始まるや、ネット上では両極端の反響が相次いだ。

 好意的反響は「素晴らしい!」「感動した!」というもので、主にゲーム愛好者層を中心にした世代から。

 批判的反響は、そのメドレー冒頭曲の作曲者が、ヘイト系の代表的人物で、オリパラ精神に最も相応しくない、というもの。

 この他、既成曲の借り物は物足りない、手抜きで、安っぽい、という素朴な感想もあった。だがこれは単なる「手抜き」だったか?

●ヘイト系作曲者の言動

 もちろんゲーム音楽の曲調と、作曲者の過去の言動は、直ちに同じ問題ではないかもしれない。

 だが、この作曲者は、慰安婦や南京虐殺の歴史に関して、歴史修正主義者、否定論者の先頭に立って活動し、LGBTの権利に反対する議員に同調するなど、欧米の人権団体から抗議を受けてきた経過がある。

 さらに、これらの活動を通じて、安倍晋三前首相と長年にわたって関係を深めてきた。同首相が右派文化人たちを招いた会食にも同席していたという。

●若手弁護士の危惧

 かつて安倍晋三の憲法改正に危機感を抱いて、若手弁護士たちが、各地で憲法の勉強会を開いてきた。

 彼らの危惧は、憲法改正の国民投票が始まると、改憲勢力は、まともな議論を避け、お笑いタレント、人気ミュージシャン、アーティストを大動員し、大手広告企業がCMを企画して、お祭り騒ぎのキャンペーンをしてくるだろう、ということだった。

●安倍晋三のオリパラ利用

 若手弁護士たちの危惧と重ね合わせて考えると、開会式セレモニーでのゲーム音楽メドレー採用は、単なる思いつきとは思えない。

 安倍晋三が持病の悪化を理由に辞任していなければ、本来なら開会式のひな壇には安倍晋三が首相として座っているはずだった。二時間にわたる入場行進の間、ゲーム音楽メドレーの行進曲が続き、それを聞いた広範なゲーム愛好者層は、自らの青春時代に内面化したメロディーに感動しつつ、テレビに映る安倍晋三の「勇者」としての姿とセットで記憶するはずだった。

 それは来るべき憲法改正の国民投票キャンペーンの、予行演習でもあるはずだったのかもしれない。そのプログラムの矛盾が垣間見れたのが、今回の一連の問題だったとしたら。

 安倍晋三が急遽欠席した理由も、無関係とは言えないかもしれない。(夏彦)  案内へ戻る


  読者からの手紙・・・「国民の命を賭けたイチカバチカの五輪・パラの開催」

 世論を無視して、国民の命を賭けた東京五輪が強行された。しかし、五輪の前途は霧の中です。感染はいまだ拡大している。プレーブックの違反者は後を絶たず、「バブル」方式は綻びをみせている。大会関係者の陽性は開会式当日までで早くも100人を越えた。

 この原稿が皆さんに届く頃、日本全体のコロナ感染がどうなっているのか?大変心配である。感染専門家の予測は「感染者数の拡大の急上昇」を指摘しているが。

 私も、このような世界的なコロナ感染の爆発という経験は人生で初めてである。個人でもコロナ感染防止を心かけている。しかし、ここまでコロナ感染が世界に爆発する状況では、とても個人の対策では限界がある。当然、政府がどのような対策を打ち出してくれるかを注視していた。

 ところが、管政権のコロナ対策は「すべて後手後手の中途半端」で、ついに東京オリンピックを迎えてしまった。日本政府もIOCも何が何でも「開催」する立場で、強引に開催を押し進めてきた。

 作家の中村文則さんは東京新聞(7月25日号)に次のような投稿をしている。

 「これほどの規模のパンデミックでの五輪・パラリンピックは、人類史上経験がない。どうしても『イチカバチカ』の賭けの要素があり、賭けられているのは国民の命になる。五輪利権のために国民の命を賭ける、史上初の政府を今私達は目の当たりにしている。」

「『心を一つにコロナと闘う』も幼稚すぎる。世界の人々が望むのはコロナの収束で、五輪は真逆。最悪のタイミングの五輪。長年続いた政治の愚かさの総仕上げの感がある。」と述べて、最後に「既に五輪は失敗と書いたが、国民の命は賭けるものではない。未来のためにも、政府とIOCは一度解体した方がいい。」との結論を述べている。

無観客開催が多いなか、静岡県ではこのコロナ状況下の8月に3会場で観客を入れて自転車競技が行われる。うち2会場が伊豆市にある。しかも、県下の多くの学校から生徒たちが動員される予定である。島田でも浜松でも選手の事前合宿のためにコロナ感染者が次々に出ている。3会場で観客を入れての競技となるので、東京方面等からの観客も多く来ることが考えられ、コロナ感染の拡大が心配となっている。

 今回の東京五輪は、まさに「国民の命を賭けた、イチカバチカの五輪・パラリンピック」となっている。
このような五輪・パラを2度と開催させてはいけない。その意味で「未来のためにも、政府とIOCは一度解体した方がいい。」との中村さんの意見に賛成である。(団塊世代)


  色鉛筆・・・「水道みやぎ型」水道事業の運営権を二十年間売却

 七月五日、宮城県議会六月定例会最終日、水道事業運営権売却に賛成三十三、反対十八、退席(棄権)三という結果になりました。自民党と公明党は、村井知事・執行部の言い分をそのまま支持しました。一方で、退席(棄権)で意思表明をなさる立派な自民党重鎮県議の方々もいらっしゃいました。

 二八七億円も経費を削減し、かつ九十二億円も株主配当の純利益を出せると豪語するヴェオリア含む「SPC (10社の企業グループ)」が示した経費の内訳によると、削減幅の一番大きなものは設備更新費三四七億円のマイナスです。

 ヴェオリア含む「SPC」は、まともなメンテナンスをせずにボロボロになるまで施設・設備を使い倒し、そこに災害が重なれば、「不可抗力だから仕方ない」と、国と宮城県が費用の全額を被り施設・設備が更新される事になる。これは、国民にとっては二重コストになるという事です。何があっても「SPC」が儲かる仕組みとして宮城県が公共インフラを身売りするのが、水道みやぎ型です。

 現行の宮城県の「緊急時対策指針」には、何時間以内に復旧・情報提供する数値目標や、「事前対策」として、①施設の管理、②資機材の管理、③指定業者の選定・協定、④情報連絡体制の整備、⑤教育及び訓練が謳われています。

 ところが最近示された「SPC」作成の「災害等対応措置」には、この「数値目標」「事前対策の必要性」が丸々すっぽり抜け落ちています。業務継続BCP運用訓練は「毎年」行うと記載されているのに、「SPC」が作成した資料では「数年に一回の頻度」と、なっています。

 海外も民営化で水道料金が値上がりし、運営できなくなり国営化に戻っている国も多くあります。

 私たち生きていくために必要な命の水です。継続審査をして欲しいです。そんな願いで集めた一万九四九九筆の「継続審査を求める」請願は、残念ながら不採択となりました。外資参入などに異論・懸念続出でしたが、どうしても継続審査には至らずにとても残念です。

 そして、契約書の中でも一番大事な「料金収受額(SPCと県の取り分の金額)」をはじめ、根幹部分十三項目が空白のまま。しかも市町村に一刻も早く示す必要のある十四の計画書が未完成のまま(出揃うのは来年2月予定)なのに、村井知事が議会に議案を提出した事自体が極めて異常です。

 村井知事は、これ以外にも女川原発再稼働も再稼働を県民で決めさせて欲しいと願った十二万の署名も無視し県議会で再稼働を強行しました。また、コロナ禍で感染者が増え続ける中、東京オリンピックの宮城県のサッカー会場は、仙台市長はじめ多くの県民が無観客でと望んでいるにも関わらず、村井知事は有観客での観戦を決めました。このことは、宮城県だけの問題だけではなく、今の政治そのものの矛盾点です。全て「人の命」の重さを無視した経済優先の考え方です。

 私たちは、楽しく幸せに生きていきたいです。あたりまえの人生を歩めるように、これからも「命を守る」運動を続けていきたいと思います。(宮城 弥生 )

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